"In the end, all of you in the physical world are tested. Your world is a test, and your experiences, the events of your lives, are your own custom-designed personal exams. How do you measure up?Do you think mostly of yourself, or do you seize opportunities to help others? These comments should help you evaluate your own performance. We do try to help along those who make right decisions. I don’t mean that they become the richest, but they do find the greatest satisfactions, and they tend to achieve that elusive sense of inner serenity that you all yearn for."
Judy Laddon (1988/2001). A Further Step beyond the Veil. The World Press. Kindle edition
結局のところ,物質世界にいる皆さんは全員テストされているのです。あなたがたの世界はテストであり,皆さんの経験,人生の出来事は,各自にカスタマイズされた試験なのです。採点はどのようにされるかですって?皆さんは自分のことをもっぱら考えますか,それとも他の人々を助ける機会を捉えようとするでしょうか。こういうことが,皆さん自身の出来栄えを評価するのに役立ちます。私たちが助けようとするのは正しい選択をする人々です。それも,金持ちになるようにではなく,最大の満足を得るように,そして皆さんのだれもが切望する,捕えがたい内なる静けさを得るように,です。
よく「人生は選択の連続」と言いますが,それは「テストの連続」と言い換えても同じでしょう。この世で人間をやるというのは,日々,大小さまざまのテストを受けているようなものです。テスト合否の大きな基準は,引用中にもあるように,「他者の利益を優先できるか否か」です。自分が辛いとき,誰かが助けを求めに来たとします。さて,あなたならどうするでしょうか?いくつかの選択肢が考えられます。例えば,自分はいまこういう問題を抱えているので,あなたの話を聞く余裕はいまはない,ときっぱり断る対応が一つ。これは,ある意味とても誠実といえます。相手に余計な期待をさせたり,中途半端な対応をして,自他ともにエネルギーを無駄に消耗しないので決して悪い対応ではないと思います。次に,自分のことは黙っておいて,とりあえず話を聞くだけ聞いてあげる,という対応もあります。その話に共感できるようなら,相手を励ましたり慰めるが,自分のカンに障る部分については相手を批判するなど攻撃的な構えを取るというスタンスもまた充分に可能でしょう。相手によって対応を変えるというやり方は,いまの時代においては頻繁に採用されているようです。親しい人・近しい人や自分の仕事や評価など損得に大きな影響力を持つ人であれば,親身に応じる。そうでなければ,受け流すか回避する,という具合に。
ひとは誰もが人生のブループリントを携えてこの世に生まれます。(転生の目的についてはこちらの記事をご覧ください。)この意味で,「人生の出来事は,各自にカスタマイズされた試験」です。しかし,人生計画はあくまでも「ブループリント」であって,全てがきっちり決まっていて,全ての出来事や状況がただ「自動的に」展開または発動し,現実化する,ということでは必ずしもありません。もちろん,動かせない出来事,絶対そのようになる出来事はあります。計画通りに起こらなければならない出来事もある。が,人生を生きる主体はあくまでも私たち人間であり,たとえ予め計画されていることでも,私たちの意志が尊重されることが決して少なくありません。人生には岐路が度々訪れ,その都度,われわれは自由意志を用いて選択していきます。自由意志は,「自由」とはいえ,各人のカルマによってある程度の制約を受けており,その時々で,選択の余地はさまざまに異なります。ある場合には選択の余地はなく,また別の場合には余地が大いにあるかもしれない。いずれにしても,計画された全てのことが(大げさに言えば,何の努力もしなくても)計画どおりにただ起こる,ということであれば,私たちは人生を生きる意味を大幅に減ってしまうことになるでしょう。人間は自分で立てた人生計画の奴隷でも,守護霊の操り人形でもありません。ある程度決まった枠(=ブループリント)内で,ある程度の自由意志を持って,自ら選択し,現実を創造しながら生きていく,ということです。各自によって異なる制約の下で,自ら最大限の努力を払い,より適切な,より正しい選択をしながら課題をクリアしようとするところに,人生を生きる意義があるのではないでしょうか。
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様々な人々を見てきて,また,比較的順調だった若き日々を振り返って,あぁこれは試されているな,試されていたなと思うのは,とりわけ順風満帆の時,全てがうまく進んでいるときです。自分が望むような,あるいは望んだ以上の結果が出て,人生が思い通りに運ぶ時―名声や人気,世間からの承認,昇進とそれに伴う大きな経済的豊かさや,愛情を手に入れた時など―です。
そしてまた,非常に多くの場合,多くの人々が,少なくとも最初の試験には落第するように感じられます。なぜなら,順調な時こそ,謙虚さを心がけ,援助してもらった人々に広く感謝し,周囲の人々のことも積極的に認めていくことが期待されているからです。しかし,実際には,多くの人は容易く慢心します。自分だけの努力と実力による当然の結果だ,と信じ,自信満々に振る舞います。そして,周りの人々から妬まれたり,足をひっぱられたりしては,人に対する思いやりが欠けていたことにさえ気づかぬまま,一方的に被害者意識を募らせるのです。
書籍や講演会で高らかに語る霊能者,広く霊能を活かした活動に従事する人々(霊能で受信した種々雑多な情報をブログで発信する人々など)にも当てはまります。芸能人,政治家,企業家,医療従事者にも見受けられます。ありとあらゆる分野の人々にそうした現象が観察されます。
書籍で,昨今のSNSによる人々のひけらかしを諌める一方で,温泉保養地の別宅をメディアで満足げに公開するのはいかがなものでしょうか。それを以て堂々と「スピリチュアリスト」を名乗る姿勢が,貧困の連鎖に苦しむ若者や老後破産する高齢者の増加がメディアでも大きく取り上げられる昨今,ただの大きな違和感としてしか感じられないのはただのひがみ根性でしょうか?「ニセモノ」のスピリチュアリスト!と罵られても決して文句は言えないだろうと思います。
苦労だけが試練ではないようです。順調なときも,同様に自分が試されるときのようです。物事が思い通りに運んで幸せなときこそ,謙虚で思慮深くあらねばなりません。そして,周囲の人々に対して,なお一層の思いやりと優しさを以て接する姿勢が大切になるのだと思います。
苦労だけが試練ではないようです。順調なときも,同様に自分が試されるときのようです。物事が思い通りに運んで幸せなときこそ,謙虚で思慮深くあらねばなりません。そして,周囲の人々に対して,なお一層の思いやりと優しさを以て接する姿勢が大切になるのだと思います。