一方哲学者は一切の宗教,いかなる教派のドグマにも媚びず,一切の偏見を捨て,いかなる真理でも,いやしくも証明されたものは潔く受け入れる.即ち,かくあるべき―従ってかくあらねばならぬという固定観念に捉われることなく,神的叡智の探求に邁進し,そこに幸せを見出す.彼には宝庫の尽きることを懸念する必要はない.何となれば神の真理は無限だからである.生命の旅を通じてひたすらに,より豊かな知識の宝の蒐集に喜びを見出す.言い換えれば神についてのより正しい知識の蒐集である.
この二者の統合,すなわち博愛主義者的要素と哲学者的要素とが一体となりし時,そこに完璧なる理想像ができあがる.両者を兼ね備えし魂は片方のみを有する魂より大いなる進歩を遂げる.
W. S. モーゼス著,近藤千雄訳 『霊訓 完訳・上』 (心の道場刊) pp. 36-7.
あくまでも目指すべき到達点を記した,自動書記によるメッセージです.これほどの人物であれば,まず地上にはいる必要がないでしょう.朗報なのは,私たちも「いずれは」このような魂に進化できる,ということです.それがいつか,ということは各人によって異なりますが,少なくとも現在地上人生を送っている大半の我々にとっては,気が遠くなるほど未来のことに違いないと思われますから,焦る必要は全くありません.
社会的肩書きや学歴,仕事の業績といった面で「成功している」といった理由から,「自分は偉い」と勘違いしている人が現代社会にはごまんといます.また,そういう人々や団体に媚びへつらう人々も後を絶ちません.
(1)正しく愛他的であるということ(他者の福利を自分の利益より優先できる能力や洞察力に秀でている)と,(2)(霊的)真理をより多く理解できているということ(いわゆるIQが高い,というのではなく,真理を深く理解できる思考力や能力[肉体を失くしたあとに残る部分,たましい,の性質]が高い)―この二つが魂の進化を決定する,真の尺度であるようです.
つまり,「神の眼から見て」正しい知識を多く携え,その知識に沿った行動が出来るたましいことが,本当の意味で「偉い」のです.