7/04/2009

宗教を超える

 世界中には,さまざまな宗教があります.違う宗教を信じていれば,死後,たましいは違うところに行くのでしょうか.そうではありません.死後の世界はひとつです.仏教が説く死後の世界しかなければ,キリスト教徒やイスラム教徒が行くべきところはなくなってしまいます.そんなことはあるはずがないのです.
 
どの宗教を信じていようが,帰る世界はひとつです.
 宗教の開祖は,ある意味では霊能力者だったのでは?と私は思っています.それぞれが見た死後の世界,生命の成り立ち,生きる意味を,それぞれの表現方法で語ったものが,宗教の教えなのだと思います.
 あの世を「地球」にたとえれば,ある宗教はアメリカ大陸のあの世だといい,別の宗教では中国大陸をあの世だといっているのです.
 現世にいる間,何らかの宗教を信じ,それが生きる力になることもあるでしょう.けれど,霊的真理からいえば,特定の宗教に固執しないことがもっとも幸せだといえます.
 
宗教を信じてはいけない,ということではありません.けれど,常に他の考え方も受け入れられる柔軟性をもっていないと,ほかのものが見えなくなってしまうのです.
 アメリカがすべてだと思っていると,ほかの国の存在が目に入らないので,ほかの国へ行けなくなるでしょう.それと同じように,ひとつの宗教に固執していると,霊的な真理に対して目を塞いでしまうので,浄化の妨げになることが多いのです.
 (中略) ひとつの考えに固執しない柔軟な心をもっていれば,真実はやがて理解できるのですから.


江原啓之『天国への手紙』 pp. 92-3.


宗教は,それが根付くべき場所や時代背景に合わせて,そこに暮らす人々が受け入れやすい形で地上にもたらされています.宗教を比較すると相違点も多いかもしれませんが,核になる教えは同じはずです.すべて霊界から地上にもたらされたものだからです.

そもそもひとつの宗教の信者であるには,その教えを,ある程度「盲目的に」受け入れ,信じ,従う必要があります.なぜそうなのかよくは理解できない部分もあるが,そう言われているからとりあえずそう信じよう,信じなければならない,と.

しかし,真理とは,本来,万人に理解できるものであり,決してとらえどころのない難解なものではありません.国籍,民族,学歴や教養の如何に関わらず,自分の成長段階に応じた教えであれば,無理なくすっと受け入れられるようなものです.ただひたすら信じるしかない類いのものではありません.

かつて,アメリカにエドガー・ケイシーが現れ,数々のフィジカル・リーディング,ライフ・リーディングを通して,ユダヤ教-キリスト教に色づけされた教えがもたらされたことも必然だったでしょう.同時期に,日本にエドガー・ケイシーが現れても影響力はなかったでしょう.同様に,日本のような,特定の宗教を信じる人口が少ない国に,いまの時代(経済成長が極まり,物質主義的な人生観が浸透し,人々のモラルが失われ,人心が著しく乱れている時代),スピリチュアルな教えがさまざまな霊能者,伝道者,メディアを通じてもたらされていることも,ゆえあることなのです.

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