3/11/2014

遥かな夢を追いかけて

ミリオンセラーとなった,ZARDの「負けないで」(作詞:坂井泉水 作曲:織田哲郎 編曲:葉山たけし 唄: ZARD 音声はこちらへ)。甲子園の入場行進曲や様々なテーマ曲,CMソングとして,1993年のリリース以来,長年に亘り親しまれています。

歌詞を書いた坂井泉水さんは,数年前にスピリット・ワールドに戻られていますが,このような素晴らしい曲を残すことで,今も地上で多くの人々を励まし続けています。「死んだ後も生きているような仕事がしたい」と,アンネ・フランクは日記に書き残していますが,坂井さんもまさに同じことをしています。

解釈の必要もないほど,ごく普通に聴いて元気をもらえる,ストレートな応援ソングです。

しかし,敢えてスピリチュアルな視点から説明を試みると,次のような解釈が可能です。

誰にも叶えたい夢があります。夢とは,「パステルカラーの季節に恋した」時の「幸運(しあわせ)のときめき」や,いわゆるワクワクする目標です。それがあるから,私たちは夢実現を目指して走り続けることができます。

そうはいっても,夢に向かって走り続けることは大変なことです。楽しいことばかりではありません。辛くてもこらえて,人前では弱音を吐かずに,「ヘッチャラな顔して どうにかなるサと おどけてみせる」こともあります。少しでも弱音を漏らしてしまうと,倒れてしまうからかもしれません。そんなやせ我慢をする私たちの胸中も,しかし,スピリット・ガイドはすべてお見通しです。そして,強がる私たちの健気さを,「今も そんなあなたが好きよ 忘れないで」と,とても愛おしく思っています。走り続けることに疲れたときは,ゆっくり休むことが大切です。私たちは,毎晩,スピリット・ワールドへ一時帰還してエネルギー充電していますが,特に疲れてしまったときは,ガイドたちが,「今宵は私(わたくし)と一緒に踊りましょ」と手招きして,元気づけてくれるでしょう。

このように「負けないで」,とスピリット・ガイドは励ましています。彼らは,常に私たちを守り,導いてはいますが,私たちと同じ3次元の世界にいるわけではありません。「どんなに離れてても 心は そばにいるわ」と,異次元の空間から私たちを見守っています。そして,彼らの愛を感じて欲しいと思っています(「感じてね 見つめる瞳」)。何があっても,夢を抱いた「あの日のように輝いてる あなたでいて」欲しいと願っています。なぜなら,「ゴールは近づいてる」からです。「遥かな夢」の実現には,日々一歩一歩近づいています。自分の気持ちに「負けないで もう少し 最後まで 走り抜けて」いきましょう。

* * *

スピリット・ガイドは,ありとあらゆる手段を用いて,その時々に必要な大切なメッセージを私たちに伝えようとします。音楽や歌謡曲も,そのような手段として頻繁に利用されます。よく耳にしていた曲が,ある時急に気になり出した,とか,なぜだか耳について離れない曲があるときは,その歌詞にメッセージが含まれていることが多いものです。歌詞を調べて,心に響く言葉があれば,それがいま必要なメッセージでしょう。

3/06/2014

SNSが悪いのか

 ブログやフェイスブックがすべて悪いというのではありません。どんな形であれ,人と交流することは素晴らしいと思いますし,情報を得ることで救われる人もいることでしょう。(中略)
 フェイスブックで公開される情報はリアルなものではあっても,それがその人のすべてではありません。こんな場所へ行った,こんな人と会った,こんな食事をしたと切り取って貼りつけた人生のいいところ取りでしかないのです。
 相手に賛同する意味でクリックする「いいね!」と思う行為の中に,実は「悔しい」という羨望が含まれてはいないでしょうか?自分とは違う人をうらやましく思い,焦りに繋がってはいないでしょうか?
 ブログやフェイスブックは基本的にひけらかし文化といえます。昔の日本人の感覚であれば,日記など個人的な書き物は「墓場まで持っていくもの」という認識があったように思います。他人には言えない心の内を記したり,整理のつかない思いを書き出し,わが身を見つめ直す「内観」の道具だったのです。だからこそ,他人に見せるものではないという意識を持っていたはず。
 しかし,今は「私のことを見て!もっと構って!」と,なにもかもひけらかしてしまうのです。他人のことを理解し思いやるという利他愛よりも,「自分をわかってほしい」という自己愛が強くなって,「かまってちゃん」が増えたのだと分析できます。
 しかし,真の豊かさとは,こういうふうに人にすべてをさらけ出して賛同を得ることで満たすものではないと思います。たとえ多くのひとにはわかってもらえなくても,自分の信念を持って貫き歩む。そのほうがずっと豊かな生き方ではないでしょうか。
 確かに,書くことによって心の整理はできると思いますが,そうやって「自分探し」をしたいのならば,自分しか見ないノートを作るなどして綴ればいいことです。ブログやフェイスブックに情報をアップする人がしているのは自分探しではなく,「自分がどう見られているか探し」でしかありません。賛同の数が多ければ安心し,反応が薄いと不安になるという人もいるそうですが,それも結局は物質主義的価値観。「いいね!」の量で自分の幸せ度をはかろうとしていること自体,おかしいのです。「天は見てござる」という発想があったら,たとえ誰からも「いいね!」と賛同してもらえなくても,不安になどならないでしょう。評価されることを求めて行動するのではなく,自分の信念をもとに「自律した生き方」ができるはずです。
 豊かに生きたいと思うなら,実際に経験と感動を積むことが何よりです。

江原啓之 (2012).『言魂のゆくえ』 pp. 138-141.

(引用中の強調はすべてブログ作成者によるものです。)

こちらの記事特にこちらのサイト, また,こちらのサイトもご覧ください。



ブログや各種SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス: Facebook, Twitter, mixi, Instagram など)の普及によって,パソコンや携帯端末等のアクセス手段を持ちさえすれば,誰でも質・量ともに多様な情報を入手したり,発信したりすることができるようになりました。新聞・テレビ・ラジオといった従来のメディアよりも,「正しい(かもしれない)」情報を「より迅速に」得られる手段として,また,誰にも手軽に使える,気軽な自己表現の手段として,その勢いは止まるところを知らないようです。

引用の趣旨は,あくまでも,ネットを中心に生活する人々への危機感です。しかし,ブログやSNSなど仮想空間上の媒体ではなく,単行本で「波瀾と感動の手記」として出版する分には問題ないのか,多くの人々から称賛された経験のある人々や自己表現の場を多く与えられてきた人々,さらには周囲の理解者に恵まれた人々が,圧倒的大多数の無名の人々の,“周囲から認められたい”という気持ちや,孤独な人の,誰かに理解や癒しを求める想いにどれだけ共感できるだろう,という疑問が,正直なところないわけではありません。現実世界で満たすことが叶わない,叶わなかった自己表現欲求や承認欲求を,SNSを利用して(別の形で)補償しようとする,「埋め合わせ動機」はそれほど問題だろうか,と。

また,引用が指摘している自己愛の強さは,家族や周囲の人々との「こころの絆」が弱体化したことによる寂しさ,孤独感に起因する可能性が高いでしょう。自分以外の人を思いやったり,相手に関心を向けるということは,心に余裕がないとなかなかできることではありません。同著者による以前の著作(2009年, p. 89) では,この点が指摘されていますが,今回論調が変わった理由は何だろうと,疑問を持たざるを得ません。

とはいえ,どんな道具も,使い方ひとつで,利器にも凶器にもなり得ます。その点では,SNS も何ら変わりがありません。自慢したがる人は,ネット上だろうと,リアルな場であろうと,自慢するものです。ゴシップ好きな人は,どこにいても噂話に首を突っ込むでしょうし,人が善意から身を削って書いた文章も,下世話な好奇心から浅い読み方しかできません。ブログやSNSが悪いということではなく,問題の根本原因は,人間の未熟さにほかなりません。物質界に存在するありとあらゆるものに,人を助ける正/善の潜在性と,人を傷つける負/悪の潜在性があります。問題が起こるのは,常に人間の未熟さゆえ,です。

こんな素敵なお店で美味しいランチを食べた,流行りのカフェでお茶をした,とか,最新モデルの携帯機器を入手した,南国のリゾートへ行ってきた,といったトピックには,深みも面白みもありません。特に,記事の投稿者本人を直接知らない人々にとっては,「あ,そう。」のひと言で終わるようなものです。普通なら,家族や親しい友人との他愛ない日常会話の話題になる類いのものだから,わざわざネット上に公開するのは,身近に話し相手がいないか何かだろう,と私なら想像します。或いは,日常的に興味・関心の幅の狭い人かもしれません。

この手の,非常に内容の薄い(物質至上主義の権化的)記事は,基本的には,極めて人畜無害な(=どうでもよい)もので,読むのも退屈ですが,しかし,世の中には様々な事情を抱えた人々がいます。経済的に余裕がなくて,外食したくてもできない人が,たまたま目にしたブログで「美味しいランチ」の記事を読んでしまったらどう思うでしょう。「いまは無理だけど,いつか必ずもっと高いランチを食べて,もっと素敵なブログ記事にしてみせるわ!」と奮起するかもしれないし,「何よ,見せびらかして」と嫉妬するかもしれない。或いは,もっと深刻に,我が身の不遇に気が滅入って,落ち込んでしまう人だっていないとは断言できません。

こういう意味で,自分の(世間体の)良い部分だけを華やかに公開する,“あらゆる自慢行為(や場をわきまえない自己アピール)”には,少なくとも二つの側面があると言えます。一方では,ただの無邪気な自己(愛)表現ですが,他方では,それらを持たない人々のこころを徒らに刺激して,(本人にその意図が全くなくても)聞き手や読み手を間接的に傷つける可能性を孕んでいます。つまり,「ひけらかし行為」は,(何らかの)精神的暴力になり得る,ということです。子どもが往々にして残酷なように,どの“大人”にもある未熟さ・いびつさは,容易に他者を傷つける狂気・凶器たり得てしまうのです。

もし,友人・知人から羨ましがられたい日本人が増加していて,それが社会問題の域に達しつつあるのだとすれば,それは,人間関係が希薄になりがちな(大都市部を中心とした)現代社会の闇を反映していると同時に,心の深いところで自分に自信が持てない人が増えているということかもしれません。自信が持てないのは,周囲の人々の(多分に物質主義的な)価値観に従って,または,それを強く意識して生きているためかもしれないです。

知人・友人のブログFacebook 閲覧後に気分が落ち込んでしまったとき,SNSでの遣り取りに疲れてしまったときは,その場から大急ぎで立ち去りましょう。知人らの近況を確認する代わりに,「本当のこと」を学びましょう生命は永遠であり,一人ひとりに固有の「たましいの歴史」があり,今回も成長を願って生まれてきた,という真理を深く知ること。その上で,自分自身の価値観を模索し,確固たる信念に基づいて人生を歩みはじめるようになると,感じ方も徐々に変わっていくかもしれません。

2025年は大きな転換期

2025年7月5日(土)の早朝(夜明け前),フィリピン沖の海底火山が噴火して,周辺国と日本の太平洋沿岸に巨大津波(120mほど)が押し寄せ,国土の1/3から1/4 が津波に呑まれる,という予知情報があります。最初にこれが注目されたのは,下にも関連動画のリンクを貼っていますが,たつ...