「自分にない要素」を持っている相手にジェラシーを抱いて「悪意」を向ける場合,向けられる側にはまったく思い当たることがないかもしれません。
けれど,人の表面だけしか見ない人は,騙されやすいものです。
たとえば「私ってこんなに幸せよ」ということをひけらかす人がいたとしましょう。その人に対してジェラシーを覚える人は,騙されているだけです。
本当に幸せな人は,その幸せを人にひけらかしたりしません。ひけらかすのは,本当は不幸だからなのです。本当の大金持ちが,「私はこんなにお金を持っている」とは言わないのと同じです。
けれど,表面的なひけらかしに騙されて,「なんて幸せなひとなんだろう」と思い,簡単にジェラシーを抱いてしまう.それが人間の弱さです. (中略) 人の笑顔を見て,「のんきで幸せそうな人」としか思えないのは,そういう背景を想像してみないからです.だから表面に騙されてジェラシーを抱き,嫌悪するのです。
つまり想像力の欠如こそが,ジェラシーの源だと言えるでしょう。
そして,ジェラシーを抱く人の心には,自分自身の満たされない思いがあります。たとえば,いつも笑顔でいたいけれど,自分にはできない.だからいつも笑顔の人を見ると,非難したくなってしまうのです。
「悪意」を向ける人の心の中を,そうやって冷静に分析すれば,その人自身のSOSが見えてきます。「本当は○○したいけど,できない.だからかわりに意地悪をするしかない.誰か私を助けて!」。そんな悲鳴が聞こえてきます。
江原啓之 『悪意/善意』 pp. 119-21.
幸せをひけらかす人は本当は不幸だ,とありますが,これは,SNSなどでしきりに “リア充アピール” をする人が,実際にはリア充じゃない!というのと同じです。
嫉妬するのも嫉妬されるのも,どちらもいやなもので,嫉妬心はネガティブな感情,諌めるべき悪感情,と一般的には思われています。ですが,嫉妬心は本質的に悪い感情ではありません。喜び,怒り,悲しみなどといった人間なら誰もが経験する心の反応のひとつにすぎません。
感情は情報です。私たちに何かを伝えよう,教えよう,気づかせようとして内側から湧き出てくるものです。従って,嫉妬心を抱くことに後ろめたさを感じたり,嫉妬する人を上から裁くよりも,その感情が私たちに何を気づかせようとしているかを知ろうとすることが,より根本的で前向きな対応と言えるでしょう。つまり,感情をどのように受け止め,どのような気づきを得るかです。
確かに,引用にあるように,嫉妬心は想像力の欠如によって引き起こされやすいことはあるでしょう。ひとが誰かを妬むとき,その人のさまざまな事情についてはよく知らないことが多いと思います。自分が好意を感じている親しい間柄の人で,信頼または尊敬している人物に対しては,嫉妬心を抱きにくいかもしれないです。また,私自身が嫉妬されて(さらには,攻撃的な態度を取られて)いやだなと思うのは,そこに愛情の欠如を感じるからです。想像力だけでなく,相手に対する思いやりや愛情が欠けている場合に,嫉妬が起こりやすいとは思います。
しかし,嫉妬心を「嫉妬する側」の「想像力の欠如」だけで説明するのは性急であり,偏っていると言わざるを得ません。人間の想像力には限界があります。個人差もあります。著者は,嫉妬される側よりも嫉妬する側に対して批判的な目を向けていますが(これは著者個人の経験に基づくもので,私心が少なからず混入しているという点でやや客観性に欠けるのではないかと思われる),どちらかといえば,嫉妬される側に原因がある場合も少なくはないだろうと個人的には感じています。
例えば,成功やよい評判が世の人々に知れ渡り,謙虚さや感謝の気持ちが足りなかったり,その結果として,自惚れたり,ひけらかしたり,満足げに振る舞いすぎると,無自覚なまま不特定多数の人々に嫉妬され,重い病に罹ったり,職や財産を失くしたり,挙句の果てには警察のご厄介になるといった,三次元的に甚大な被害・損害に見舞われるケースもあるとか。しかし,それらの多くは,過去生のカルマの解消であったり,当事者に気づきを促す出来事であるため,一概に悪いとは言いきれません。
よく言われることは,嫉妬する人は,自分の欠乏感にのみフォーカスを合わせ,不幸感を強く抱いていたり,自信を失くしているということです。さらに,心理的な視野狭窄状態にあるため,悲観的であり,心に余裕がありません。そのため,ひとが現実以上によく見えたり,妄想を膨らませてありもしない現実に美化して,嫉妬心を深めてしまったり,自分が本心では望んでいない状況でさえも羨ましくなってしまいます。元来の性質として,視野が狭い,心の器が小さいタイプの人は嫉妬心を抱きやすいかもしれません。自分は人に嫉妬しやすいなという自覚がある場合は,周囲の動向を伺うことは極力避け,自分の内側に目を向けることが必要です。自分の良さをいま一度思い返し,自分で自分を認める作業をすることです。そして,自分と対話を重ね,自分の本当の声に耳を澄ましてみます。かすかにでも聞こえる声が,思いが,言葉が,目に浮かぶ光景があるかもしれません。それが自分へのメッセージでしょう。
さらに,嫉妬心は,欲しいもの(や状況や性質)を得られる可能性のシグナルとも言われます。自分にも(時機が来れば,或いは,努力すれば)手が届くもの,なれるものだからこそ,余計に意識が向いてしまう,というわけです。例えば,スポーツが苦手な人は,オリンピック選手に憧れることはあっても,嫉妬することはありません。自分の分野外のこと,明らかにできない・しないとわかっている事柄には人はあまり感情的に反応しないものです。この場合の嫉妬感情は,誰もが生まれる前に立てた「人生計画」というブループリントの記憶が為せるわざとも言えますし,自分の深い意識やスピリット・ガイドからの語りかけと言ってもよいです。この類いの嫉妬心は,ただのネガティブな,抑制すべき感情ではなく,むしろ励ましであったり,前進を促す強力なインセンティブと言えます。気づいたことがあれば,目標の実現に向けて具体的な行動を起こすなり,自分の未来を信じて前向きな気持ちに切り替えればよいだけなのです。
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嫉妬して心が苦しくなったときは,嫉妬心はただの感情である,と受け止めて,自分をいたずらに責めたり,落ち込むのはやめましょう。感情を黙って受けとめ,まずは自分に優しくすること。嫉妬心を行動の動機にしないことです。自分や相手を攻撃する以外の方法で自分の心をラクにできる方法,前向きな気持ちになれる道を探してみます。
嫉妬されて辛いとき,もしあなたの心にゆとりが少しでもあるなら,自分の言動を振り返ったり,相手の気持ちや状況を想像してみてください。直接働きかけるのが難しければ,心の中で願う,祈る,もしくは語りかけるのでも構いません。そうすることで,嫉妬の想いをいくらかでも軽減できるかもしれません。
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かなり以前に掲載していたこの記事のコメント部分を大幅に改訂するきっかけとなったのは,ほかでもない私自身がある人に対して感じた嫉妬心でした。誰のせいにしてよいかわからず,終いにはガイドに八つ当たりするほどに,私は落ち込んでしまいました。
その晩,久しぶりに鮮烈な夢を見て,メッセージを受け取ったことで少し落ち着きを取り戻したものの,まだ心にひっかかりがあるようで,すっきりしません。「嫉妬」というキーワードが意識下に残り,他のスピ系ブログを2,3拾い読みしたあとで,気が付いたらこの記事を改訂していました。何度も推敲を重ねるうちに,徐々に形をなし,最終的な文章に整ったところで,気づきました。嫉妬とは何かをあらためて考えなおすために,そして,この記事を書く意味もあって,辛い気持ちを経験したのだ,と。
今回のように,ブログ記事は「書かされる」ことがとても多いです。誰に書かされるかというと,書き手のスピリット・ガイドです。つまり,我々ミディアムとは,俗な言葉でいえば,パシリであり,都合のいい手下であり,もう少しお上品に言うなら,従順なお手伝いさん,といったところです。
また,人に伝えたいことには,自分へのメッセージが含まれている,ということをあらためて確認しました。
精神的にアップダウンの激しい週末でしたが,いろいろ気づかされることの多い時間でもありました。