「大丈夫・・・・・・」と老人は繰り返した。「あんたの悲しみもまだまだ大したことはない。人生はながいからな。これから先いいことも悪いことも,いろんなことがある。母なるロシアは広いんだ!」と老人は言い,左右を見まわした。「私はロシア中を歩いて,ありとあらゆることを見て来たから,嘘は言わない,信用しなさい。これから先いいことも悪いこともあるさ。私はね,歩いてシベリアにも,アムールにも,アルタイにも行ったんだ。シベリアに住みついて百姓をやったこともあるが,そのうちに母なるロシアが恋しくなってな,生まれ故郷の村へ帰ってきた。帰りもやっぱり歩いてさ。今でも覚えているが,渡し船に乗っていたときのことだ,私はがりがりに痩せて,ぼろ服を着て,はだしで,寒さにがたがた震えながらパンの皮をかじっていた。するとその渡し船に乗っていた旅の旦那が-もし亡くなったのなら安らかに眠りたまえー気の毒そうに私を見て,涙を流してこう言った。『ああ,黒パンを食べているんだね,あんたの暮らしもお先真っ暗なんだね・・・・・・』 村に帰り着いたときは,いわゆる素寒貧というやつでね,女房はいたけれどもシベリアに残って,あっちで骨を埋めた。そんなわけで今じゃこうして日雇いの百姓の暮らしさ。といったって,なあに,その後いいこともあったし,悪いこともあった。今だって死にたくはない,あと二十年がとこは生きたいな。つまり,いいことのほうが多かったということさ。なにしろ母なるロシアは広いんだ!」 アントン・チェーホフ 「谷間」 『可愛い女・犬を連れた奥さん』 新潮文庫.p. 183.
チェーホフは結核のため44歳という若さでこの世を去っています。引用元の作品は,亡くなる5年前に発表されたもので,老人の台詞には,彼の人生観やまだ生きたいという思いを読み取ることができなくもありません。人生は長いようで短く,短いようで長いかもしれません。そして,いいことばかりも悪いことばかりもない。この老人は人生に対して楽観的ですが,こうした「ある種の楽観」が,苦しいときこそ必要かもしれません。
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