12/28/2011

伊豆へ出かける

今年の2月初旬,めずらしく経済的にも精神的にもゆとりがあった為,遠出することにした.それも日帰りではなく泊まりで.まず,してみたいと思ったのは,シティホテルの広めの部屋で,周りを気にせず,ひとりでゆっくり寝ることだった.最初は,Pホテルがいい,と思った.都内から1泊で行って帰って来られる最も遠い所で,且つ予算内でおさまる場所を検索したら,下田がヒットした.伊豆半島の下田だ.ペリー来航の地としても有名.ホテルは白浜海岸に面しており,近くに神社もあったので,行き先はここに決まった.しかし,一泊二食付となるとそのホテルでは都合が悪かった.一旦オンラインで予約したものの,すぐに取り消して,別の宿泊施設を予約し直した.それも,今にして思えば,背後(ガイド)の非常に有難い配慮だったと納得する.シーズンオフで,宿泊客は私ひとりしかいなかった上に,奥さんが留守で,若いオーナーの男性と小学生の息子さんだけだったから.さまざまな事情からここ数年間,ひと−特に女性−との接触や交流をできる限り避けてきたという経緯が私にはあった.

出かける前の予定では,下田市内の観光,宿泊先近辺の散策と白濱神社(伊豆最古の神社とされる)の参拝が主な目的だった.しかし,二日目に全く予定外の場所を訪れることになった.

それは,石廊崎(いろうざき).伊豆半島の最南端で,石廊崎灯台でも知られている.

石廊崎も然ることながら,旅行自体が導きだったと感じずにはいられない.

前年の暮れ,私はなかなか答えの出ぬ問題とストレスに半年以上苦しんだ挙句,ミディアムのもとを訪れていた.2週間という短期間に二人のミディアムをはしごしたのは,あとにも先にもこの時だけ.ガイドからは,さすがにそのことをかなり厳しくたしなめられたが,最後には,「あなたは答えを知っているでしょう?」と言われてずいぶん安堵した.そして,その同じミディアムに,旅行に行ったらどうか,と言われていたのだ.その時点で,私には旅行に出かけるつもりも,行かれる余裕も全くなかったので,それはちょっと難しい,と答えたかと思う.すると彼は,神社でもいいし,自然があるところでもいい,と続けた.この全てが見事に実現した旅行だった.

下田へは電車を何本も乗り継いで行った.まず,この道中少し面白いことがあった.伊東から伊豆急行を利用したが,途中どこかの駅で列車(前3両)の切り離しがある.最初に乗ったのは5両目だったが,すぐ後ろに座っておられた老夫婦と車掌さんの会話を耳にして,早めに列車を移動することに.おそらくその駅の3つほど前の駅だっただろうか,彼らの後に続いて車両を移動したが,3両目の手前で通り抜けることが出来なかったため,一旦ホームに降りた.その後,その老夫婦はホームを真っ直ぐに歩いていかれたが,私は次の車両にすぐ乗り込んだ.これは咄嗟にとった直感的な行動だった.が,私が乗ると間もなくドアが閉まり,そのご夫婦はホームに取り残されてしまった.電車は1時間に一本くらいの路線だ.もし,あの時,すぐ列車に乗り込まなければ,旅の予定はかなり狂っていただろう.「まもられている」−そう実感した出来事だった.

そのご夫婦にとっても必然的にそうなったことで,何か意味があったに違いない.

車両を移動する前,本から顔を上げてぼうっと車窓の景色を眺めていると,ふっと「いろうざき」ということばが浮かんだ.この時点で,私は石廊崎が伊豆半島にあることは知らなかった.まさか下田駅前からバスで行かれる距離にあるなどとは知ろうはずもない.そのときは,「あぁ,いろうざきって,“石廊崎” でしょ?灯台が有名だったかな」とだけ思って遣り過ごした.

下田は開国の街.ペリーが黒船で来航したという歴史的にも重要な場所で,有名な観光地らしい.平日に出かけたため,旅行者も非常にまばらで,たまに大学生らしき若いカップルに出会うくらい.下田市街はそれほど広くなく,2, 3時間もあれば徒歩でまわりきれるはずだ.ロープウェーに乗って寝姿山(ねすがたやま)に登ると,山頂から下田港を一望できる.開国当時の歴史に関心のある方には興味深い場所かもしれない.

 

上の写真はペリーロード.このあたりをペリー総督とその一行が行進したとか.開港当時のままの姿で残っている.市街地のマンホールの蓋には黒船がデザインしてある.


一通りざっと見て回ると予定の時間になったので,バスで白浜海岸そばの宿泊先へ.チェックインを済ませてから,海岸へ足を伸ばした.その名の通り,砂浜の砂は白く,遠浅の海はどこまでもエメラルドグリーンで美しい.しかし,2月の浜辺はさすがに風が冷たい.浜辺にじっと座って海を眺めているのも寒いので,歩くことに.すると,思いがけなく白濱神社に着いたので,早速参拝することにした.当初の予定では二日目の朝に行くつもりだった.午後4時過ぎだったが,参拝客も非常に少なく,静かだった.山の上にある本殿辺りの空気は澄んでいて,とても気持ちがよかった.白濱神社参拝も導きだと感じた.なぜなら,最初から白濱神社参拝が目的ではなかったから.すでに述べたとおり,最初の思いつきは,ひとりでのんびり休むことだった.が,下田のPホテルがまさにこの神社の近くにあったことが理由で,その存在を知ったのだ.

さて,その夜,オーナーと話をしていたときのこと.下田港の周遊船「黒船−サスケハナ」が面白そうだと思っていた私は,それについて尋ねてみた.すると,石廊崎港の周遊船の方が面白いですよ,という返事.石廊崎の絶景やそこにある小さなお宮のことも,そのとき初めて彼から聞いた.下田駅からバスで片道40分くらいで行かれるという.部屋に戻って,ネットでいろいろ調べた結果,翌日石廊崎へ行くことに決めた.行きの電車の中で地名が心に浮かんだことも決め手となった.前の晩に降り出した雨は,翌日の朝まで降っていたが,バスが石廊崎港に着く頃には止んでいた.バスから見えた太平洋の景色も清々しいものだった.石廊崎へは,ふもとの港から20分ほど歩く.途中まで急な上り坂があるが,植物園(閉鎖中)の辺りまで来てしまえば,それ以上の上り坂はない.途中,写真撮影を終えたらしい男性や他の観光客とすれ違った.

断崖絶壁で,突端に立つと270度見渡せる絶景ポイント.晴れていれば,そこから伊豆七島が見渡せるとか.当日はとりあえず晴れてはいたが,太平洋の見晴らしはさほど良くなかった. 

 

手前(写真のさらに左下の辺り)に石室神社が,岩山に食い込むように建てられている.そこを参拝してから少し登ると,この写真の場所に出る.大きな船の舳先のような感じにもみえる.これからいよいよ航海に出かける,といった様子か.

朝11時過ぎだったが,とにかく気持ちがよかった.風が少し強かったが,それも心地よかった.言葉では言い尽くせない.ここに来るべくして来た,と感じた.

直感に従うことは,導きを受け入れること
でもある.

帰宅後,気になっていろいろ検索すると,石廊崎は富士山から流れてきた龍脈(強い気の流れ)が太平洋へ落ちる所,という記載を見つけた.かなりパワーの強い場所とのこと.行くだけで,禊ぎ(みそぎ)をしたのと同じ効果がある,と書いてあるのを読んで,思わず納得した.そのくらい気持ちが良かった.それまでの様々な悩みを忘れ,感情面の曇りが洗い流されたような気がした.

また,下田という地にも意味があるはずだと思った.ペリー一行は,最初に浦賀を訪れ,次に下田に来航している.実は,大震災が起こらなければ,3月下旬には浦賀(久里浜)へ日帰りで出かける予定だった.どちらも開国の地.私の人生もこれから少しずつ開けていくのではないか.これまで閉ざしてきたものを,少しずつ開いていかなければならないし,開けるようになるのかもしれない.

12/26/2011

羨ましさをプラスに転じる

 あなたは,自分の夢と同じ夢をすでに叶えた人を見つけて,その人に近づいていますか.もし遠ざかって,妬んだり羨んだりしていたら,とてももったいないことをしています.
 私たちは,理想の人に出会うと,近づいて夢実現のヒントをもらう人とと,逆に遠ざかって,妬んだり羨んだりする人に分かれます.あなたは,どちらのパターンを選んでいるでしょうか.嫉妬したり,人の噂話や中傷をしている人は,後者のパターンを選んでいるために,せっかくの夢実現のヒントをもらい損なっています.
 表面意識は気づいていないのですから,もし今読んでいてドキッとした人は,ぜひこれから理想の人に会ったら,一歩近づいて,思い切ってインタビューしてみましょう.そうやってそんなに素敵になったのか,夢を叶えたのかを聞いていると,必ず自分でもできそうなヒントがいくつか出てきます
 それをできるところから実行すればいいのです.今まで妬みを感じるだけで,それを知らずに終わっていた自分から抜け出して,もっと利口になりましょう.


越智啓子.(2011) 『夢実現プロセス』 pp. 106-107.



自然に近づいて素直に相手を認め,教えてください,と言える場合と,心が拒否してできない場合があるかと思います.

できるところから実行すればよいとありますが,実行できる・できないというのもきっと何かの必然で,タイミングなのだと感じます.

12/24/2011

80 だれにも価値がある

 われわれは大いなる神の計画の中に組み込まれていること,一人ひとりが何らかの存在価値をもち,小さすぎて用の無い者というのは一人もいないこと,忘れ去られたりすることは決してないことを忘れないようにしましょう.そういうことは断じてありません.宇宙の大霊の大事業に誰しも何らかの貢献ができるのです.霊的知識の普及において,苦しみと悲しみの荷を軽くしてあげることにおいて,病を癒してあげることにおいて,同情の手を差しのべることにおいて,寛容心と包容力において,われわれのすべてが何らかの役に立つことができるのです.

『シルバーバーチの霊訓 第7巻』  pp. 34-35.





79 奉仕の道は孤独な旅

治療家にかぎらず,霊能者と言われている人がつねに心の修養を怠ってはならない理由はそこにあります.霊的に向上すればそれだけ仕事の範囲が広がって,より多くの価値ある仕事ができます.そのように法則ができあがっているのです.ですが,そういう献身的な奉仕の道を歩む人は必然的に孤独な旅を強いられます

『シルバーバーチの霊訓 第六巻』  p. 38.



此処で言っている「孤独」は,物理的というより,精神的な意味と理解すべきでしょう.

一口に「霊能者」といっても,いろいろなアプローチの方,能力の人々がいますが,ご苦労されている方が多いことは事実です.お力のある方ほど,ご苦労が多いように思います.それほどの大きな苦労をしても,この道に入らなければいけない定めがある,と言えます.試練も導きです.

逆に言えば,それだけの苦労を引き受けてでも,あなたは霊能者になりたいですか?ということでもあります.





78 悟りを得るは容易でない

 が,偉大な仕事ほど困難が伴うものなのです.霊的な悟りを得ることは容易ではありませんとても孤独な道です.それは当然のことでしょう.もしも人類が登るべき高所がいとも簡単にたどりつくことができるとしたら,それは登ってみるほどの価値はないことになります.安易さ,呑気さ,怠惰の中では魂は目を開きません.刻苦と奮闘と難儀の中にあってはじめて目を覚まします.これまで魂の成長が安易に得られるように配慮されたことは一度たりともありません

『シルバーバーチの霊訓』 第6巻 pp. 13-14.



映画『リトル・ブッダ』では,キアヌ・リーヴズ演じるシッダールタが,王宮を離れ,悟りの旅に出かける直前,眠りこけている家臣らを見渡し,"Everone is dreaming." (みな夢を見ている)と一言つぶやく場面があります.

私たちの多くが「しあわせ」や「満足」とみなすものが,「ほんとうの」幸福とは限りません.霊的に目覚めてはじめてわかることがあります.それまでは,まさしく,「夢うつつ」の状態で人生を生きているのと同じかもしれないのです.何が現実で,何が幻か-真実に目覚めるまでは,見分けることは難しいかもしれません.




77 啓示は一歩先んじる

啓示というものは連続的かつ進歩的なものであり,その時代の人間の理解力の程度に応じたものが授けられております.理解力が及ばないほど高級すぎてもいけませんが,理解力の及ぶ範囲が一歩先んじたものでなければなりません.霊界から授けられる叡智はいつも一歩時代を先んじております.そして人間がその段階まで到達すれば,次の段階の叡智を受け入れる準備が出来たことになります.

『シルバーバーチの霊訓』 第3巻 p. 221.



モーゼス経由の情報(真理は人類が理解し得るだけのものしか与えられない云々)より,こちらのほうがより信憑性が高いように感じられます.(『霊訓(上)』からの記事は取り下げました.)

12/14/2011

小をおろそかにすれば

たかが日常の問題というが,日常の何でもない隣人関係にも,青少年犯罪を扱うのとかわらぬ真剣さと知恵が必要なのである.神の真理は極大の世界だけでなく極微の世界にも 行きわたっており,小をおろそかにすることは大をおろそかにすることである.日常生活における善悪の判断は生涯のかかった重大問題の判断にも影響を及ぼす.栓じつめれば,人生百般の問題は道義心の問題一つに帰着するのである.

『背後霊の不思議』 p. 185.

12/12/2011

地上はいつか天国に

Someday

作詞: A. Menken, S. Schwartz
作曲: A. Menken, S. Schwartz
唄:Celtic Woman
 

Someday
When we are wiser
When the world's older
When we have learned
I pray
Someday we may yet live
To live and let live

Someday
Life will be fairer
Need will be rarer
And greed will not pay
Godspeed
This bright millenia
On it's way
Let it come
Someday


Someday
Our fight will be won then
We'll stand in the sun then
That bright afternoon
'Till then
On days when the sun is gone
We'll hang on
If we wish upon the moon


There are some days, dark and bitter
Seems we haven't got a prayer
But a prayer for something better
Is the one thing we all share


Someday, when we are wiser
When the whole world is older
When we have learned
And I pray
Someday we may yet live
To live and one day, someday

Someday, life will be fairer
Need will be rarer
And greed will not pay
Godspeed
This bright millenia
Let it come
If we wish upon the moon


One day, someday soon
Someday soon




この世の平和を祈る祈りの歌のように響きます.

世界のすべての人々が学びを重ねて,もっと賢くなるには時間がかかるかもしれないけれど,人生が公平なものになり,欠乏が解消され,欲張りな人が得をするようなことのない世界,正義が行き渡り,楽しく暮らせる世界が,いつの日か実現しますように,といった意味の歌詞です.

地上に天国が実現される日はいつかきっと来るでしょう.

YouTubeでも聴くことができます.



12/03/2011

試練のはじまり

"One picture tells a thousand words." という表現がある。直訳すると,「一枚の絵は千の言葉を語る」だが,絵は言葉で言い尽くせぬものをも表現する,という意味かと思う。自然言語(人間が使う言葉)には限界がある。ことばは,必ずしもコミュニケーションの万全のツールではない。

この文が示すように,2007年のリーディングで示されたいくつかのヴィジョンは,私のそれまでの試練の意味を端的に物語っていた。中でも,山の峰から垂直に降ろされた縄ばしご,山の岩肌とそのはしごの間に垂らされた金色の紐。そして,ミディアムを唸らせたその険しさ―簡にして要を得た表現とはまさにこのこと。リーディングの最中には漠然としかわからなかった意味が,リーディング後,軽いショック状態から立ち直るとより深く理解されるようになった。それまでの約10年が私にとってどのような意味を持っていたのか,どのような時期だったのか。

険しい山を登るヴィジョンやイメージは,精神世界を歩む人々へのメッセージによく出てくる。また,金色は崇高さや叡智の象徴ともされる。この場合は霊的な教えを指している。谷川岳さながらの垂直に切り立った岩山を,縄ばしごで登るということは普通に考えても並大抵のことではない。が,そこには霊界からの導きがあった。霊界という表現に抵抗があるなら,見えざる存在といってもよい。集合無意識といってもよい。要は,人智では計り知れない意志のはたらきだ。私は,今生でこの世界に入ることが予め決まっていた。そして,計画通り,ロッククライミングに挑む時期が訪れ,真理に目覚めるべく導かれた。

道を究める,ということはどの分野においても,誰にとっても決して容易なことではないと思う。求道,つまり,神の教えを知ることは特にそうではないかと思う。これを書いている現在もまだ,私は苦しみから解放されてはいない。ただ,“本当の”教えを知った分だけ,以前とは物事を見る視点が異なり,自分を不必要に責めたり,周囲の意見に振り回されたり,いわゆる「世間の目」を気にするということが少し減ったのではないかと思う。心の地図,と呼んでもよいし,杖といってもよいが,よすがとすべきものを自分の外にではなく,内側に見出すようになった。


「試練」を英語では,trials and tribulations というが,過去十年の歳月は,少なくとも私にとって,大きな困難・苦しみの毎日だった。が,一旦社会に目を転じると,児童虐待,難病,家庭内暴力に苦しむ人々から,祖国を追われ難民生活を強いられる人々,そして,今日一日生きられるかどうかわからない極貧状態や飢餓にさらされている人々が溢れているし,後を絶たない。日本という平和な社会で暮らせるだけでも有難いわけで,にも関わらず大変だと嘆くのは,そうした極限状況で日々格闘している人々からみれば,許されないことかもしれないが。

振り返ると,これまでの人生で,入院・手術が必要なほどの大病と極貧以外の主な苦労は少しずつ経験してきたようだ.乳児虐待と育児放棄に始まり,実の両親の離婚,自己嫌悪による精神的な悩み,抑うつ状態による精神科通院(非投薬の治療),肉親との絶縁,勤労学生,授業料支払困難による休学ならびに授業料未納による停学・退学,解雇による失職,不倫疑惑,自殺未遂一歩手前の絶望,軽い霊的憑依による体調不良(結核初期症状に類似のものと急性低体温症),不眠症,借金苦,長年に及ぶ非正規雇用,そして,長期に亘る孤独。乳児虐待,育児放棄と実の両親の離婚は思い出せない記憶だが,多くのものは,主にこの十余年に集中して体験したもので,一部は現在もなお継続中である。

人生の転機となったのは,英国留学だった。


英国留学を決意したのは,20世紀も終わり近くなってからである。霊的世界の話がよくわかる母は,同時に非常に保守的な人でもあった。私に暗黙裡に禁止されていたことのひとつに海外留学があった。反対する両親を説得することが必要だったが,当時の私は直接掛け合うやり方ではなく,大学教員だった別の肉親を介して説得を試みた。結論から言えば,留学は実現した。しかし,実は,その時すでに家の経済事情は厳しく,私を留学させられる余裕などなかったようだ。3年間フルタイムで滞在すべきところ,1年という期限付きでどうにか経済支援を受けることができた。1年目の学費と生活費は出すが,2年目以降はすべて自分でなんとかすること―そういう約束だった。行ってしまえばこちらのもの。滞在中に現地で仕事が見つかるかもしれないし,パートナーと出会うかもしれない。可能性は未知数でも行けばなんとかなるだろうと楽観して,とりあえず渡英できることに喜んだ。

指導を受けたい先生は一人しかいなかった。その英国人の先生は,留学を考え出した当初は米国の大学に勤務していたが,申請書類を送る直前に英国の大学に赴任することになったという知らせが届いた.もとより英国好きの私は,渡りに船とばかり行き先をアメリカからイギリスに即変更し,留学を日本脱出の足がかりにしようと思った。日本にはもはや何の未練もなかった。英国移住への夢が大きく膨らんだ。

2025年は大きな転換期

2025年7月5日(土)の早朝(夜明け前),フィリピン沖の海底火山が噴火して,周辺国と日本の太平洋沿岸に巨大津波(120mほど)が押し寄せ,国土の1/3から1/4 が津波に呑まれる,という予知情報があります。最初にこれが注目されたのは,下にも関連動画のリンクを貼っていますが,たつ...