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6/28/2018

苦労は悪か

『シルバーバーチの霊訓』をはじめとする霊界通信ならびにエドガー・ケイシーのライフ・リーディングなど精神世界関連の書籍で,地上での困難や苦労を否定的に捉えているものはひとつもない。むしろ,そこから多くを学べる,また,学ぶべき経験であること,そして,苦楽共にあればこそ人は学び,成長できる,ということを繰り返し説いている。私も,同趣旨の引用を投稿してきたつもりだが,ブログを拝見しています,と仰る方々の中に真意を理解されていない方が多いことにあらためて驚いている。自分に都合よく,情緒的ななぐさめや癒しのみを求めて読まれているのではないか。

苦しみを抱えている人は多い。例えば,昨年の大震災に被災した人々はまだ困難の最中にあり,さらに遡ると淡路阪神大震災に被災して多くを失った人々にとって震災の話題は,10年以上経ったいまなおタブーである。世界に目を転じると,一日2.5ドル以下で暮らす人々の数は約40億ともいわれる。バングラデシュの村に暮らすある女性は,グラミン銀行から融資を受けるようになって貧困から脱け出せたが,以前の極貧生活を振り返り,「つらすぎて話せない」苦しみがあった,と言ってむせび泣いた。サリーが一枚しかなかった。だから,サリーを着たまま長い布地の片方の端を洗い,そこが乾かぬうちにもう片方を洗ったという。雨の日には,雨漏りのする家で,子ども達に覆いかぶさって濡れないように守った。ピラミッドの頂点の島国での暮らしは,人から思いやりや哀れみさえも奪ってしまうのだろうか。苦労がそんなに悪いものなら,地球上の半数の人生はただ不幸で惨めなものになってしまう。果たしてそうと言い切れるか。そのようにひとの人生に審判を下す私たちは何者だろうか。

暗闇を知ればこそ,灯りの明るさがわかる。いつでも電気が使えて,真夜中でも明るい生活になれている人々に,ろうそくの明かりのありがたさがわかるだろうか。2011年に首都圏で計画停電が実施されたとき,ろうそくをつけていた家庭も多かったと報じられたが,都会に暮らす人々はそんなことでも起こらなければ,電気が自由に使える有難さなど忘れていただろう。また,お金がない苦労を知ればこそ,少しの経済的余裕もありがたいもの。グラミン銀行から少額融資を受けた貧しい女性たちの返済率は96-99%という高い数字を維持し続けている。一方,既存の銀行はといえば,返済能力のある人々や企業に融資してきたにも関わらず,ご存知のとおり多額の不良債権を抱え込み倒産した銀行さえあった。貧困を知る人々だからこそ,お金のあり難さを身をもって感じられる。

「若いときの苦労は買ってでもせよ」と言われる。「禍福はあざなえる縄の如し」という諺もある。工場で大量生産されるナイロン紐はハサミで簡単に切れるが,麻縄はなかなか切れない。二本の繊維をより合わせて綯ってあるから強い。こうした古くからある格言は,霊界通信で言われる内容とぴたりと符合している。物質文明が発達する前の時代の人々は,現代人よりも人生について深い知恵があったようだ。物質文明は,自然だけでなく人間のたましいさえも破壊してしまったのか。その物質文明を発達させた張本人は,ほかならぬ人類なのだが。

それでもまだ,「苦労は私の身には起こってほしくない」と言い続ける人にはこう言いたい。「人はみんな乗り越えられる苦しみしか体験しないことになっています。こころが弱く,智恵の少ない人には,そこそこの苦労しか起こらないでしょう。心配はご無用ですよ」と。あまりに意地が悪いだろうか。

* * *

現時点で知る限り,大きな苦労を経験する人々は4つのグループに大別されると思う。ひとつは,社会に対して大きな貢献をする,もしくは,パイオニアとしての役割を担う人々。精神的な苦労の場合もあれば,仕事上の困難の場合もある。第2のグループは,癒しの仕事をする人々。自分が苦しい目に遭って
初めて人の痛みがわかるようになる。3つ目のグループは,いくつかの負のカルマをまとめて,もしくはひとつの大きな負のカルマを,一気に返済しようと決めて来た人々。最後は,一見平凡な人生を歩んでいるように見えるが,実は霊性がかなり高く,さらなる成長を望んで転生したグループである。このグループ分けは,それぞれ独立しているとは限らず,一人の人が複数のグループに属することも当然ある。ただ,一般的に言って,相対的に大きな苦労を経験する人々は霊性(魂の経験値)が高い傾向にはあると思う。

亡き母は,自営業の手伝いをしていたごく普通の主婦だったが,嫁いでから20年の間に姑との人間関係で大きな苦労があった。その話を聞くたび,子どもながらに同じ目には遭いたくないと思ったし,そんな大変なところをくぐり抜けてきたなんて,それだけでもすごいことだと思った。また,(入院・手術を要する)病気とも縁の深い人であった。が,同時に,彼女は哀れみ深く,賢い人であった。子ども達はみな彼女を慕っていた。そして,自分の感情よりも相手の感情を優先させる人であった。自分をひけらかすとか目立つということが嫌いであった。学生時代,成績優秀でクラスでトップだった(らしい)が,それを知る友人は少なかった。そんな彼女は,子育てと縁結び(仲人)以外にはこれといった社会貢献もしなかったが,家庭に平和と調和をもたらす存在であった。果たして,彼女の死後に得た情報によれば,やはり霊性の高い人であった。ごく普通の人々が,地上の時間にして4〜50年も費やして到達する境地(サマーランド,つまり幽界の最上部)に僅か3年余りで至ったたましいの持ち主である。(霊媒S氏も驚いたほど。)彼女の生き方を目の当たりにしてきた私にとっては,あらためて驚くべきことでもなかったが。

よく知られたところで言えば,故ダイアナ妃の短い生涯は,精神的な苦しみに満ちたものであった。その苦しみを経て,慈善活動に尽力し,地雷撤去の法律制定にも寄与された。マザー・テレサも人に言えぬ苦悩を抱えていたと言われている。人々に多くの貢献をする人,パイオニアとしての役割を担う人々には困難がつきものだ。そうした人々(例えば,日本の女子教育の開拓者,津田梅子など)には,個人的な幸福が許されていないように感じられるケースもある。「苦労なんかはしたくありません。私は,自分と自分の家族さえ幸せならそれで何も不満はないのです」などと呟く人は,「一隅を照らす」生き方はできないだろうし,しないのだと思う。そして,さほど大きな学びもない人生にちがいない。というより,大きな学びをしたいと思って転生したわけではないのだろう。人それぞれだ。

* * *


改めて述べるが,人生の苦労・困難をただ悪いもの,避けるべきもの,忌み嫌うべきもの,とする世間一般の見方は誤りである。もし,このことを少しでも理解できるなら,苦労を否定的に見ることは直ちにやめたい。そして,その発想も認識も「無知」であることを知りたい。

11/20/2017

「幸せ」は自分の中に

大きな試練の時代を振り返って今なお苦痛を覚えることは,(人々や社会から)全く認められなかった,ということ。日本社会は,ひとを認められない,認めたくない,もしくは認めるのが苦手な人間の集団なのではないか,と思う。

例えば,職業。私に聞こえる距離で,「肩書きよね。」と“自称”スピリチュアリストのある年配女性は言った。相手の職業を知って傷つきたくなければ,申込書に職業欄をもうけなければいいではないか。ここまで露骨でなくても,聞こえないフリをする,静かに無視する,拒否的雰囲気をかもし出す,という反応を示す人はざら。コンプレックスが刺激されるのだろう。不機嫌になるのは,医師などの,いわゆるエリート男性に多かった。無視しないケースでは,わが子や孫の学歴や自分の輝かしい過去をご披露なさる方々もいた。いずれにしても,こちらとしては認められたという気にはならない。一方,同業者間では互いに(何となく)ライバル意識を持ちやすいため,異業種の人々とは違った意味で,精神衛生を脅かす。「私の方が上よ」,「あなたのことは認めたくない」とか「ことばに出して認めると負けですから」という(ある英語学校の元女性講師の)心の声を,霊媒S氏経由で知らされたこともある。何でも「勝ち負け」で捉える人がこの学校には多かった。

おまけに,10年程前から大学教員は学生から評価される時代となった。教員の査定というよりは,授業改善を意図したもので,アメリカから導入されたシステムだ。少子化の影響で,特に私学は学生数の確保に必死という背景もあろう。授業の進め方は適切か,声は聞こえるか,課題は課されたか,授業の満足度はどうか,など質問は多項目に及ぶ。5段階評価で答えるこれらの質問とは別に,学生が自由に感想を書ける用紙も配布される。質問内容は学校により少しずつ異なる。ある女子大では「教員は学生から評価されることに疲れている」ということで,自分の授業への取り組みを評価させる方向へと変わった。無記名のアンケート結果は統計処理がなされ,成績評価提出後に各教員宅へ受け取り確認が必要な方法で送られる。いまや権威は通用しない時代であり,教員はさらにストレスにさらされやすい環境になった。

最近では,言葉からは敬いが読み取れるものの,どうしても素直に喜べないケースがちらほらある。例えば,一見相手を認めているようでいて,本音では「私はスピリチュアリズムに出遭った優秀な人間なんです」とか「わたしが一番苦労を知っているわ!」と絶叫している。相手がどうこうというより,「自分をわかってほしい」という我が身かわいさが優っているご様子。客観的に文面を読めば一目瞭然でも,本人は気づいておられない。かといって,直接指摘するわけにもいかない。物事を自分に都合よく自己流で解釈する,自己完結的でひとりよがりな傾向を持つ方に多いような気がする。自分のことがわかりにくいのは誰でもそうだが,特にこういうタイプの方は真の自己像には気づきにくい。

また,「あなたは本物だ」などと言う方がいた。「えっ?!」 霊能者ではない,普通の方である。しかも,その根拠が極めて物質的で説得力を欠いているではないか。私を本物だと言うあなたは何物でしょうか?と問いたかった。なぜなら,本来“評価”のベクトルは下向きだから。誰かを評価できるためには,評価する側が遥かに多くの知識,経験,見識等を備えている必要がある。つまり,評価する側が評価される側より上であることが前提なのだ。だから,職場のように互いに承認された(相対的な)上下関係が見えやすい状況でなければ,あからさまに相手を評価するような物の言い方には慎重でなければ,失礼にあたる可能性がある。

器の大きさ,適性は一人一人異なる。ある人は,8リットルのバケツの水面に映った星をみて「まぁ,きらきら輝いて,なんて綺麗なのかしら!」と感嘆する。「これだったら,毎晩でも眺めたいわ」と。しかし,そのバケツに水を汲んだ別の人は「バケツに映った星空なんて小さすぎて,星の本当の美しさはわからない。やはり,夜空を仰いでこの目で確かめなければ」と不満を漏らす。そこで,バケツの星に感動した人が,夜空の星を自分の目でしっかり見たいと思っている人に,「バケツの水に映った星は綺麗なんだし,私は感動したんだからそれでいいじゃないの」と(何気に咎めるような口調で)言ったところで,なぐさめにも何にもならない。バケツに水を汲んでもらったことへの感謝は伝わるかもしれないが。

逆に,笑顔にしていても面白くなかっただろう。幸せそうに見えるのが気に入らない,といって妬まれたに違いない。実際,そういう年上の女性がいた。いじめとはいえないだろうが,それらしい態度を取られた。彼女は有名商社勤務の夫と一男一女を持つ家庭の主婦だった。夫の海外勤務で数年間英語圏で暮らしたことがあり,英文科卒業後,中学校の英語教師だった経験を生かして,非常勤で英語を教えに来ていた。当時は,都下にマイホームを建設中だった。S氏に鑑定を依頼すると「私には悩みがたくさんあるのに,あなたは独身貴族で何も悩みがなさそうに見えるのが面白くない」と出た。確かに控え室では,「(有名一流私大に通う)息子が話を聞いてくれない,家族なんかいらない。ひとりになりたい!」とたびたび愚痴をこぼしていた。一人で生きられるほどの強靭な精神力の持ち主とは到底思えなかったが,悩みを口にしていたことは事実だった。「たましいが汚れている」とS氏は言った。その心の曇りは,相談する度に悪化していた。明るく社交的で控え室では多弁だったが,「周りの人は彼女の話に真剣に耳は傾けていない」というのが本当のところらしかった。物質的価値観がとても強く,自分の年齢や容貌,学歴,子供の大学や夫の出身大学のランクを人と比べては,負けたと思えば落ち込んで攻撃的になるか陰口を叩き,勝ったと思えば安心し,得意げになるという感情の起伏の激しいところがあった。物質面は豊かでも心の侘しい,寂しい方だった。

みじめさと不安と孤独感を抱えながら日々を過ごしていた私にとって,彼女らの無遠慮な好奇心や時折り出る家族の話は,拷問以外の何物でもなかった。帰宅後,腹痛でトイレへ駆け込むこともあった。しかし,この学校をやめるわけにはいかなかった。大学のコマ数を増やすことはそう容易ではなかったからだ。考えた末,自己防衛のために控え室に滞在する時間を最低限にした。私の仕事は授業をすること。講師控え室でおばさま方のご機嫌伺いをすることではない。次第に担当する授業数は減ったが,週1ペースで通う日々がしばらく続いた。敷地に入ってコンクリートの灰色の建物を見上げる度,「こんな建物,私が辞めてから崩壊すればいい」と心の中で罵った。やがて英語学校からは授業の依頼が途絶え,大学のコマ数が増えた。その後,同校は長年の経営難から解散することとなり(実質的には倒産に近い),母体である某私大に吸収された。「崩壊すればいい」と恨めしく眺めていたその建物は,耐震基準を満たしていないという理由で解散後間もなく取り壊されたことを後で知った。その頃を思い出すと,「いずれはここを去るし,この建物も無くなるから,それまでは頑張って!」と,ガイドたちが一生懸命励まして(或いは,なだめて)くれていたような気がする。スピリット・ガイドは,私たちの考えや想いをすべて把握している。

* * *

最初の方で触れた英語学校では8年ほど教えただろうか,4,5年目頃から出講が苦痛になった。同霊媒からは「ここに通うストレス,ピークだね」と言われたが,まさにその通りだった。ストレス(と不規則な生活)から食物アレルギーの症状に数年間悩まされた。圧倒的に女性が,それも比較的優秀な人々が多い職場だった。「自分が一番優秀!」と思っている人々の集まりだった。もちろん,普段はそういう雰囲気を表立って出すようなことは控えていても,会話をすると言葉の端々に見え隠れした。それが耐えがたかった。「そこで認められようと思うことが間違い」と霊媒S氏には言われた。また,私のプライベートにかなり露骨に関心を示す女性(当時50代?)もいた。普段から無愛想な私の様子がどうも気に食わなかったらしい。ツンとすましているように見えたのだろう。(「あなたのファンよ」などと言われていたが,S氏の鑑定によれば本音は逆で,私の人間性に反感を感じておられたらしい。)笑顔をつくる余裕などなかった。母が他界し,留学先から戻ってからは,何もかもが自分の思うように進まず悩む日々であった。博士論文もはかどらず,専任校も見つからず,前進も後退も許されないどん底の状態で,順調に人生を歩んでいる(ようにみえる)仲間や先輩・後輩の動向を知っては落ち込み,少ない給料から占いの鑑定料と家賃と生活費を捻出する計算ばかりしていた。
* * *

自分の心を満たすものは,自分の中にしか見つからない。誰かに,何かに満たしてもらおうと求め続ける限り,満たされることはない。そのためには,「ほんとうのこと」を積極的に学び,自分と静かに対話を続けること。まずは,自分と向き合うことから始めたい。


2017年11月20日


9/30/2016

グラストンベリー訪問(1)

昨年12月にふと思いついて,8年ぶりに渡英を決断。慣れ親しんだBirminghamに滞在して,そこからパワースポット・聖地として有名なグラストンベリー(Glastonbury)を訪れることにしました。

要した時間は,着想から航空券予約まで3か月,実行まで9か月。経済状況がなかなか改善しない中でも,航空券と宿泊先を予約でき,予算に余裕のある状態で無事行って戻って来られたことは驚きでした。まさかのEU離脱によるポンド大幅下落も助けとなりました。全ては導きと実感。

グラストンベリーのことを知ったのは,あるスピリチュアル系ブログの記事経由で。精神世界に傾倒してきたわりに,パワースポットには殆ど無関心で,最初に記事で知ったときも,さほど気にも留めませんでしたが,ウェブサイト上で何度が地名を目にしたことから,数ヶ月後に渡英を決めました。

* * *

グラストンベリーは,英国南西部のサマセット州(Somerset)にある小さな街。酪農が盛んらしく,バスの車窓からは牧草を食む牛たちがたくさん見られる,辺鄙な場所にあります。バーミンガムという中西部の都市から出かけましたが,ロンドンからも鉄道とバスでアクセスでき,所要時間はやや短めとなります。

グラストンベリーへの行き方は以下の通りです:

1) どの都市から出発しても,Bristol Temple Meads (ブリストル・テンプル・ミーズ)という駅を目指します。電車でも長距離バス(Coach) でも行くことができます。ブリストル (Bristol) という都市にまずは向かいます。

2) テンプル・ミーズで,路線バスに乗り換えて1時間半くらいで到着です。First Busの376番バス(二階建てバス)に乗ります。日帰りの場合は,Day Ticket(West of England = 7.5ポンド) がお得。バスに乗る際に運転手さんに申し出てください。(前もって小銭を用意しておくとよい。)バス停は,駅から大きな道路に出るまで直進して左折してすぐの所にあります。

ちなみに,First Busは停車駅が逐一アナウンスされ,車内には電光掲示板もあるので,運転手さんに「○○に着いたら教えてください」などと,慣れない英語でお願いする必要はありません。イギリスにもこんな便利なバスがあったことに驚きます。(バス車内の電光掲示板は,2020年に行ったときはありませんでした。)



一階最後列から撮影

3) 376番のバスに乗って,The Queen's Head というバス停で降ります。Glastonbury に入ってから15分くらいで到着します。降りる人が多いので,焦らなくても降りられます。ハイ・ストリート(メインストリート,商店街)の入り口でバスは停まります。帰りのバス停は,通りの反対側やや右よりにあります。帰りはテンプル・ミーズ行きのバスに乗ります。

* * * 

朝5時半起きで,帰りは夜9時という,移動時間の方が圧倒的に長い日帰り旅に。復路は,電車を3本乗り継ぐことになり,しかもそれらほぼすべての電車が10分遅れで運行。本降りの雨の中,寒さと疲労の状態で帰路につきました。夏は日が長く,8時近くなってもまだ明るい英国ですが,最寄駅に着いたころにはすっかり暗かったです。時間と予算に余裕がある場合には,グラストンベリーで一泊するのが良いかもしれません。

今回訪れたのは,グラストンベリー・トー(Glastonbury Tor) ,チャリス・ウェル(Chalice Well)グラストンベリー修道院(または大聖堂)跡(Glastonbury Abbey)の3か所でした。

(2016年9月14日公開)
(2025年7月24日部分改訂)


5/06/2015

90 「スピリチュアリズム」は地上のラベル

しばしば申している通り,あなた方はスピリチュアリズムという言い方をされますが,これは地上のラベルであって,私にとっては自然の法則そのものなのです。スピリチュアリズムという用語を用いると人によっては,とくにその真意を知らない人にとっては,何やら不気味な感じを与えます。それよりも,大自然の法則―宇宙の物理的・精神的・霊的法則,まだまだ未開拓のままである人間の潜在的能力,表面下に存在する活動の世界,すなわち超自然界,人間のもつより繊細な能力―こうした広大な分野は“スピリチュアリズム”とか“霊媒現象”といった,誤解されやすい用語を用いなくても教えることができます
 詭弁を弄しなさいと言っているのではありません。真理には多くの側面があり,したがって特別なラベルを貼らなくても表現できることを言っているのです。
『シルバーバーチの霊訓  第二巻』  pp. 62-63.





『シルバーバーチの霊訓』は,スピリチュアリズムの,いわば「バイブル的書籍」として認知され,日本で広く読まれるようになりました。中には,シルバーバーチと英仏の一部の霊訓以外は認めないという,あたかも原理主義的立場を取る人々もおり,ウェブサイトを通じて自説の普及に尽力されています。が,その様子は一種カルト的様相を呈しているようにも見受けられ,少し危惧を覚えます。そして,彼らに,ネット経由ではないかと思いますが,影響された人々が少なからずいて,その中には,当該団体がしているように,特定個人を名指しで批判したり非難されている方々もいらっしゃると聞いています。イスラム国の過激思想に染まってしまう若者たちのことが心をよぎるのは,私だけでしょうか。

当ブログでも,『シルバーバーチ』からの引用には独立したカテゴリーを設けて,相応の扱いをしているせいかどうか,ブログを読んで下さる方の中には,専らシルバーバーチの記事に目を通して,あなたはどのような経緯でスピリチュアリズムに出会ったのですか,と質問なさる方もいます。他の記事もお読みになれば,いきさつの概略くらいはわかるはずなので,そのような野暮な質問はとても尋ねることができないだろうと思うのですが,読む記事の選択は個人の自由意志に委ねられているため,正直,こちらとしては対応に困ることがあります。

また,あなたは英語教師なのか,それともスピリチュアリズムを追求するミディアムなのか,と二者択一の答えを迫る質問も受けたことがあります。普通の会話で問われたとしても,いささか頓珍漢ですが,このような疑問を抱くこと自体,スピリチュアリズムの理解が表面的であることの現れではないでしょうか


スピリチュアリズムとは,宇宙・自然の摂理/真理を,既存宗教の枠を(ついに)外して説いた知識体系です。発祥の地である英国では,その教えをにわかには信じられない大多数の人々に,様々な霊媒現象(初期には,エクトプラズムを用いてスピリット・ガイドや亡くなった人やそこには存在しない物質を作り上げたり,物体を移動させて離れた場所にあるもの目の前に出すといった物理現象を通して,中・後期には降霊会,マスコミを利用したデモンストレーションやプライベート・シッティングを通して)を起こして,わかりやすく示してきました。「スピリチュアリズムといえば霊媒現象」,つまり,死んだ人と話をすること,と短絡的に結び付ける英国人が少なくないのは,こうした歴史的経緯があるためではないかと思います。

いずれにしても,そこにあるのは,無知であり,字面通りの解釈であり,教科書的な理解です。

スピリチュアリズムとは自然の摂理であり真理であると深く納得すれば,教条や霊訓の種類にこだわらなくなるものではないでしょうか。例えば,「シルバーバーチ」以外は認めない,という偏狭さは,ラベルやレベルで物事を判断する態度,ひいては物質至上主義と類似しています。年下の女性を見下ろす男性の態度とも通じる部分があります。

精神世界の教えは,実に幅広く奥深いものです。霊界サイドは,様々なチャンネル(霊媒や各種ライトワーカー)を通じて,真理を広く地上の隅々にまでいきわたらせようとしています。地上には,実に多種多様な人びとがいるので,伝え手にも,多種多様なライトワーカーたちを用意して,多くの人々が受け取りやすいようにしています。昨今の日本には,“シルバーバーチ・ファン”が大勢いますが,シルバーバーチ以外は価値がないとか,霊訓に書いてある内容と矛盾している・いない,といった狭い視野から,他のライトワーカー達の活動を否定したり,批判したり,軽視する,といった姿勢は,真理を深く会得した人々のものとは言えないだろうと,個人的には感じます。

スピリチュアリズムというのはひとつの知識体系ですが,シルバーバーチでも繰り返し言われているように,「知識には責任が伴う」ものです。責任とは,知識の「実践」です。知識を得た以上は,その実践者になることが強く期待される,ということです。実践とは,あらゆる機会において,言動と感性を真理に沿ったものにするよう努める,ということでしょう。他の人々を助ける,ということもその中核をなすものです。いわゆる生業の仕事とスピリチュアルな活動とを切り離す発想の方がおられますが,これも理解不十分が理由です。あなたは英語教師かミディアムかと問う頓珍漢な質問はひとつの典型例です。


本来であれば,人を教え導き,自らも精神修養を日々怠ってはいけない立場にありながら,察知される数々の的外れで自己満足的な理解や女性に対する差別的態度には,失望と落胆を禁じ得ません。

リーディングを受けることを「実践」と呼ぶ人はいないでしょうが,個人的に行う瞑想は,実践に含まれるでしょう。霊訓を繰り返し読んだり,読書会に参加することにも意義はあるかと思いますが,一人ひとり異なる個性を持ち,課題を持ち,異なる人生を歩んでいます。最終的には,自ら気づきを得るしかありません。スピリチュアリズムの価値を認めつつ,瞑想は私には関係ない,と言う方がいらっしゃいますが,こういう考え方は初心者のものです。外界のノイズをシャットダウンして,心静かに過ごす時間を持つということは,内なる気づきを得やすくなる,非常に有効な手段です。

「スピリチュアリズム」という用語が,地上の便利なラベルにすぎないのなら,「スピリチュアリスト」という呼び名もラベルにすぎないことになります。「スピリチュアリスト」を名乗る人々は,スピリチュアリズムを理解し,それに沿った生き方を実践しているという自覚と自負があるようです。現実には,しかし,自己評価―かなり楽観的な―にすぎないのではないか,と思われるケースが少なくありません。私が「スピリチュアリスト」とわざわざ名乗る行為にずっと違和感を感じてきたのは,未熟すぎる「自称」スピリチュアリストたちを少なからず見聞きしてきたこともありますが,その背後には理解の不十分さが隠れているのではないか,と感じるからです。


スピリチュアリズムとは,人生を生きる上で指針とすべきものですが,実は,それによって私たちが生かされている,私たちもまさにその一部である,そのような大いなる摂理を説いたものです。多くの人びとは,その摂理のことをことさらに意識したり,俎上に載せることなく,日常の目先のことに取り紛れて暮らしながらも,生まれてきた目的や課題をクリアしていきます。スピリチュアリズムという用語など知らぬまま,インスピレーションを受け取って,広く世の為人の為になる活動を展開されている方々は大勢います。そうした中で,敢えて「スピリチュアリスト」を名乗る行為は,「私はあなたがたがとは違う」と自らを差別化し,多くの場合,(意識的にせよ無意識にせよ)自分を他より優位に置きたい,という気持ちの表われのように思えます。特定の霊訓名を殊更に強調して話すケースも同様です。

少なくとも私には,そうした優越意識や特定の霊訓のみを認める排他的嗜好・思考を共有することはできません。

単純なことをむずかしく語るのではなく,単純なことを深く理解する
自己内省と客観的な思索を。誰かのお説にぶら下がっているうちは,いつまで経っても自分のものにはなりません。



3/22/2015

気づきは日々の些事から

霊的真理・摂理と呼ばれるスピリチュアルな教えは素晴らしい。特に,19世紀後半から20世紀半ばにかけて英仏の有識者を霊媒として降ろされた数々の霊訓の奥深さには,いまなお他の追随を許さないものがある。ところで,当時,神学者,牧師,教育家といった知識人たちが霊媒として選ばれたのは,彼らの,抽象概念をよく扱い得る発達した知性や豊富な語彙力を利用して,真理のメッセージを活字として残し,時空を超えて地上にできるだけ広く行き渡らせる為だったのだろう。高度なインスピレーションは,ことばではなく,映像やイメージで来るものだ,と言うミディアムがいたが,私は少し疑問に思う。言葉による受信を否定することは,『シルバーバーチの霊訓』に代表される優れた霊界通信・霊訓の信憑性をも否定することになりはしないか。要は,霊媒の得意な部分,優位な器官を利用してメッセージを送ってくるのだろう。大雑把に言えば,右脳をよく使う,直観や感覚が発達したタイプの人(アーティストなど)は,霊視が発達しやすく,左脳的思考に馴染じむ人の場合は,言葉や思念として受け取られる(変換される)ことが多いのではないかと思う。

しかし,デパ地下の惣菜売り場で試食を繰り返しても食事の代わりにならないように,霊界から届けられた教えの(さらに)ごく一部を拾い読みし続けても,決して自分の身にはつかない。「簡単に手に入れたものは簡単に失う」とシルバーバーチも伝えているように,額に汗して自らの手で掴みとらなければ,本当に学ぶことはできないものだ。かといって,膨大な冊数の本を読んで,知識を得さえすればそれで充分ということもない。知識を得るだけでも,体験から学ぶだけでも不十分で,この両方のバランスがとれてはじめて(バランス比は人によって異なるかもしれないが),スピリチュアルな教えが身に着いていくのではないか。本を読んで知識を得ることと,日常生活での具体的な体験と沈思黙考(内省や自己分析)を通じて気づきを重ねていくことは,車の両輪のようなものだろうと思う。

といったことを考えさせられる出来事がある。


* * *  

世の中には,さまざまな個性の人がいて,私も,他の人々からみれば,その「さまざまな人」のひとりだが,人間同士が理解し合うことはとても難しいと思う。特に,面識の全くない人々と,オンラインや電話などでの言葉のみによる散発的なコミュニケーションを積み重ねて信頼関係を築くことは,ほぼ不可能な場合が多いと感じる。

例えば,明らかに大変好意的と読める文面に違和感を覚える。「益々のご活躍をお祈りします」と締めくくられている。形式的で丁寧な決まり文句,と読み流せばそれまでだが,ひっかかる。「活躍」には「(世間的)成功」のニュアンスがあるから。同義語の「活動」には成功・不成功という価値判断は含まれない。ブログ上でしか私をご存知ないのに,なぜ「活躍」などと書かれるのだろう,と悩む。ある時点まで,閲覧数も記事数も少ないほうのブログで,ここ十余年の個人的な事情のごく一部を開示していた。メインのブログにも触れている記事がある。関心を持って注意深く読まれれば,「活躍」などとは言えないはず,というのがこちらの言い分だが,いろいろな人がいて,いろいろな考え方・受け止め方がある。そのブログの存在はご存知ないのかもしれない。自分と比較して,「活躍」していると思われたのかもしれない。或いは,「今後はもっと活躍してくださいね」と励まされたつもりなのかもしれない。いずれにせよ,書き手の意図は私にはわからないし,「ご活躍」と仰るのはごく一部の方なので,揚げ足取りは慎むべきだと思うものの,読み流すことができない。(ちなみに,「充実した日々をお過ごし下さい」などの決まり文句も同様で,個人的な事情を全く知らない相手に対する使用に際しては,注意を要する。「ご多幸をお祈りします」はこれらの亜型であり,気持ちのない形式だけの挨拶表現の典型である。)

また,あるブログ記事の言葉を読んで,入院されていた知人の方がとても心を動かされたとお知らせ下さる。記事の言葉に私の名前を添える(添えてもいいですか?という問いではなく),とのお申し出だった。数年前に他のブログで記事が無断転載されているのを見つけて以来,リンクを張らない引用に関する注意喚起文を掲載しているが,それを読まれて連絡されたようであった。正直なところ,これには少し当惑した。なぜなら,ブログを少しでもご覧いただけば一目瞭然なように,私は実名を出してはいないからだ。リーディングでは,お申込みになる方々から氏名を伺うので,こちらの名前もお知らせしているが,それ以外では,ことスピリチュアルな活動に関する限り,年齢等の素性は明かしていない。差し当たり明かす予定もない。記事を直接読んでいただけるように,(紹介する,と言われたので,どうせなら)名前ではなくブログを紹介してください,とお願いしたと思う。メインのブログはよくご覧になっている様子だが,にも拘わらず,なぜ名前を添えるなどと言われたのか。そう書けば,私が喜ぶとでもと思われたのか。真意は量りかねるものの,メールを下さる度に,配慮の方向性がどこかずれている印象があった。(いや,そもそも配慮などなかったことに,私が気づけていなかっただけかもしれない。)紹介した二つのケースの,いずれも一見,“非常に好意的で丁寧な”メールの文面に,有り体に言えば,傷つくのである。

これらの実例は,きわめて些細な出来事で,受け取る側としては,たとえ違和感を感じたり悲しくなったとしても,けなされたわけではないのだから,自分に都合よく良く受け取るか,読み流せば済む話である。わざわざ時間を割いて取り沙汰するほどのことでもないと思われるだろう。しかし,敢えて記事にしたのには意味がある。

二つの共通点があることに気づいたから。

ひとつは,いわゆる物質(至上)主義的価値観。いわゆる「マーヤー」(反義語の「サティヤ」は真理の意)と通じるものがあると思うのだが,地上にしかないもの,地上でしか価値を持たないもの全てを殊更に重視する考え方を指す。例えば,財力,学歴,家柄,肩書き,美貌,世間的な成功や名誉,年齢,性別(男性のほうが上)などを,量が多いほうがよい,ないよりも持っているほうが良い,とする価値観だ。これがやや強く感じられる。尤も,「成功」を暗示する表現に反応することも,突き詰めれば根本は同じだろうが。

もうひとつの共通点は,一見相手に好意的であり,賞賛しているように読めるものの,実は,自分自身が理解されることや賞賛されることを求めていて,しかも,本人にその自覚が(おそらく)殆どない,という点だ。つまり,相手に本当に関心があるわけではない。自分をわかってもらいたい,認めてもらいたい,誉めてもらいたい,癒されたい,という想いがまずあって,その自己愛を満たすために相手に取り入る(と言うと語弊があるかもしれないが),という感じがする。

人間だから我が身可愛さはあって当然だが,その自覚がないところに問題があると思う。何かをする時,自分の本音や真の動機を,ある程度でも,把握しているのといないのとでは,相手に及ぼす影響など,“最終的な”部分で違いが出てしまう。この人なら私の気持ちをわかってくれるだろう,という期待がおありだったかもしれない。また,私個人よりも,私「経由で」伝えられる言葉やメッセージの方に興味があるのではないか。私自身は,人に好かれるためにブログで発信しているわけではないので,個人的にご好意や(好奇心ではなく)関心を持っていただかなくても差し支えはない。しかし,残念ながら,ほぼ一方的に愛情を求められる類いのご期待には沿えないことの方が多いと思う。リーディング後のコメント等で,いろいろなお話を伺うことは全く厭わないし,痒いところに手の届くようなことはなかなか言えないが,できる範囲内でお返事もする(たまに返事が長すぎて,ご迷惑をおかけしている方々もいるかもしれない)。が,「私をわかってください!癒してください!」といった強い訴えにお応えすることは難しいかと思う。少なくとも今はかなり厳しい。

以前,メインのブログにいただいたコメントや,リーディングを受けてくださった方々との遣り取りの中で,人それぞれに思い描いておられるイメージが,私の実像とかけ離れていると知って驚いた。浮かび上がる“60代の男性像”は,現実とは全く異なっている。たとえ面識があったとしても,相手を知ろうとしなければ,わからないことは多い。例えば,実際の年齢よりかなり下に見られることがよくある(家系的に)が,この個性は仕事面ではあまりプラスに作用しないことが多く,諸事情も手伝って,若く見えると指摘されるたびに複雑な心境になる。このように,顔を合わせる人であっても,その実像を正しく把握することは非常に難しいものだ。

そもそも,この15年間,私が「具体的に」どのような境遇で,どのような心境で暮らしてきたか,現状がどうであるかはご存知ないはず。全貌や詳細を知っていただく必要も,お知らせするつもりもないが,せめて,「私はこの人のことはよく知らない」という認識を持っていただけないものか,と思う。事実を知らない,という「事実」を知っていただきたいのだ。

話を戻すと,スピリチュアリズムをよく知っています,ブログをいつも読んでいます,としきりにアピールされる一方で,文面に成功や名声を想起させる言葉が見え隠れするというのは,霊的真理の理解が断片的であるか,或いは,最初から理解されていないからだと思わざるを得ない。さらに,相手も自分と同じ(物質主義的)価値観を共有していることを(暗に)前提とされている。その前提にはどのくらい確かな根拠があるのだろう。

私たち誰もが心すべきこと,それは: 汝自身を知る (Know thyself) ということ。自分の本当の気持ちは,動機は何なのか,立ち止まって静かに見つめたい。そして,自分にとっての「常識」が,万人にとっての常識とは限らないことを意識しなければならない。

* * *

普段のごく些細な出来事にも,気づきの種は潜んでいて,その気になりさえすれば,一瞬一瞬が貴重な学びのチャンスになり得る。「小事を軽んじて大事をなすことはできない」という趣旨の言葉をある本で読んだが,千里の道も一歩から始まるように,日々の生活から学ばずして,真理の深い理解に到達することなどあり得ない



7/17/2014

腐ったりんごは1つだけ―客観的思考は大切

"One rotten apple spoils a hundred [または its neighbours]." というラテン語起源のことわざがある。箱の中の腐った1個のリンゴは,他の新鮮なリンゴもすべて腐らせてしまう,つまり,悪人は,たとえ一人でも,周囲の多くの人間に悪影響を及ぼす,という意味らしい。(だから,悪い芽は早急に摘み取らなければならない,という発想か?)しかし,虚心に考えると,箱の中に腐ったりんごが1つあるからといって,残りのリンゴも全部腐っているわけではない。それならば,腐ったリンゴだけ取り除けばよいのではないか。

* * *

退行催眠を受けて,現在の心身の症状に影響を及ぼしている過去生での出来事を知り,その症状を改善・解消するヒプノセラピーは,アメリカの精神分析医B. ワイス博士の著書,Many Lives, Many Masters.  と Through Time into Healing. (『前世療法 上・下』 山川訳) で一躍世界に知られるようになった。日本のテレビ番組でも紹介されたと,昔の友人が話していた。私自身,退行催眠を何度か試したことがあるが(スピリット・ガイドから強く促されて),相性の良いセラピストと出会い,深い催眠状態に入ることができれば,大変気持ちがよい。症状を改善したいというよりも,ある情報を得たくて受けた。欲しい情報は得られなかったものの,エネルギーレベルの癒し(オーラの浄化)と,思いがけない発見や学びがあった。過去生の情報は,第三者を介して教えてもらう方が信憑性が高いような気がして,ヒプノセラピーからはすっかり遠ざかってしまったが,セラピー自体を否定するつもりは全くない。(退行催眠で過去生を知ることができる患者は6割程度とされている。)日本にも,患者さんの過去生を視て,薬を使わずに心身の症状を改善される有名な精神科医(生まれつきの霊能者)もおり,そうした人々の著書を読み,話を聞くにつけても,多くの人々にとって非常に有効なセラピーだと信じている。

最近知った面白い実例に,ワイス博士の娘さん (Amy E. Weiss)ケースがある。25歳の若さで,目に白内障の症状が出た彼女は,眼科医に失明の可能性も宣告された。なぜ老人が罹る病気になったのか不思議に思った彼女は,当時勤めていた病院で,ワイス博士がワークショップを開催することになったため,試しに退行催眠を受けて白内障の原因を探ることにした。しかし,それまで,誘導瞑想を体験しても寝てしまうことが多くて,効果はあまり期待していなかったとか。

催眠状態に入ってすぐに,14-5世紀頃の長い白髪の老人が現れた。彼は,自然をこよなく愛する,いわゆる世捨て人で,自己完結していて,町の人々と全く関わりを持たなかった。人々は,彼が魔法使いで,何か不吉なことを企んでいると信じて,彼の小屋に火を放ち,すべて焼き払ってしまった。その炎は,彼の目をも焼いてしまい,老人は失明する。そして,心も深い悲しみに塞がれしまった。「人生の最後に行って,その人生についてメッセージを受け取ってください」というワイス博士の指示があり,彼女はひとつのメッセージ,"Sadness clouds the eyes." (悲しみは目を曇らせる),を受け取った。メッセージは,白内障の症状も示唆しているが,当時の彼女には,まだ人生の方向性がよく見えておらず,それは,失明した老人の過去生から持ち越した「悲しみ」と関係があるのではないかと思った(彼女自身の人生テーマとして,「悲しみ」があるようだ)。退行催眠を受けてから数年後に,白内障の症状は見事に消えてなくなり,ワイス博士を驚かせた。

エイミー・ワイスさんは,なぜ白内障がきれいに消えたか,その医学的な説明にあまり関心はない,と言う。彼女の心を動かしたのは,目の症状が無くなったこと,癒しが起こったという事実だ。そして,父であるワイス博士が,多くの人々を癒してきたことの素晴らしさを,自らの体験を通して実感されたのである。


* * *

前世療法については,賛否両論ある。クライアントは,自分のものだと思っている前世が,実はクライアントに憑依している霊の前世の場合がある,という根拠で,やや否定的な見解や,価値を軽んじるようなニュアンスの発言がなされる。英国系スピリチュアリズムを信奉する人々の間に多い。実に,『シルバーバーチの霊訓』にも同趣旨の記述があるので,そうした事実は確かにあるのだろう。しかし,だからといって,前世療法はすべて無意味で効果がなく,所詮クライアントの想像力の産物なのだ,と結論づけるのはあまりに短絡的だ。ワイス博士は,想像力では症状は改善されない,と明言する。具体的にどういった療法なのか,そして,患者たちはどういう過去生を見て,どういう症状がどのように緩和・改善されたかという事実をつぶさに調べもせず,一部の情報だけに基づいて判断してはいないだろうか。退行催眠を受けた患者の中には,あとで歴史的調査を行い,裏付けが取れたケースも少なくないという。ワイス博士の近著,Miracles Happen. には,実際に退行催眠を受けた大勢の人々の手記が掲載されており,一人ひとりにとって,様々な気づきの機会になっていることがよくわかる。

仮に,みえた過去生が自分のものでなかったとしても,セラピーによって憑依していたエネルギーが癒されたとすれば,そして,そのことで自分もラクになったならば,それでよいのではないか。癒されたのは,(だれかの)過去生(か何らかの想い)には違いないわけで,それが本当は誰のものだったかということは,最終的には重要な問題ではないかもしれない。間違えて自分のものだと思い込んでいたとしても,それで誰かを傷つけたり,大きな問題を引き起こすことがなければ,よいのではないか。

少なくとも,ワイス博士をはじめとするヒプノセラピストの基本的な仕事は「誘導」であって,これは,クライアント自身が気付けるように手助けする作業だ。霊能者のように,霊能によって過去生の情報を得て,相談者に伝えるのではない。従って,ヒプノセラピーとは,あくまでも,クライアント主体のアプローチと言える。催眠中に,当時の感情を再体験して(思い出す),癒しが起こる(古いエネルギーを解放する)わけだが,百聞は一見に如かず,体験に勝る薬はないわけで,当たるか当たらないかわからない霊能者に相談するより,遥かに効き目があるかもしれない。症状改善以外に,いろいろな気づきが得られる。生命は一度きりのものではない,人生を通じて人は成長し,愛の絆は切れることがない,など多くの気づきが,書店に並んでいる本を一冊買ってきて読むより,多くの実感を伴って得られるかもしれないのだ。


* * *

人によって,真理に出会うルートはさまざまである。悩み・苦しみを経て,という部分は概ね共通しているだろうが,それ以外の点については,これでなければだめ,というものはない。人の数だけ道のりがあり,気づきのスタイル,学びの方法がある。ヒプノセラピーも,数あるルートの中の一つとして認められるべきではないか。1つ腐ったりんごがあったからといって,すべて腐っているわけではないのだから,箱ごと処分するのはもったいない。腐った1個のリンゴを取沙汰して,リンゴという果物全体を否定するのも実におかしなことである。

スピリチュアルな世界で生きる人々の見解というものは,確かに傾聴の価値はある。が,まず,何よりも事実を,現実を自分の目でよくみて確かめて,その上で,自分の頭で虚心に考えることが大切かもしれない。それは,ただの猜疑心や不信心とは違う。看板を盲目的に信奉したり,著名人の見解を鵜呑みにしない,ということだ。自分を信頼する,と言い換えても同じかもしれない。自分を信頼して,できる限り客観的にものを見,考える癖を。自戒の意味でも記しておきたい。 


5/24/2014

困難への対処法(4-3)-孤独なとき

エドガー・ケイシーのライフ・リーディングは,孤独の時期を,自分よりも恵まれない人々に援助の手を差し伸べる時であるとともに,個人的な成長と癒しを経験しなければならない時,と捉えています(Todeschi 1999: 133)。ケイシ―のリーディングでは,様々な孤独感に悩む相談者たちに,「自分の才能や能力が何であるかを探しはじめて,他の人々に役立つ方法を模索しなさい」というアドバイスが非常に頻繁に与えられた,とあります(Todeshi 133)。孤独の理由は必ずしも1種類ではありません。ケイシーにリーディングを受けた人々の中には,自分の性格的な傾向のために,みずから孤独な状況を作り出していると指摘されたケースや,過去生にその原因を遡ることができる場合もありました。(孤独感の理由も様々なら,その深さや感じ方も人により異なりますが,信頼できる誰かと,時空を共有することで解消される程度の “寂しさ” は,当記事の対象外です。)

例えば,36歳の男性は循環器系統の問題でフィジカル・リーディングを受けましたが,彼には友人関係が長続きしないという悩みもありました。その原因を尋ねたところ,男性には批判精神とカウンセラーの才能があって,人々を引きつけるものもあるが,アドバイスを求められると,自分の意見を述べることにこだわりすぎていた為,援助を求められた時はいつでも,自分がどれほど知っているかに満足するのではなく,相手の役に立つことに焦点を合わせるようにアドバイスされました (Todeshi 140-141)。

また,51歳の芸術家は,人から認めてもらえない不満と孤独感を常に抱えていましたが,他の人々を認める態度を培うように言われました。自分が出すものは,最終的に自分に戻ってくるものだ,と (Todeschi 143)。

ある11歳の少女の両親は,少女はひとりで時間を過ごすことに長けており,これは天与の才であるが,他の人々ともよい仲間となるように助言されています。彼女には批判的過ぎる傾向があり,これが矯正されなければ,ゆくゆくは孤独になってしまうだろう,と。「他者の欠点を大目に見なさい。他の人々が自分自身の欠点を大目に見てくれるように」(リーディング番号2648-1) (Todeschi 142) というアドバイスが与えられました。

孤独感の原因が過去生に遡るケースをいくつか紹介しましょう。政府機関に勤務していたある女性は,他の人々といる時や混雑した場所でも,孤独感を感じることがよくありました。リーディングで,この感情のある部分は,十字軍遠征の時代に起因すると言われました。当時,家族の不在時,家を守るために留守番させられることが頻繁にあり,その時感じた寂しさを今生に持ち越しているようでした。寂しいと感じる時間を内省と自己探求の機会と捉えるように,との助言が与えられました。

31歳の女性は離婚経験者でしたが,一人でいるよりも,「一人にされる」ことを恐れるあまり,自分に全くふさわしくない人々と関わることが多かった,と指摘されました。道徳観念と責任感に欠ける男性と結婚していましたが,一人になることへの恐怖心は,この失敗した結婚だけが理由ではありませんでした。直前の過去生で探検隊に属していたとき,仲間が帰国したとき自分だけうっかり取り残されたことがありました。彼女の恐怖心は,自分を見つめ,自分の内側とつながることで克服されるだろう (リーディング番号 958-3),とリーディングは告げました。

また,53歳の男性は,人々を愛し,周囲の人々からも愛されましたが,自分から人々に近づくと,いつも人々が自分から離れてしまうと感じていました。人ごみの中にいても寂しさを感じることがあり,ひとは自分から遠のいていく,という理由で,自分も人々から離れていました。ケイシ―は彼に,この状況は彼がサクソン人だった人生で始まった,と伝えました。当時,彼は人から尊敬されることが大好きでした。「この存在(本人のたましい)は,仲間から一目置かれていた―そしてその状況を好んだのだ!しかし,それをより大きな奉仕に使う代わりに,尊敬されることを好みすぎた結果,人々はあなたのことを忘れてしまった」(リーディング番号 3544-1) (Todeschi 144)。

ケイシ―・リーディングでは,孤独の理由が,過去生・生い立ち・性質のどれであっても,自分の内側を見つめて掘り下げることで,自分が神とつながっていることに気づくようにとアドバイスされることが多かったようです。ケイシーのリーディングでは,20世紀前半当時のアメリカの精神的土壌に(霊界サイドが)配慮してか,キリスト教の「神」を指す表現 (the Creator, Christ など) が頻用されていますが,大元の神(や超高級霊としてのイエス・キリスト)というよりも,個々人を導くスピリット・ガイド(いわゆる守護霊)と言い換えるほうが適切な場合が少なくないように感じられます。

さて,今回の孤独への最後の対処法は,前回(4-2)の記事の第二の項目でもあり,冒頭に紹介したアプローチ,つまり:

自分の仕事や活動に専念して,「他の人々のために」働く

です。自分の苦しみを注視し,傷の痛みにもがき続けるのではなく,その傷から一旦目を離して,異なる苦しみを抱える人々や,広く社会のため自分ができること,または,自分のすべき事(生活の糧を得る仕事も含め)など,対外的な活動に専念する時間を持つ,ということです。孤独の悩みに対しては,自分の好きなことや楽しめること(趣味や娯楽的な活動)に時間を費やすとよい,というアドバイスがよく与えられるかと思います。趣味や好きなことをするのも悪くないでしょうが,その内容によっては,意識やエネルギーの方向性が内向きなままで変わりません。「自分以外の誰か」のために働くには,自分に向いていた意識を,外へ転換する必要があります。ここが重要なポイントです。いわゆる趣味的な楽しみは,時々するから息抜きになるのものであり,それを問題からの逃避手段にしてしまうと,場合によっては,中毒となり,抜け出せなくなる恐れがあります。アルコール,異性関係,買い物,ゲームなど,人々が中毒に陥って問題となるものは,困難からの逃避手段になったためかもしれません。

この対処法は,しかし,孤独だけに有効なわけではありません。例えば,自然災害に被災して,様々な喪失感に苦しむケースにも同様に有効です。何かの作業に没頭する時間を作って,自分の悩み・苦しみを「忘れて」しまう,というのではありません。他の人のためになる活動に取り組むことで,喜びや感謝といったプラスの波動を受け取るということです。この小さな喜びの経験を少しずつ積み重ねていくことで,徐々に孤独感から解放されていくでしょう。

そういう仕事や活動がない場合は,冒頭でも読んでいただいたように,自分の才能や能力を見つける機会と捉え,模索することがブレイク・スルーのきっかけとなるかもしれません。自分にできること,やってみたいことでまだしていないこと,興味・関心があることがきっと何かあるはずです。それを,頭ではなく,心で選ぶことが大切です。本気で探せば必ず見つかります。

 * * *

続き記事では,3つの提案を挙げてみましたが,これらはいずれも,孤独感の軽減や打開の「きっかけ」や「手助け」にすぎません。最終的には,自分で自分自身(才能や性質など)を(適切に)認められること,自分の内側に満足を見い出だせるようになることが必要です。それは,各自のスピリット・ガイドとのつながりを強め,内なる愛を感じられるようになることと言っても同じでしょう。少なくとも,孤独感や不幸感にのみフォーカスを合わせ,それを,自分以外の「だれか」からわかってもらい,慰めてもらうこと,または,環境が“自動的に”好転することを,何もしないでただひたすら待ち続ける,というように,外界からの援助や働きかけ,変化のみで解消することを求める限り,孤独感はいつまでもつきまとうものではないでしょうか。誰かの役に立てる自分であることを知り,行動する。そうして,少しずつ自信と自分を取り戻した時,内なる変化が起こり始めます。その内側の変化に呼応するように,周囲の環境や状況も自然と好転し始めることでしょう。

3回の続き記事では,孤独に対する,ややスピリチュアルな対処法を提案してみました。次回は,さらに一歩踏み込んで,孤独の時期が,特に精神世界(および関連分野)での学びや諸活動に直結するケースを取り上げてみたいと思います。

出典: Todeschi, Kevin J. (1999) Edgar Cayce on Soul Mates: Unlocking the Dynamics of Soul Attraction. Virginia: ARE Press.




3/07/2014

SNSが悪いのか

 ブログやフェイスブックがすべて悪いというのではありません。どんな形であれ,人と交流することは素晴らしいと思いますし,情報を得ることで救われる人もいることでしょう。(中略)
 フェイスブックで公開される情報はリアルなものではあっても,それがその人のすべてではありません。こんな場所へ行った,こんな人と会った,こんな食事をしたと切り取って貼りつけた人生のいいところ取りでしかないのです。
 相手に賛同する意味でクリックする「いいね!」と思う行為の中に,実は「悔しい」という羨望が含まれてはいないでしょうか?自分とは違う人をうらやましく思い,焦りに繋がってはいないでしょうか?
 ブログやフェイスブックは基本的にひけらかし文化といえます。昔の日本人の感覚であれば,日記など個人的な書き物は「墓場まで持っていくもの」という認識があったように思います。他人には言えない心の内を記したり,整理のつかない思いを書き出し,わが身を見つめ直す「内観」の道具だったのです。だからこそ,他人に見せるものではないという意識を持っていたはず。
 しかし,今は「私のことを見て!もっと構って!」と,なにもかもひけらかしてしまうのです。他人のことを理解し思いやるという利他愛よりも,「自分をわかってほしい」という自己愛が強くなって,「かまってちゃん」が増えたのだと分析できます。
 しかし,真の豊かさとは,こういうふうに人にすべてをさらけ出して賛同を得ることで満たすものではないと思います。たとえ多くのひとにはわかってもらえなくても,自分の信念を持って貫き歩む。そのほうがずっと豊かな生き方ではないでしょうか。
 確かに,書くことによって心の整理はできると思いますが,そうやって「自分探し」をしたいのならば,自分しか見ないノートを作るなどして綴ればいいことです。ブログやフェイスブックに情報をアップする人がしているのは自分探しではなく,「自分がどう見られているか探し」でしかありません。賛同の数が多ければ安心し,反応が薄いと不安になるという人もいるそうですが,それも結局は物質主義的価値観。「いいね!」の量で自分の幸せ度をはかろうとしていること自体,おかしいのです。「天は見てござる」という発想があったら,たとえ誰からも「いいね!」と賛同してもらえなくても,不安になどならないでしょう。評価されることを求めて行動するのではなく,自分の信念をもとに「自律した生き方」ができるはずです。
 豊かに生きたいと思うなら,実際に経験と感動を積むことが何よりです。

江原啓之 (2012).『言魂のゆくえ』 pp. 138-141.

(引用中の強調はすべてブログ作成者によるものです。)

こちらの記事特にこちらのサイト, また,こちらのサイトもご覧ください。



ブログや各種SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス: Facebook, Twitter, mixi, Instagram など)の普及によって,パソコンや携帯端末等のアクセス手段を持ちさえすれば,誰でも質・量ともに多様な情報を入手したり,発信したりすることができるようになりました。新聞・テレビ・ラジオといった従来のメディアよりも,「正しい(かもしれない)」情報を「より迅速に」得られる手段として,また,誰にも手軽に使える,気軽な自己表現の手段として,その勢いは止まるところを知らないようです。

引用の趣旨は,あくまでも,ネットを中心に生活する人々への危機感です。しかし,ブログやSNSなど仮想空間上の媒体ではなく,単行本で「波瀾と感動の手記」として出版する分には問題ないのか,多くの人々から称賛された経験のある人々や自己表現の場を多く与えられてきた人々,さらには周囲の理解者に恵まれた人々が,圧倒的大多数の無名の人々の,“周囲から認められたい”という気持ちや,孤独な人の,誰かに理解や癒しを求める想いにどれだけ共感できるだろう,という疑問が,正直なところないわけではありません。現実世界で満たすことが叶わない,叶わなかった自己表現欲求や承認欲求を,SNSを利用して(別の形で)補償しようとする,「埋め合わせ動機」はそれほど問題だろうか,と。

また,引用が指摘している自己愛の強さは,家族や周囲の人々との「こころの絆」が弱体化したことによる寂しさ,孤独感に起因する可能性が高いでしょう。自分以外の人を思いやったり,相手に関心を向けるということは,心に余裕がないとなかなかできることではありません。同著者による以前の著作(2009年, p. 89) では,この点が指摘されていますが,今回論調が変わった理由は何だろうと,疑問を持たざるを得ません。

とはいえ,どんな道具も,使い方ひとつで,利器にも凶器にもなり得ます。その点では,SNS も何ら変わりがありません。自慢したがる人は,ネット上だろうと,リアルな場であろうと,自慢するものです。ゴシップ好きな人は,どこにいても噂話に首を突っ込むでしょうし,人が善意から身を削って書いた文章も,下世話な好奇心から浅い読み方しかできません。ブログやSNSが悪いということではなく,問題の根本原因は,人間の未熟さにほかなりません。物質界に存在するありとあらゆるものに,人を助ける正/善の潜在性と,人を傷つける負/悪の潜在性があります。問題が起こるのは,常に人間の未熟さゆえ,です。

こんな素敵なお店で美味しいランチを食べた,流行りのカフェでお茶をした,とか,最新モデルの携帯機器を入手した,南国のリゾートへ行ってきた,といったトピックには,深みも面白みもありません。特に,記事の投稿者本人を直接知らない人々にとっては,「あ,そう。」のひと言で終わるようなものです。普通なら,家族や親しい友人との他愛ない日常会話の話題になる類いのものだから,わざわざネット上に公開するのは,身近に話し相手がいないか何かだろう,と私なら想像します。或いは,日常的に興味・関心の幅の狭い人かもしれません。

この手の,非常に内容の薄い(物質至上主義の権化的)記事は,基本的には,極めて人畜無害な(=どうでもよい)もので,読むのも退屈ですが,しかし,世の中には様々な事情を抱えた人々がいます。経済的に余裕がなくて,外食したくてもできない人が,たまたま目にしたブログで「美味しいランチ」の記事を読んでしまったらどう思うでしょう。「いまは無理だけど,いつか必ずもっと高いランチを食べて,もっと素敵なブログ記事にしてみせるわ!」と奮起するかもしれないし,「何よ,見せびらかして」と嫉妬するかもしれない。或いは,もっと深刻に,我が身の不遇に気が滅入って,落ち込んでしまう人だっていないとは断言できません。

こういう意味で,自分の(世間体の)良い部分だけを華やかに公開する,“あらゆる自慢行為(や場をわきまえない自己アピール)”には,少なくとも二つの側面があると言えます。一方では,ただの無邪気な自己(愛)表現ですが,他方では,それらを持たない人々のこころを徒らに刺激して,(本人にその意図が全くなくても)聞き手や読み手を間接的に傷つける可能性を孕んでいます。つまり,「ひけらかし行為」は,(何らかの)精神的暴力になり得る,ということです。子どもが往々にして残酷なように,どの“大人”にもある未熟さ・いびつさは,容易に他者を傷つける狂気・凶器たり得てしまうのです。

もし,友人・知人から羨ましがられたい日本人が増加していて,それが社会問題の域に達しつつあるのだとすれば,それは,人間関係が希薄になりがちな(大都市部を中心とした)現代社会の闇を反映していると同時に,心の深いところで自分に自信が持てない人が増えているということかもしれません。自信が持てないのは,周囲の人々の(多分に物質主義的な)価値観に従って,またはそれを強く意識して,他人軸で生きているためでしょう他者の評価はその人のもので,あなたのものではありません。あなたの人生には1ミリも影響を及ぼさないことを知ってください。

 

知人・友人のブログやFacebook 閲覧後に気分が落ち込んでしまったとき,ソーシャル・メディアでの遣り取りや閲覧に疲れてしまったときは,その場から大急ぎで立ち去りましょう。知人らの近況を確認したり,自分と比較する代わりに,「本当のこと」を学びましょう。生命は永遠であり,一人ひとりに固有の「たましいの歴史」があり,今回も成長を願って生まれてきた,という真理を深く知ること。その上で,自分との対話・自問自答を重ね,自分自身の価値観を模索し,確立することです。自分軸で人生を歩みはじめるようになると,感じ方も徐々に変わっていくことでしょう。

 

(2016年4月22日)

 

註:SNSは一種の和製英語で,英語では social media と言います。

1/10/2013

同じで違うからいい−逆説は創造と成長の源

グラミン銀行を設立し,「貧困のない世界(poverty-free world)」を目指してソーシャル・ビジネス(social business 社会貢献型ビジネス)を展開するムハマド・ユヌス氏(2006年ノーベル平和賞受賞)によれば,人種や性別に関係なく,人間はみな同じ,という。98%は似ていて,違いは残り2%だけなのに,人はその2%を取り沙汰して,問題を必要以上に複雑にしている,と。バングラデシュで始まったグラミン銀行は,世界で最も裕福な国・アメリカはニューヨークに支店を開き,バングラデシュと全く同じシステムで多くの貧しい女性たちに少額無担保融資を行い,彼女らの自立支援に成功している。

社会的生物である人間は,心理学(マズローなど)で言うところの一次欲求(生理的欲求)と二次欲求(社会的,自我的欲求)の満足を求めるという点では同じだろう。また,人間はみな等しく神の子。その意味でも同じといえる。物理的にせよ霊的にせよ,マクロの視点で見ると同じだが,ミクロの視点で見ると,一人ひとり少しずつ異なる,ユニークな(unique 独自の,という意味)存在だ。世の中には実に様々な人がいる。外見は言うまでもなく,生い立ち,性格や考え方,職業,宗教,食べ物や服装の好み等,どれひとつをとっても相似形の人間などひとりもいない。

「同じか違うか」ということだけで言えば,私たちは,同じであると同時に違っていて,その両方があるからいいのだと思う。
* * *

社会的および自我欲求は,細かく下位分類されているが,おそらくあまり細かく区分する必要はないかもしれない。ひとが求める多くのものはほぼ2つに集約できると思うから。即ち,「安全」と「愛」である。

人は,生き延びるために生命の危険から身を守り,餓死しないようにエネルギー摂取しなければならない。そのために,住む家や食べ物が必要になる。家や食糧を手に入れるために,資本主義社会では貨幣が必要になる。貨幣を手に入れるためには働かなければならない。人々はより多くの貨幣を手に入れようとして,競争するようになり,格差が生じてきた。

なるほど,貨幣経済の発達が人間社会を複雑化させた大きな一因には違いないだろう。が,お金が諸悪の根源かといえばそうではなく,それを使う人間の未熟さが本当の原因であることは,いまさら言うまでもない。「馬鹿とはさみは使いよう」と言うが,お金に限らず,どんな文明の利器も,使い方を誤れば問題を起こすのは同じこと。放射能もレントゲンに使われるだけなら何の問題もなかったはずだが,兵器や燃料として使ったために,生命を脅かす脅威となった。インターネットも,情報収集,有益な情報の発信や,遠方の人々との通信手段として利用するなら便利で安全なツールだが,物欲を満たすために使えば,犯罪の温床になるのは自明のこと。しかし,人間は自らの落ち度を棚にあげて,やれお金が悪い,ネットの世界は怖い,とか,核は危ない,などと責任転嫁する。それらを危険な存在にしたのは,他ならぬ人類自身なのに。同じ論理は,子育てにも用いられる。子どもの様子が最近おかしい。どうやら不良グループと付き合っているようだ。親は,「息子が変わったのは,悪いお友達のせいなんです」と,不良グループのせいにする。自分の愛情が足りなかったことは振り返りもしないで。

人間にはまた,身の安全確保とともに,心理的な安全・安定を求める気持ちもある。それを満たすものが愛ということになろうが,愛には,より社会的なレベルで「承認」を求める気持ちも含まれている。人から尊敬されたい,大切に扱われたい,才能や努力を評価してもらいたい,という思いは,突き詰めれば「愛」を求める気持ちと同じだ。(こうした一部の欲求を,「名誉欲」と呼んで区別する人々もいる。)この世に,絶対的な客観評価や尊敬というものは存在しないからだ。そもそも人間は,表と裏しかない一枚の紙切れのような平面ではなく,さまざまな面を持つ多面的な存在である。Aさんは,相手の右側を見て仲良くしていても,Bさんには,同じ人の左側や裏側が目に留まっているかもしれない。その結果,同じ人でも,AさんとBさんとでは評価が分かれてしまう。仕事の評価も同じだと思う。この世の「評価」というものは何であれ,概ね相対的なものだろう。さほど実力のない人が,高い地位に就いているというのはよくある話だ。私たちは,真に厳正かつ公正な審査や査定を求めているわけではないだろう。評価するのも様々な事情や感情を抱えた人間であって,ひとは,自分の価値観に合うもの,自分の信念を否定しないもの,尊厳を脅かさないもの,端的に言えば,自分が「好きなもの」を是とする傾向が強い。冷静かつ客観的・論理的に見ている「つもり」でも,大なり小なり,エゴが混ざってしまう。つまり,承認や評価は,個人的な好悪の感情(好み)に左右され得てしまうものだといえる。そして,人間は,低い評価,正当ではない評価や不承認に対して,強いストレスを感じる。言いかえれば,個人的な生活においても,社会的場面においても,愛の不在や否定が精神的ストレスの主な要因であると考えられる。

* * *

こうして,根本的に求めているものは「同じ」でも,好みや価値観,人生観,性格,人格などの個性の「違い」があるから,人と人がぶつかり,悩み,成長していく。共通性と多様性−この二つが共存するからこそ,さまざまな葛藤・衝突が生じ,その緊張感や不調和の問題点を解消・解決すべく,調和と協調を求める動きが展開される。その過程で,新たな発明や知識が見い出され,各自が様々な学びの機会に恵まれる。地上世界とは,一見相反する要素が,互いに矛盾することなくプラスの相乗作用を新たに引き起こす,逆説が見事に行き渡った次元なのだと思う。


9/10/2012

希望は自分の中に

宮崎駿監督アニメ映画『千と千尋の神隠し』のエンディング・テーマ曲,「いつも何度でも」(歌詞はこちら)。木村弓さんのハープの音色と歌声がひとつに溶け合い,静かな癒しの曲になっています。

歌詞には深いメッセージを見い出すことができるように感じます。映画とは切り離して意味を探ってみたいと思います。(オスカーを受賞した同映画にも,見方によってはさまざまなメッセージを読み解くことができますが,それは後日述べてみたいと思います。)

私たちはたくさんの夢を抱き,それらを叶えようと思って転生します。「胸のどこか奥」,つまり,私たちの最もひかり輝く部分でそう決めて,いまを生きています。その夢実現プロセスにおいて,多くのかなしみがあり,希望が「こなごなに砕かれ」てしまうことがあるかもしれません。それでも,つねに希望をもち続けることが大切です(「いつも心躍る夢を見たい」,「この両手は光を抱ける」,「同じくちびるでそっと歌おう」)。砕かれた鏡が「新しい景色」を映し出すように,挫折のように思える出来事にも,必ず希望の種は宿っているからです。

かなしい時,夢を見失いそうな時,私たちには「ゼロになるからだ」があることを思い出しましょう。そして,「静かな」気持ちでこころの声に耳を澄ませば,自然とエネルギーに充たされ,希望と智恵とは,外ではなく(「海の彼方にはもう探さない」)自分の中にあることに気がつくでしょう(「輝くものはいつも・・・私のなかにみつけられたから」)

数え切れないかなしみの向こうで会える「あなた」は,夢実現の如何に関わらず,夢に向かって邁進したその先で到達する境地であり,一層輝きを放つ自分の本質なのかもしれません。

8/08/2012

愛は信頼

愛と心配を同一視する人々は多い。例えば,親が子どもを心配するのは子どもを愛しているから,という。心配は愛の証し,というわけだ。しかし,心配の念はネガティブで重い。子どもが学校でいじめをしているという報告を学校から受け,心配しすぎていた母親が,心配するのを意図的に止めたら,子どももいじめをやめるようになった,という実例もあるほど(越智啓子氏の最初の著書をご参照下さい)。人のすべての想いは,目に見えぬエネルギーとして瞬時に相手に届き,何らかの影響を及ぼす。ならば,受け取った人が元気で前向きになれる,そんな明るく暖かい愛の想いを送りたい。 愛は信頼である。

信頼の源はひとつ。それは,「自分」である。つまり,自分を信頼している人(「自信のある」人)は,ひとも信頼できる,ということ。人に対して何かとネガティブな思いを抱きやすい人は,自分に対しても否定的な傾向があるだろう。このことについて,間接的にだが,改めて考えさせられる出来事があった。


* * *

先月下旬にリーディングを受けた。私が以前,瞑想やサイコメトリーなどのエネルギー・ワークを中心とした訓練を受けていた時に出会った方(以下Dさんと呼ぶ)にである。メッセージは納得のいくものだった。ここ数ヶ月間,何となく感じていたこと,夢や気になる曲を通じて漠然と心に掛かっていたことについて,進むべき方向性を明確な形で示された。今回のリーディングは,しかし,私への個人的なアドバイスに留まらず,我々の双方にとっても意味のある出来事らしかった。

Dさんと出会ったのは約2年前だが,数ヶ月間,隔週ペースでクラスで顔を合わせるだけの間柄だった。一度,ペアでリーディングの練習をした時,当時抱えていた大きな悩み(で,まだ結果は出ないが,私はその答えを知っているはずの問題)に,短いが非常に端的なメッセージを伝えてもらったことがあった。そうしたメッセージは,こちらが全く予想もしないタイミングでもたらされることが多いが,それが非常に印象深かった。Dさんの実力を実感する機会は他にもあり,また,認定試験には昨年合格されていた。とはいえ,初めから彼のリーディングを受けようとしたわけではない。イギリス式のシッティングに近いリーディング(一方的にメッセージを受け取るタイプの)を希望していたが,以前の記事(夢は知らせる3)で記した経緯で,通っていたスクールを自ら去っていた為,そこに申し込むつもりはなかった。ネットサーフしているうちに,Dさんのブログを見つけた。しかし,彼は,私が去った当時すでに内部関係者だったこともあり,予約を受け付けて貰えるかどうか不安があった。思い切って問い合わせてみたら,すぐに快諾いただき,その5日後にお会いすることになった。

リーディングの後で,少しだが話す時間があった。彼とまともに会話したのはその時が始めてだったが,この時の会話は大変興味深かった。まず,Dさんについて新たな発見があった。さらに,事務所の男性(は受講生でもあった)が,つい最近まで,私のことを非常に気に掛けておられたことも知った。スクールを辞めるきっかけとなった出来事は,その最終局面で,この男性を介して展開した部分もあり,彼は,当事者である私ともう一人の女性以外で,間接的ながらも関わりを持った唯一の存在だった。ずっと,きっと彼は彼女の肩を持つだろう,いや,私に対してはむしろ批判的かもしれない,と何となく思っていた。というのも,私は必要最低限の時間しかその場所では過ごさないようにしており,クラス外で言葉を交わす人すらいなかったからだ。リーディングの練習の妨げになるという理由から,受講者同士の親しい交流は避けるようにという指示があり,この,個人的には大変好都合な規則を遵守していた。一方,彼女は,他のクラスにも積極的に参加するなど熱心で,スクールで比較的長い時間を費やしていた。事務所の男性とも親しそうだった。昨年9月に,講師(兼責任者)から,大変なことになりましたね(スピリチュアルなことをやっているにもかかわらず),という私に対して批判的なコメントも貰っていた(その直後,彼女にどのような対応をされたかは知らなかったし,彼自身にも責任がないとは決して言えないはずなのだが)。とはいえ,去るべき時期が来て去ったと納得していたし,「今後は余計なストレスと出費が減る」くらいの気持ちでいた私は,その件について考えることも思い出すこともなかった。Dさんは何度も安心した表情で,「元気そうでよかった!」と言われた。最低でも3回くらいは聞いたような気がする。通っていた当時より遥かに元気そうだと言われて,少し複雑な心境だった。また,少なくとも昨年夏の出来事に関して,私に共感できるといった趣旨のことばも聞いて,なるほど,それでリーディングを引き受けて下さったのか,と思った。

繰り返しになるが,私にとって問題の一件は既に過去の出来事だった(もう一人の女性に対しては”指導”で,私にとっては場所を変わるべき区切り,というのが本当のところらしいが)。詳しい経緯もかなり忘れている。しかし,Dさんにリーディングを受けたことで,そこに所属している人々の中には,批判的どころか,私を気遣って下さっている人がいたと知ることができた。また,Dさんの安堵ぶりを思い返すと,おそらく彼(と,彼にかなり心配させたらしい事務室の男性)にとっても,心の重荷を下ろす機会になったのかもしれない。二人は,私がそこを離れたことに関して,団体側に多少なりとも疑念や失意の念を抱いていたのではないか。スピリチュアリズムを標榜している団体が人を潰すような真似をしていいのか,と。しかし,彼らの立場上,もちろん意見することもできず,現実を受け入れるより他になす術がないわけで,その意味では無力であり,いくばくかの罪悪感を感じていたのかもしれない,と。

私の身を案じていてくださったらしいことは,大きな驚きであったし,ありがたいことだと感じた。これまでの十余年間,好奇心(関心ではなく)を向ける人々はいたが,私を本当に気遣ったり,心配してくれる人間などただの一人もいない,と感じてきたから。

私をよく知らない人々,そして,その場所以外には霊能を伸ばす術がないと信じている人々からすれば,そこを離れてしまうことは,即ち将来への道が閉ざされる・絶たれる,と結論づけられるだろう。その発想は容易に想像がつくし,あながち咎められるものではない。が,同時に,非常に悲観的でネガティブな見方ともいえる。突き詰めれば,厳しいようだが,スピリチュアルな教えとは多くの点で相容れない見方だと思う。意外に知られていないこととして,霊能者やミディアムなど,広く意識的に霊能を用いることが必要な仕事に従事する人はあらかじめ決まっている,という真実がある。霊媒になることを決めて転生してくる。ということは,本人の(表層意識の)意思や好き嫌いとは無関係に,(大抵の場合)なる人はなるし,ならない人はならない(なりたいと望んでもなれない)。だから,もし誰かがある師の元を去ったとしても,その人が霊能者もしくはミディアムになることが予め決まっているなら,必ず導きがあってなるようになる。一見,上手くいっていないように見えたとしても,本人も周りも徒に焦ったり心配する必要はないし,心配すべきではない。心配というネガティブなエネルギーは,下手をすると足を引っ張りかねないから特に慎むべきだ。さらに,誰にも複数のスピリット・ガイドがついていて,守り,導いている,ということを思い出したい。彼らの視野は私たち人間より遥かに広く,愛は深い。私たちのことを誰よりもよくわかっている彼らのサポートがある限り,基本的には,私たちに必要な出来事だけが起こり,学びのチャンスが与えられる。

学生時代,今回と重なるような状況を経験していたことを思い出した。学生の身分だった時間が長かったせいもあり,自慢じゃないが,放校・退学と主席で入学・卒業以外は全て経験した。今回のリーディングで思い出したのは,2回同じ学校を受験して不合格になった時のこと。1回目の成績を聞いて,挽回の余地があると感じた私は,再チャレンジすべく準備した。しかし,さすがに2回目も不合格だった時は,その学校には留まる必要がないとわかった。そして,その2年という時間も,その後の(留学を中心とした)出来事が起こるべきタイミングで起こるために必要な時間調整だったと悟った。が,そう深く理解するまでは,できれば人に知られたくない出来事だったし,周囲もそのように見ていたことに傷ついた。合格発表のあと間もなく,今にして思えばよせばいいものを,何の用事か忘れたが,わざわざ母校に出向いた。図書館の前で私に気づいた2名の仲間はどちらも合格者だったが,次の瞬間,見てはいけないものでも見たように,さっと視線をそらした。そのあと会った指導教授も一瞬私を見て見ぬふりをした。(この先生とは,その後もご縁があり,折々に必要な指導を受けることになった。今となっては,数少ない,本当の意味で敬愛できる方の一人である。)幸い,滑り止めというのではないが,他の学校も受験して合格しており,そちらへいくことにしたが,そこは“世間的に”みると,不合格になった学校よりランクが下がる場所だった。「上の学校に行くならともかく」と,母も最初は不満を漏らした。しかし,専攻分野や様々なことを考慮すると,私にはそこへ行くのがベストな選択だと思えたし,それを裏付ける夢も,しばらくして経ってからだが,見た。だから,というべきか,当時は彼らの反応がとてつもなく冷たいものに感じられ,静かに傷ついた。「失敗者」と見られている,と感じた。私が彼らの立場だったら,あぁ残念だったな,という気持ちから同じように反応していたかもしれないし,別段咎められる態度ではないかもしれないが。

2011年夏の一件にしても,不合格時の仲間の態度にしても,その背後には「無知」が潜んでいる。進学先も就職先も決まっている。なぜなら,そこで出会わなければならない人々がいるから。いつどこで会うか,ということは予め決まっているので,出会うべきタイミングで出会うために,ストレートで合格したりしなかったりする。もちろん,それ以外の学びもあろう。

* * *

一見したところ,失敗や不幸な出来事に見えることも,当事者にとって必要な出来事であり,何らかの意味があり,次の段階に移るのに必要なプロセスであったりする。見えがかりにとらわれて,不幸や失敗と否定的に決めつけ,落胆したり心配しすぎるのは,突き詰めれば,無知と自分への信頼の欠如から来る反応ではないか。もし,上手くいってないように見える人が周りにいたら,心配の念を送るのではなく,“万事上手く進みますように” という祈りと,“本人にとって最善の出来事でありますように” という信頼と希望の念を送りたい。それこそほんとうに愛のある態度だと思うから。


7/19/2012

ほんとうの「仕事の流儀」とは

某放送局で放映中の『○○フェッショナル』をたまに観る。似たような番組に,他局で放映中の『●●モン流』がある。いずれも,各業界の第一線で活躍する成功者に密着取材し,その華々しい仕事ぶりや充実した私生活と共に,舞台裏での努力や苦労も併せて紹介し,成功の秘訣を探っている。正の要素と負の要素の両方があるから視聴率が取れるのかもしれないが,番組の一環した基調は,やはり“サクセス・ストーリー”だろうと思う。ドキュメンタリー番組ではない。取材される人々が赤裸々に描かれ,その全貌が明かされる,ということはあり得ない。あくまでも,働く姿を,いくつかのアングルから美しく切り取ったものにすぎない。プライバシーの問題もあろうし,番組を通じて伝えられるイメージが,彼らの仕事に少なからず影響する可能性なども考慮すれば,それも致し方ないことかもしれないが。

もちろん,成功の陰にあった過去の数々の苦労や日々のたゆまぬ努力,仕事に取り組む真摯な姿勢に心打たれ,勇気を得ることもあるが,いささか斜に構えて眺めてしまうことも少なくない。番組制作側の意図がどの辺りにあるのか私には図りかねるものの,視聴者はこの番組から何に気づき,何を学ぶだろうか,と疑問に思う。何がしかの不満や悩み・苦しみといった負の想いを誰もが抱え,だからこそ,他人の不幸せや失敗に安堵し,ほくそ笑む人が多いこの現世にあって,仕事で華々しい成功を収め,充実した人生を体現している(ように見える)同時代人を紹介することが,観る人々にとってどんなプラスとなり得るのか。取材され,番組で取り上げられる人々にとっての,いわば“ご褒美的”番組になっているような気がしないでもない。

スピリチュアルな観点からいえば,いくつかの過去生に亘って経験と研鑽を積んできたことは得意である。よく,「すじがいい」とか「才能がある」などと言うが,それは過去生での経験の積み重ね,努力の集積の結果といえる。だから,仮に,いま達人でなくても,誰もがそれぞれの得意分野で前向きな気持ちと努力を怠らない限り,やがては「達人」になりうる,“達人予備軍” であり,“プロフェッショナルの卵” といえる。やがて訪れるであろう未来の自分の姿を重ね合わせ,予習気分で観る分には,夢があって楽しいだろう。成功イメージを潜在意識にしっかりインプットし,植えつけるイメージトレーニング的な効果があるかもしれない。

とはいえ,人生における「成功」とは,いわゆる同番組で映し出されるようなものとは限らないはずだ。その道のプロであることは無価値ではもちろんないが,世間が思うほど,番組が謳い上げるほど,素晴らしいとも思わない。勤勉,ハード・ワークは,間違いなく評価に値する。しかし,どのような仕事に従事しようとも,最も肝心なことは,「他者の利益のためにどれだけ無私の想いで尽くせるか」,それだけだと思うから,「プロフェッショナルね・・・・・・」とつい冷めた目で観てしまう。ひがみと言われてしまえばそれまでなのだが。

英国留学を機に,私は大きな試練を経験することとなった。自分の置かれた状況がそうさせたのか,ある時期から,教育テレビの『福祉ネットワーク』という番組を,時々だが,観るようになった。そんなことでもなければ絶対観なかっただろう。世の中には,想像もつかない困難や経験を生きている人々が少なくないことを知った。例えば,祖国を追われて日本に来たものの,難民として受け入れて貰えず,かといって帰る国もない無国籍のアジアの人々。拒食症に長年苦しむ若い女性たちや幼児虐待の果てに施設で暮らす,心に深い傷を持つ子ども達。悩み・苦しみから,自殺を図るも,未遂で救急搬送される人々。経済的困窮に負いこまれ,生活保護について何も知らず,本気で自殺を考える中高年世代。あるいは,身体的なハンディキャップをものともせず,経済的自立を目指して仕事をし,また,アスリートとしてスポーツ競技に打ち込む人達。そして,そんな彼らに向き合い,心寄り添い,日々全力で支える無名の多くの人びと。普段の生活では決して知りえない人々の存在を,間接的にも知る絶好の機会である。気づきや励ましを得ることが圧倒的に多いのは,前述の番組より,この『ネットワーク』であることは言うまでもない。

逆境の中で,試行錯誤を繰り返し,つまづきながらも,ひたすら前進する人びとの姿は,われわれに多くの教訓を与える。いわわゆる「健常者」の側が,様々なハンディキャップを背負った人々から教わることの方が,その逆よりも圧倒的に多い。また,彼らをサポートするという行為を通じて,大勢の人々が間接・直接に結びついていく。

この世的な成功が悪いわけではない。そうした人々の存在は社会にとって欠かせない。成功を夢見る気持ちは,ひいては自己の成長へとつながり得る。しかし,社会から賞賛や名声を得ることと同じくらい,いや,もしかするとそれ以上に,追求する価値のあること,深い喜びを見い出せることがあるかもしれない。自分にとってそれは何なのか,心静かに内なる声に耳を傾けてみたい


6/12/2012

無関心は残酷 −見えない相手も思いやる気持ちを

顔が見えないコミュニケーションは難しい。例えば,電話での会話,オンラインでのチャット,メールのみでの付き合い,一部のSNS経由での遣り取りなどがそれにあたる。家族,友人,知人との顔が見えるコミュニケーションでさえ充分難しいのに,面識の全くない人々との遣り取りともなればなおさらだ。言葉とは本来曖昧なもので,意志伝達手段として完璧とはいえない。社会言語学でよく言われるのは,言葉による情報量よりも,顔の表情やしぐさ(ジェスチャー)といったノン・バーバルコミュニケーションによる情報伝達量の方が多い,ということ。これに対しては否定的な見解もあるのだが,例えば,「ありがとう」という言葉も,優しい笑顔で言われれば感謝の表現だが,こわばった表情では,困惑と受け取られかねないことを考えれば,あながち否定できないだろうと思う。

もう少し堅苦しい話にお付き合いいただければ,よりよいコミュニケーションのためには,相手がどんな人かを適切に知ることが不可欠だ。「どんな人か」には,その人が「どんな人だと思われたいか」ということも含まれる。そのいわば“共有してほしい自己イメージ” (専門的には "face" = 体面 と呼ばれることもある) は,必ずしも自分の真の姿と一致しないことも多いし,一致する必要はない。自己評価が高い人や,逆に低い人など様々な人がいる。自分を正しく知ることは意外に難しい。が,いずれにせよ,相手の face を正しく把握し,こちらの face もちゃんとわかってもらえないと,互いに話が噛み合わない,ということも充分に起こりうるわけだ。日本語でも,「顔を潰す」「顔を立てる」「面子が丸つぶれ」といった表現があるが,自己イメージを否定されて不快だったり,逆に,尊重してもらえたことを言い表している。もの言わぬ壁に向かって話すなら別だが,人間同士が関わる限り,"faceless" なコミュニケーションは存在しない。このように,理論的にみても,面識のない人と,文字通り「顔が見えない」状況下で行う会話は,少なくともどちらかが不愉快な思いをせずに成立する確率は非常に低い,と言える。

確かにその通りなのだろう。でも,人間にはだれにも「見えないものを感じとる力」や「想像する力」,即ち「インスピレーション」が備わっている。そのひとつの顕れが芸術だ。われわれは美しい音楽を聞いてこころ癒され,演劇を見て涙し,感動する。この生まれつき備わった能力を駆使すれば,「顔がなくなりがちな」コミュニケーションになるという,高い壁を少しだけ低くすることは決して不可能ではない。そんなことを考えさせられる出来事がいろいろある。

最近気になるのは,相手の状況や気持ちを気にかけることも想像することもなく,ほぼ一方的に話してくる人々の存在。どういうわけか,私は「話しやすい,いい人」で,文句も言わずに,まるで母のように「自分を受け入れて,話をやさしく聞いてくれる人」という位置づけらしい。だから,平気で(プチ)自慢したり,普通であれば,かなり親しくならなければ話さないような話題もぽろっと話す。例えば,過去には,こちらがお金を払ってかけた電話相談で(1分刻みで料金が発生する),鑑定士の愚痴やら身の上話に付き合ったことも少なくない。相談者の私が相談にのってもらえるはずの占い師の相談に乗るという立場が逆転した状態だ。その一方で,彼らが,妙に上から目線でモノを言うことが度重なったため,耐えかねて会社に意見したことも。また,オンラインで交流のある人々の中にも,自慢話をしに私のところへわざわざやってくる暇な人々がいる。それでいて,話を聞いてくれてありがとう,というのではない。そもそも,面識のない相手には関心がない。だから,感謝もない。いや,なにも感謝されたいのではない。彼女らの無関心さ,思いやりの欠如,もっと言えばその無思慮と自己中心性が悲しいのだ。私としては,ひとに好かれたくていい人を演じているつもりはなく,自分が理想とするモラルにできるだけ沿う形で行動しようと努めているだけだ。自分の感情を最優先したり,やたらと自慢話をしたり,ひけらかしたり,一方的に甘える,といったことをできるだけしないようにしている(つもり)のだが,その結果,不愉快な思いをするというのは,どう捉えたらよいのか。もちろん,私も,気づかないうちに誰かに嫌な思いをさせてきただろうし,させているに違いないのだが。

本当に満たされた人,即ち,幸せな人は,誰かのために役立ちたい,ひとの幸せのために働きたい,と思うものだ。彼ら・彼女らの言動から察するに,そこまで満たされているわけでもなさそうだ。物心共に「ほどほどに」満たされて,且つ,本当の苦しみ・痛みを知らない人々は,どちらかといえば残酷とも思える言動を平気で取るかもしれない,と感じる。いまのその一言が,相手を不快にしたり,傷つけているかもしれない,といったことはみじんも考えないで。

ここに「甘え」を見て取ることもできる。「自分の話に同調してくれて当然」,「自分をわかってくれて,楽しい気持ちにさせてくれて当たり前」という甘えだ。冷たいようだが,私には面識も無い彼女らの話を聞く「義務」など全くないし,仮に,話に付き合ったとしても,彼らの感情を優先したり,理解しようとする努力を払う必要もない。ある人は,短いやり取りの後で,「愚痴を言ってすみません」と述べた。この人などは,まだわきまえている部類だ。それどころか,人の好意に乗じて,さらなる手柄話をひけらかすひとの方が数の上で圧倒的に優るから油断も隙もない。
「腹八部」というが,ある人々は,人付き合いは「腹六部」,と言う。相手がどれほど親しかろうと―家族であろうが,親しい友人であろうが―自分の思いをすべてさらけ出すのではなく,画すべき一線は画し,自分の腹におさめるべきはおさめ,相手を思いやり,尊重して対するべき,ということだろう。自分の思いを相手構わず無思慮に丸投げするのは,子どものすることだ。 

痛みを知らない人に,痛みを知る人々と同じ感性を求めるのは無謀だし,過大な要求かもしれない。そして,なにより言葉に依存するコミュニケーションには限界がある。とくに顔が見えない会話は難しい。だからこそ,私たちは注意しなければならない。せめて次の点だけでも心に留めたい。まず,距離を取ること。人とのこころのスペースを普段より多めにとろう。そして,もう少しだけ相手のことを考えて,コミュニケーションをとることを意識しよう。その人はいまどんな暮らしをしているのか,どんな思いでいるだろうか,自分のことばをどのように受け止めるだろうか,といったことに少しだけ(詮索ではなく)思いを馳せてもらいたい。人の数だけ人生があり,考え方・感じ方があり,相手はあなたと同じ人間ではないのだから。

5/04/2012

困難への対処法(4-2)-孤独なとき

前回の記事では,孤独感への応急措置的対応として,早めの就床と規則正しい生活を提案しました。その後,もう少し前向きな提案はできないものかと考えていたところ,少し興味深いブログに出会いました全ての記事に目を通してはいませんが,たとえばこの記事こちらこちらも参考になるかと思います。似たような感情を経験したことがあれば,共感できて少しは癒されるかもしれません。

これらの記事でも少し触れられていますが,できるだけスピリチュアルな観点から孤独感の軽減(解消ではない)に役立つポイントを2つ提案します。非常に単純なことですが:


1.人と交流する

 


2.自分が助けられる誰かを助ける(もしくは,すべき仕事や活動に専念する)



です。今回はまず,1の「人との交流」について述べてみたいと思います。これは,身近に家族や友人がいても理解されない,心が通わないと感じて孤独を感じるケースと,物理的に独りで,なお且つ孤独感を持っているケースのどちらにも有効でしょう。

但し,交流に際してはおさえるべきポイントがあります。まず,誰彼構わず交流するのではなく,ある程度慎重に相手を選ぶ必要がある,ということです。能天気に明るいタイプ,他者に批判的なタイプ,いわゆる強い性格の人や,自分と同じように何らかの辛さを抱え込んでいて余裕のない人々は避けるのが賢明でしょう。上辺の優しさではない情があって,他愛ない会話の楽しめる人,自らも苦労を乗り越えてきた人,包容力のあるタイプの人々は理想的ですが,自分の感覚で,この人なら安心できると思える人であれば大丈夫です。ご縁のある人々との出会いがあって,必ずわかります。よく,「家族がいてもいろいろあるし,誰にも悩みはあるから」ともっともらしい見解を述べて,軽く受け流す人がいます。「甘いわ」と言いたげな様子が垣間見えることも。全く見当違いというわけではありませんが,ほかの苦しみ同様,孤独は自ら経験しないとわからない痛みであって,「私には経験がないからわからない」というのが,最も誠実で適切な返答のはず。このように,人の苦境を想像しようとさえしない,もしくは理解できる素地のない人や,自分の問題で精一杯の人々は回避します。警戒心や恐怖心,不信感,不安感が刺激されそうな相手には極力近づかないことです。そして,悩みを聞いてもらう,というよりも,あくまでも対等な立場で,何気ない会話を楽しむことが肝心です。つまり,互いの生活や心の中に踏み込みすぎず,ある一定の距離―少し遠いと感じるくらいが適当―を保ちながらお付き合いすること。「交流」には“適度な距離感を保った付き合い”という含みがあります。相手を選び,一定の距離感を保つ―この2点に留意して,無理のない範囲で取り組むことが大切です。こうして上手に交流することには,癒しの効果があります

深い孤独感に悩む人々は,無関心の冷たさをよくわかっていると言えます。そして,程度の差こそあれ,心に傷を抱える人々でもあります。それは,理解されない寂しさ,認められない悔しさや悲しみ,低下した自己評価,自己否定や自己卑下の想い,先に希望が見出せない絶望感など様々で,これらのいくつかを経験しています。さらに,様々に渦巻く思いを心に閉じ込めたまま,自分の良さをも表現できないでいることがあります。従って,受容的な優しい人,自己表現しやすい相手,傷が刺激されない人々を選ぶことが大切です。自己否定感や無価値感,そばにいると淋しさを強めかねない人々との接触は避けます。「岩をめぐりて流れゆく」です。

相手さえ選べば,人との交流が癒しになるのは,交流を通じて人間の本質である,不可視のエネルギーを受け取ることができるからです。私たちの本来の状態は,肉体ではなく光のエネルギーで,たましいとか,ソウル(soul) などと呼ばれます。これは,「神性」と言い換えることもできます。神性とは,「愛」や「智恵」と呼ばれる,広範で抽象的な概念であり,エネルギーです。つまり,人間は誰もが愛と智恵でできている,とも言えます。ただ,地上を生きる上で必要な肉体を持つと,この本質の部分が弱まり,代わりに,生存(競争?)に必要な,防衛本能という名の「エゴ」(自分の福利厚生が最優先,という観念)が強くなります。そのため,地上では人間関係上の問題が起こりやすくなり,修行の場としてよく機能するともいえるのですが,癒しに有効なエネルギーを得られるのもまた,人を通じてです。淋しさを感じていたり,傷ついている時には,この本来持てるエネルギーが弱まっているので「プラスの想いやことばだけ」を上手に受け取ることができれば,私たちに本来必要なエネルギーを補給することができる,というわけです。

* * *

孤独感の軽減には,孤独を否定的に捉えすぎないことも非常に大切です。孤独感は,信頼できる人間関係の不在や,関係性がうまく機能していないことに由来することが多いでしょう。過去生にその原因を遡ることができるケースもあります。どのような原因であっても,人間が抱える悩みや問題に,人間関係が絡まないものは何ひとつないことを考えると,孤独もひとつの学びの機会であるといえます。だれの問題であっても,孤独は否定的に捉えられるべきではありません。

そして,孤独な時期には,人は自分と向き合うことを余儀なくされます。自分を見つめ,自分を知ることができます。自分の至らなさだけでなく,隠れた才能や美点にも気づくことができるチャンスです。と同時に,人間の心や人生について多くを学ぶチャンスでもあります。周囲の人々の言動を静かに観察・分析し,思い巡らせることは,日常生活に追われ,人間関係に恵まれ,人生が順調に進んでいるときには難しいことです。このように考えれば,孤独な時期は,内観と洞察を深める絶好の機会となり得るのです。孤独に伴う感情的な痛みを否定せずに認め,受け入れた上で,いましかできないこと,いまだからできることを探すことが,真に前向きな生き方といえます。

3/24/2012

ベニシアさんの講演会

ハーブ研究家として一躍有名になったヴェニシア・スタンリー・スミス(Venetia Stanley-Smith)さん.彼女は,インド総督を務めた曽祖父を持つ英国貴族の出身だが,貴族社会に疑問を感じ,19歳でインドへ渡り,瞑想を学ばれた.その後,21歳のとき来日.2月末,NHKの朝の番組を見て,彼女の生き方に共感し,気づきや癒しを得た私は,東京で講演会が開催されることを知り,早速申し込んで出掛けてきた.番組では,日本の女性を助ける役割があると(誰かから)言われた,と話されていた(この部分から番組を見始めた為,誰かは不明なのです).最初,ベニシアさんは,英会話講師のことかと思われたようだが,実はそうではなかった.ハーブを取り入れた生活を自ら実践して示すことで自然の力や自然と共に暮らす大切さを伝え,さらには講演会を通じて,日本の女性たちに人生哲学を伝えることか,と思いながら観ていた.ハーブは自然の恵み.西洋医学の貢献も偉大だが,人間には自然治癒力が備わっており,ハーブなどの植物(漢方然り)はその力を引き出したり,助ける働きがある.庭仕事を始める前には瞑想をされることや,庭ではハーブと対話して,花を切るときは必ず「切ってもいいですか?」と尋ねる,といった話を聞いて魅かれるものがあった.

講演会の来場者は,とある韓流スターのファンとほぼ同年代の女性たちばかり.若い人の姿もちらほら見られたが,大半が中(高)年の女性だった.ベニシアさんのレギュラー番組を見ている方や本を読まれている方が多かったようだ.(私は本はまだ読んだことがない.)

今回は3年ぶりの東京講演会だったらしい.開場30分前に会場に着いたが,座席はすべて自由席ということで,すでに100人以上の人の列があった.彼女の人気の程をうかがわせる.幸運にも前から4列目で,ベニシアさんの姿がかなりはっきり見える座席を取ることができた.が,実は,会場に入る前,エレベーターでベニシアさんとご一緒していた.満員のエレベーターで,すぐ右斜め後ろに関係者の男性と並んで立っておられた.駅の改札を出てから道に迷い,予定より時間を費やしたために却ってタイミングが合って,あれほどの至近距離に居合わせられたのだと,帰宅後に思い返して驚いた.道に迷ったことも恵みだったようだ.私と目線が殆ど変わらないくらいで,英国人女性としてはごく平均的な身長の方だった.テレビは大きく映ることをあらためて実感.

ベニシアさんは,明るく,楽しくユーモアのある方で,たまに観たテレビ番組で受けた印象とは少し違っていた.いろいろなお話をされていたが,話の内容自体は,スピリチュアリズムや精神世界に馴染み深い人々にとっては特別目新しいものではなかったと思う.前半は来日までの経緯に終始した.人生は旅のようだと思う,その旅路で出会う人々との出会いから何を学んだか,といったことを中心に話は進んだ.後半では,なぜハーブを生活に取り入れるようになったか(大原には下水がないことなど)と,ハーブの効用について簡単なお話があった.スライドの映像があり,最初のところでは,イギリスの貴族の館や非常に広大な緑の庭の写真などもあって少し懐かしく感じた.が,一番印象深かったのは,講演会の締めくくりに話されたことば,「いまを生きる」(Live this moment).余命1週間と宣告されたときにしたいこと―自然と触れること,家族に優しくして,時間を共に過ごすなど―は,そのときまで待たなくても,いまだってできるはず,というお話だ.これは,ニュー・エイジでも言われており,スピリチュアリズムでも,たとえばシルバーバーチが伝えてきているメッセージと同じものだ.過去を振り返って思い煩ったり,まだ来ぬ未来を心配して不安になるのではなく,いまにフォーカスをあわせて生きる,という教えだ.さらに付け加えるならば,人生では全てがプロセス.目的地よりもそこに至るプロセスが大切,ということになろうか.ベニシアさんは,スピリチュアルな分野の方では全くないはずだが,東洋の宗教について様々な本を読まれていたり,またインド人の師から瞑想を教わって以来,40年間瞑想を続けておられることもあってか,彼女の言葉にはスピリチュアルな教えと合致するものが非常に多い.視えたり聞こえたり,というのではないかもしれないが,インスピレーションが強い方のようである.

ハーブのお話の後で,Q&Aセッションがあり,それまで舞台の右端でお話をされていたベニシアさんは,舞台の真ん中に移動してお答えになった.しばらくしてから,ほんの一瞬だが,彼女の向かって右上(つまり,本人の左上)に,ガイドらしき人物の姿がみえた(気がした).修道士のような,聖人のような,ベールを被った男性の横顔が,彼女を少し上から見下ろしている様子だった.オーラにはいろいろなものが映し出されるため,一概には言えないのだが,あれは彼女のガイドのお一人ではなかったか,と思うがどうか.
* * *

講演会の2日前には,The Iron Lady (邦題 『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』)を観た.三度目のオスカーを手にしたメリル・ストリープの演技は確かに素晴らしかったが,映画そのものは期待したほどではなかった.映画にしても,講演会にしても,なにか自分へのメッセージを含んでいるはず.映画についてはひとつ思い当たることがある.ベニシアさんのお話は総じて楽しく,笑える場面も多くて少し元気になった.講演会に出かけた意味が,「いまを生きる」以外にも何かあるとすれば,それは何だかまだわからない.

10/06/2011

困難への対処法(4-1)-孤独なとき

ひとは,年を取るにつれて,孤独をより強く感じるようになっていきます.大人になるということは,孤独感を味わうことなのかもしれません.

世の中には,様々な人々がいて,様々な人生があります.絶えず人に囲まれているために,たまには一人で過ごしたい,一人で過ごす時間がないと息がつまりそうだ,と思う人にとって,孤独は否定的な意味合いを持たないでしょう.しかし,大勢の人と一緒にいても,孤独感を感じている人々もいます.家族がいても,うつ病から自殺してしまうケースも後が絶ちません.結婚を,恰も持つべき"勲章"か何かであるようにみなす風潮が強い一方で,伴侶がいても孤独感を募らせる人々も少なくありません.

このように,孤独を感じる理由は人により様々に異なるため,万人に効く対処法は一つに絞りきれるものではありませんが,とりあえず,誰にでもできる緊急措置として

夜早く寝て,朝早めに起きる

ことが助けになるかと思います.別の言い方をすれば,太陽と地球の動きに合わせて規則正しい生活をするということです.特に,質の良い睡眠をとるように心がけことがポイントです.聖地とされる場所も,昼と夜ではエネルギーががらりと異なるように,夜は人もネガティブな気持ちになりやすい時間帯です.日没後は,徐々に体と心を休める体勢に入るのが自然なサイクルでもあります.仕事の都合等でなかなか難しいこともありますが,出来る限り夜はゆっくり休むことが肝心です.睡眠はとても大切です.寝ている間,私たちはスピリット・ワールドへ行って霊的なエネルギーを補給するからです.

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私の艱難辛苦の時期は非常に長期に及びました.詳細は割愛しますが,モートン氏によるダイアナ妃の伝記を読んで少なからず共感し,彼女が感じた心の葛藤や痛みが我が事のように感じられたものです.私の場合,特に辛かったのは,苦しみや困難をひとに理解されないことでした.理解されないだけならまだしも,こちらの事情を知りもしない人々から,やっかみや明らかに偏見と思われる目で見られること,誤解されることは非常に悔しいことでした.とりわけ,そういう人々が,"スピリチュアリスト" を自認する人々の中にも少なくなかったことには驚かされました.真理の理解の深さは人により様々で,スピリチュアリズムの知識の多寡とは必ずしも比例しません.

ひとの苦労話を聞く人々の反応は,三つに大別できます.第一グループは,ただ圧倒されて反応できなくなるタイプ.思いがけないことに遭遇すると思考停止に陥るケースです.第二は,自分の方が大変な苦労をした,と苦労自慢大会をはじめるか,逆に相手の同情を得ようとするタイプ.第三グループは,誰にでも苦労のひとつやふたつはあるもの,そういう意味ではみな同じなのにね,と一般論で軽く受け流すタイプです.最後のグループに属する人々はさらに,本当の辛さ・苦しさを経験したことがなく,人の心の痛みがよくわからないタイプと,悲しみや辛さがまだ充分に癒されていないタイプに大別できます.第二グループも第三グループ(の一部)も共に,癒しが必要な人々といえます.それぞれの反応は表面的には異なるものの,いずれも相手の話を理解しようとしていない,心に寄り添おうとしていないという点では同じです.こんな分類がすぐに浮かぶほど,他者の無理解・無関心に苦しみ,さらに孤独感を強める,という悪循環を何度も経験しました.そんな中,唯ひとつだけ例外的なケースがありました.かつて友人だったある女性です.彼女は,私の話を一生懸命聞いてくれた後で,「私には同じ経験がないからわからない」と静かに言いました.この反応は上記のどのグループにも属さないもので,誠意が感じられます.少なくとも相手のしっかりと話を聞き,向き合っています.その上で,自分の正直な気持ちを伝えている点に誠意を感じました.

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ある日曜の夜,私は,そのきっかけさえもわからぬ寂しさを抱えたまま,ある人と話をしました.話し終えてもすっきりせず,仕方なく寂しい気分のまま就寝しました.その晩,夢を見ました.夢の中で私は大勢の人々と一緒でした.国籍も人種も多様な大勢の人々と共に,コンサート会場にいました.普段の生活では絶対に聞かないレゲエを聞いて,その場に居合わせた人々と一緒に,縦ノリで楽しんでいました.そして,その楽しい気分のまま,翌朝目が覚めました.寝ている間にスピリット・ワールドで癒されのだ,と直感して驚き,そしてとても嬉しくなりました.

主護霊やスピリット・ガイドは,地上の誰よりも私たちのことをよく理解している存在です.その姿は目に見えずとも,声は聞こえずとも,常に我々に寄り添い,たましいの旅を無事続けられるようにあらゆる形でサポートしています.見えないものを信じ続けることはとても難しいことですが,非常に大切なことでもあります.

ダイアナ妃が生前"You can't understand unless you are the individual concerned." (当事者でなければ理解できないものよ) と語ったように,所詮ひとには理解されないもの,との割り切りも時には必要でしょう.自分も他の人の苦労を,その人が感じた通りに理解できるとは限らないのですから.  

7/09/2011

困難への対処法(3)-信じられないとき

東日本大震災が発生し,福島原発の事故発生から100日以上が経ちました.原発事故収束にはまだ至らず,原発周辺に暮らしていた人々,福島の人々,福島から首都圏へ非難されている人々はもとより,日本に暮らす私たちの非常に多くが不安を感じる日々です.「原子力は安全」と言われ続け,そのことばを信じてきた結果がこれです.福島の事故を受けて,ヨーロッパの一部の国では,すでに脱原発の動きが始まっているにも関わらず,日本では夏を目前にして,玄界原発が近々再開されようとしています.東電はいまなお汚染水の処理に手間取り,思い切った打開策を取れない一方で,政府は,首相の辞任問題や新閣僚の辞任・交替で迷走を続けている.一体,私たちはいま,何を,誰を信じたらよいのか.そういう不信感が国全体に満ちているのではないでしょうか.

日々の生活においても,私たちは人を信じられなくなることがあります.友人だと思っていた人,信頼してきた人に裏切られたり,その無理解によって心を傷つけられたり,あるいは,最も身近な家族の何気ないひと言によっても,私たちは容易に不信感を抱き得るものです.

誰かを信じられなくなった時に人が取る行動・態度にはいろいろありますが,そのひとつに「攻撃」があります.攻撃が外に向かうと相手を責めるかもしれません.内に向かえば,自分を傷つけて健康を害したり,うつ状態になったりします.外向すれば,怒りや悲しみなどは解放できるかもしれませんが,内向すると苦しみます.どちらも前向きな対応とはいえず,問題解決にはつながりにくいです.逆に「防御」に走る人もいるでしょう.よくするのが「否定」です.つまり,起こった出来事そのものが最初からなかったことのように思い込んだり,振る舞うというものです.とりあえず何も起こらなかったことにして,自分が傷つかないように,応急的に自己防衛するのです.この場合,表立って人間関係が悪くなり,さらに傷つくという二次災害は食い止められますが,やはり問題は解決されません.傷は抑圧されているだけで,依然としてそこに存在し続け,さまざまな形で助けを求めてきます.

攻撃や防御では不信感を拭い去ることはできません.ではどうすればよいのでしょうか.人により理由はさまざまに異なりますが,殆どのケースに,ある程度有効,と思われる処方箋として,二種類のアプローチを提案したいと思います.第一のアプローチとして:

事実確認をする

ことです.相手に関する情報を収集するといってもよいでしょう.敵を知る,ということです。とはいえ,なにも探偵やスパイを雇う必要はありません.可能であれば,相手に直接事実を確認してみるのです.こちらの思い違いということもあります.思い違いではなく,それが相手の真の姿であるとわかることもあるでしょう.つまり,自分の人を見る目が甘かった,曇っていた,といったことに気づかされるかもしれません.直接確認できない場合は,周辺をあたるということもできますし,スピリット・ガイド経由で何らかの情報を入手することが許可される場合もあります(占い・リーディングなどを通じて).まずは,冷静に事実を確認し,より正しい情報を得ることが大切です.その過程で気づくことがなにかあるはずです.相手について知る,または,知ろうとすることで,自分についても気づきが得られるかもしれません.時間がかかることではありますが,何をするにも辛抱は必要です.

しかし,これで上手くいかないことも多々あります。少なくとも,情報入手が不可能な場合は有効ではありません.また,どうしても相手が許せない,という思いが残るかもしれません.許せないし,信じられない,と.正義感の強さゆえにそうした事態に陥る場合もあります.そういう人々には寛容さが必要でしょう.人間というものはよく間違いを犯すものだし,自分もこれまで多くの間違いを許されてきたに違いない,と思ってみることです.それでもすっきりしない場合には,第二のアプローチとして:

本当に信じられないのは誰かを考えてみる

ことが助けになるかもしれません.人を信じられない,許せないことの根本的な原因は,自分への信頼の欠如であることが多いからです.自分を否定したり,過少評価しているのです.自分の未来を信じられない,といってもよいでしょう.人が信じられないのは,そうした自分の内面の「投影」である可能性があります.そのことに気づくだけでも大きな意義があるでしょう.
 自分を正しく知るということは非常に難しいことですが,自己の全貌がわからないから,信じられない,ということはありません.全部わからないから信じられないとすれば,どんなことも信じられません.把握しうる範囲内で信じることは充分に可能であるし,そのことは,把握し得ない範囲についても大丈夫だろう,上手くいくだろう,と楽観視することをも含んでいます.ふっと浮かぶ考えや直感に従うことも「自分を信じること」です.
 しかし,その「根拠のない楽観視」は大丈夫なのか,そもそもそれは一体どこから来るのか,と問われれば,それは自分の中心,私たち自身の根源から来るものなので大丈夫です,とお答えします.各自
の守護霊,スピリット・ガイドからのサポートを受け取っていると言っても同じです.肺と肺の間,心臓の少し右側の辺り(ハート・チャクラ)の感覚として感じられることも多いでしょう.そこでほっとする,安心する感じです.私たちの「ガイドとつながっている」という感覚で,ガイドとつながることは,「自分とつながる」ことと同義です.そして,自分とつながることが,すなわち,自分を信頼する,ということなのです.これがわかる頃には,すでに気持ちのフォーカスが相手への怒りや不信,自分の未来への不安から,本当の意味で,「自分を大切にする」ことへとシフトしていることでしょう.


原発についても同じで,原子力発電は危険,という正しい知識を持つことで,政府と電力会社への不信感から離れることができます.取るべき次善策を知り,行動を起こすことができます.正しい情報の存在について,周囲の人々に伝えていくことも大切なことです. 

5/24/2011

困難への対処法(2)-経済的に困窮したとき

人としてこの世に生きる以上,お金の苦労から逃れられる人は,非常に稀ではないでしょうか.お金はあっても,なくても,それぞれ違った意味で問題となりえます.ありすぎて失う恐怖におびえるケース,お金を騙し取られて人間不信に陥るケース,或いは,収入が少ない上に借金苦に悩まされるケース,などなどいろいろありますが,いずれの場合にもかなり有効なはずの処方箋としてお伝えしたいのは,ズバリ

寄付をする

です.特に,お金がないときや,収入に不安がある時こそおススメの,且つ,多くの人によって実証済みの対処法です.「お金がないのに寄付なんかしたら,もっと減るのでは?」と不安になったり,「寄付するお金があったら,借金返済に充てたい」と考えるのは至極もっともなことですが,そういう"常識的な思考パターン"に敢えて逆らって行動することがポイントです.

世の中,上をみればきりがなく,下をみてもきりがありません.先進国で借金問題を抱えていても,発展途上国を見れば今日一日を生きられるかどうか,という人々が,子ども達が大勢います.金額は問題ではありません.気持ちが大切です.借りたお金の中から500円くらいなら出せるでしょう.500円が無理なら100円でもよいと思います.そして,寄付を続けてみることです.そのうち,何かの拍子に,仕事の話が舞い込んだり,仕事の量が増えて増収に繋がるとか,景品で500円の商品券に当たるとか,なにかきっと助かることがあるはずです.(宝くじはあまりおススメできません.)

年収1,000万を稼ぐ人々が,例えば税金対策に寄付をすることは容易なことでしょうが,しないよりは遥かに立派です.お金もエネルギーですから,入ってきたものは溜め込まないで,適度に流していく,社会に還元していく方が,自分にとっても全体にとっても良いことなのです.使う当てもなく貯蓄したり,自分たちだけのために使うというようなことをすると,エネルギーの流れが滞ったり,偏ったりして自然の摂理に反することになるため,ネガティブなカルマとなり再び転生した時にお金で苦労すること必至です.

たとえ,自分がこの世の中で一番不幸,と思えるときでも,自分よりもっと困っている人が,必ずどこかにいます.自分も収入が少なくてとても苦しいけれど,自分よりもっと苦しい人々が地球のどこかにいる.その人々のために,苦しい中から工面できる少ない金額だけでも援助することのほうがはるかに困難であり,より一層純粋な動機が必要であるが故に,ずっと尊いことなのです.

摂理に沿った動機で為されたことには,必ず摂理に沿った結果がついてきます. 


3/21/2011

困難への対処法(1)-先が見えないとき

「困難」とか「苦労」というと,経験したくない,または避けたいといった否定的なイメージがあります.が,「人生山あり谷あり」,「禍福はあざなえる縄のごとし」といった諺もあるように,基本的に人生に困難はつきもの.それどころか,「若いときの苦労は買ってでもしろ」と言われるように,私たちの「ほんとうの成長」につながる,大変ありがたいものなのです.ですから,苦しみや困難を否定的に見ず,むしろ「飛躍のチャンス」と捉えて,できることからひとつずつ取り組んでいくのが真理に沿った対処法だといえます.

一口に,苦労,困難といっても様々で,自然災害から,病いの苦しみ,お金の苦労,精神的な苦労など,その種類はひとの数だけあるでしょう.そして,苦しみの真っ只中では,「五里霧中」という言葉通り,希望が全く持てなくなってしまいやすいです.そういう状況において未来のことを考えはじめると,限りなく不安になります.光の応援を受け続けるためにも,不安の想いは手放すのがよいのです.そうはいっても,不安は止められない,という時の処方箋として今回の提案は: 


今日一日無事に過ごすことだけを考える


です.言い換えれば,「短いスパンで達成できる,小さな目標をたてて実行する」ということです.達成感はモチベーションを高めて,パワーの源になります.「無事に」を「楽しく」に置き換えることができればもっとよいでしょう.「いま」を生きる,ということです.そして,心配は一旦脇へよけておきましょう.

1週間後のこと,1年後の事,果ては10年後のことなど,先のことを考え出すときりがなく,不安が止まらなくなります.今から10分の間にできることをしてできたら,それからさらに10分間にできることを探す.それを繰り返し,達成を積み重ねて今日一日無事に過ごせたら,見事ゴールクリアです.無事に一日を過ごせたことに感謝し,満足して眠りにつきましょう.

目には見えなくても,一人ひとりに必ず守護と導きがあります.ない人は一人もいません.ですから,少しでもラクな心持ちで過ごせるように目標を短いスパンで設定するか,小さな目標をたててひとつづつ達成していきましょう.そうすれば,少しずつパワーが湧いてきて,自然と元気になります.

将来のことは,少し落ち着いて,ラクになってから心配しても決して手遅れにはなりません.

11/08/2009

自分と仲良くする

艱難辛苦の時期,悩み・苦しみに寄り添ってくれる友人や知人は皆無でした.(たとえいたとしても,彼らの助言に果たして納得できたか,本当に励まされたか疑問が残るところであり,むしろ誰もいなくて良かったと今では思えますが.)経済的困窮の中,無理をして霊媒やサイキック・カウンセラーに相談せざるを得ない日々が長く続きました.心理カウンセリングの勉強をしている方々に話を聞いて貰う機会も度々ありました.

何度か話を聞いてもらった(当時)見習いカウンセラーの女性から言われたある言葉は,今でも時々思い出されます.何の相談をしていたかは思い出せないのですが,苦しい時期が続き,他者に対して怒りを感じる日々が続いていた時のことです.いつものように怒りのエピソードを話していたとき,次のように言われました:

「人にしていることと自分にしていることは同じなんですよ.」 

つまり,ひとに腹を立てているということは,自分に腹を立てていることなのだ,と.人の悪口を言うことは,自分を悪く言うのと同じというわけです.劣等感にさいなまれている状態とは,自分を自分で認められていない状態です.そうなると他の人を妬みやすくなります.人が嫌いなのは,まず誰よりも自分が嫌いだから.ということは,余計なトラブルを起こさず,できるだけ心穏やかでいるには,まず自分を好きになり,自分を信じて,自分と仲良くなることが大切なのです.

実は,この原理は宇宙の真理とつながっています.

私たち人間の本来の姿は,肉体ではなくたましいであり,叡智の光である不可視のエネルギー体です.今のように物質界にあるのは異例の状態なのです。たましいが,人体という物質を利用して物質界(現象界とも言われる)でしかできないさまざまな経験を積み,成長したいと望んでこの世に生まれてきます.「地球上で幸せになるために」というよりはむしろ,「たましいを磨いて,成長するために」,人として再生します.

霊界で,その本来の姿でいる間,私たちは一番近いグループソウル(類魂)に溶け込み一体となっていて,それは非常に快適な状態だといいます.苦しみや悲しみなどは一切ありません.あるのは充実であり,美であり,歓喜であり,無償の愛による祝福です.そして,自分が属するグループソウルは,他のグループとも繋がっていて,最終的に全てがひとつながりです.こうして,個々のたましいはそれ自体の個性を有した独自の存在であると同時に,全体から切り離すことのできない一部となっています.

地上に誕生するにあたり,肉体を持つことになると,それによって「全体の一部」という本来のあり方の認識が弱まり,他者から「切り離された」者として自分を感じるようになります.自分と他人は全く別の存在であると思い,それが孤独感へとつながります.赤ん坊や乳幼児のうちは,まだ地上の生活に慣れていないので霊界の感覚が相当残っているようですが,地上で暮らす時間が長くなるにつれ,たましいの本来の感覚-グループソウルに溶け込み,かつ自分の個性を保った状態-を忘れてしまいます.現実レベルでは別個の存在のように思えても,エネルギーレベルでつながっているならば,人に対して為すことは,自分に対して為しているのと同じことになります.それが結果として,人間社会の諸問題を生み出す元凶(しかし,学びにとっては非常に好都合な)となっています.

ということは,とても単純なことですが,この物質世界でも,「すべてはひとつながり」という感覚をベースにして生きればよいのです.自分と人を全く切り離されたものとして考えず,相手は自分であり,自分は相手なのだ,と思ってみることなのです.

ある日,ラジオ番組に須藤元気さんが出演されていました.須藤さんといえば格闘家として有名ですが,引退後は,母校で格闘部のコーチをつとめる傍ら,音楽活動も含め実に多彩な活躍をされています.精神世界にも大変造詣が深い方で,本も出版されています.番組の中で須藤さんは,「相手を自分だと思って接する」ことの大切さをお話されていました.相手を自分だと思えば,邪険にしたり,意地悪したりはしないでしょう,と.


ですが,現実には,いじめはありとあらゆるところで起こっており,家庭内暴力や幼児虐待,自殺は一向に後を絶ちません.自分が好きになれなくて,自分と仲良くできない人が年齢を問わず大勢いるからでしょう.それは,多くの場合,両親から愛されなかった,もしくは愛されたと感じられなかった,ということが原因かもしれません.さらに遡れば,過去生にその原因を特定することができるかもしれません.

しかし,過去を悔やんでも前には進めません.いま出来ることを考えましょう.自分が好きじゃない,自分と仲が悪い,という自覚がある場合,どうすれば仲良くできるか考えてみましょう。各自のスピリット・ガイド(守護霊)に教えて貰えるように頼んでみることも一つの方法です.知ってもよいこと,知る必要がある情報・メッセージならば,ガイドはありとあらゆる手段で伝えようとします.予期せぬタイミングでひらめきを得たり,気になる音楽や,ふと目に止まった映像や文字,或いは夢で教えてもらえるかもしれません.目覚めた後もはっきり覚えているような強いインパクトのある夢は,メッセージ性が高いことが多いので,連想を働かせて意味を探ってみるとよいでしょう.

「自分と仲良くする」ことで,周囲とも仲良くできるようになるでしょう.始まりはいつも「自分」にあります. 

読みたい本(7)

  千賀一生。『ガイアの法則』ヒカルランド。 いまの時代に読むべき必読書です。 正・続2冊ありますが、1冊目の裏表紙に印刷されている言葉を以下に紹介します: 宇宙に,聖なる16ビートが存在することを告げるガイアの法則— 新型コロナとの驚くべき精緻なる関係性も明らかに! 地球の歳差...