7/26/2014
大切なものはここにある
自然がどれほど美しいか
ひとは気づいていない。
気づきさえすれば
人類を取り巻く環境は
ずい分改善されるだろうに。
ひとは近くにあるものを見ずに
遠くの星ばかり追い求める。
最も大切なものは足元にあって
誰にも
必要なものが全て与えられている。
「いま」という時を
慈しんで生きることが大切。
7/17/2014
腐ったりんごは1つだけ―客観的思考は大切
"One rotten apple spoils a hundred [または its neighbours]." というラテン語起源のことわざがある。箱の中の腐った1個のリンゴは,他の新鮮なリンゴもすべて腐らせてしまう,つまり,悪人は,たとえ一人でも,周囲の多くの人間に悪影響を及ぼす,という意味らしい。(だから,悪い芽は早急に摘み取らなければならない,という発想か?)しかし,虚心に考えると,箱の中に腐ったりんごが1つあるからといって,残りのリンゴも全部腐っているわけではない。それならば,腐ったリンゴだけ取り除けばよいのではないか。
退行催眠を受けて,現在の心身の症状に影響を及ぼしている過去生での出来事を知り,その症状を改善・解消するヒプノセラピーは,アメリカの精神分析医B. ワイス博士の著書,Many Lives, Many Masters. と Through Time into Healing. (『前世療法 上・下』 山川訳) で一躍世界に知られるようになった。日本のテレビ番組でも紹介されたと,昔の友人が話していた。私自身,退行催眠を何度か試したことがあるが(スピリット・ガイドから強く促されて),相性の良いセラピストと出会い,深い催眠状態に入ることができれば,大変気持ちがよい。症状を改善したいというよりも,ある情報を得たくて受けた。欲しい情報は得られなかったものの,エネルギーレベルの癒し(オーラの浄化)と,思いがけない発見や学びがあった。過去生の情報は,第三者を介して教えてもらう方が信憑性が高いような気がして,ヒプノセラピーからはすっかり遠ざかってしまったが,セラピー自体を否定するつもりは全くない。(退行催眠で過去生を知ることができる患者は6割程度とされている。)日本にも,患者さんの過去生を視て,薬を使わずに心身の症状を改善される有名な精神科医(生まれつきの霊能者)もおり,そうした人々の著書を読み,話を聞くにつけても,多くの人々にとって非常に有効なセラピーだと信じている。
最近知った面白い実例に,ワイス博士の娘さん (Amy E. Weiss) のケースがある。25歳の若さで,目に白内障の症状が出た彼女は,眼科医に失明の可能性も宣告された。なぜ老人が罹る病気になったのか不思議に思った彼女は,当時勤めていた病院で,ワイス博士がワークショップを開催することになったため,試しに退行催眠を受けて白内障の原因を探ることにした。しかし,それまで,誘導瞑想を体験しても寝てしまうことが多くて,効果はあまり期待していなかったとか。
催眠状態に入ってすぐに,14-5世紀頃の長い白髪の老人が現れた。彼は,自然をこよなく愛する,いわゆる世捨て人で,自己完結していて,町の人々と全く関わりを持たなかった。人々は,彼が魔法使いで,何か不吉なことを企んでいると信じて,彼の小屋に火を放ち,すべて焼き払ってしまった。その炎は,彼の目をも焼いてしまい,老人は失明する。そして,心も深い悲しみに塞がれしまった。「人生の最後に行って,その人生についてメッセージを受け取ってください」というワイス博士の指示があり,彼女はひとつのメッセージ,"Sadness clouds the eyes." (悲しみは目を曇らせる),を受け取った。メッセージは,白内障の症状も示唆しているが,当時の彼女には,まだ人生の方向性がよく見えておらず,それは,失明した老人の過去生から持ち越した「悲しみ」と関係があるのではないかと思った(彼女自身の人生テーマとして,「悲しみ」があるようだ)。退行催眠を受けてから数年後に,白内障の症状は見事に消えてなくなり,ワイス博士を驚かせた。
エイミー・ワイスさんは,なぜ白内障がきれいに消えたか,その医学的な説明にあまり関心はない,と言う。彼女の心を動かしたのは,目の症状が無くなったこと,癒しが起こったという事実だ。そして,父であるワイス博士が,多くの人々を癒してきたことの素晴らしさを,自らの体験を通して実感されたのである。
前世療法については,賛否両論ある。クライアントは,自分のものだと思っている前世が,実はクライアントに憑依している霊の前世の場合がある,という根拠で,やや否定的な見解や,価値を軽んじるようなニュアンスの発言がなされる。英国系スピリチュアリズムを信奉する人々の間に多い。実に,『シルバーバーチの霊訓』にも同趣旨の記述があるので,そうした事実は確かにあるのだろう。しかし,だからといって,前世療法はすべて無意味で効果がなく,所詮クライアントの想像力の産物なのだ,と結論づけるのはあまりに短絡的だ。ワイス博士は,想像力では症状は改善されない,と明言する。具体的にどういった療法なのか,そして,患者たちはどういう過去生を見て,どういう症状がどのように緩和・改善されたかという事実をつぶさに調べもせず,一部の情報だけに基づいて判断してはいないだろうか。退行催眠を受けた患者の中には,あとで歴史的調査を行い,裏付けが取れたケースも少なくないという。ワイス博士の近著,Miracles Happen. には,実際に退行催眠を受けた大勢の人々の手記が掲載されており,一人ひとりにとって,様々な気づきの機会になっていることがよくわかる。
仮に,みえた過去生が自分のものでなかったとしても,セラピーによって憑依していたエネルギーが癒されたとすれば,そして,そのことで自分もラクになったならば,それでよいのではないか。癒されたのは,(だれかの)過去生(か何らかの想い)には違いないわけで,それが本当は誰のものだったかということは,最終的には重要な問題ではないかもしれない。間違えて自分のものだと思い込んでいたとしても,それで誰かを傷つけたり,大きな問題を引き起こすことがなければ,よいのではないか。
少なくとも,ワイス博士をはじめとするヒプノセラピストの基本的な仕事は「誘導」であって,これは,クライアント自身が気付けるように手助けする作業だ。霊能者のように,霊能によって過去生の情報を得て,相談者に伝えるのではない。従って,ヒプノセラピーとは,あくまでも,クライアント主体のアプローチと言える。催眠中に,当時の感情を再体験して(思い出す),癒しが起こる(古いエネルギーを解放する)わけだが,百聞は一見に如かず,体験に勝る薬はないわけで,当たるか当たらないかわからない霊能者に相談するより,遥かに効き目があるかもしれない。症状改善以外に,いろいろな気づきが得られる。生命は一度きりのものではない,人生を通じて人は成長し,愛の絆は切れることがない,など多くの気づきが,書店に並んでいる本を一冊買ってきて読むより,多くの実感を伴って得られるかもしれないのだ。
人によって,真理に出会うルートはさまざまである。悩み・苦しみを経て,という部分は概ね共通しているだろうが,それ以外の点については,これでなければだめ,というものはない。人の数だけ道のりがあり,気づきのスタイル,学びの方法がある。ヒプノセラピーも,数あるルートの中の一つとして認められるべきではないか。1つ腐ったりんごがあったからといって,すべて腐っているわけではないのだから,箱ごと処分するのはもったいない。腐った1個のリンゴを取沙汰して,リンゴという果物全体を否定するのも実におかしなことである。
スピリチュアルな世界で生きる人々の見解というものは,確かに傾聴の価値はある。が,まず,何よりも事実を,現実を自分の目でよくみて確かめて,その上で,自分の頭で虚心に考えることが大切かもしれない。それは,ただの猜疑心や不信心とは違う。看板を盲目的に信奉したり,著名人の見解を鵜呑みにしない,ということだ。自分を信頼する,と言い換えても同じかもしれない。自分を信頼して,できる限り客観的にものを見,考える癖を。自戒の意味でも記しておきたい。
* * *
退行催眠を受けて,現在の心身の症状に影響を及ぼしている過去生での出来事を知り,その症状を改善・解消するヒプノセラピーは,アメリカの精神分析医B. ワイス博士の著書,Many Lives, Many Masters. と Through Time into Healing. (『前世療法 上・下』 山川訳) で一躍世界に知られるようになった。日本のテレビ番組でも紹介されたと,昔の友人が話していた。私自身,退行催眠を何度か試したことがあるが(スピリット・ガイドから強く促されて),相性の良いセラピストと出会い,深い催眠状態に入ることができれば,大変気持ちがよい。症状を改善したいというよりも,ある情報を得たくて受けた。欲しい情報は得られなかったものの,エネルギーレベルの癒し(オーラの浄化)と,思いがけない発見や学びがあった。過去生の情報は,第三者を介して教えてもらう方が信憑性が高いような気がして,ヒプノセラピーからはすっかり遠ざかってしまったが,セラピー自体を否定するつもりは全くない。(退行催眠で過去生を知ることができる患者は6割程度とされている。)日本にも,患者さんの過去生を視て,薬を使わずに心身の症状を改善される有名な精神科医(生まれつきの霊能者)もおり,そうした人々の著書を読み,話を聞くにつけても,多くの人々にとって非常に有効なセラピーだと信じている。
最近知った面白い実例に,ワイス博士の娘さん (Amy E. Weiss) のケースがある。25歳の若さで,目に白内障の症状が出た彼女は,眼科医に失明の可能性も宣告された。なぜ老人が罹る病気になったのか不思議に思った彼女は,当時勤めていた病院で,ワイス博士がワークショップを開催することになったため,試しに退行催眠を受けて白内障の原因を探ることにした。しかし,それまで,誘導瞑想を体験しても寝てしまうことが多くて,効果はあまり期待していなかったとか。
催眠状態に入ってすぐに,14-5世紀頃の長い白髪の老人が現れた。彼は,自然をこよなく愛する,いわゆる世捨て人で,自己完結していて,町の人々と全く関わりを持たなかった。人々は,彼が魔法使いで,何か不吉なことを企んでいると信じて,彼の小屋に火を放ち,すべて焼き払ってしまった。その炎は,彼の目をも焼いてしまい,老人は失明する。そして,心も深い悲しみに塞がれしまった。「人生の最後に行って,その人生についてメッセージを受け取ってください」というワイス博士の指示があり,彼女はひとつのメッセージ,"Sadness clouds the eyes." (悲しみは目を曇らせる),を受け取った。メッセージは,白内障の症状も示唆しているが,当時の彼女には,まだ人生の方向性がよく見えておらず,それは,失明した老人の過去生から持ち越した「悲しみ」と関係があるのではないかと思った(彼女自身の人生テーマとして,「悲しみ」があるようだ)。退行催眠を受けてから数年後に,白内障の症状は見事に消えてなくなり,ワイス博士を驚かせた。
エイミー・ワイスさんは,なぜ白内障がきれいに消えたか,その医学的な説明にあまり関心はない,と言う。彼女の心を動かしたのは,目の症状が無くなったこと,癒しが起こったという事実だ。そして,父であるワイス博士が,多くの人々を癒してきたことの素晴らしさを,自らの体験を通して実感されたのである。
* * *
前世療法については,賛否両論ある。クライアントは,自分のものだと思っている前世が,実はクライアントに憑依している霊の前世の場合がある,という根拠で,やや否定的な見解や,価値を軽んじるようなニュアンスの発言がなされる。英国系スピリチュアリズムを信奉する人々の間に多い。実に,『シルバーバーチの霊訓』にも同趣旨の記述があるので,そうした事実は確かにあるのだろう。しかし,だからといって,前世療法はすべて無意味で効果がなく,所詮クライアントの想像力の産物なのだ,と結論づけるのはあまりに短絡的だ。ワイス博士は,想像力では症状は改善されない,と明言する。具体的にどういった療法なのか,そして,患者たちはどういう過去生を見て,どういう症状がどのように緩和・改善されたかという事実をつぶさに調べもせず,一部の情報だけに基づいて判断してはいないだろうか。退行催眠を受けた患者の中には,あとで歴史的調査を行い,裏付けが取れたケースも少なくないという。ワイス博士の近著,Miracles Happen. には,実際に退行催眠を受けた大勢の人々の手記が掲載されており,一人ひとりにとって,様々な気づきの機会になっていることがよくわかる。
仮に,みえた過去生が自分のものでなかったとしても,セラピーによって憑依していたエネルギーが癒されたとすれば,そして,そのことで自分もラクになったならば,それでよいのではないか。癒されたのは,(だれかの)過去生(か何らかの想い)には違いないわけで,それが本当は誰のものだったかということは,最終的には重要な問題ではないかもしれない。間違えて自分のものだと思い込んでいたとしても,それで誰かを傷つけたり,大きな問題を引き起こすことがなければ,よいのではないか。
少なくとも,ワイス博士をはじめとするヒプノセラピストの基本的な仕事は「誘導」であって,これは,クライアント自身が気付けるように手助けする作業だ。霊能者のように,霊能によって過去生の情報を得て,相談者に伝えるのではない。従って,ヒプノセラピーとは,あくまでも,クライアント主体のアプローチと言える。催眠中に,当時の感情を再体験して(思い出す),癒しが起こる(古いエネルギーを解放する)わけだが,百聞は一見に如かず,体験に勝る薬はないわけで,当たるか当たらないかわからない霊能者に相談するより,遥かに効き目があるかもしれない。症状改善以外に,いろいろな気づきが得られる。生命は一度きりのものではない,人生を通じて人は成長し,愛の絆は切れることがない,など多くの気づきが,書店に並んでいる本を一冊買ってきて読むより,多くの実感を伴って得られるかもしれないのだ。
* * *
人によって,真理に出会うルートはさまざまである。悩み・苦しみを経て,という部分は概ね共通しているだろうが,それ以外の点については,これでなければだめ,というものはない。人の数だけ道のりがあり,気づきのスタイル,学びの方法がある。ヒプノセラピーも,数あるルートの中の一つとして認められるべきではないか。1つ腐ったりんごがあったからといって,すべて腐っているわけではないのだから,箱ごと処分するのはもったいない。腐った1個のリンゴを取沙汰して,リンゴという果物全体を否定するのも実におかしなことである。
スピリチュアルな世界で生きる人々の見解というものは,確かに傾聴の価値はある。が,まず,何よりも事実を,現実を自分の目でよくみて確かめて,その上で,自分の頭で虚心に考えることが大切かもしれない。それは,ただの猜疑心や不信心とは違う。看板を盲目的に信奉したり,著名人の見解を鵜呑みにしない,ということだ。自分を信頼する,と言い換えても同じかもしれない。自分を信頼して,できる限り客観的にものを見,考える癖を。自戒の意味でも記しておきたい。
6/14/2014
Inner journey only you can make あなたにしかできない旅
I am aware that spiritual teachers can point the way and give me techniques, but that is not enough.
Spiritual process is an inner journey that ultimately only you can make.
わたしは,スピリチュアルな師は道を示し,テクニックを教えることができるけれども,それだけでは十分でないことに気づいています。
霊的成長プロセスは,最終的にはあなたにしかできない内なる旅です。
心の支えを,自分の外に求めるのが人間の常なのかもしれませんが,外に探しているうちは,本当の意味で前進することも成長することもできません。
書籍などを利用して学ぶことも含めて,自分の心を満たすもの,幸福にするものは,試行錯誤しながら自ら模索するしかありません。いつまでも特定のブログや誰かのことばにすがり続ける態度でいて,いいはずなどありません。
Spiritual process is an inner journey that ultimately only you can make.
Brian Weiss,MD (2003)
わたしは,スピリチュアルな師は道を示し,テクニックを教えることができるけれども,それだけでは十分でないことに気づいています。
霊的成長プロセスは,最終的にはあなたにしかできない内なる旅です。
心の支えを,自分の外に求めるのが人間の常なのかもしれませんが,外に探しているうちは,本当の意味で前進することも成長することもできません。
書籍などを利用して学ぶことも含めて,自分の心を満たすもの,幸福にするものは,試行錯誤しながら自ら模索するしかありません。いつまでも特定のブログや誰かのことばにすがり続ける態度でいて,いいはずなどありません。
6/12/2014
ひとの評価
「評価してほしい」と思っているときほど,評価はしてもらえないものです.評価される人には共通点があります.どれだけ自分以外の人のために役に立てるか,それを常に意識しながら仕事をしていることです.
自分の評価のことを考えて仕事をしても,評価はされません.自分以外の人のことを考えた仕事ができたとき,評価という結果がついてくるのです.
使命感から取り組んだ結果として,または(個人的な好悪の感情や名誉欲といったエゴではなく)職務に忠実に努力した場合に,高く評価されやすいということは確かにあるでしょう。しかし,評価を受ける理由は,実は様々です。過去生で自ら積んだプラスの貯金の結果(正のカルマ)として,または,先祖の徳によって,というケースもあります。実力の割に高い地位に就くなど,いわゆる“仕事運が強い”タイプに多いようです。その代わり,他方面の運(異性運など)が弱いかもしれません。全てを同じ分量で持つ,ということはそうあることではありません。すべては因果律に従う,という意味で,誰もが平等ではありますが,しかし,人生は人それぞれです。
何をするにも,動機が大切,ということは紛れもない真実ですが,人間社会の評価というものは,多分に「相対的」なものだ,という認識も必要です。
行動の動機が,「人に認められたい」,「人から高く評価されたい」という想いであるとき,その背後には何らかの「淋しさ」が隠れているかもしれません.あるいは,自信のなさかもしれません.その場合には、まず自分で自分を認められるようになることが大切かもしれません。
自分の評価のことを考えて仕事をしても,評価はされません.自分以外の人のことを考えた仕事ができたとき,評価という結果がついてくるのです.
江原啓之 『スピリチュアル処方箋』 pp. 94-5.
使命感から取り組んだ結果として,または(個人的な好悪の感情や名誉欲といったエゴではなく)職務に忠実に努力した場合に,高く評価されやすいということは確かにあるでしょう。しかし,評価を受ける理由は,実は様々です。過去生で自ら積んだプラスの貯金の結果(正のカルマ)として,または,先祖の徳によって,というケースもあります。実力の割に高い地位に就くなど,いわゆる“仕事運が強い”タイプに多いようです。その代わり,他方面の運(異性運など)が弱いかもしれません。全てを同じ分量で持つ,ということはそうあることではありません。すべては因果律に従う,という意味で,誰もが平等ではありますが,しかし,人生は人それぞれです。
何をするにも,動機が大切,ということは紛れもない真実ですが,人間社会の評価というものは,多分に「相対的」なものだ,という認識も必要です。
行動の動機が,「人に認められたい」,「人から高く評価されたい」という想いであるとき,その背後には何らかの「淋しさ」が隠れているかもしれません.あるいは,自信のなさかもしれません.その場合には、まず自分で自分を認められるようになることが大切かもしれません。
5/24/2014
困難への対処法(4-3)-孤独なとき
エドガー・ケイシーのライフ・リーディングは,孤独の時期を,自分よりも恵まれない人々に援助の手を差し伸べる時であるとともに,個人的な成長と癒しを経験しなければならない時,と捉えています(Todeschi 1999: 133)。ケイシ―のリーディングでは,様々な孤独感に悩む相談者たちに,「自分の才能や能力が何であるかを探しはじめて,他の人々に役立つ方法を模索しなさい」というアドバイスが非常に頻繁に与えられた,とあります(Todeshi 133)。孤独の理由は必ずしも1種類ではありません。ケイシーにリーディングを受けた人々の中には,自分の性格的な傾向のために,みずから孤独な状況を作り出していると指摘されたケースや,過去生にその原因を遡ることができる場合もありました。(孤独感の理由も様々なら,その深さや感じ方も人により異なりますが,信頼できる誰かと,時空を共有することで解消される程度の “寂しさ” は,当記事の対象外です。)
例えば,36歳の男性は循環器系統の問題でフィジカル・リーディングを受けましたが,彼には友人関係が長続きしないという悩みもありました。その原因を尋ねたところ,男性には批判精神とカウンセラーの才能があって,人々を引きつけるものもあるが,アドバイスを求められると,自分の意見を述べることにこだわりすぎていた為,援助を求められた時はいつでも,自分がどれほど知っているかに満足するのではなく,相手の役に立つことに焦点を合わせるようにアドバイスされました (Todeshi 140-141)。
また,51歳の芸術家は,人から認めてもらえない不満と孤独感を常に抱えていましたが,他の人々を認める態度を培うように言われました。自分が出すものは,最終的に自分に戻ってくるものだ,と (Todeschi 143)。
ある11歳の少女の両親は,少女はひとりで時間を過ごすことに長けており,これは天与の才であるが,他の人々ともよい仲間となるように助言されています。彼女には批判的過ぎる傾向があり,これが矯正されなければ,ゆくゆくは孤独になってしまうだろう,と。「他者の欠点を大目に見なさい。他の人々が自分自身の欠点を大目に見てくれるように」(リーディング番号2648-1) (Todeschi 142) というアドバイスが与えられました。
孤独感の原因が過去生に遡るケースをいくつか紹介しましょう。政府機関に勤務していたある女性は,他の人々といる時や混雑した場所でも,孤独感を感じることがよくありました。リーディングで,この感情のある部分は,十字軍遠征の時代に起因すると言われました。当時,家族の不在時,家を守るために留守番させられることが頻繁にあり,その時感じた寂しさを今生に持ち越しているようでした。寂しいと感じる時間を内省と自己探求の機会と捉えるように,との助言が与えられました。
31歳の女性は離婚経験者でしたが,一人でいるよりも,「一人にされる」ことを恐れるあまり,自分に全くふさわしくない人々と関わることが多かった,と指摘されました。道徳観念と責任感に欠ける男性と結婚していましたが,一人になることへの恐怖心は,この失敗した結婚だけが理由ではありませんでした。直前の過去生で探検隊に属していたとき,仲間が帰国したとき自分だけうっかり取り残されたことがありました。彼女の恐怖心は,自分を見つめ,自分の内側とつながることで克服されるだろう (リーディング番号 958-3),とリーディングは告げました。
また,53歳の男性は,人々を愛し,周囲の人々からも愛されましたが,自分から人々に近づくと,いつも人々が自分から離れてしまうと感じていました。人ごみの中にいても寂しさを感じることがあり,ひとは自分から遠のいていく,という理由で,自分も人々から離れていました。ケイシ―は彼に,この状況は彼がサクソン人だった人生で始まった,と伝えました。当時,彼は人から尊敬されることが大好きでした。「この存在(本人のたましい)は,仲間から一目置かれていた―そしてその状況を好んだのだ!しかし,それをより大きな奉仕に使う代わりに,尊敬されることを好みすぎた結果,人々はあなたのことを忘れてしまった」(リーディング番号 3544-1) (Todeschi 144)。
ケイシ―・リーディングでは,孤独の理由が,過去生・生い立ち・性質のどれであっても,自分の内側を見つめて掘り下げることで,自分が神とつながっていることに気づくようにとアドバイスされることが多かったようです。ケイシーのリーディングでは,20世紀前半当時のアメリカの精神的土壌に(霊界サイドが)配慮してか,キリスト教の「神」を指す表現 (the Creator, Christ など) が頻用されていますが,大元の神(や超高級霊としてのイエス・キリスト)というよりも,個々人を導くスピリット・ガイド(いわゆる守護霊)と言い換えるほうが適切な場合が少なくないように感じられます。
さて,今回の孤独への最後の対処法は,前回(4-2)の記事の第二の項目でもあり,冒頭に紹介したアプローチ,つまり:
自分の仕事や活動に専念して,「他の人々のために」働く
です。自分の苦しみを注視し,傷の痛みにもがき続けるのではなく,その傷から一旦目を離して,異なる苦しみを抱える人々や,広く社会のために自分ができること,または,自分のすべき事(生活の糧を得る仕事も含め)など,対外的な活動に専念する時間を持つ,ということです。孤独の悩みに対しては,自分の好きなことや楽しめること(趣味や娯楽的な活動)に時間を費やすとよい,というアドバイスがよく与えられるかと思います。趣味や好きなことをするのも悪くないでしょうが,その内容によっては,意識やエネルギーの方向性が内向きなままで変わりません。「自分以外の誰か」のために働くには,自分に向いていた意識を,外へ転換する必要があります。ここが重要なポイントです。いわゆる趣味的な楽しみは,時々するから息抜きになるのものであり,それを問題からの逃避手段にしてしまうと,場合によっては,中毒となり,抜け出せなくなる恐れがあります。アルコール,異性関係,買い物,ゲームなど,人々が中毒に陥って問題となるものは,困難からの逃避手段になったためかもしれません。
この対処法は,しかし,孤独だけに有効なわけではありません。例えば,自然災害に被災して,様々な喪失感に苦しむケースにも同様に有効です。何かの作業に没頭する時間を作って,自分の悩み・苦しみを「忘れて」しまう,というのではありません。他の人のためになる活動に取り組むことで,喜びや感謝といったプラスの波動を受け取る,ということです。この小さな喜びの経験を少しずつ積み重ねていくことで,徐々に孤独感から解放されていくでしょう。
そういう仕事や活動がない場合は,冒頭でも読んでいただいたように,自分の才能や能力を見つける機会と捉え,模索することがブレイク・スルーのきっかけとなるかもしれません。自分にできること,やってみたいことでまだしていないこと,興味・関心があることがきっと何かあるはずです。それを,頭ではなく,心で選ぶことが大切です。本気で探せば必ず見つかります。
続き記事では,3つの提案を挙げてみましたが,これらはいずれも,孤独感の軽減や打開の「きっかけ」や「手助け」にすぎません。最終的には,自分で自分自身(才能や性質など)を(適切に)認められること,自分の内側に満足を見い出だせるようになることが必要です。それは,各自のスピリット・ガイドとのつながりを強め,内なる愛を感じられるようになることと言っても同じでしょう。少なくとも,孤独感や不幸感にのみフォーカスを合わせ,それを,自分以外の「だれか」からわかってもらい,慰めてもらうこと,または,環境が“自動的に”好転することを,何もしないでただひたすら待ち続ける,というように,外界からの援助や働きかけ,変化のみで解消することを求める限り,孤独感はいつまでもつきまとうものではないでしょうか。誰かの役に立てる自分であることを知り,行動する。そうして,少しずつ自信と自分を取り戻した時,内なる変化が起こり始めます。その内側の変化に呼応するように,周囲の環境や状況も自然と好転し始めることでしょう。
3回の続き記事では,孤独に対する,ややスピリチュアルな対処法を提案してみました。次回は,さらに一歩踏み込んで,孤独の時期が,特に精神世界(および関連分野)での学びや諸活動に直結するケースを取り上げてみたいと思います。
出典: Todeschi, Kevin J. (1999) Edgar Cayce on Soul Mates: Unlocking the Dynamics of Soul Attraction. Virginia: ARE Press.
例えば,36歳の男性は循環器系統の問題でフィジカル・リーディングを受けましたが,彼には友人関係が長続きしないという悩みもありました。その原因を尋ねたところ,男性には批判精神とカウンセラーの才能があって,人々を引きつけるものもあるが,アドバイスを求められると,自分の意見を述べることにこだわりすぎていた為,援助を求められた時はいつでも,自分がどれほど知っているかに満足するのではなく,相手の役に立つことに焦点を合わせるようにアドバイスされました (Todeshi 140-141)。
また,51歳の芸術家は,人から認めてもらえない不満と孤独感を常に抱えていましたが,他の人々を認める態度を培うように言われました。自分が出すものは,最終的に自分に戻ってくるものだ,と (Todeschi 143)。
ある11歳の少女の両親は,少女はひとりで時間を過ごすことに長けており,これは天与の才であるが,他の人々ともよい仲間となるように助言されています。彼女には批判的過ぎる傾向があり,これが矯正されなければ,ゆくゆくは孤独になってしまうだろう,と。「他者の欠点を大目に見なさい。他の人々が自分自身の欠点を大目に見てくれるように」(リーディング番号2648-1) (Todeschi 142) というアドバイスが与えられました。
孤独感の原因が過去生に遡るケースをいくつか紹介しましょう。政府機関に勤務していたある女性は,他の人々といる時や混雑した場所でも,孤独感を感じることがよくありました。リーディングで,この感情のある部分は,十字軍遠征の時代に起因すると言われました。当時,家族の不在時,家を守るために留守番させられることが頻繁にあり,その時感じた寂しさを今生に持ち越しているようでした。寂しいと感じる時間を内省と自己探求の機会と捉えるように,との助言が与えられました。
31歳の女性は離婚経験者でしたが,一人でいるよりも,「一人にされる」ことを恐れるあまり,自分に全くふさわしくない人々と関わることが多かった,と指摘されました。道徳観念と責任感に欠ける男性と結婚していましたが,一人になることへの恐怖心は,この失敗した結婚だけが理由ではありませんでした。直前の過去生で探検隊に属していたとき,仲間が帰国したとき自分だけうっかり取り残されたことがありました。彼女の恐怖心は,自分を見つめ,自分の内側とつながることで克服されるだろう (リーディング番号 958-3),とリーディングは告げました。
また,53歳の男性は,人々を愛し,周囲の人々からも愛されましたが,自分から人々に近づくと,いつも人々が自分から離れてしまうと感じていました。人ごみの中にいても寂しさを感じることがあり,ひとは自分から遠のいていく,という理由で,自分も人々から離れていました。ケイシ―は彼に,この状況は彼がサクソン人だった人生で始まった,と伝えました。当時,彼は人から尊敬されることが大好きでした。「この存在(本人のたましい)は,仲間から一目置かれていた―そしてその状況を好んだのだ!しかし,それをより大きな奉仕に使う代わりに,尊敬されることを好みすぎた結果,人々はあなたのことを忘れてしまった」(リーディング番号 3544-1) (Todeschi 144)。
ケイシ―・リーディングでは,孤独の理由が,過去生・生い立ち・性質のどれであっても,自分の内側を見つめて掘り下げることで,自分が神とつながっていることに気づくようにとアドバイスされることが多かったようです。ケイシーのリーディングでは,20世紀前半当時のアメリカの精神的土壌に(霊界サイドが)配慮してか,キリスト教の「神」を指す表現 (the Creator, Christ など) が頻用されていますが,大元の神(や超高級霊としてのイエス・キリスト)というよりも,個々人を導くスピリット・ガイド(いわゆる守護霊)と言い換えるほうが適切な場合が少なくないように感じられます。
さて,今回の孤独への最後の対処法は,前回(4-2)の記事の第二の項目でもあり,冒頭に紹介したアプローチ,つまり:
自分の仕事や活動に専念して,「他の人々のために」働く
です。自分の苦しみを注視し,傷の痛みにもがき続けるのではなく,その傷から一旦目を離して,異なる苦しみを抱える人々や,広く社会のために自分ができること,または,自分のすべき事(生活の糧を得る仕事も含め)など,対外的な活動に専念する時間を持つ,ということです。孤独の悩みに対しては,自分の好きなことや楽しめること(趣味や娯楽的な活動)に時間を費やすとよい,というアドバイスがよく与えられるかと思います。趣味や好きなことをするのも悪くないでしょうが,その内容によっては,意識やエネルギーの方向性が内向きなままで変わりません。「自分以外の誰か」のために働くには,自分に向いていた意識を,外へ転換する必要があります。ここが重要なポイントです。いわゆる趣味的な楽しみは,時々するから息抜きになるのものであり,それを問題からの逃避手段にしてしまうと,場合によっては,中毒となり,抜け出せなくなる恐れがあります。アルコール,異性関係,買い物,ゲームなど,人々が中毒に陥って問題となるものは,困難からの逃避手段になったためかもしれません。
この対処法は,しかし,孤独だけに有効なわけではありません。例えば,自然災害に被災して,様々な喪失感に苦しむケースにも同様に有効です。何かの作業に没頭する時間を作って,自分の悩み・苦しみを「忘れて」しまう,というのではありません。他の人のためになる活動に取り組むことで,喜びや感謝といったプラスの波動を受け取る,ということです。この小さな喜びの経験を少しずつ積み重ねていくことで,徐々に孤独感から解放されていくでしょう。
そういう仕事や活動がない場合は,冒頭でも読んでいただいたように,自分の才能や能力を見つける機会と捉え,模索することがブレイク・スルーのきっかけとなるかもしれません。自分にできること,やってみたいことでまだしていないこと,興味・関心があることがきっと何かあるはずです。それを,頭ではなく,心で選ぶことが大切です。本気で探せば必ず見つかります。
* * *
続き記事では,3つの提案を挙げてみましたが,これらはいずれも,孤独感の軽減や打開の「きっかけ」や「手助け」にすぎません。最終的には,自分で自分自身(才能や性質など)を(適切に)認められること,自分の内側に満足を見い出だせるようになることが必要です。それは,各自のスピリット・ガイドとのつながりを強め,内なる愛を感じられるようになることと言っても同じでしょう。少なくとも,孤独感や不幸感にのみフォーカスを合わせ,それを,自分以外の「だれか」からわかってもらい,慰めてもらうこと,または,環境が“自動的に”好転することを,何もしないでただひたすら待ち続ける,というように,外界からの援助や働きかけ,変化のみで解消することを求める限り,孤独感はいつまでもつきまとうものではないでしょうか。誰かの役に立てる自分であることを知り,行動する。そうして,少しずつ自信と自分を取り戻した時,内なる変化が起こり始めます。その内側の変化に呼応するように,周囲の環境や状況も自然と好転し始めることでしょう。
3回の続き記事では,孤独に対する,ややスピリチュアルな対処法を提案してみました。次回は,さらに一歩踏み込んで,孤独の時期が,特に精神世界(および関連分野)での学びや諸活動に直結するケースを取り上げてみたいと思います。
出典: Todeschi, Kevin J. (1999) Edgar Cayce on Soul Mates: Unlocking the Dynamics of Soul Attraction. Virginia: ARE Press.
3/11/2014
遥かな夢を追いかけて
ミリオンセラーとなった,ZARDの「負けないで」(作詞:坂井泉水 作曲:織田哲郎 編曲:葉山たけし 唄: ZARD 音声はこちらへ)。甲子園の入場行進曲や様々なテーマ曲,CMソングとして,1993年のリリース以来,長年に亘り親しまれています。
歌詞を書いた坂井泉水さんは,数年前にスピリット・ワールドに戻られていますが,このような素晴らしい曲を残すことで,今も地上で多くの人々を励まし続けています。「死んだ後も生きているような仕事がしたい」と,アンネ・フランクは日記に書き残していますが,坂井さんもまさに同じことをしています。
解釈の必要もないほど,ごく普通に聴いて元気をもらえる,ストレートな応援ソングです。
しかし,敢えてスピリチュアルな視点から説明を試みると,次のような解釈が可能です。
誰にも叶えたい夢があります。夢とは,「パステルカラーの季節に恋した」時の「幸運(しあわせ)のときめき」や,いわゆるワクワクする目標です。それがあるから,私たちは夢実現を目指して走り続けることができます。
そうはいっても,夢に向かって走り続けることは大変なことです。楽しいことばかりではありません。辛くてもこらえて,人前では弱音を吐かずに,「ヘッチャラな顔して どうにかなるサと おどけてみせる」こともあります。少しでも弱音を漏らしてしまうと,倒れてしまうからかもしれません。そんなやせ我慢をする私たちの胸中も,しかし,スピリット・ガイドはすべてお見通しです。そして,強がる私たちの健気さを,「今も そんなあなたが好きよ 忘れないで」と,とても愛おしく思っています。走り続けることに疲れたときは,ゆっくり休むことが大切です。私たちは,毎晩,スピリット・ワールドへ一時帰還してエネルギー充電していますが,特に疲れてしまったときは,ガイドたちが,「今宵は私(わたくし)と一緒に踊りましょ」と手招きして,元気づけてくれるでしょう。
このように「負けないで」,とスピリット・ガイドは励ましています。彼らは,常に私たちを守り,導いてはいますが,私たちと同じ3次元の世界にいるわけではありません。「どんなに離れてても 心は そばにいるわ」と,異次元の空間から私たちを見守っています。そして,彼らの愛を感じて欲しいと思っています(「感じてね 見つめる瞳」)。何があっても,夢を抱いた「あの日のように輝いてる あなたでいて」欲しいと願っています。なぜなら,「ゴールは近づいてる」からです。「遥かな夢」の実現には,日々一歩一歩近づいています。自分の気持ちに「負けないで もう少し 最後まで 走り抜けて」いきましょう。
スピリット・ガイドは,ありとあらゆる手段を用いて,その時々に必要な大切なメッセージを私たちに伝えようとします。音楽や歌謡曲も,そのような手段として頻繁に利用されます。よく耳にしていた曲が,ある時急に気になり出した,とか,なぜだか耳について離れない曲があるときは,その歌詞にメッセージが含まれていることが多いものです。歌詞を調べて,心に響く言葉があれば,それがいま必要なメッセージでしょう。
歌詞を書いた坂井泉水さんは,数年前にスピリット・ワールドに戻られていますが,このような素晴らしい曲を残すことで,今も地上で多くの人々を励まし続けています。「死んだ後も生きているような仕事がしたい」と,アンネ・フランクは日記に書き残していますが,坂井さんもまさに同じことをしています。
解釈の必要もないほど,ごく普通に聴いて元気をもらえる,ストレートな応援ソングです。
しかし,敢えてスピリチュアルな視点から説明を試みると,次のような解釈が可能です。
誰にも叶えたい夢があります。夢とは,「パステルカラーの季節に恋した」時の「幸運(しあわせ)のときめき」や,いわゆるワクワクする目標です。それがあるから,私たちは夢実現を目指して走り続けることができます。
そうはいっても,夢に向かって走り続けることは大変なことです。楽しいことばかりではありません。辛くてもこらえて,人前では弱音を吐かずに,「ヘッチャラな顔して どうにかなるサと おどけてみせる」こともあります。少しでも弱音を漏らしてしまうと,倒れてしまうからかもしれません。そんなやせ我慢をする私たちの胸中も,しかし,スピリット・ガイドはすべてお見通しです。そして,強がる私たちの健気さを,「今も そんなあなたが好きよ 忘れないで」と,とても愛おしく思っています。走り続けることに疲れたときは,ゆっくり休むことが大切です。私たちは,毎晩,スピリット・ワールドへ一時帰還してエネルギー充電していますが,特に疲れてしまったときは,ガイドたちが,「今宵は私(わたくし)と一緒に踊りましょ」と手招きして,元気づけてくれるでしょう。
このように「負けないで」,とスピリット・ガイドは励ましています。彼らは,常に私たちを守り,導いてはいますが,私たちと同じ3次元の世界にいるわけではありません。「どんなに離れてても 心は そばにいるわ」と,異次元の空間から私たちを見守っています。そして,彼らの愛を感じて欲しいと思っています(「感じてね 見つめる瞳」)。何があっても,夢を抱いた「あの日のように輝いてる あなたでいて」欲しいと願っています。なぜなら,「ゴールは近づいてる」からです。「遥かな夢」の実現には,日々一歩一歩近づいています。自分の気持ちに「負けないで もう少し 最後まで 走り抜けて」いきましょう。
* * *
スピリット・ガイドは,ありとあらゆる手段を用いて,その時々に必要な大切なメッセージを私たちに伝えようとします。音楽や歌謡曲も,そのような手段として頻繁に利用されます。よく耳にしていた曲が,ある時急に気になり出した,とか,なぜだか耳について離れない曲があるときは,その歌詞にメッセージが含まれていることが多いものです。歌詞を調べて,心に響く言葉があれば,それがいま必要なメッセージでしょう。
3/07/2014
SNSが悪いのか
ブログやフェイスブックがすべて悪いというのではありません。どんな形であれ,人と交流することは素晴らしいと思いますし,情報を得ることで救われる人もいることでしょう。(中略)
フェイスブックで公開される情報はリアルなものではあっても,それがその人のすべてではありません。こんな場所へ行った,こんな人と会った,こんな食事をしたと切り取って貼りつけた人生のいいところ取りでしかないのです。
相手に賛同する意味でクリックする「いいね!」と思う行為の中に,実は「悔しい」という羨望が含まれてはいないでしょうか?自分とは違う人をうらやましく思い,焦りに繋がってはいないでしょうか?
ブログやフェイスブックは基本的にひけらかし文化といえます。昔の日本人の感覚であれば,日記など個人的な書き物は「墓場まで持っていくもの」という認識があったように思います。他人には言えない心の内を記したり,整理のつかない思いを書き出し,わが身を見つめ直す「内観」の道具だったのです。だからこそ,他人に見せるものではないという意識を持っていたはず。
しかし,今は「私のことを見て!もっと構って!」と,なにもかもひけらかしてしまうのです。他人のことを理解し思いやるという利他愛よりも,「自分をわかってほしい」という自己愛が強くなって,「かまってちゃん」が増えたのだと分析できます。
しかし,真の豊かさとは,こういうふうに人にすべてをさらけ出して賛同を得ることで満たすものではないと思います。たとえ多くのひとにはわかってもらえなくても,自分の信念を持って貫き歩む。そのほうがずっと豊かな生き方ではないでしょうか。
確かに,書くことによって心の整理はできると思いますが,そうやって「自分探し」をしたいのならば,自分しか見ないノートを作るなどして綴ればいいことです。ブログやフェイスブックに情報をアップする人がしているのは自分探しではなく,「自分がどう見られているか探し」でしかありません。賛同の数が多ければ安心し,反応が薄いと不安になるという人もいるそうですが,それも結局は物質主義的価値観。「いいね!」の量で自分の幸せ度をはかろうとしていること自体,おかしいのです。「天は見てござる」という発想があったら,たとえ誰からも「いいね!」と賛同してもらえなくても,不安になどならないでしょう。評価されることを求めて行動するのではなく,自分の信念をもとに「自律した生き方」ができるはずです。
豊かに生きたいと思うなら,実際に経験と感動を積むことが何よりです。
(引用中の強調はすべてブログ作成者によるものです。)
こちらの記事,特にこちらのサイト, また,こちらのサイトもご覧ください。
ブログや各種SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス: Facebook, Twitter, mixi, Instagram など)の普及によって,パソコンや携帯端末等のアクセス手段を持ちさえすれば,誰でも質・量ともに多様な情報を入手したり,発信したりすることができるようになりました。新聞・テレビ・ラジオといった従来のメディアよりも,「正しい(かもしれない)」情報を「より迅速に」得られる手段として,また,誰にも手軽に使える,気軽な自己表現の手段として,その勢いは止まるところを知らないようです。
引用の趣旨は,あくまでも,ネットを中心に生活する人々への危機感です。しかし,ブログやSNSなど仮想空間上の媒体ではなく,単行本で「波瀾と感動の手記」として出版する分には問題ないのか,多くの人々から称賛された経験のある人々や自己表現の場を多く与えられてきた人々,さらには周囲の理解者に恵まれた人々が,圧倒的大多数の無名の人々の,“周囲から認められたい”という気持ちや,孤独な人の,誰かに理解や癒しを求める想いにどれだけ共感できるだろう,という疑問が,正直なところないわけではありません。現実世界で満たすことが叶わない,叶わなかった自己表現欲求や承認欲求を,SNSを利用して(別の形で)補償しようとする,「埋め合わせ動機」はそれほど問題だろうか,と。
また,引用が指摘している自己愛の強さは,家族や周囲の人々との「こころの絆」が弱体化したことによる寂しさ,孤独感に起因する可能性が高いでしょう。自分以外の人を思いやったり,相手に関心を向けるということは,心に余裕がないとなかなかできることではありません。同著者による以前の著作(2009年, p. 89) では,この点が指摘されていますが,今回論調が変わった理由は何だろうと,疑問を持たざるを得ません。
とはいえ,どんな道具も,使い方ひとつで,利器にも凶器にもなり得ます。その点では,SNS も何ら変わりがありません。自慢したがる人は,ネット上だろうと,リアルな場であろうと,自慢するものです。ゴシップ好きな人は,どこにいても噂話に首を突っ込むでしょうし,人が善意から身を削って書いた文章も,下世話な好奇心から浅い読み方しかできません。ブログやSNSが悪いということではなく,問題の根本原因は,人間の未熟さにほかなりません。物質界に存在するありとあらゆるものに,人を助ける正/善の潜在性と,人を傷つける負/悪の潜在性があります。問題が起こるのは,常に人間の未熟さゆえ,です。
こんな素敵なお店で美味しいランチを食べた,流行りのカフェでお茶をした,とか,最新モデルの携帯機器を入手した,南国のリゾートへ行ってきた,といったトピックには,深みも面白みもありません。特に,記事の投稿者本人を直接知らない人々にとっては,「あ,そう。」のひと言で終わるようなものです。普通なら,家族や親しい友人との他愛ない日常会話の話題になる類いのものだから,わざわざネット上に公開するのは,身近に話し相手がいないか何かだろう,と私なら想像します。或いは,日常的に興味・関心の幅の狭い人かもしれません。
この手の,非常に内容の薄い(物質至上主義の権化的)記事は,基本的には,極めて人畜無害な(=どうでもよい)もので,読むのも退屈ですが,しかし,世の中には様々な事情を抱えた人々がいます。経済的に余裕がなくて,外食したくてもできない人が,たまたま目にしたブログで「美味しいランチ」の記事を読んでしまったらどう思うでしょう。「いまは無理だけど,いつか必ずもっと高いランチを食べて,もっと素敵なブログ記事にしてみせるわ!」と奮起するかもしれないし,「何よ,見せびらかして」と嫉妬するかもしれない。或いは,もっと深刻に,我が身の不遇に気が滅入って,落ち込んでしまう人だっていないとは断言できません。
こういう意味で,自分の(世間体の)良い部分だけを華やかに公開する,“あらゆる自慢行為(や場をわきまえない自己アピール)”には,少なくとも二つの側面があると言えます。一方では,ただの無邪気な自己(愛)表現ですが,他方では,それらを持たない人々のこころを徒らに刺激して,(本人にその意図が全くなくても)聞き手や読み手を間接的に傷つける可能性を孕んでいます。つまり,「ひけらかし行為」は,(何らかの)精神的暴力になり得る,ということです。子どもが往々にして残酷なように,どの“大人”にもある未熟さ・いびつさは,容易に他者を傷つける狂気・凶器たり得てしまうのです。
フェイスブックで公開される情報はリアルなものではあっても,それがその人のすべてではありません。こんな場所へ行った,こんな人と会った,こんな食事をしたと切り取って貼りつけた人生のいいところ取りでしかないのです。
相手に賛同する意味でクリックする「いいね!」と思う行為の中に,実は「悔しい」という羨望が含まれてはいないでしょうか?自分とは違う人をうらやましく思い,焦りに繋がってはいないでしょうか?
ブログやフェイスブックは基本的にひけらかし文化といえます。昔の日本人の感覚であれば,日記など個人的な書き物は「墓場まで持っていくもの」という認識があったように思います。他人には言えない心の内を記したり,整理のつかない思いを書き出し,わが身を見つめ直す「内観」の道具だったのです。だからこそ,他人に見せるものではないという意識を持っていたはず。
しかし,今は「私のことを見て!もっと構って!」と,なにもかもひけらかしてしまうのです。他人のことを理解し思いやるという利他愛よりも,「自分をわかってほしい」という自己愛が強くなって,「かまってちゃん」が増えたのだと分析できます。
しかし,真の豊かさとは,こういうふうに人にすべてをさらけ出して賛同を得ることで満たすものではないと思います。たとえ多くのひとにはわかってもらえなくても,自分の信念を持って貫き歩む。そのほうがずっと豊かな生き方ではないでしょうか。
確かに,書くことによって心の整理はできると思いますが,そうやって「自分探し」をしたいのならば,自分しか見ないノートを作るなどして綴ればいいことです。ブログやフェイスブックに情報をアップする人がしているのは自分探しではなく,「自分がどう見られているか探し」でしかありません。賛同の数が多ければ安心し,反応が薄いと不安になるという人もいるそうですが,それも結局は物質主義的価値観。「いいね!」の量で自分の幸せ度をはかろうとしていること自体,おかしいのです。「天は見てござる」という発想があったら,たとえ誰からも「いいね!」と賛同してもらえなくても,不安になどならないでしょう。評価されることを求めて行動するのではなく,自分の信念をもとに「自律した生き方」ができるはずです。
豊かに生きたいと思うなら,実際に経験と感動を積むことが何よりです。
江原啓之 (2012).『言魂のゆくえ』 pp. 138-141.
(引用中の強調はすべてブログ作成者によるものです。)
こちらの記事,特にこちらのサイト, また,こちらのサイトもご覧ください。
ブログや各種SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス: Facebook, Twitter, mixi, Instagram など)の普及によって,パソコンや携帯端末等のアクセス手段を持ちさえすれば,誰でも質・量ともに多様な情報を入手したり,発信したりすることができるようになりました。新聞・テレビ・ラジオといった従来のメディアよりも,「正しい(かもしれない)」情報を「より迅速に」得られる手段として,また,誰にも手軽に使える,気軽な自己表現の手段として,その勢いは止まるところを知らないようです。
引用の趣旨は,あくまでも,ネットを中心に生活する人々への危機感です。しかし,ブログやSNSなど仮想空間上の媒体ではなく,単行本で「波瀾と感動の手記」として出版する分には問題ないのか,多くの人々から称賛された経験のある人々や自己表現の場を多く与えられてきた人々,さらには周囲の理解者に恵まれた人々が,圧倒的大多数の無名の人々の,“周囲から認められたい”という気持ちや,孤独な人の,誰かに理解や癒しを求める想いにどれだけ共感できるだろう,という疑問が,正直なところないわけではありません。現実世界で満たすことが叶わない,叶わなかった自己表現欲求や承認欲求を,SNSを利用して(別の形で)補償しようとする,「埋め合わせ動機」はそれほど問題だろうか,と。
また,引用が指摘している自己愛の強さは,家族や周囲の人々との「こころの絆」が弱体化したことによる寂しさ,孤独感に起因する可能性が高いでしょう。自分以外の人を思いやったり,相手に関心を向けるということは,心に余裕がないとなかなかできることではありません。同著者による以前の著作(2009年, p. 89) では,この点が指摘されていますが,今回論調が変わった理由は何だろうと,疑問を持たざるを得ません。
とはいえ,どんな道具も,使い方ひとつで,利器にも凶器にもなり得ます。その点では,SNS も何ら変わりがありません。自慢したがる人は,ネット上だろうと,リアルな場であろうと,自慢するものです。ゴシップ好きな人は,どこにいても噂話に首を突っ込むでしょうし,人が善意から身を削って書いた文章も,下世話な好奇心から浅い読み方しかできません。ブログやSNSが悪いということではなく,問題の根本原因は,人間の未熟さにほかなりません。物質界に存在するありとあらゆるものに,人を助ける正/善の潜在性と,人を傷つける負/悪の潜在性があります。問題が起こるのは,常に人間の未熟さゆえ,です。
こんな素敵なお店で美味しいランチを食べた,流行りのカフェでお茶をした,とか,最新モデルの携帯機器を入手した,南国のリゾートへ行ってきた,といったトピックには,深みも面白みもありません。特に,記事の投稿者本人を直接知らない人々にとっては,「あ,そう。」のひと言で終わるようなものです。普通なら,家族や親しい友人との他愛ない日常会話の話題になる類いのものだから,わざわざネット上に公開するのは,身近に話し相手がいないか何かだろう,と私なら想像します。或いは,日常的に興味・関心の幅の狭い人かもしれません。
この手の,非常に内容の薄い(物質至上主義の権化的)記事は,基本的には,極めて人畜無害な(=どうでもよい)もので,読むのも退屈ですが,しかし,世の中には様々な事情を抱えた人々がいます。経済的に余裕がなくて,外食したくてもできない人が,たまたま目にしたブログで「美味しいランチ」の記事を読んでしまったらどう思うでしょう。「いまは無理だけど,いつか必ずもっと高いランチを食べて,もっと素敵なブログ記事にしてみせるわ!」と奮起するかもしれないし,「何よ,見せびらかして」と嫉妬するかもしれない。或いは,もっと深刻に,我が身の不遇に気が滅入って,落ち込んでしまう人だっていないとは断言できません。
こういう意味で,自分の(世間体の)良い部分だけを華やかに公開する,“あらゆる自慢行為(や場をわきまえない自己アピール)”には,少なくとも二つの側面があると言えます。一方では,ただの無邪気な自己(愛)表現ですが,他方では,それらを持たない人々のこころを徒らに刺激して,(本人にその意図が全くなくても)聞き手や読み手を間接的に傷つける可能性を孕んでいます。つまり,「ひけらかし行為」は,(何らかの)精神的暴力になり得る,ということです。子どもが往々にして残酷なように,どの“大人”にもある未熟さ・いびつさは,容易に他者を傷つける狂気・凶器たり得てしまうのです。
もし,友人・知人から羨ましがられたい日本人が増加していて,それが社会問題の域に達しつつあるのだとすれば,それは,人間関係が希薄になりがちな(大都市部を中心とした)現代社会の闇を反映していると同時に,心の深いところで自分に自信が持てない人が増えているということかもしれません。自信が持てないのは,周囲の人々の(多分に物質主義的な)価値観に従って,またはそれを強く意識して,他人軸で生きているためでしょう。他者の評価はその人のもので,あなたのものではありません。あなたの人生には1ミリも影響を及ぼさないことを知ってください。
知人・友人のブログやFacebook 閲覧後に気分が落ち込んでしまったとき,ソーシャル・メディアでの遣り取りや閲覧に疲れてしまったときは,その場から大急ぎで立ち去りましょう。知人らの近況を確認したり,自分と比較する代わりに,「本当のこと」を学びましょう。生命は永遠であり,一人ひとりに固有の「たましいの歴史」があり,今回も成長を願って生まれてきた,という真理を深く知ること。その上で,自分との対話・自問自答を重ね,自分自身の価値観を模索し,確立することです。自分軸で人生を歩みはじめるようになると,感じ方も徐々に変わっていくことでしょう。
(2016年4月22日)
註:SNSは一種の和製英語で,英語では social media と言います。
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