8/08/2012

愛は信頼

愛と心配を同一視する人々は多い。例えば,親が子どもを心配するのは子どもを愛しているから,という。心配は愛の証し,というわけだ。しかし,心配の念はネガティブで重い。子どもが学校でいじめをしているという報告を学校から受け,心配しすぎていた母親が,心配するのを意図的に止めたら,子どももいじめをやめるようになった,という実例もあるほど(越智啓子氏の最初の著書をご参照下さい)。人のすべての想いは,目に見えぬエネルギーとして瞬時に相手に届き,何らかの影響を及ぼす。ならば,受け取った人が元気で前向きになれる,そんな明るく暖かい愛の想いを送りたい。 愛は信頼である。

信頼の源はひとつ。それは,「自分」である。つまり,自分を信頼している人(「自信のある」人)は,ひとも信頼できる,ということ。人に対して何かとネガティブな思いを抱きやすい人は,自分に対しても否定的な傾向があるだろう。このことについて,間接的にだが,改めて考えさせられる出来事があった。


* * *

先月下旬にリーディングを受けた。私が以前,瞑想やサイコメトリーなどのエネルギー・ワークを中心とした訓練を受けていた時に出会った方(以下Dさんと呼ぶ)にである。メッセージは納得のいくものだった。ここ数ヶ月間,何となく感じていたこと,夢や気になる曲を通じて漠然と心に掛かっていたことについて,進むべき方向性を明確な形で示された。今回のリーディングは,しかし,私への個人的なアドバイスに留まらず,我々の双方にとっても意味のある出来事らしかった。

Dさんと出会ったのは約2年前だが,数ヶ月間,隔週ペースでクラスで顔を合わせるだけの間柄だった。一度,ペアでリーディングの練習をした時,当時抱えていた大きな悩み(で,まだ結果は出ないが,私はその答えを知っているはずの問題)に,短いが非常に端的なメッセージを伝えてもらったことがあった。そうしたメッセージは,こちらが全く予想もしないタイミングでもたらされることが多いが,それが非常に印象深かった。Dさんの実力を実感する機会は他にもあり,また,認定試験には昨年合格されていた。とはいえ,初めから彼のリーディングを受けようとしたわけではない。イギリス式のシッティングに近いリーディング(一方的にメッセージを受け取るタイプの)を希望していたが,以前の記事(夢は知らせる3)で記した経緯で,通っていたスクールを自ら去っていた為,そこに申し込むつもりはなかった。ネットサーフしているうちに,Dさんのブログを見つけた。しかし,彼は,私が去った当時すでに内部関係者だったこともあり,予約を受け付けて貰えるかどうか不安があった。思い切って問い合わせてみたら,すぐに快諾いただき,その5日後にお会いすることになった。

リーディングの後で,少しだが話す時間があった。彼とまともに会話したのはその時が始めてだったが,この時の会話は大変興味深かった。まず,Dさんについて新たな発見があった。さらに,事務所の男性(は受講生でもあった)が,つい最近まで,私のことを非常に気に掛けておられたことも知った。スクールを辞めるきっかけとなった出来事は,その最終局面で,この男性を介して展開した部分もあり,彼は,当事者である私ともう一人の女性以外で,間接的ながらも関わりを持った唯一の存在だった。ずっと,きっと彼は彼女の肩を持つだろう,いや,私に対してはむしろ批判的かもしれない,と何となく思っていた。というのも,私は必要最低限の時間しかその場所では過ごさないようにしており,クラス外で言葉を交わす人すらいなかったからだ。リーディングの練習の妨げになるという理由から,受講者同士の親しい交流は避けるようにという指示があり,この,個人的には大変好都合な規則を遵守していた。一方,彼女は,他のクラスにも積極的に参加するなど熱心で,スクールで比較的長い時間を費やしていた。事務所の男性とも親しそうだった。昨年9月に,講師(兼責任者)から,大変なことになりましたね(スピリチュアルなことをやっているにもかかわらず),という私に対して批判的なコメントも貰っていた(その直後,彼女にどのような対応をされたかは知らなかったし,彼自身にも責任がないとは決して言えないはずなのだが)。とはいえ,去るべき時期が来て去ったと納得していたし,「今後は余計なストレスと出費が減る」くらいの気持ちでいた私は,その件について考えることも思い出すこともなかった。Dさんは何度も安心した表情で,「元気そうでよかった!」と言われた。最低でも3回くらいは聞いたような気がする。通っていた当時より遥かに元気そうだと言われて,少し複雑な心境だった。また,少なくとも昨年夏の出来事に関して,私に共感できるといった趣旨のことばも聞いて,なるほど,それでリーディングを引き受けて下さったのか,と思った。

繰り返しになるが,私にとって問題の一件は既に過去の出来事だった(もう一人の女性に対しては”指導”で,私にとっては場所を変わるべき区切り,というのが本当のところらしいが)。詳しい経緯もかなり忘れている。しかし,Dさんにリーディングを受けたことで,そこに所属している人々の中には,批判的どころか,私を気遣って下さっている人がいたと知ることができた。また,Dさんの安堵ぶりを思い返すと,おそらく彼(と,彼にかなり心配させたらしい事務室の男性)にとっても,心の重荷を下ろす機会になったのかもしれない。二人は,私がそこを離れたことに関して,団体側に多少なりとも疑念や失意の念を抱いていたのではないか。スピリチュアリズムを標榜している団体が人を潰すような真似をしていいのか,と。しかし,彼らの立場上,もちろん意見することもできず,現実を受け入れるより他になす術がないわけで,その意味では無力であり,いくばくかの罪悪感を感じていたのかもしれない,と。

私の身を案じていてくださったらしいことは,大きな驚きであったし,ありがたいことだと感じた。これまでの十余年間,好奇心(関心ではなく)を向ける人々はいたが,私を本当に気遣ったり,心配してくれる人間などただの一人もいない,と感じてきたから。

私をよく知らない人々,そして,その場所以外には霊能を伸ばす術がないと信じている人々からすれば,そこを離れてしまうことは,即ち将来への道が閉ざされる・絶たれる,と結論づけられるだろう。その発想は容易に想像がつくし,あながち咎められるものではない。が,同時に,非常に悲観的でネガティブな見方ともいえる。突き詰めれば,厳しいようだが,スピリチュアルな教えとは多くの点で相容れない見方だと思う。意外に知られていないこととして,霊能者やミディアムなど,広く意識的に霊能を用いることが必要な仕事に従事する人はあらかじめ決まっている,という真実がある。霊媒になることを決めて転生してくる。ということは,本人の(表層意識の)意思や好き嫌いとは無関係に,(大抵の場合)なる人はなるし,ならない人はならない(なりたいと望んでもなれない)。だから,もし誰かがある師の元を去ったとしても,その人が霊能者もしくはミディアムになることが予め決まっているなら,必ず導きがあってなるようになる。一見,上手くいっていないように見えたとしても,本人も周りも徒に焦ったり心配する必要はないし,心配すべきではない。心配というネガティブなエネルギーは,下手をすると足を引っ張りかねないから特に慎むべきだ。さらに,誰にも複数のスピリット・ガイドがついていて,守り,導いている,ということを思い出したい。彼らの視野は私たち人間より遥かに広く,愛は深い。私たちのことを誰よりもよくわかっている彼らのサポートがある限り,基本的には,私たちに必要な出来事だけが起こり,学びのチャンスが与えられる。

学生時代,今回と重なるような状況を経験していたことを思い出した。学生の身分だった時間が長かったせいもあり,自慢じゃないが,放校・退学と主席で入学・卒業以外は全て経験した。今回のリーディングで思い出したのは,2回同じ学校を受験して不合格になった時のこと。1回目の成績を聞いて,挽回の余地があると感じた私は,再チャレンジすべく準備した。しかし,さすがに2回目も不合格だった時は,その学校には留まる必要がないとわかった。そして,その2年という時間も,その後の(留学を中心とした)出来事が起こるべきタイミングで起こるために必要な時間調整だったと悟った。が,そう深く理解するまでは,できれば人に知られたくない出来事だったし,周囲もそのように見ていたことに傷ついた。合格発表のあと間もなく,今にして思えばよせばいいものを,何の用事か忘れたが,わざわざ母校に出向いた。図書館の前で私に気づいた2名の仲間はどちらも合格者だったが,次の瞬間,見てはいけないものでも見たように,さっと視線をそらした。そのあと会った指導教授も一瞬私を見て見ぬふりをした。(この先生とは,その後もご縁があり,折々に必要な指導を受けることになった。今となっては,数少ない,本当の意味で敬愛できる方の一人である。)幸い,滑り止めというのではないが,他の学校も受験して合格しており,そちらへいくことにしたが,そこは“世間的に”みると,不合格になった学校よりランクが下がる場所だった。「上の学校に行くならともかく」と,母も最初は不満を漏らした。しかし,専攻分野や様々なことを考慮すると,私にはそこへ行くのがベストな選択だと思えたし,それを裏付ける夢も,しばらくして経ってからだが,見た。だから,というべきか,当時は彼らの反応がとてつもなく冷たいものに感じられ,静かに傷ついた。「失敗者」と見られている,と感じた。私が彼らの立場だったら,あぁ残念だったな,という気持ちから同じように反応していたかもしれないし,別段咎められる態度ではないかもしれないが。

2011年夏の一件にしても,不合格時の仲間の態度にしても,その背後には「無知」が潜んでいる。進学先も就職先も決まっている。なぜなら,そこで出会わなければならない人々がいるから。いつどこで会うか,ということは予め決まっているので,出会うべきタイミングで出会うために,ストレートで合格したりしなかったりする。もちろん,それ以外の学びもあろう。

* * *

一見したところ,失敗や不幸な出来事に見えることも,当事者にとって必要な出来事であり,何らかの意味があり,次の段階に移るのに必要なプロセスであったりする。見えがかりにとらわれて,不幸や失敗と否定的に決めつけ,落胆したり心配しすぎるのは,突き詰めれば,無知と自分への信頼の欠如から来る反応ではないか。もし,上手くいってないように見える人が周りにいたら,心配の念を送るのではなく,“万事上手く進みますように” という祈りと,“本人にとって最善の出来事でありますように” という信頼と希望の念を送りたい。それこそほんとうに愛のある態度だと思うから。


8/07/2012

24 心配は毒

思い煩ってはなりません.心配の念はせっかくの援助の通路を塞いでしまいます. 私はいつも取り越し苦労はおやめなさいと申し上げております. 心配の念は有毒です.悪気を生み出し,それがあたりを取り囲みます. 陰湿な雰囲気で包まれてしまいます. その状態になると霊の力も突き通せなくなります.  

 『シルバーバーチの霊訓  第9巻』 p. 65.



インスピレーションは,予期せぬ時に湧くことが多いです.リラックスした状態の時にひらめきやすいのは,私たちの恐れや不安など否定的な想いが強いと,ガイド達が助けたくても,働きかけにくくなってしまうからです。

"Never trouble trouble until trouble troubles you." ― 「取り越し苦労はするな」という意味です.

7/19/2012

ほんとうの「仕事の流儀」とは

某放送局で放映中の『○○フェッショナル』をたまに観る。似たような番組に,他局で放映中の『●●モン流』がある。いずれも,各業界の第一線で活躍する成功者に密着取材し,その華々しい仕事ぶりや充実した私生活と共に,舞台裏での努力や苦労も併せて紹介し,成功の秘訣を探っている。正の要素と負の要素の両方があるから視聴率が取れるのかもしれないが,番組の一環した基調は,やはり“サクセス・ストーリー”だろうと思う。ドキュメンタリー番組ではない。取材される人々が赤裸々に描かれ,その全貌が明かされる,ということはあり得ない。あくまでも,働く姿を,いくつかのアングルから美しく切り取ったものにすぎない。プライバシーの問題もあろうし,番組を通じて伝えられるイメージが,彼らの仕事に少なからず影響する可能性なども考慮すれば,それも致し方ないことかもしれないが。

もちろん,成功の陰にあった過去の数々の苦労や日々のたゆまぬ努力,仕事に取り組む真摯な姿勢に心打たれ,勇気を得ることもあるが,いささか斜に構えて眺めてしまうことも少なくない。番組制作側の意図がどの辺りにあるのか私には図りかねるものの,視聴者はこの番組から何に気づき,何を学ぶだろうか,と疑問に思う。何がしかの不満や悩み・苦しみといった負の想いを誰もが抱え,だからこそ,他人の不幸せや失敗に安堵し,ほくそ笑む人が多いこの現世にあって,仕事で華々しい成功を収め,充実した人生を体現している(ように見える)同時代人を紹介することが,観る人々にとってどんなプラスとなり得るのか。取材され,番組で取り上げられる人々にとっての,いわば“ご褒美的”番組になっているような気がしないでもない。

スピリチュアルな観点からいえば,いくつかの過去生に亘って経験と研鑽を積んできたことは得意である。よく,「すじがいい」とか「才能がある」などと言うが,それは過去生での経験の積み重ね,努力の集積の結果といえる。だから,仮に,いま達人でなくても,誰もがそれぞれの得意分野で前向きな気持ちと努力を怠らない限り,やがては「達人」になりうる,“達人予備軍” であり,“プロフェッショナルの卵” といえる。やがて訪れるであろう未来の自分の姿を重ね合わせ,予習気分で観る分には,夢があって楽しいだろう。成功イメージを潜在意識にしっかりインプットし,植えつけるイメージトレーニング的な効果があるかもしれない。

とはいえ,人生における「成功」とは,いわゆる同番組で映し出されるようなものとは限らないはずだ。その道のプロであることは無価値ではもちろんないが,世間が思うほど,番組が謳い上げるほど,素晴らしいとも思わない。勤勉,ハード・ワークは,間違いなく評価に値する。しかし,どのような仕事に従事しようとも,最も肝心なことは,「他者の利益のためにどれだけ無私の想いで尽くせるか」,それだけだと思うから,「プロフェッショナルね・・・・・・」とつい冷めた目で観てしまう。ひがみと言われてしまえばそれまでなのだが。

英国留学を機に,私は大きな試練を経験することとなった。自分の置かれた状況がそうさせたのか,ある時期から,教育テレビの『福祉ネットワーク』という番組を,時々だが,観るようになった。そんなことでもなければ絶対観なかっただろう。世の中には,想像もつかない困難や経験を生きている人々が少なくないことを知った。例えば,祖国を追われて日本に来たものの,難民として受け入れて貰えず,かといって帰る国もない無国籍のアジアの人々。拒食症に長年苦しむ若い女性たちや幼児虐待の果てに施設で暮らす,心に深い傷を持つ子ども達。悩み・苦しみから,自殺を図るも,未遂で救急搬送される人々。経済的困窮に負いこまれ,生活保護について何も知らず,本気で自殺を考える中高年世代。あるいは,身体的なハンディキャップをものともせず,経済的自立を目指して仕事をし,また,アスリートとしてスポーツ競技に打ち込む人達。そして,そんな彼らに向き合い,心寄り添い,日々全力で支える無名の多くの人びと。普段の生活では決して知りえない人々の存在を,間接的にも知る絶好の機会である。気づきや励ましを得ることが圧倒的に多いのは,前述の番組より,この『ネットワーク』であることは言うまでもない。

逆境の中で,試行錯誤を繰り返し,つまづきながらも,ひたすら前進する人びとの姿は,われわれに多くの教訓を与える。いわわゆる「健常者」の側が,様々なハンディキャップを背負った人々から教わることの方が,その逆よりも圧倒的に多い。また,彼らをサポートするという行為を通じて,大勢の人々が間接・直接に結びついていく。

この世的な成功が悪いわけではない。そうした人々の存在は社会にとって欠かせない。成功を夢見る気持ちは,ひいては自己の成長へとつながり得る。しかし,社会から賞賛や名声を得ることと同じくらい,いや,もしかするとそれ以上に,追求する価値のあること,深い喜びを見い出せることがあるかもしれない。自分にとってそれは何なのか,心静かに内なる声に耳を傾けてみたい


7/18/2012

タイミングと決意が肝心

小田和正さん作詞・作曲の『風と君を待つだけ』。

久しぶりに聴いて,メッセージ性のある曲だと感じました。

『遠景』と重なるメッセージ(夢をあきらめない)もありますが,さらに一歩前進するように,その機が熟しつつあることを伝えているようにも感じられます。

白い帆船の出航準備は整っています。あとは,「強い風」と「君」,つまり,その時期・タイミング(スピリット・ワールドからの後押しも含め)とあなたの(私たちの)踏み出そうとする意志・決意さえあれば,大海へと漕ぎ出せる段階まですでに来ています。

ですから,怯むべきではありませんし,心を閉ざしてもいけません。徒に焦ることなく,好機が到来したら,行動あるのみです。





夢をあきらめないで

遠 景

作詞・作曲,唄: 中村隆道 編曲: 西本 明

つまらぬ悲しみに足をとられて
やけになってしまうよりも
転んで起きたときのあの光景は
いつか強さに変わるはず
豊かな時代に響く笑い声
時々寂しくなるけど
目の前の現実に 背を向けないで
首を傾げるだけでいい

忘れるなよ 決して 君だけじゃないさ
本当の自分を隠して もがいているのは

左手を上げて 右手をあげて
「参りました」と空を仰いだら
報われなくても ほめられなくても
何かをつかむまで あきらめるな

あんなに愛したあの人も今は
どこかで誰かの夢になる
悲しみが肩をたたいて喜びが振り返る
見えぬ春風はやがて吹くさ
今は遠くて追いつけないけれど
いつか辿りつく景色に
ひとにぎりの友達と一人だけの君が
そばにいてくれるだけでいい

忘れるなよ いつも どこかで誰かが
言い出せない君を信じて 見つめてるのを

左手を上げて 右手をあげて
「参りました」と空を仰いだら
報われなくても ほめられなくて
何かをつかむまで あきらめるな

左手を上げて 右手をあげて
「参りました」と空を仰いだら
報われなくても ほめられなくても
何かをつかむまで あきらめるな

何かをつかむまで あきらめるな



1990年代半ばにリリースされたシングルCDの曲で,中村隆道さんのデビュー曲です。(当時,少しだけ面識があった方です。)

作詞者本人へのメッセージにもなっていると感じますが,誰が聞いてもなにか感じるものがあるでしょう。 

夢に向かって進む道程で,いかなる困難に出会おうとも,苦しいのは自分だけじゃない。苦労は自分を強くし,自分の肥やしになる。だから決して降参してはいけない。諦めずに歩み続けていけば,必ず苦労は報われ,実を結ぶ,というのが一貫したメッセージのようです。「遠景」は「夢」と受け取ることもできます。

サビの部分の歌詞(「参りました」と空を仰いだら)は,「天に委ねる」(自力で何とかしようと悪あがきするというより),とも解釈できます。天に委ねつつも,諦めず前進し続ける,ということかもしれません。なぜなら,「いつも どこかで誰かが・・・君を信じて 見つめてる」,つまり,私たちのスピリット・ガイドが必ずや見守り,導いているのですから。

歌い出だしの部分(「・・・転んでおきたときのあの光景は いつか強さに変わるはず」)や1回目のリフレインの後の,「悲しみが肩をたたいて 喜びが振り返る 見えぬ春風はやがて吹くさ 今は遠くて追いつけないけれど いつか辿りつく景色」が示すように,困難や苦労は自分のかけがえのない糧となり,いつか必ず何らかの形で報われます。

7/09/2012

21 人生はプランに従う

閉め切られたドアを忙しく叩いてはいけません.自然に開くのを待つのです. 宇宙全体だけでなく一人一人の人間にも,きちんとした計画があります. そのプランが実行に移されていくのです. ・・・私たちはそのプランのもとに,私たちのやり方で私たちのタイミングで事を運ぶしかないのです.人間側の都合に合わせるわけにはいかないのです
 
その理由の一つは,
人間には自分にとってどうなるのが一ばん良いかが判断できないからです.物質的に,精神的に,そして霊的にあなたに何が一ばん望ましいかを判断するには,私たちの方が有利な立場にあります.
 待つのです.きっとドアは開かれます.
 
 

『シルバーバーチの霊訓  第10巻』  p. 172.



人生では思ったように物事が進まないことがあります.それがたまに起こるなら何とか対処できても,そういう状態が長期に及ぶのはとても辛いもの.自分自身の努力で解決が図れる問題ならともかく,相手があることや,とりあえず為す術がない,現状維持に甘んじなければならない場合は特に大変です.例えば,就職先が決まらない,恋愛や結婚の話が進まない,職場や家庭内のトラブル,などは本当に消耗します.

多くの問題は,自分の心の持ち方や考え方,行動を変えることによって,何らかの変化が見られるでしょう.しかし,自分の言動を変えても何をどうやっても状況が変わらない場合には,問題の受け止め方を変えるしかありません.大きく分けて,2つのアプローチがあります: 1)願望を変えるか,諦める(軌道修正); 2)今は結果が出る時期ではない,と受け止めて,一切の抵抗を辞め,できることをしながら時を待つ(「人事を尽くして天命を待つ」,つまり一種の諦念と辛抱)です.

宿命(意志力で変えられない部分)と運命(自分次第の部分)は違う,人間は霊界の操り人形ではない,自由意志こそが大切,とよく言われますが,個人的には,宿命の占める割合のほうが運命よりも大きいのではないか,と感じることが多いです。自由意志発動の範囲も,負うべきカルマによって,ある程度制約を受けています。

ですが,基本的には,前向きな気持ちさえ忘れなければ,そして,日々努力している人であれば,霊的な世界を信じようと信じまいと,必ずなるようになります.

いかなるときも自分自身を信じることが大切です. 

6/12/2012

無関心は残酷 −見えない相手も思いやる気持ちを

顔が見えないコミュニケーションは難しい。例えば,電話での会話,オンラインでのチャット,メールのみでの付き合い,一部のSNS経由での遣り取りなどがそれにあたる。家族,友人,知人との顔が見えるコミュニケーションでさえ充分難しいのに,面識の全くない人々との遣り取りともなればなおさらだ。言葉とは本来曖昧なもので,意志伝達手段として完璧とはいえない。社会言語学でよく言われるのは,言葉による情報量よりも,顔の表情やしぐさ(ジェスチャー)といったノン・バーバルコミュニケーションによる情報伝達量の方が多い,ということ。これに対しては否定的な見解もあるのだが,例えば,「ありがとう」という言葉も,優しい笑顔で言われれば感謝の表現だが,こわばった表情では,困惑と受け取られかねないことを考えれば,あながち否定できないだろうと思う。

もう少し堅苦しい話にお付き合いいただければ,よりよいコミュニケーションのためには,相手がどんな人かを適切に知ることが不可欠だ。「どんな人か」には,その人が「どんな人だと思われたいか」ということも含まれる。そのいわば“共有してほしい自己イメージ” (専門的には "face" = 体面 と呼ばれることもある) は,必ずしも自分の真の姿と一致しないことも多いし,一致する必要はない。自己評価が高い人や,逆に低い人など様々な人がいる。自分を正しく知ることは意外に難しい。が,いずれにせよ,相手の face を正しく把握し,こちらの face もちゃんとわかってもらえないと,互いに話が噛み合わない,ということも充分に起こりうるわけだ。日本語でも,「顔を潰す」「顔を立てる」「面子が丸つぶれ」といった表現があるが,自己イメージを否定されて不快だったり,逆に,尊重してもらえたことを言い表している。もの言わぬ壁に向かって話すなら別だが,人間同士が関わる限り,"faceless" なコミュニケーションは存在しない。このように,理論的にみても,面識のない人と,文字通り「顔が見えない」状況下で行う会話は,少なくともどちらかが不愉快な思いをせずに成立する確率は非常に低い,と言える。

確かにその通りなのだろう。でも,人間にはだれにも「見えないものを感じとる力」や「想像する力」,即ち「インスピレーション」が備わっている。そのひとつの顕れが芸術だ。われわれは美しい音楽を聞いてこころ癒され,演劇を見て涙し,感動する。この生まれつき備わった能力を駆使すれば,「顔がなくなりがちな」コミュニケーションになるという,高い壁を少しだけ低くすることは決して不可能ではない。そんなことを考えさせられる出来事がいろいろある。

最近気になるのは,相手の状況や気持ちを気にかけることも想像することもなく,ほぼ一方的に話してくる人々の存在。どういうわけか,私は「話しやすい,いい人」で,文句も言わずに,まるで母のように「自分を受け入れて,話をやさしく聞いてくれる人」という位置づけらしい。だから,平気で(プチ)自慢したり,普通であれば,かなり親しくならなければ話さないような話題もぽろっと話す。例えば,過去には,こちらがお金を払ってかけた電話相談で(1分刻みで料金が発生する),鑑定士の愚痴やら身の上話に付き合ったことも少なくない。相談者の私が相談にのってもらえるはずの占い師の相談に乗るという立場が逆転した状態だ。その一方で,彼らが,妙に上から目線でモノを言うことが度重なったため,耐えかねて会社に意見したことも。また,オンラインで交流のある人々の中にも,自慢話をしに私のところへわざわざやってくる暇な人々がいる。それでいて,話を聞いてくれてありがとう,というのではない。そもそも,面識のない相手には関心がない。だから,感謝もない。いや,なにも感謝されたいのではない。彼女らの無関心さ,思いやりの欠如,もっと言えばその無思慮と自己中心性が悲しいのだ。私としては,ひとに好かれたくていい人を演じているつもりはなく,自分が理想とするモラルにできるだけ沿う形で行動しようと努めているだけだ。自分の感情を最優先したり,やたらと自慢話をしたり,ひけらかしたり,一方的に甘える,といったことをできるだけしないようにしている(つもり)のだが,その結果,不愉快な思いをするというのは,どう捉えたらよいのか。もちろん,私も,気づかないうちに誰かに嫌な思いをさせてきただろうし,させているに違いないのだが。

本当に満たされた人,即ち,幸せな人は,誰かのために役立ちたい,ひとの幸せのために働きたい,と思うものだ。彼ら・彼女らの言動から察するに,そこまで満たされているわけでもなさそうだ。物心共に「ほどほどに」満たされて,且つ,本当の苦しみ・痛みを知らない人々は,どちらかといえば残酷とも思える言動を平気で取るかもしれない,と感じる。いまのその一言が,相手を不快にしたり,傷つけているかもしれない,といったことはみじんも考えないで。

ここに「甘え」を見て取ることもできる。「自分の話に同調してくれて当然」,「自分をわかってくれて,楽しい気持ちにさせてくれて当たり前」という甘えだ。冷たいようだが,私には面識も無い彼女らの話を聞く「義務」など全くないし,仮に,話に付き合ったとしても,彼らの感情を優先したり,理解しようとする努力を払う必要もない。ある人は,短いやり取りの後で,「愚痴を言ってすみません」と述べた。この人などは,まだわきまえている部類だ。それどころか,人の好意に乗じて,さらなる手柄話をひけらかすひとの方が数の上で圧倒的に優るから油断も隙もない。
「腹八部」というが,ある人々は,人付き合いは「腹六部」,と言う。相手がどれほど親しかろうと―家族であろうが,親しい友人であろうが―自分の思いをすべてさらけ出すのではなく,画すべき一線は画し,自分の腹におさめるべきはおさめ,相手を思いやり,尊重して対するべき,ということだろう。自分の思いを相手構わず無思慮に丸投げするのは,子どものすることだ。 

痛みを知らない人に,痛みを知る人々と同じ感性を求めるのは無謀だし,過大な要求かもしれない。そして,なにより言葉に依存するコミュニケーションには限界がある。とくに顔が見えない会話は難しい。だからこそ,私たちは注意しなければならない。せめて次の点だけでも心に留めたい。まず,距離を取ること。人とのこころのスペースを普段より多めにとろう。そして,もう少しだけ相手のことを考えて,コミュニケーションをとることを意識しよう。その人はいまどんな暮らしをしているのか,どんな思いでいるだろうか,自分のことばをどのように受け止めるだろうか,といったことに少しだけ(詮索ではなく)思いを馳せてもらいたい。人の数だけ人生があり,考え方・感じ方があり,相手はあなたと同じ人間ではないのだから。

読みたい本(7)

  千賀一生。『ガイアの法則』ヒカルランド。 いまの時代に読むべき必読書です。 正・続2冊ありますが、1冊目の裏表紙に印刷されている言葉を以下に紹介します: 宇宙に,聖なる16ビートが存在することを告げるガイアの法則— 新型コロナとの驚くべき精緻なる関係性も明らかに! 地球の歳差...