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9/06/2018

大地が震えるとき

大地が震える。
科学者の説明も正しいが
それは一部のみ。


地球も生きている
あなたがたも生きている
どちらのエネルギーが大きいか
それは地球。

しかし,人びとの負の想念が集まると
強大なエネルギーとなる。

そして,両者のバランスが崩れると
ひずみが生じる。

地球がなければ
人は生きられない。

自然在っての人間であることを
思い出しなさい。




2011年に東日本大震災以来,さまざまな自然災害,それも大規模なものが頻繁に発生しては,各地に多く被災される方々が出ている状況です。

被災地だけの問題ではありません。日本全体の,ひいては人類全体の問題として受け止めるべきでしょう。

地球は生きていて,意識があります。

そして,同じ惑星に暮らす71億人の一人ひとりにも意識があります。

この両者は常に相互作用していますが,そのバランスが崩れるとバランスを正そうとして,震災をはじめとするさまざまな大自然災害が起こります。バランスが崩れてしまう原因は,地球あっての,自然界あっての人類である,という大前提を人類が忘れてしまったためだ,とこのメッセージは釘を刺しているようです。

先進国の多くの人々が手に入れた文明は素晴らしいものです。しかし,便利で快適な生活を追及するあまり,私たちの多くが「いのち」の本質を見失ってしまったのではないでしょうか。

いまこそ,”母なる自然”を思い出さなければならないでしょう。私たち人類はどこから地球にやってきたのか。何のためにいま,ここに生きているのかを正しく知らなければなりません。そして,謙虚な気持ちで,生かされていることへの感謝を以てこれまでの在り方を振り返り,今後の生き方を真剣に考える必要がありそうです。



自然の脅威が続くとき

それは,あなたがたが自らの在り方を

内省するとき。

本来の生き方から

逸れないように

自然を忘れないようにと

私たちはいつも全力で

働きかけているのです。



10/01/2017

疲れたとき

自分をいたわり
自分を慈しみなさい

われ先に,と

闘争する人々のことは
忘れなさい

自分の歴史に

誇りを持つ

たましいこそ

すべて

目覚めていない人々とは

距離を置いていてよい

いまはただ

おのが身を案じ
大事になさい。




9/04/2017

同じ光

万物は
神の御心にて
生じおり

ひともまた然り

神の造られたものには
神の御心宿りたり

味方の中にも
敵の中にも
神はいませり

元は同じ光なり

すべては
究極的に
ひとつながりなのです。




ことばはどこから

あなたの心を傷つける
トゲのあることば
心ないことばは
枯れた井戸から
放たれると思いなさい

枯れた井戸が
再び水で潤されんと
欲するがゆえのものであると
思いやりなさい

愛のないことばは
愛のないこころから
出てきます

愛のないこころに
光が届くようにと
祈りなさい。





8/27/2017

ともしび

ロウソクの小さな炎は
暗闇を仄かに照らす

ロウソクの炎は
たいまつを灯し

たいまつは
その燃えさかる炎で
暗闇をさらに明るく照らし出す

小さくてもよい
弱くてもよい

闇を照らす
ともしびとなる
あなたでいなさい。






写真は,財団法人日本聖書協会のしおり(書店店頭にて無料配布)の表側を拡大撮影したものです。

8/18/2017

「いま」が全ての時になる

「いま」は今しかない
「いま」の積み重ねが
一生になる

「いま」を味わわなければ
一生が後悔になる

どんなに不満があっても
「いま」を精いっぱい生き
味わい尽くせば

一生の時間すべてが
充実感で
埋め尽くされる。


8/06/2017

こころざし

社会の不正
社会の弱者
社会の陰にいる人々に


光を当てること

自分は顧みられなくても
神の正義のために
働くひとに幸あれ

名声を求めず
愚直なる神の下僕であれ

志はやがて
必ず実を結び
さらに多くの光を
この暗闇へと
届けることになろう

ひるまず進め
我らが共にいます。



7/20/2017

1日1回


苦しい時も
辛い時も
誰もひとりではない

周りに支えてくれる人がいても 
いなくても
私たちがつねに支え 
愛している

その愛は深く
人の比ではない

一日一回は 
私たちのことを
思い出してほしい。


 

5/05/2017

陽の光

曇りの日も 

雨の日も

太陽は輝き続けている

ただ 私たちに見えないだけ 

苦しい時も

悲しい時も 

私たちには

常に神から 

愛の眼差しが

向けられている




3/14/2017

不調和も調和の一部

この世には

無駄なものなど何もない。

砂の一粒に至るまで

すべてのものに

居場所がある。

不調和な多くのものも

それでよい。

不調和も調和の一部である。



3/22/2015

気づきは日々の些事から

霊的真理・摂理と呼ばれるスピリチュアルな教えは素晴らしい。特に,19世紀後半から20世紀半ばにかけて英仏の有識者を霊媒として降ろされた数々の霊訓の奥深さには,いまなお他の追随を許さないものがある。ところで,当時,神学者,牧師,教育家といった知識人たちが霊媒として選ばれたのは,彼らの,抽象概念をよく扱い得る発達した知性や豊富な語彙力を利用して,真理のメッセージを活字として残し,時空を超えて地上にできるだけ広く行き渡らせる為だったのだろう。高度なインスピレーションは,ことばではなく,映像やイメージで来るものだ,と言うミディアムがいたが,私は少し疑問に思う。言葉による受信を否定することは,『シルバーバーチの霊訓』に代表される優れた霊界通信・霊訓の信憑性をも否定することになりはしないか。要は,霊媒の得意な部分,優位な器官を利用してメッセージを送ってくるのだろう。大雑把に言えば,右脳をよく使う,直観や感覚が発達したタイプの人(アーティストなど)は,霊視が発達しやすく,左脳的思考に馴染じむ人の場合は,言葉や思念として受け取られる(変換される)ことが多いのではないかと思う。

しかし,デパ地下の惣菜売り場で試食を繰り返しても食事の代わりにならないように,霊界から届けられた教えの(さらに)ごく一部を拾い読みし続けても,決して自分の身にはつかない。「簡単に手に入れたものは簡単に失う」とシルバーバーチも伝えているように,額に汗して自らの手で掴みとらなければ,本当に学ぶことはできないものだ。かといって,膨大な冊数の本を読んで,知識を得さえすればそれで充分ということもない。知識を得るだけでも,体験から学ぶだけでも不十分で,この両方のバランスがとれてはじめて(バランス比は人によって異なるかもしれないが),スピリチュアルな教えが身に着いていくのではないか。本を読んで知識を得ることと,日常生活での具体的な体験と沈思黙考(内省や自己分析)を通じて気づきを重ねていくことは,車の両輪のようなものだろうと思う。

といったことを考えさせられる出来事がある。


* * *  

世の中には,さまざまな個性の人がいて,私も,他の人々からみれば,その「さまざまな人」のひとりだが,人間同士が理解し合うことはとても難しいと思う。特に,面識の全くない人々と,オンラインや電話などでの言葉のみによる散発的なコミュニケーションを積み重ねて信頼関係を築くことは,ほぼ不可能な場合が多いと感じる。

例えば,明らかに大変好意的と読める文面に違和感を覚える。「益々のご活躍をお祈りします」と締めくくられている。形式的で丁寧な決まり文句,と読み流せばそれまでだが,ひっかかる。「活躍」には「(世間的)成功」のニュアンスがあるから。同義語の「活動」には成功・不成功という価値判断は含まれない。ブログ上でしか私をご存知ないのに,なぜ「活躍」などと書かれるのだろう,と悩む。ある時点まで,閲覧数も記事数も少ないほうのブログで,ここ十余年の個人的な事情のごく一部を開示していた。メインのブログにも触れている記事がある。関心を持って注意深く読まれれば,「活躍」などとは言えないはず,というのがこちらの言い分だが,いろいろな人がいて,いろいろな考え方・受け止め方がある。そのブログの存在はご存知ないのかもしれない。自分と比較して,「活躍」していると思われたのかもしれない。或いは,「今後はもっと活躍してくださいね」と励まされたつもりなのかもしれない。いずれにせよ,書き手の意図は私にはわからないし,「ご活躍」と仰るのはごく一部の方なので,揚げ足取りは慎むべきだと思うものの,読み流すことができない。(ちなみに,「充実した日々をお過ごし下さい」などの決まり文句も同様で,個人的な事情を全く知らない相手に対する使用に際しては,注意を要する。「ご多幸をお祈りします」はこれらの亜型であり,気持ちのない形式だけの挨拶表現の典型である。)

また,あるブログ記事の言葉を読んで,入院されていた知人の方がとても心を動かされたとお知らせ下さる。記事の言葉に私の名前を添える(添えてもいいですか?という問いではなく),とのお申し出だった。数年前に他のブログで記事が無断転載されているのを見つけて以来,リンクを張らない引用に関する注意喚起文を掲載しているが,それを読まれて連絡されたようであった。正直なところ,これには少し当惑した。なぜなら,ブログを少しでもご覧いただけば一目瞭然なように,私は実名を出してはいないからだ。リーディングでは,お申込みになる方々から氏名を伺うので,こちらの名前もお知らせしているが,それ以外では,ことスピリチュアルな活動に関する限り,年齢等の素性は明かしていない。差し当たり明かす予定もない。記事を直接読んでいただけるように,(紹介する,と言われたので,どうせなら)名前ではなくブログを紹介してください,とお願いしたと思う。メインのブログはよくご覧になっている様子だが,にも拘わらず,なぜ名前を添えるなどと言われたのか。そう書けば,私が喜ぶとでもと思われたのか。真意は量りかねるものの,メールを下さる度に,配慮の方向性がどこかずれている印象があった。(いや,そもそも配慮などなかったことに,私が気づけていなかっただけかもしれない。)紹介した二つのケースの,いずれも一見,“非常に好意的で丁寧な”メールの文面に,有り体に言えば,傷つくのである。

これらの実例は,きわめて些細な出来事で,受け取る側としては,たとえ違和感を感じたり悲しくなったとしても,けなされたわけではないのだから,自分に都合よく良く受け取るか,読み流せば済む話である。わざわざ時間を割いて取り沙汰するほどのことでもないと思われるだろう。しかし,敢えて記事にしたのには意味がある。

二つの共通点があることに気づいたから。

ひとつは,いわゆる物質(至上)主義的価値観。いわゆる「マーヤー」(反義語の「サティヤ」は真理の意)と通じるものがあると思うのだが,地上にしかないもの,地上でしか価値を持たないもの全てを殊更に重視する考え方を指す。例えば,財力,学歴,家柄,肩書き,美貌,世間的な成功や名誉,年齢,性別(男性のほうが上)などを,量が多いほうがよい,ないよりも持っているほうが良い,とする価値観だ。これがやや強く感じられる。尤も,「成功」を暗示する表現に反応することも,突き詰めれば根本は同じだろうが。

もうひとつの共通点は,一見相手に好意的であり,賞賛しているように読めるものの,実は,自分自身が理解されることや賞賛されることを求めていて,しかも,本人にその自覚が(おそらく)殆どない,という点だ。つまり,相手に本当に関心があるわけではない。自分をわかってもらいたい,認めてもらいたい,誉めてもらいたい,癒されたい,という想いがまずあって,その自己愛を満たすために相手に取り入る(と言うと語弊があるかもしれないが),という感じがする。

人間だから我が身可愛さはあって当然だが,その自覚がないところに問題があると思う。何かをする時,自分の本音や真の動機を,ある程度でも,把握しているのといないのとでは,相手に及ぼす影響など,“最終的な”部分で違いが出てしまう。この人なら私の気持ちをわかってくれるだろう,という期待がおありだったかもしれない。また,私個人よりも,私「経由で」伝えられる言葉やメッセージの方に興味があるのではないか。私自身は,人に好かれるためにブログで発信しているわけではないので,個人的にご好意や(好奇心ではなく)関心を持っていただかなくても差し支えはない。しかし,残念ながら,ほぼ一方的に愛情を求められる類いのご期待には沿えないことの方が多いと思う。リーディング後のコメント等で,いろいろなお話を伺うことは全く厭わないし,痒いところに手の届くようなことはなかなか言えないが,できる範囲内でお返事もする(たまに返事が長すぎて,ご迷惑をおかけしている方々もいるかもしれない)。が,「私をわかってください!癒してください!」といった強い訴えにお応えすることは難しいかと思う。少なくとも今はかなり厳しい。

以前,メインのブログにいただいたコメントや,リーディングを受けてくださった方々との遣り取りの中で,人それぞれに思い描いておられるイメージが,私の実像とかけ離れていると知って驚いた。浮かび上がる“60代の男性像”は,現実とは全く異なっている。たとえ面識があったとしても,相手を知ろうとしなければ,わからないことは多い。例えば,実際の年齢よりかなり下に見られることがよくある(家系的に)が,この個性は仕事面ではあまりプラスに作用しないことが多く,諸事情も手伝って,若く見えると指摘されるたびに複雑な心境になる。このように,顔を合わせる人であっても,その実像を正しく把握することは非常に難しいものだ。

そもそも,この15年間,私が「具体的に」どのような境遇で,どのような心境で暮らしてきたか,現状がどうであるかはご存知ないはず。全貌や詳細を知っていただく必要も,お知らせするつもりもないが,せめて,「私はこの人のことはよく知らない」という認識を持っていただけないものか,と思う。事実を知らない,という「事実」を知っていただきたいのだ。

話を戻すと,スピリチュアリズムをよく知っています,ブログをいつも読んでいます,としきりにアピールされる一方で,文面に成功や名声を想起させる言葉が見え隠れするというのは,霊的真理の理解が断片的であるか,或いは,最初から理解されていないからだと思わざるを得ない。さらに,相手も自分と同じ(物質主義的)価値観を共有していることを(暗に)前提とされている。その前提にはどのくらい確かな根拠があるのだろう。

私たち誰もが心すべきこと,それは: 汝自身を知る (Know thyself) ということ。自分の本当の気持ちは,動機は何なのか,立ち止まって静かに見つめたい。そして,自分にとっての「常識」が,万人にとっての常識とは限らないことを意識しなければならない。

* * *

普段のごく些細な出来事にも,気づきの種は潜んでいて,その気になりさえすれば,一瞬一瞬が貴重な学びのチャンスになり得る。「小事を軽んじて大事をなすことはできない」という趣旨の言葉をある本で読んだが,千里の道も一歩から始まるように,日々の生活から学ばずして,真理の深い理解に到達することなどあり得ない



7/26/2014

大切なものはここにある

自然がどれほど美しいか

ひとは気づいていない。

気づきさえすれば

人類を取り巻く環境は

ずい分改善されるだろうに。

ひとは近くにあるものを見ずに

遠くの星ばかり追い求める。

最も大切なものは足元にあって

誰にも

必要なものが全て与えられている。

「いま」という時を

慈しんで生きることが大切。


7/17/2014

腐ったりんごは1つだけ―客観的思考は大切

"One rotten apple spoils a hundred [または its neighbours]." というラテン語起源のことわざがある。箱の中の腐った1個のリンゴは,他の新鮮なリンゴもすべて腐らせてしまう,つまり,悪人は,たとえ一人でも,周囲の多くの人間に悪影響を及ぼす,という意味らしい。(だから,悪い芽は早急に摘み取らなければならない,という発想か?)しかし,虚心に考えると,箱の中に腐ったりんごが1つあるからといって,残りのリンゴも全部腐っているわけではない。それならば,腐ったリンゴだけ取り除けばよいのではないか。

* * *

退行催眠を受けて,現在の心身の症状に影響を及ぼしている過去生での出来事を知り,その症状を改善・解消するヒプノセラピーは,アメリカの精神分析医B. ワイス博士の著書,Many Lives, Many Masters.  と Through Time into Healing. (『前世療法 上・下』 山川訳) で一躍世界に知られるようになった。日本のテレビ番組でも紹介されたと,昔の友人が話していた。私自身,退行催眠を何度か試したことがあるが(スピリット・ガイドから強く促されて),相性の良いセラピストと出会い,深い催眠状態に入ることができれば,大変気持ちがよい。症状を改善したいというよりも,ある情報を得たくて受けた。欲しい情報は得られなかったものの,エネルギーレベルの癒し(オーラの浄化)と,思いがけない発見や学びがあった。過去生の情報は,第三者を介して教えてもらう方が信憑性が高いような気がして,ヒプノセラピーからはすっかり遠ざかってしまったが,セラピー自体を否定するつもりは全くない。(退行催眠で過去生を知ることができる患者は6割程度とされている。)日本にも,患者さんの過去生を視て,薬を使わずに心身の症状を改善される有名な精神科医(生まれつきの霊能者)もおり,そうした人々の著書を読み,話を聞くにつけても,多くの人々にとって非常に有効なセラピーだと信じている。

最近知った面白い実例に,ワイス博士の娘さん (Amy E. Weiss)ケースがある。25歳の若さで,目に白内障の症状が出た彼女は,眼科医に失明の可能性も宣告された。なぜ老人が罹る病気になったのか不思議に思った彼女は,当時勤めていた病院で,ワイス博士がワークショップを開催することになったため,試しに退行催眠を受けて白内障の原因を探ることにした。しかし,それまで,誘導瞑想を体験しても寝てしまうことが多くて,効果はあまり期待していなかったとか。

催眠状態に入ってすぐに,14-5世紀頃の長い白髪の老人が現れた。彼は,自然をこよなく愛する,いわゆる世捨て人で,自己完結していて,町の人々と全く関わりを持たなかった。人々は,彼が魔法使いで,何か不吉なことを企んでいると信じて,彼の小屋に火を放ち,すべて焼き払ってしまった。その炎は,彼の目をも焼いてしまい,老人は失明する。そして,心も深い悲しみに塞がれしまった。「人生の最後に行って,その人生についてメッセージを受け取ってください」というワイス博士の指示があり,彼女はひとつのメッセージ,"Sadness clouds the eyes." (悲しみは目を曇らせる),を受け取った。メッセージは,白内障の症状も示唆しているが,当時の彼女には,まだ人生の方向性がよく見えておらず,それは,失明した老人の過去生から持ち越した「悲しみ」と関係があるのではないかと思った(彼女自身の人生テーマとして,「悲しみ」があるようだ)。退行催眠を受けてから数年後に,白内障の症状は見事に消えてなくなり,ワイス博士を驚かせた。

エイミー・ワイスさんは,なぜ白内障がきれいに消えたか,その医学的な説明にあまり関心はない,と言う。彼女の心を動かしたのは,目の症状が無くなったこと,癒しが起こったという事実だ。そして,父であるワイス博士が,多くの人々を癒してきたことの素晴らしさを,自らの体験を通して実感されたのである。


* * *

前世療法については,賛否両論ある。クライアントは,自分のものだと思っている前世が,実はクライアントに憑依している霊の前世の場合がある,という根拠で,やや否定的な見解や,価値を軽んじるようなニュアンスの発言がなされる。英国系スピリチュアリズムを信奉する人々の間に多い。実に,『シルバーバーチの霊訓』にも同趣旨の記述があるので,そうした事実は確かにあるのだろう。しかし,だからといって,前世療法はすべて無意味で効果がなく,所詮クライアントの想像力の産物なのだ,と結論づけるのはあまりに短絡的だ。ワイス博士は,想像力では症状は改善されない,と明言する。具体的にどういった療法なのか,そして,患者たちはどういう過去生を見て,どういう症状がどのように緩和・改善されたかという事実をつぶさに調べもせず,一部の情報だけに基づいて判断してはいないだろうか。退行催眠を受けた患者の中には,あとで歴史的調査を行い,裏付けが取れたケースも少なくないという。ワイス博士の近著,Miracles Happen. には,実際に退行催眠を受けた大勢の人々の手記が掲載されており,一人ひとりにとって,様々な気づきの機会になっていることがよくわかる。

仮に,みえた過去生が自分のものでなかったとしても,セラピーによって憑依していたエネルギーが癒されたとすれば,そして,そのことで自分もラクになったならば,それでよいのではないか。癒されたのは,(だれかの)過去生(か何らかの想い)には違いないわけで,それが本当は誰のものだったかということは,最終的には重要な問題ではないかもしれない。間違えて自分のものだと思い込んでいたとしても,それで誰かを傷つけたり,大きな問題を引き起こすことがなければ,よいのではないか。

少なくとも,ワイス博士をはじめとするヒプノセラピストの基本的な仕事は「誘導」であって,これは,クライアント自身が気付けるように手助けする作業だ。霊能者のように,霊能によって過去生の情報を得て,相談者に伝えるのではない。従って,ヒプノセラピーとは,あくまでも,クライアント主体のアプローチと言える。催眠中に,当時の感情を再体験して(思い出す),癒しが起こる(古いエネルギーを解放する)わけだが,百聞は一見に如かず,体験に勝る薬はないわけで,当たるか当たらないかわからない霊能者に相談するより,遥かに効き目があるかもしれない。症状改善以外に,いろいろな気づきが得られる。生命は一度きりのものではない,人生を通じて人は成長し,愛の絆は切れることがない,など多くの気づきが,書店に並んでいる本を一冊買ってきて読むより,多くの実感を伴って得られるかもしれないのだ。


* * *

人によって,真理に出会うルートはさまざまである。悩み・苦しみを経て,という部分は概ね共通しているだろうが,それ以外の点については,これでなければだめ,というものはない。人の数だけ道のりがあり,気づきのスタイル,学びの方法がある。ヒプノセラピーも,数あるルートの中の一つとして認められるべきではないか。1つ腐ったりんごがあったからといって,すべて腐っているわけではないのだから,箱ごと処分するのはもったいない。腐った1個のリンゴを取沙汰して,リンゴという果物全体を否定するのも実におかしなことである。

スピリチュアルな世界で生きる人々の見解というものは,確かに傾聴の価値はある。が,まず,何よりも事実を,現実を自分の目でよくみて確かめて,その上で,自分の頭で虚心に考えることが大切かもしれない。それは,ただの猜疑心や不信心とは違う。看板を盲目的に信奉したり,著名人の見解を鵜呑みにしない,ということだ。自分を信頼する,と言い換えても同じかもしれない。自分を信頼して,できる限り客観的にものを見,考える癖を。自戒の意味でも記しておきたい。 


5/24/2014

困難への対処法(4-3)-孤独なとき

エドガー・ケイシーのライフ・リーディングは,孤独の時期を,自分よりも恵まれない人々に援助の手を差し伸べる時であるとともに,個人的な成長と癒しを経験しなければならない時,と捉えています(Todeschi 1999: 133)。ケイシ―のリーディングでは,様々な孤独感に悩む相談者たちに,「自分の才能や能力が何であるかを探しはじめて,他の人々に役立つ方法を模索しなさい」というアドバイスが非常に頻繁に与えられた,とあります(Todeshi 133)。孤独の理由は必ずしも1種類ではありません。ケイシーにリーディングを受けた人々の中には,自分の性格的な傾向のために,みずから孤独な状況を作り出していると指摘されたケースや,過去生にその原因を遡ることができる場合もありました。(孤独感の理由も様々なら,その深さや感じ方も人により異なりますが,信頼できる誰かと,時空を共有することで解消される程度の “寂しさ” は,当記事の対象外です。)

例えば,36歳の男性は循環器系統の問題でフィジカル・リーディングを受けましたが,彼には友人関係が長続きしないという悩みもありました。その原因を尋ねたところ,男性には批判精神とカウンセラーの才能があって,人々を引きつけるものもあるが,アドバイスを求められると,自分の意見を述べることにこだわりすぎていた為,援助を求められた時はいつでも,自分がどれほど知っているかに満足するのではなく,相手の役に立つことに焦点を合わせるようにアドバイスされました (Todeshi 140-141)。

また,51歳の芸術家は,人から認めてもらえない不満と孤独感を常に抱えていましたが,他の人々を認める態度を培うように言われました。自分が出すものは,最終的に自分に戻ってくるものだ,と (Todeschi 143)。

ある11歳の少女の両親は,少女はひとりで時間を過ごすことに長けており,これは天与の才であるが,他の人々ともよい仲間となるように助言されています。彼女には批判的過ぎる傾向があり,これが矯正されなければ,ゆくゆくは孤独になってしまうだろう,と。「他者の欠点を大目に見なさい。他の人々が自分自身の欠点を大目に見てくれるように」(リーディング番号2648-1) (Todeschi 142) というアドバイスが与えられました。

孤独感の原因が過去生に遡るケースをいくつか紹介しましょう。政府機関に勤務していたある女性は,他の人々といる時や混雑した場所でも,孤独感を感じることがよくありました。リーディングで,この感情のある部分は,十字軍遠征の時代に起因すると言われました。当時,家族の不在時,家を守るために留守番させられることが頻繁にあり,その時感じた寂しさを今生に持ち越しているようでした。寂しいと感じる時間を内省と自己探求の機会と捉えるように,との助言が与えられました。

31歳の女性は離婚経験者でしたが,一人でいるよりも,「一人にされる」ことを恐れるあまり,自分に全くふさわしくない人々と関わることが多かった,と指摘されました。道徳観念と責任感に欠ける男性と結婚していましたが,一人になることへの恐怖心は,この失敗した結婚だけが理由ではありませんでした。直前の過去生で探検隊に属していたとき,仲間が帰国したとき自分だけうっかり取り残されたことがありました。彼女の恐怖心は,自分を見つめ,自分の内側とつながることで克服されるだろう (リーディング番号 958-3),とリーディングは告げました。

また,53歳の男性は,人々を愛し,周囲の人々からも愛されましたが,自分から人々に近づくと,いつも人々が自分から離れてしまうと感じていました。人ごみの中にいても寂しさを感じることがあり,ひとは自分から遠のいていく,という理由で,自分も人々から離れていました。ケイシ―は彼に,この状況は彼がサクソン人だった人生で始まった,と伝えました。当時,彼は人から尊敬されることが大好きでした。「この存在(本人のたましい)は,仲間から一目置かれていた―そしてその状況を好んだのだ!しかし,それをより大きな奉仕に使う代わりに,尊敬されることを好みすぎた結果,人々はあなたのことを忘れてしまった」(リーディング番号 3544-1) (Todeschi 144)。

ケイシ―・リーディングでは,孤独の理由が,過去生・生い立ち・性質のどれであっても,自分の内側を見つめて掘り下げることで,自分が神とつながっていることに気づくようにとアドバイスされることが多かったようです。ケイシーのリーディングでは,20世紀前半当時のアメリカの精神的土壌に(霊界サイドが)配慮してか,キリスト教の「神」を指す表現 (the Creator, Christ など) が頻用されていますが,大元の神(や超高級霊としてのイエス・キリスト)というよりも,個々人を導くスピリット・ガイド(いわゆる守護霊)と言い換えるほうが適切な場合が少なくないように感じられます。

さて,今回の孤独への最後の対処法は,前回(4-2)の記事の第二の項目でもあり,冒頭に紹介したアプローチ,つまり:

自分の仕事や活動に専念して,「他の人々のために」働く

です。自分の苦しみを注視し,傷の痛みにもがき続けるのではなく,その傷から一旦目を離して,異なる苦しみを抱える人々や,広く社会のため自分ができること,または,自分のすべき事(生活の糧を得る仕事も含め)など,対外的な活動に専念する時間を持つ,ということです。孤独の悩みに対しては,自分の好きなことや楽しめること(趣味や娯楽的な活動)に時間を費やすとよい,というアドバイスがよく与えられるかと思います。趣味や好きなことをするのも悪くないでしょうが,その内容によっては,意識やエネルギーの方向性が内向きなままで変わりません。「自分以外の誰か」のために働くには,自分に向いていた意識を,外へ転換する必要があります。ここが重要なポイントです。いわゆる趣味的な楽しみは,時々するから息抜きになるのものであり,それを問題からの逃避手段にしてしまうと,場合によっては,中毒となり,抜け出せなくなる恐れがあります。アルコール,異性関係,買い物,ゲームなど,人々が中毒に陥って問題となるものは,困難からの逃避手段になったためかもしれません。

この対処法は,しかし,孤独だけに有効なわけではありません。例えば,自然災害に被災して,様々な喪失感に苦しむケースにも同様に有効です。何かの作業に没頭する時間を作って,自分の悩み・苦しみを「忘れて」しまう,というのではありません。他の人のためになる活動に取り組むことで,喜びや感謝といったプラスの波動を受け取るということです。この小さな喜びの経験を少しずつ積み重ねていくことで,徐々に孤独感から解放されていくでしょう。

そういう仕事や活動がない場合は,冒頭でも読んでいただいたように,自分の才能や能力を見つける機会と捉え,模索することがブレイク・スルーのきっかけとなるかもしれません。自分にできること,やってみたいことでまだしていないこと,興味・関心があることがきっと何かあるはずです。それを,頭ではなく,心で選ぶことが大切です。本気で探せば必ず見つかります。

 * * *

続き記事では,3つの提案を挙げてみましたが,これらはいずれも,孤独感の軽減や打開の「きっかけ」や「手助け」にすぎません。最終的には,自分で自分自身(才能や性質など)を(適切に)認められること,自分の内側に満足を見い出だせるようになることが必要です。それは,各自のスピリット・ガイドとのつながりを強め,内なる愛を感じられるようになることと言っても同じでしょう。少なくとも,孤独感や不幸感にのみフォーカスを合わせ,それを,自分以外の「だれか」からわかってもらい,慰めてもらうこと,または,環境が“自動的に”好転することを,何もしないでただひたすら待ち続ける,というように,外界からの援助や働きかけ,変化のみで解消することを求める限り,孤独感はいつまでもつきまとうものではないでしょうか。誰かの役に立てる自分であることを知り,行動する。そうして,少しずつ自信と自分を取り戻した時,内なる変化が起こり始めます。その内側の変化に呼応するように,周囲の環境や状況も自然と好転し始めることでしょう。

3回の続き記事では,孤独に対する,ややスピリチュアルな対処法を提案してみました。次回は,さらに一歩踏み込んで,孤独の時期が,特に精神世界(および関連分野)での学びや諸活動に直結するケースを取り上げてみたいと思います。

出典: Todeschi, Kevin J. (1999) Edgar Cayce on Soul Mates: Unlocking the Dynamics of Soul Attraction. Virginia: ARE Press.




3/11/2014

遥かな夢を追いかけて

ミリオンセラーとなった,ZARDの「負けないで」(作詞:坂井泉水 作曲:織田哲郎 編曲:葉山たけし 唄: ZARD 音声はこちらへ)。甲子園の入場行進曲や様々なテーマ曲,CMソングとして,1993年のリリース以来,長年に亘り親しまれています。

歌詞を書いた坂井泉水さんは,数年前にスピリット・ワールドに戻られていますが,このような素晴らしい曲を残すことで,今も地上で多くの人々を励まし続けています。「死んだ後も生きているような仕事がしたい」と,アンネ・フランクは日記に書き残していますが,坂井さんもまさに同じことをしています。

解釈の必要もないほど,ごく普通に聴いて元気をもらえる,ストレートな応援ソングです。

しかし,敢えてスピリチュアルな視点から説明を試みると,次のような解釈が可能です。

誰にも叶えたい夢があります。夢とは,「パステルカラーの季節に恋した」時の「幸運(しあわせ)のときめき」や,いわゆるワクワクする目標です。それがあるから,私たちは夢実現を目指して走り続けることができます。

そうはいっても,夢に向かって走り続けることは大変なことです。楽しいことばかりではありません。辛くてもこらえて,人前では弱音を吐かずに,「ヘッチャラな顔して どうにかなるサと おどけてみせる」こともあります。少しでも弱音を漏らしてしまうと,倒れてしまうからかもしれません。そんなやせ我慢をする私たちの胸中も,しかし,スピリット・ガイドはすべてお見通しです。そして,強がる私たちの健気さを,「今も そんなあなたが好きよ 忘れないで」と,とても愛おしく思っています。走り続けることに疲れたときは,ゆっくり休むことが大切です。私たちは,毎晩,スピリット・ワールドへ一時帰還してエネルギー充電していますが,特に疲れてしまったときは,ガイドたちが,「今宵は私(わたくし)と一緒に踊りましょ」と手招きして,元気づけてくれるでしょう。

このように「負けないで」,とスピリット・ガイドは励ましています。彼らは,常に私たちを守り,導いてはいますが,私たちと同じ3次元の世界にいるわけではありません。「どんなに離れてても 心は そばにいるわ」と,異次元の空間から私たちを見守っています。そして,彼らの愛を感じて欲しいと思っています(「感じてね 見つめる瞳」)。何があっても,夢を抱いた「あの日のように輝いてる あなたでいて」欲しいと願っています。なぜなら,「ゴールは近づいてる」からです。「遥かな夢」の実現には,日々一歩一歩近づいています。自分の気持ちに「負けないで もう少し 最後まで 走り抜けて」いきましょう。

* * *

スピリット・ガイドは,ありとあらゆる手段を用いて,その時々に必要な大切なメッセージを私たちに伝えようとします。音楽や歌謡曲も,そのような手段として頻繁に利用されます。よく耳にしていた曲が,ある時急に気になり出した,とか,なぜだか耳について離れない曲があるときは,その歌詞にメッセージが含まれていることが多いものです。歌詞を調べて,心に響く言葉があれば,それがいま必要なメッセージでしょう。

1/26/2014

地球は宇宙の一部

ひとは,自分の家庭だけ,

自国だけ,または

地球だけのことを考えている。

地球は宇宙の一部。

そして,

神の一部である。

日ごろから

そうした広い視点を持って

生きるように。





あなたは世界で一番不幸ではない

世の中には人の数だけ苦しみがあり

悲しみがある。

自分たちだけが苦しんでいると思わないで欲しい。

同じ苦しみを背負う仲間に出会えたことだけでも

大きな恵みと考える。

そして,異なる重荷を背負う人々に対しても

できるだけ共感的であるように。

苦労の経験別にグループ分けする姿勢は

神を学ぶ者にふさわしくありません。



同じ苦しみを抱えた仲間と出会えたということは,共感し合える仲間に恵まれた,ということ。仲間がいるということは大きなことです。なぜなら,「共感は癒す」からです。世の中には,共感を得られない苦しみもたくさんあることを知ってください。

同じ痛みを知る人々で集まって体験を共有し,痛みを和らげることも,しばらくの間は前進の手助けになることでしょう。しかし,人生で起こること,とりわけ大きな困難には,それに匹敵する大きな深い学びがあるもの。気づきを得るためには,いつまでも同じ場所に留まり,ただ傷を舐め合っていてよいはずがありません。そうした傷の舐めあいは,最終的に足の引っ張り合いに終わる可能性が高いものです。「所詮,体験者にしかわからないこと。部外者には理解してもらわなくて結構です」と言って,自分たちほど大きな不幸を味わった人間はどこにもいない,といった雰囲気の中で,内輪で固まっているうちはいかなる進歩も望めないのではないでしょうか。自己憐憫は,本当に霊性の高い人の態度ではありません。(ちなみに,霊性が高いことを夢で教えて貰えるということも,あまり聞きません。自分でそう思いたいだけではないでしょうか。)

それでは,しかし,何のためにスピリチュアリズムを学んできたのですか?と疑問に思います。果たすべき役目とは,もう少しスピリチュアリズムに立脚したものであるべきではないのでしょうか。(スピリチュアル・ヒーラーの資格取得を公言する一方で,スピリチュアリズムに関して批判的な文章を掲載することも,明らかな自己矛盾で,浅薄です。また,霊能者も,中途半端な援助であれば,すべきではなかったでしょう。)

キサー・ゴータミーの記事とベートーベン不滅の恋人の記事はいずれも,個人的な悲しみを乗り越えて(或いは,痛みに耐えながら)前進するように告げています。尤も,ゴータミーは非常に優れたたましいの持ち主だったようですから,誰もが彼女のように急速に悟りを開けるわけではないでしょうが。

誰が正義か否かといった狭い話ではありません。客観的かつ冷静に,そしてできるだけ広い視野で,自分の置かれた立場を見つめ,社会を見る努力をしていただきたいと思います。



1/25/2014

個人的な悲しみから普遍的な苦しみへ

 アントーニア・ブレンターノがそうした絶望から立ち直ったのは,不思議なことに,テレーゼ・ブルンズヴィックの場合とはなはだ似ている.二人とも個人的な悲しみをバネに,より普遍的な社会の悲惨に目を向けたことだった.アントーニアもまた,フランクフルトで設立された,貧困者や失業者を支援するための女性たちの教会の共同設立者となった.そうした社会組織や赤十字や教会を通して,彼女は莫大な経済的援助を死ぬまで続けた.当時フランクフルトで,彼女は「貧者の母」と呼ばれていたのだった.(中略)
 こうした度重なる試練の中で,アントーニアは次第にカトリック教会に回帰し,祈祷書に心のよりどころを求めるようになった.ベッティーナは彼女が,カールの障害のせいで人柄が変わり,「悲しみの天使になった」と言っている.だが同じカトリックへの回帰であっても,修道院にこもったあと狂信的なナショナリストになった義弟クレメンス・ブレンターノとは,そのあり方がまったくちがっている.
 彼女の場合,自分自身の大きな不幸を背負いながら,その心がいつも他者に向けてひらかれていたことだ.社会福祉がまだ未熟だった19世紀の前半に,失業者や貧困者のために手をさしのべることは,それ自体勇気のいることだったにちがいない.彼女が名流婦人だっただけに,風当たりも強かったことだろう.そんなとき有形無形に彼女を力づけたのは,ベートーヴェンではなかったのだろうか?作品番号なしの彼の歌曲に『高貴な人は慈悲ぶかく,善良であれ』というのがある.これはゲーテの詩に作曲したものだが,制作年代は1823年と推定されている.こんなところにも,二人のあいだの共通な精神風土が感じられる気がする(後略).


青木やよひ.『ベートーヴェン・不滅の恋人』 河出文庫.pp. 346-347.



終生独身だったベートーヴェンには愛する女性 ("immortal beloved" 不滅の恋人) がいたとされています.青木氏は,アントーニア・ブレンターノがその人ではないかと主張されますが,これは現在最も有力な説と一致しています.引用箇所はその論拠について述べた部分です.

青木氏らの推測が正しいとすれば,かの偉大な作曲家の心を動かしたものは,彼女の崇高な心の在り方であり,生き方だったのかもしれません.

自分の苦しみを乗り越え,それを契機に恵まれない人々へ目を向けられるようになってはじめて人は救われるのでしょう.

ほんとうに強く美しい人は,より普遍的な愛を知っていて,実践します.


1/05/2014

目には見えないから

人の愛は,お金や物で計ることはできません。

支払われたプレゼントの金額が,

贈り手の好意や感謝の重さと正比例しているとは限りません。

同様に,人の気持ちを,その行動だけを観察して


判断することにも,私たちは慎重でなければなりません。

観察する時でさえ,見る人それぞれのフィルターがかかり,

現実は様々に歪みうるものです。

そもそも,人のこころは目に見えないものです。

そして,さまざまな行いの結果や答えが

すぐに出るとは限らないからです。

読みたい本(7)

  千賀一生。『ガイアの法則』ヒカルランド。 いまの時代に読むべき必読書です。 正・続2冊ありますが、1冊目の裏表紙に印刷されている言葉を以下に紹介します: 宇宙に,聖なる16ビートが存在することを告げるガイアの法則— 新型コロナとの驚くべき精緻なる関係性も明らかに! 地球の歳差...