2/28/2026

過去生体験 3

その教会では,牧師さんの説教の後などに,合計3度お祈りをする機会がありました。が,不思議なことに,目を閉じて祈るたびに涙が溢れてきます。そして,きまって「キリスト教を棄てた私を,こうして皆さんで暖かく迎えてくださって,こんなに嬉しいことはない」という想いがこみ上げてくるのです。今生でクリスチャンだったことは一度もありません。どうして涙が出るのか,なぜそんなことを思うのか,非常に不可解でした。その後しばらく経ってから,涙を流していたのは今の私でも,その「意識」はあくまでも「過去生の私」のものなのだとわかりました。また,阿佐ヶ谷の教会に行くことになった理由の一部もわかりました。その教会には,新しく礼拝に参加した人の名前と本人とをその場で紹介する習慣がありました。そうやって全員で新しい人を歓迎しよう,という暖かい雰囲気の教会でした。過去生の後悔を癒すのにまさにぴったりの教会だったのです。(他にも何か意味があるかもしれませんが,これ以上のことはわかりませんでした。)

これと時間的に前後する形で,ヒプノセラピーを受け,キリシタンの彼女が棄教に対して相当強烈な罪悪感を抱いていたらしいこともわかりました。もっと他にやり方があったのでは,と思っていました。また,自ら率先して集会を開いたことについて,「私がリーダーになると,ろくなことにならない」といった観念を抱いてしまったようです。自殺についても後悔していましたが,それは「自分を愛してくれた人やお世話になった人々に迷惑をかける行為である」という理由からでした。 実際,今回の人生でも,私は一度自殺を考えた事があります。思いとどまったのは,留学中に助けてもらった(英国の)人々に迷惑をかけたくない,という想いからでした。自殺願望を持つ人というのは,大抵過去生でも自死の経験があります。いずれは「困難・苦労→絶望→自殺による逃避」といったパターンを卒業しなければなりません。それができるまで,自殺願望を抱くような出来事と状況を引き寄せるでしょう。また,今生の私は人前に出るのは苦手で,いわゆるリーダーシップをとる性格ではないと自分では思っています。が,算名学で性格分析をしてもらうと,リーダータイプであると同時に,引っ込み思案の部分も同じくらい持ち合わせているために,その狭間で葛藤を感じることが多いのでは,などと言われたことがありました。キリシタン時代の出来事を引きずっているのかもしれません。

戦国時代にキリシタンだった彼女が下した決断−「棄教」。これは神の目からみれば正しい選択でした。当時,自分の命を守るために棄教した人々は多かったようですが,彼女の場合,周囲の人々を守るためだったからです。他者のために,自分の信仰を投げ打つという自己犠牲の行為は,無私の行いに他なりません。何ごとも結果より動機が大切。誇りにこそ思え,棄教や,棄教と同時に命を棄てなかったことに対し罪悪感を感じたというのは,宗教(教義)の限界(真理とのギャップ)を示すと同時に,強い自責傾向という未熟さの表われなのかもしれません。

私たちは,誰しも多くの過去生を生きてきました。それらの人生で遣り残したこと,経験した様々なネガティブな感情,未熟さゆえに犯した間違いなどは「すべて」のちの地上人生において,達成したり,解消したり,矯正される必要があります。人生計画に必ずそれらは組み込まれていますが,普通の意識状態では思い出すことができません。理屈や論理で合理的に説明出来ない状況や気持ちが起こったら,それは多くの場合,過去生がらみであると考えて,大抵は間違いないでしょう。今生という一つの生だけを生きているようでいて,別次元では過去生の様々なエネルギーが影響を及ぼしているので,同時にいくつもの生を生きていると言えるのです。

人生で起こる全てのことには理由があります。それが何かすぐにわからなくても,です。どんな出来事・状況にも意味があり,それらは私たち一人ひとりの「霊的な成長」にとって最善だから起こっています。表層意識でそう思えなくても,深い意識では納得しているはずです。

全ては善きに取り計らわれている」−このことを常に忘れずにいたいものです。

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過去生体験 3

その教会では,牧師さんの説教の後などに,合計3度お祈りをする機会がありました。が,不思議なことに,目を閉じて祈るたびに涙が溢れてきます。そして,きまって「キリスト教を棄てた私を,こうして皆さんで暖かく迎えてくださって,こんなに嬉しいことはない」という想いがこみ上げてくるのです。今...