たとえば古い自動車は,お金をかけてしょっちゅう修理しても,突然エンジンがかかわなくなったり,ヘッドライトがつかなかったりと,トラブルが続出します.いわばそれが認知症というもので,それ自体は必要以上に悲しむことではないのです.
たとえば,暴言を吐いたりするのは,よほど心に溜めていたものがある人です.徘徊する人は,人生の中でよっぽど逃げたいことがあった人.本当はイヤだった,けれども子どもがいるから辛抱してきた,そういうことが表に現れる.異物を食べる人は,食べることに苦労してきた人です.
そういうウミが最後に出せるんだから,「これも幸い」というとらえ方をすればいいのです.変に持ち越して執着するよりも,今のうちに全部吐き出してしまうほうが楽です.家族はショックを受けるより,「そうか」と気づいてあげればいいのです.「お母さんにもこういうことがあったんだ」「お父さんはこうだったんだ」「あんなに品のいいおばあちゃまだったのに,腹にすえかねることがあったんだね」と.
江原啓之 『スピリチュアリズムを語る』 pp. 124-5.
認知症は「脳の病気」であって,それ以上でもそれ以下でもない,という見方は間違いではありませんが,やや不十分な捉え方と言わねばならないようです.最近の研究で,病いによって失われてしまう機能がある一方で,失われずに保たれている機能もあることが明らかになっています.保たれている部分というのは「感情」ですが,これはまさしく魂と直結する部分であり,引用文の内容と符合するものとなっています.
認知症を患う人の感情を認め,受け入れ,受けとめることで,興奮状態など,これまで介護者を悩ませていた症状の一部が劇的に改善したケースが数多く報告されているとのことです.どのような症状が出ようとも,患者さんをひとりの人間,ひいては「たましい」として,尊重し,思いやる態度が求められ,試されている,ということかもしれません.
病気から教わるのは,患者だけではないようです.
認知症は,その特有の症状(普通の会話が成立しなくなったり,理解不能な言動をとるなど)によって,本人よりも(特に介護する)家族ー主に配偶者や子供ーの精神的な負担や苦しみが,他の病気に比べると,強く感じられやすいかもしれません.
どんな出来事にも必ず原因があります.「本当の」原因は何かを知ると,より前向きに対応できるようになるかもしれません.
「真実」を知ることによって,「不必要に」嘆き悲しんだり,振り回されることが減って,「正しく」悩み,苦しんで,学びを得ることができます.
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