7/19/2012

ほんとうの「仕事の流儀」とは

某放送局で放映中の『○○フェッショナル』をたまに観る。似たような番組に,他局で放映中の『●●モン流』がある。いずれも,各業界の第一線で活躍する成功者に密着取材し,その華々しい仕事ぶりや充実した私生活と共に,舞台裏での努力や苦労も併せて紹介し,成功の秘訣を探っている。正の要素と負の要素の両方があるから視聴率が取れるのかもしれないが,番組の一環した基調は,やはり“サクセス・ストーリー”だろうと思う。ドキュメンタリー番組ではない。取材される人々が赤裸々に描かれ,その全貌が明かされる,ということはあり得ない。あくまでも,働く姿を,いくつかのアングルから美しく切り取ったものにすぎない。プライバシーの問題もあろうし,番組を通じて伝えられるイメージが,彼らの仕事に少なからず影響する可能性なども考慮すれば,それも致し方ないことかもしれないが。

もちろん,成功の陰にあった過去の数々の苦労や日々のたゆまぬ努力,仕事に取り組む真摯な姿勢に心打たれ,勇気を得ることもあるが,いささか斜に構えて眺めてしまうことも少なくない。番組制作側の意図がどの辺りにあるのか私には図りかねるものの,視聴者はこの番組から何に気づき,何を学ぶだろうか,と疑問に思う。何がしかの不満や悩み・苦しみといった負の想いを誰もが抱え,だからこそ,他人の不幸せや失敗に安堵し,ほくそ笑む人が多いこの現世にあって,仕事で華々しい成功を収め,充実した人生を体現している(ように見える)同時代人を紹介することが,観る人々にとってどんなプラスとなり得るのか。取材され,番組で取り上げられる人々にとっての,いわば“ご褒美的”番組になっているような気がしないでもない。

スピリチュアルな観点からいえば,いくつかの過去生に亘って経験と研鑽を積んできたことは得意である。よく,「すじがいい」とか「才能がある」などと言うが,それは過去生での経験の積み重ね,努力の集積の結果といえる。だから,仮に,いま達人でなくても,誰もがそれぞれの得意分野で前向きな気持ちと努力を怠らない限り,やがては「達人」になりうる,“達人予備軍” であり,“プロフェッショナルの卵” といえる。やがて訪れるであろう未来の自分の姿を重ね合わせ,予習気分で観る分には,夢があって楽しいだろう。成功イメージを潜在意識にしっかりインプットし,植えつけるイメージトレーニング的な効果があるかもしれない。

とはいえ,人生における「成功」とは,いわゆる同番組で映し出されるようなものとは限らないはずだ。その道のプロであることは無価値ではもちろんないが,世間が思うほど,番組が謳い上げるほど,素晴らしいとも思わない。勤勉,ハード・ワークは,間違いなく評価に値する。しかし,どのような仕事に従事しようとも,最も肝心なことは,「他者の利益のためにどれだけ無私の想いで尽くせるか」,それだけだと思うから,「プロフェッショナルね・・・・・・」とつい冷めた目で観てしまう。ひがみと言われてしまえばそれまでなのだが。

英国留学を機に,私は大きな試練を経験することとなった。自分の置かれた状況がそうさせたのか,ある時期から,教育テレビの『福祉ネットワーク』という番組を,時々だが,観るようになった。そんなことでもなければ絶対観なかっただろう。世の中には,想像もつかない困難や経験を生きている人々が少なくないことを知った。例えば,祖国を追われて日本に来たものの,難民として受け入れて貰えず,かといって帰る国もない無国籍のアジアの人々。拒食症に長年苦しむ若い女性たちや幼児虐待の果てに施設で暮らす,心に深い傷を持つ子ども達。悩み・苦しみから,自殺を図るも,未遂で救急搬送される人々。経済的困窮に負いこまれ,生活保護について何も知らず,本気で自殺を考える中高年世代。あるいは,身体的なハンディキャップをものともせず,経済的自立を目指して仕事をし,また,アスリートとしてスポーツ競技に打ち込む人達。そして,そんな彼らに向き合い,心寄り添い,日々全力で支える無名の多くの人びと。普段の生活では決して知りえない人々の存在を,間接的にも知る絶好の機会である。気づきや励ましを得ることが圧倒的に多いのは,前述の番組より,この『ネットワーク』であることは言うまでもない。

逆境の中で,試行錯誤を繰り返し,つまづきながらも,ひたすら前進する人びとの姿は,われわれに多くの教訓を与える。いわわゆる「健常者」の側が,様々なハンディキャップを背負った人々から教わることの方が,その逆よりも圧倒的に多い。また,彼らをサポートするという行為を通じて,大勢の人々が間接・直接に結びついていく。

この世的な成功が悪いわけではない。そうした人々の存在は社会にとって欠かせない。成功を夢見る気持ちは,ひいては自己の成長へとつながり得る。しかし,社会から賞賛や名声を得ることと同じくらい,いや,もしかするとそれ以上に,追求する価値のあること,深い喜びを見い出せることがあるかもしれない。自分にとってそれは何なのか,心静かに内なる声に耳を傾けてみたい


7/18/2012

タイミングと決意が肝心

小田和正さん作詞・作曲の『風と君を待つだけ』。

久しぶりに聴いて,メッセージ性のある曲だと感じました。

『遠景』と重なるメッセージ(夢をあきらめない)もありますが,さらに一歩前進するように,その機が熟しつつあることを伝えているようにも感じられます。

白い帆船の出航準備は整っています。あとは,「強い風」と「君」,つまり,その時期・タイミング(スピリット・ワールドからの後押しも含め)とあなたの(私たちの)踏み出そうとする意志・決意さえあれば,大海へと漕ぎ出せる段階まですでに来ています。

ですから,怯むべきではありませんし,心を閉ざしてもいけません。徒に焦ることなく,好機が到来したら,行動あるのみです。





夢をあきらめないで

遠 景

作詞・作曲,唄: 中村隆道 編曲: 西本 明

つまらぬ悲しみに足をとられて
やけになってしまうよりも
転んで起きたときのあの光景は
いつか強さに変わるはず
豊かな時代に響く笑い声
時々寂しくなるけど
目の前の現実に 背を向けないで
首を傾げるだけでいい

忘れるなよ 決して 君だけじゃないさ
本当の自分を隠して もがいているのは

左手を上げて 右手をあげて
「参りました」と空を仰いだら
報われなくても ほめられなくても
何かをつかむまで あきらめるな

あんなに愛したあの人も今は
どこかで誰かの夢になる
悲しみが肩をたたいて喜びが振り返る
見えぬ春風はやがて吹くさ
今は遠くて追いつけないけれど
いつか辿りつく景色に
ひとにぎりの友達と一人だけの君が
そばにいてくれるだけでいい

忘れるなよ いつも どこかで誰かが
言い出せない君を信じて 見つめてるのを

左手を上げて 右手をあげて
「参りました」と空を仰いだら
報われなくても ほめられなくて
何かをつかむまで あきらめるな

左手を上げて 右手をあげて
「参りました」と空を仰いだら
報われなくても ほめられなくても
何かをつかむまで あきらめるな

何かをつかむまで あきらめるな



1990年代半ばにリリースされたシングルCDの曲で,中村隆道さんのデビュー曲です。(当時,少しだけ面識があった方です。)

作詞者本人へのメッセージにもなっていると感じますが,誰が聞いてもなにか感じるものがあるでしょう。 

夢に向かって進む道程で,いかなる困難に出会おうとも,苦しいのは自分だけじゃない。苦労は自分を強くし,自分の肥やしになる。だから決して降参してはいけない。諦めずに歩み続けていけば,必ず苦労は報われ,実を結ぶ,というのが一貫したメッセージのようです。「遠景」は「夢」と受け取ることもできます。

サビの部分の歌詞(「参りました」と空を仰いだら)は,「天に委ねる」(自力で何とかしようと悪あがきするというより),とも解釈できます。天に委ねつつも,諦めず前進し続ける,ということかもしれません。なぜなら,「いつも どこかで誰かが・・・君を信じて 見つめてる」,つまり,私たちのスピリット・ガイドが必ずや見守り,導いているのですから。

歌い出だしの部分(「・・・転んでおきたときのあの光景は いつか強さに変わるはず」)や1回目のリフレインの後の,「悲しみが肩をたたいて 喜びが振り返る 見えぬ春風はやがて吹くさ 今は遠くて追いつけないけれど いつか辿りつく景色」が示すように,困難や苦労は自分のかけがえのない糧となり,いつか必ず何らかの形で報われます。

7/09/2012

21 人生はプランに従う

閉め切られたドアを忙しく叩いてはいけません.自然に開くのを待つのです. 宇宙全体だけでなく一人一人の人間にも,きちんとした計画があります. そのプランが実行に移されていくのです. ・・・私たちはそのプランのもとに,私たちのやり方で私たちのタイミングで事を運ぶしかないのです.人間側の都合に合わせるわけにはいかないのです
 
その理由の一つは,
人間には自分にとってどうなるのが一ばん良いかが判断できないからです.物質的に,精神的に,そして霊的にあなたに何が一ばん望ましいかを判断するには,私たちの方が有利な立場にあります.
 待つのです.きっとドアは開かれます.
 
 

『シルバーバーチの霊訓  第10巻』  p. 172.



人生では思ったように物事が進まないことがあります.それがたまに起こるなら何とか対処できても,そういう状態が長期に及ぶのはとても辛いもの.自分自身の努力で解決が図れる問題ならともかく,相手があることや,とりあえず為す術がない,現状維持に甘んじなければならない場合は特に大変です.例えば,就職先が決まらない,恋愛や結婚の話が進まない,職場や家庭内のトラブル,などは本当に消耗します.

多くの問題は,自分の心の持ち方や考え方,行動を変えることによって,何らかの変化が見られるでしょう.しかし,自分の言動を変えても何をどうやっても状況が変わらない場合には,問題の受け止め方を変えるしかありません.大きく分けて,2つのアプローチがあります: 1)願望を変えるか,諦める(軌道修正); 2)今は結果が出る時期ではない,と受け止めて,一切の抵抗を辞め,できることをしながら時を待つ(「人事を尽くして天命を待つ」,つまり一種の諦念と辛抱)です.

宿命(意志力で変えられない部分)と運命(自分次第の部分)は違う,人間は霊界の操り人形ではない,自由意志こそが大切,とよく言われますが,個人的には,宿命の占める割合のほうが運命よりも大きいのではないか,と感じることが多いです。自由意志発動の範囲も,負うべきカルマによって,ある程度制約を受けています。

ですが,基本的には,前向きな気持ちさえ忘れなければ,そして,日々努力している人であれば,霊的な世界を信じようと信じまいと,必ずなるようになります.

いかなるときも自分自身を信じることが大切です. 

6/12/2012

無関心は残酷 −見えない相手も思いやる気持ちを

顔が見えないコミュニケーションは難しい。例えば,電話での会話,オンラインでのチャット,メールのみでの付き合い,一部のSNS経由での遣り取りなどがそれにあたる。家族,友人,知人との顔が見えるコミュニケーションでさえ充分難しいのに,面識の全くない人々との遣り取りともなればなおさらだ。言葉とは本来曖昧なもので,意志伝達手段として完璧とはいえない。社会言語学でよく言われるのは,言葉による情報量よりも,顔の表情やしぐさ(ジェスチャー)といったノン・バーバルコミュニケーションによる情報伝達量の方が多い,ということ。これに対しては否定的な見解もあるのだが,例えば,「ありがとう」という言葉も,優しい笑顔で言われれば感謝の表現だが,こわばった表情では,困惑と受け取られかねないことを考えれば,あながち否定できないだろうと思う。

もう少し堅苦しい話にお付き合いいただければ,よりよいコミュニケーションのためには,相手がどんな人かを適切に知ることが不可欠だ。「どんな人か」には,その人が「どんな人だと思われたいか」ということも含まれる。そのいわば“共有してほしい自己イメージ” (専門的には "face" = 体面 と呼ばれることもある) は,必ずしも自分の真の姿と一致しないことも多いし,一致する必要はない。自己評価が高い人や,逆に低い人など様々な人がいる。自分を正しく知ることは意外に難しい。が,いずれにせよ,相手の face を正しく把握し,こちらの face もちゃんとわかってもらえないと,互いに話が噛み合わない,ということも充分に起こりうるわけだ。日本語でも,「顔を潰す」「顔を立てる」「面子が丸つぶれ」といった表現があるが,自己イメージを否定されて不快だったり,逆に,尊重してもらえたことを言い表している。もの言わぬ壁に向かって話すなら別だが,人間同士が関わる限り,"faceless" なコミュニケーションは存在しない。このように,理論的にみても,面識のない人と,文字通り「顔が見えない」状況下で行う会話は,少なくともどちらかが不愉快な思いをせずに成立する確率は非常に低い,と言える。

確かにその通りなのだろう。でも,人間にはだれにも「見えないものを感じとる力」や「想像する力」,即ち「インスピレーション」が備わっている。そのひとつの顕れが芸術だ。われわれは美しい音楽を聞いてこころ癒され,演劇を見て涙し,感動する。この生まれつき備わった能力を駆使すれば,「顔がなくなりがちな」コミュニケーションになるという,高い壁を少しだけ低くすることは決して不可能ではない。そんなことを考えさせられる出来事がいろいろある。

最近気になるのは,相手の状況や気持ちを気にかけることも想像することもなく,ほぼ一方的に話してくる人々の存在。どういうわけか,私は「話しやすい,いい人」で,文句も言わずに,まるで母のように「自分を受け入れて,話をやさしく聞いてくれる人」という位置づけらしい。だから,平気で(プチ)自慢したり,普通であれば,かなり親しくならなければ話さないような話題もぽろっと話す。例えば,過去には,こちらがお金を払ってかけた電話相談で(1分刻みで料金が発生する),鑑定士の愚痴やら身の上話に付き合ったことも少なくない。相談者の私が相談にのってもらえるはずの占い師の相談に乗るという立場が逆転した状態だ。その一方で,彼らが,妙に上から目線でモノを言うことが度重なったため,耐えかねて会社に意見したことも。また,オンラインで交流のある人々の中にも,自慢話をしに私のところへわざわざやってくる暇な人々がいる。それでいて,話を聞いてくれてありがとう,というのではない。そもそも,面識のない相手には関心がない。だから,感謝もない。いや,なにも感謝されたいのではない。彼女らの無関心さ,思いやりの欠如,もっと言えばその無思慮と自己中心性が悲しいのだ。私としては,ひとに好かれたくていい人を演じているつもりはなく,自分が理想とするモラルにできるだけ沿う形で行動しようと努めているだけだ。自分の感情を最優先したり,やたらと自慢話をしたり,ひけらかしたり,一方的に甘える,といったことをできるだけしないようにしている(つもり)のだが,その結果,不愉快な思いをするというのは,どう捉えたらよいのか。もちろん,私も,気づかないうちに誰かに嫌な思いをさせてきただろうし,させているに違いないのだが。

本当に満たされた人,即ち,幸せな人は,誰かのために役立ちたい,ひとの幸せのために働きたい,と思うものだ。彼ら・彼女らの言動から察するに,そこまで満たされているわけでもなさそうだ。物心共に「ほどほどに」満たされて,且つ,本当の苦しみ・痛みを知らない人々は,どちらかといえば残酷とも思える言動を平気で取るかもしれない,と感じる。いまのその一言が,相手を不快にしたり,傷つけているかもしれない,といったことはみじんも考えないで。

ここに「甘え」を見て取ることもできる。「自分の話に同調してくれて当然」,「自分をわかってくれて,楽しい気持ちにさせてくれて当たり前」という甘えだ。冷たいようだが,私には面識も無い彼女らの話を聞く「義務」など全くないし,仮に,話に付き合ったとしても,彼らの感情を優先したり,理解しようとする努力を払う必要もない。ある人は,短いやり取りの後で,「愚痴を言ってすみません」と述べた。この人などは,まだわきまえている部類だ。それどころか,人の好意に乗じて,さらなる手柄話をひけらかすひとの方が数の上で圧倒的に優るから油断も隙もない。
「腹八部」というが,ある人々は,人付き合いは「腹六部」,と言う。相手がどれほど親しかろうと―家族であろうが,親しい友人であろうが―自分の思いをすべてさらけ出すのではなく,画すべき一線は画し,自分の腹におさめるべきはおさめ,相手を思いやり,尊重して対するべき,ということだろう。自分の思いを相手構わず無思慮に丸投げするのは,子どものすることだ。 

痛みを知らない人に,痛みを知る人々と同じ感性を求めるのは無謀だし,過大な要求かもしれない。そして,なにより言葉に依存するコミュニケーションには限界がある。とくに顔が見えない会話は難しい。だからこそ,私たちは注意しなければならない。せめて次の点だけでも心に留めたい。まず,距離を取ること。人とのこころのスペースを普段より多めにとろう。そして,もう少しだけ相手のことを考えて,コミュニケーションをとることを意識しよう。その人はいまどんな暮らしをしているのか,どんな思いでいるだろうか,自分のことばをどのように受け止めるだろうか,といったことに少しだけ(詮索ではなく)思いを馳せてもらいたい。人の数だけ人生があり,考え方・感じ方があり,相手はあなたと同じ人間ではないのだから。

5/04/2012

Loneliness as a period of growth and healing 淋しさは成長と癒しのために

"One of the most surprising things about the readings given for people who were lonely and were looking for friends, companionship, or a marriage partner is that Cayce never told them where to find a relationship.  Instead, the focus of the information was that there was something individuals were supposed to be doing with their time alone.  Oftentimes, the readings saw loneliness as a period needing to encompass both personal growth and healing as well as a time of reaching out to others who were less fortunate.  Individuals who were suffering from all kinds of lineliness were freuqnetly told to begin discovering their unique soul talents and abilities and to find ways in which they could be helpful to others.  Cayce believed that once individuals put their efforts in these directions, relationships would inevitably be drawn to them."

孤独で,友人や結婚相手を探している人々へのリーディングに関して,最も驚くべきことのひとつは,ケイシーがどこに相手を探しにいけばよいか決して言わなかったことだ。代わりに,情報は,各自がひとりの時になすべきことがあることに焦点を合わせた。往々にして,リーディングは,孤独を,自分よりも恵まれない人々に手を差し伸べる時期であると同様,個人的な成長および癒しを達成する時期とみていた。どのような孤独感であれ,淋しい人々は頻繁に,各自に備わった才能や能力を発見し,他の人々を助ける方法を見つけるように言われた。ケイシーは,一旦各自がそうした方向性で努力すれば,必ずパートナーを引き寄せることになるだろうと信じていた。

Kevin Todeschi (1999). Edgar Cayce on Soul Mates: Unlocking the Dynamics of Soul Attraction. pp. 132-133.



困難への対処法(4-2)-孤独なとき

前回の記事では,孤独感への応急措置的対応として,早めの就床と規則正しい生活を提案しました。その後,もう少し前向きな提案はできないものかと考えていたところ,少し興味深いブログに出会いました全ての記事に目を通してはいませんが,たとえばこの記事こちらこちらも参考になるかと思います。似たような感情を経験したことがあれば,共感できて少しは癒されるかもしれません。

これらの記事でも少し触れられていますが,できるだけスピリチュアルな観点から孤独感の軽減(解消ではない)に役立つポイントを2つ提案します。非常に単純なことですが:


1.人と交流する

 


2.自分が助けられる誰かを助ける(もしくは,すべき仕事や活動に専念する)



です。今回はまず,1の「人との交流」について述べてみたいと思います。これは,身近に家族や友人がいても理解されない,心が通わないと感じて孤独を感じるケースと,物理的に独りで,なお且つ孤独感を持っているケースのどちらにも有効でしょう。

但し,交流に際してはおさえるべきポイントがあります。まず,誰彼構わず交流するのではなく,ある程度慎重に相手を選ぶ必要がある,ということです。能天気に明るいタイプ,他者に批判的なタイプ,いわゆる強い性格の人や,自分と同じように何らかの辛さを抱え込んでいて余裕のない人々は避けるのが賢明でしょう。上辺の優しさではない情があって,他愛ない会話の楽しめる人,自らも苦労を乗り越えてきた人,包容力のあるタイプの人々は理想的ですが,自分の感覚で,この人なら安心できると思える人であれば大丈夫です。ご縁のある人々との出会いがあって,必ずわかります。よく,「家族がいてもいろいろあるし,誰にも悩みはあるから」ともっともらしい見解を述べて,軽く受け流す人がいます。「甘いわ」と言いたげな様子が垣間見えることも。全く見当違いというわけではありませんが,ほかの苦しみ同様,孤独は自ら経験しないとわからない痛みであって,「私には経験がないからわからない」というのが,最も誠実で適切な返答のはず。このように,人の苦境を想像しようとさえしない,もしくは理解できる素地のない人や,自分の問題で精一杯の人々は回避します。警戒心や恐怖心,不信感,不安感が刺激されそうな相手には極力近づかないことです。そして,悩みを聞いてもらう,というよりも,あくまでも対等な立場で,何気ない会話を楽しむことが肝心です。つまり,互いの生活や心の中に踏み込みすぎず,ある一定の距離―少し遠いと感じるくらいが適当―を保ちながらお付き合いすること。「交流」には“適度な距離感を保った付き合い”という含みがあります。相手を選び,一定の距離感を保つ―この2点に留意して,無理のない範囲で取り組むことが大切です。こうして上手に交流することには,癒しの効果があります

深い孤独感に悩む人々は,無関心の冷たさをよくわかっていると言えます。そして,程度の差こそあれ,心に傷を抱える人々でもあります。それは,理解されない寂しさ,認められない悔しさや悲しみ,低下した自己評価,自己否定や自己卑下の想い,先に希望が見出せない絶望感など様々で,これらのいくつかを経験しています。さらに,様々に渦巻く思いを心に閉じ込めたまま,自分の良さをも表現できないでいることがあります。従って,受容的な優しい人,自己表現しやすい相手,傷が刺激されない人々を選ぶことが大切です。自己否定感や無価値感,そばにいると淋しさを強めかねない人々との接触は避けます。「岩をめぐりて流れゆく」です。

相手さえ選べば,人との交流が癒しになるのは,交流を通じて人間の本質である,不可視のエネルギーを受け取ることができるからです。私たちの本来の状態は,肉体ではなく光のエネルギーで,たましいとか,ソウル(soul) などと呼ばれます。これは,「神性」と言い換えることもできます。神性とは,「愛」や「智恵」と呼ばれる,広範で抽象的な概念であり,エネルギーです。つまり,人間は誰もが愛と智恵でできている,とも言えます。ただ,地上を生きる上で必要な肉体を持つと,この本質の部分が弱まり,代わりに,生存(競争?)に必要な,防衛本能という名の「エゴ」(自分の福利厚生が最優先,という観念)が強くなります。そのため,地上では人間関係上の問題が起こりやすくなり,修行の場としてよく機能するともいえるのですが,癒しに有効なエネルギーを得られるのもまた,人を通じてです。淋しさを感じていたり,傷ついている時には,この本来持てるエネルギーが弱まっているので「プラスの想いやことばだけ」を上手に受け取ることができれば,私たちに本来必要なエネルギーを補給することができる,というわけです。

* * *

孤独感の軽減には,孤独を否定的に捉えすぎないことも非常に大切です。孤独感は,信頼できる人間関係の不在や,関係性がうまく機能していないことに由来することが多いでしょう。過去生にその原因を遡ることができるケースもあります。どのような原因であっても,人間が抱える悩みや問題に,人間関係が絡まないものは何ひとつないことを考えると,孤独もひとつの学びの機会であるといえます。だれの問題であっても,孤独は否定的に捉えられるべきではありません。

そして,孤独な時期には,人は自分と向き合うことを余儀なくされます。自分を見つめ,自分を知ることができます。自分の至らなさだけでなく,隠れた才能や美点にも気づくことができるチャンスです。と同時に,人間の心や人生について多くを学ぶチャンスでもあります。周囲の人々の言動を静かに観察・分析し,思い巡らせることは,日常生活に追われ,人間関係に恵まれ,人生が順調に進んでいるときには難しいことです。このように考えれば,孤独な時期は,内観と洞察を深める絶好の機会となり得るのです。孤独に伴う感情的な痛みを否定せずに認め,受け入れた上で,いましかできないこと,いまだからできることを探すことが,真に前向きな生き方といえます。

読みたい本(7)

  千賀一生。『ガイアの法則』ヒカルランド。 いまの時代に読むべき必読書です。 正・続2冊ありますが、1冊目の裏表紙に印刷されている言葉を以下に紹介します: 宇宙に,聖なる16ビートが存在することを告げるガイアの法則— 新型コロナとの驚くべき精緻なる関係性も明らかに! 地球の歳差...