7/09/2012

21 人生はプランに従う

閉め切られたドアを忙しく叩いてはいけません.自然に開くのを待つのです. 宇宙全体だけでなく一人一人の人間にも,きちんとした計画があります. そのプランが実行に移されていくのです. ・・・私たちはそのプランのもとに,私たちのやり方で私たちのタイミングで事を運ぶしかないのです.人間側の都合に合わせるわけにはいかないのです
 
その理由の一つは,
人間には自分にとってどうなるのが一ばん良いかが判断できないからです.物質的に,精神的に,そして霊的にあなたに何が一ばん望ましいかを判断するには,私たちの方が有利な立場にあります.
 待つのです.きっとドアは開かれます.
 
 

『シルバーバーチの霊訓  第10巻』  p. 172.



人生では思ったように物事が進まないことがあります.それがたまに起こるなら何とか対処できても,そういう状態が長期に及ぶのはとても辛いもの.自分自身の努力で解決が図れる問題ならともかく,相手があることや,とりあえず為す術がない,現状維持に甘んじなければならない場合は特に大変です.例えば,就職先が決まらない,恋愛や結婚の話が進まない,職場や家庭内のトラブル,などは本当に消耗します.

多くの問題は,自分の心の持ち方や考え方,行動を変えることによって,何らかの変化が見られるでしょう.しかし,自分の言動を変えても何をどうやっても状況が変わらない場合には,問題の受け止め方を変えるしかありません.大きく分けて,2つのアプローチがあります: 1)願望を変えるか,諦める(軌道修正); 2)今は結果が出る時期ではない,と受け止めて,一切の抵抗を辞め,できることをしながら時を待つ(「人事を尽くして天命を待つ」,つまり一種の諦念と辛抱)です.

宿命(意志力で変えられない部分)と運命(自分次第の部分)は違う,人間は霊界の操り人形ではない,自由意志こそが大切,とよく言われますが,個人的には,宿命の占める割合のほうが運命よりも大きいのではないか,と感じることが多いです。自由意志発動の範囲も,負うべきカルマによって,ある程度制約を受けています。

ですが,基本的には,前向きな気持ちさえ忘れなければ,そして,日々努力している人であれば,霊的な世界を信じようと信じまいと,必ずなるようになります.

いかなるときも自分自身を信じることが大切です. 

6/12/2012

無関心は残酷 −見えない相手も思いやる気持ちを

顔が見えないコミュニケーションは難しい。例えば,電話での会話,オンラインでのチャット,メールのみでの付き合い,一部のSNS経由での遣り取りなどがそれにあたる。家族,友人,知人との顔が見えるコミュニケーションでさえ充分難しいのに,面識の全くない人々との遣り取りともなればなおさらだ。言葉とは本来曖昧なもので,意志伝達手段として完璧とはいえない。社会言語学でよく言われるのは,言葉による情報量よりも,顔の表情やしぐさ(ジェスチャー)といったノン・バーバルコミュニケーションによる情報伝達量の方が多い,ということ。これに対しては否定的な見解もあるのだが,例えば,「ありがとう」という言葉も,優しい笑顔で言われれば感謝の表現だが,こわばった表情では,困惑と受け取られかねないことを考えれば,あながち否定できないだろうと思う。

もう少し堅苦しい話にお付き合いいただければ,よりよいコミュニケーションのためには,相手がどんな人かを適切に知ることが不可欠だ。「どんな人か」には,その人が「どんな人だと思われたいか」ということも含まれる。そのいわば“共有してほしい自己イメージ” (専門的には "face" = 体面 と呼ばれることもある) は,必ずしも自分の真の姿と一致しないことも多いし,一致する必要はない。自己評価が高い人や,逆に低い人など様々な人がいる。自分を正しく知ることは意外に難しい。が,いずれにせよ,相手の face を正しく把握し,こちらの face もちゃんとわかってもらえないと,互いに話が噛み合わない,ということも充分に起こりうるわけだ。日本語でも,「顔を潰す」「顔を立てる」「面子が丸つぶれ」といった表現があるが,自己イメージを否定されて不快だったり,逆に,尊重してもらえたことを言い表している。もの言わぬ壁に向かって話すなら別だが,人間同士が関わる限り,"faceless" なコミュニケーションは存在しない。このように,理論的にみても,面識のない人と,文字通り「顔が見えない」状況下で行う会話は,少なくともどちらかが不愉快な思いをせずに成立する確率は非常に低い,と言える。

確かにその通りなのだろう。でも,人間にはだれにも「見えないものを感じとる力」や「想像する力」,即ち「インスピレーション」が備わっている。そのひとつの顕れが芸術だ。われわれは美しい音楽を聞いてこころ癒され,演劇を見て涙し,感動する。この生まれつき備わった能力を駆使すれば,「顔がなくなりがちな」コミュニケーションになるという,高い壁を少しだけ低くすることは決して不可能ではない。そんなことを考えさせられる出来事がいろいろある。

最近気になるのは,相手の状況や気持ちを気にかけることも想像することもなく,ほぼ一方的に話してくる人々の存在。どういうわけか,私は「話しやすい,いい人」で,文句も言わずに,まるで母のように「自分を受け入れて,話をやさしく聞いてくれる人」という位置づけらしい。だから,平気で(プチ)自慢したり,普通であれば,かなり親しくならなければ話さないような話題もぽろっと話す。例えば,過去には,こちらがお金を払ってかけた電話相談で(1分刻みで料金が発生する),鑑定士の愚痴やら身の上話に付き合ったことも少なくない。相談者の私が相談にのってもらえるはずの占い師の相談に乗るという立場が逆転した状態だ。その一方で,彼らが,妙に上から目線でモノを言うことが度重なったため,耐えかねて会社に意見したことも。また,オンラインで交流のある人々の中にも,自慢話をしに私のところへわざわざやってくる暇な人々がいる。それでいて,話を聞いてくれてありがとう,というのではない。そもそも,面識のない相手には関心がない。だから,感謝もない。いや,なにも感謝されたいのではない。彼女らの無関心さ,思いやりの欠如,もっと言えばその無思慮と自己中心性が悲しいのだ。私としては,ひとに好かれたくていい人を演じているつもりはなく,自分が理想とするモラルにできるだけ沿う形で行動しようと努めているだけだ。自分の感情を最優先したり,やたらと自慢話をしたり,ひけらかしたり,一方的に甘える,といったことをできるだけしないようにしている(つもり)のだが,その結果,不愉快な思いをするというのは,どう捉えたらよいのか。もちろん,私も,気づかないうちに誰かに嫌な思いをさせてきただろうし,させているに違いないのだが。

本当に満たされた人,即ち,幸せな人は,誰かのために役立ちたい,ひとの幸せのために働きたい,と思うものだ。彼ら・彼女らの言動から察するに,そこまで満たされているわけでもなさそうだ。物心共に「ほどほどに」満たされて,且つ,本当の苦しみ・痛みを知らない人々は,どちらかといえば残酷とも思える言動を平気で取るかもしれない,と感じる。いまのその一言が,相手を不快にしたり,傷つけているかもしれない,といったことはみじんも考えないで。

ここに「甘え」を見て取ることもできる。「自分の話に同調してくれて当然」,「自分をわかってくれて,楽しい気持ちにさせてくれて当たり前」という甘えだ。冷たいようだが,私には面識も無い彼女らの話を聞く「義務」など全くないし,仮に,話に付き合ったとしても,彼らの感情を優先したり,理解しようとする努力を払う必要もない。ある人は,短いやり取りの後で,「愚痴を言ってすみません」と述べた。この人などは,まだわきまえている部類だ。それどころか,人の好意に乗じて,さらなる手柄話をひけらかすひとの方が数の上で圧倒的に優るから油断も隙もない。
「腹八部」というが,ある人々は,人付き合いは「腹六部」,と言う。相手がどれほど親しかろうと―家族であろうが,親しい友人であろうが―自分の思いをすべてさらけ出すのではなく,画すべき一線は画し,自分の腹におさめるべきはおさめ,相手を思いやり,尊重して対するべき,ということだろう。自分の思いを相手構わず無思慮に丸投げするのは,子どものすることだ。 

痛みを知らない人に,痛みを知る人々と同じ感性を求めるのは無謀だし,過大な要求かもしれない。そして,なにより言葉に依存するコミュニケーションには限界がある。とくに顔が見えない会話は難しい。だからこそ,私たちは注意しなければならない。せめて次の点だけでも心に留めたい。まず,距離を取ること。人とのこころのスペースを普段より多めにとろう。そして,もう少しだけ相手のことを考えて,コミュニケーションをとることを意識しよう。その人はいまどんな暮らしをしているのか,どんな思いでいるだろうか,自分のことばをどのように受け止めるだろうか,といったことに少しだけ(詮索ではなく)思いを馳せてもらいたい。人の数だけ人生があり,考え方・感じ方があり,相手はあなたと同じ人間ではないのだから。

5/04/2012

Loneliness as a period of growth and healing 淋しさは成長と癒しのために

"One of the most surprising things about the readings given for people who were lonely and were looking for friends, companionship, or a marriage partner is that Cayce never told them where to find a relationship.  Instead, the focus of the information was that there was something individuals were supposed to be doing with their time alone.  Oftentimes, the readings saw loneliness as a period needing to encompass both personal growth and healing as well as a time of reaching out to others who were less fortunate.  Individuals who were suffering from all kinds of lineliness were freuqnetly told to begin discovering their unique soul talents and abilities and to find ways in which they could be helpful to others.  Cayce believed that once individuals put their efforts in these directions, relationships would inevitably be drawn to them."

孤独で,友人や結婚相手を探している人々へのリーディングに関して,最も驚くべきことのひとつは,ケイシーがどこに相手を探しにいけばよいか決して言わなかったことだ。代わりに,情報は,各自がひとりの時になすべきことがあることに焦点を合わせた。往々にして,リーディングは,孤独を,自分よりも恵まれない人々に手を差し伸べる時期であると同様,個人的な成長および癒しを達成する時期とみていた。どのような孤独感であれ,淋しい人々は頻繁に,各自に備わった才能や能力を発見し,他の人々を助ける方法を見つけるように言われた。ケイシーは,一旦各自がそうした方向性で努力すれば,必ずパートナーを引き寄せることになるだろうと信じていた。

Kevin Todeschi (1999). Edgar Cayce on Soul Mates: Unlocking the Dynamics of Soul Attraction. pp. 132-133.



困難への対処法(4-2)-孤独なとき

前回の記事では,孤独感への応急措置的対応として,早めの就床と規則正しい生活を提案しました。その後,もう少し前向きな提案はできないものかと考えていたところ,少し興味深いブログに出会いました全ての記事に目を通してはいませんが,たとえばこの記事こちらこちらも参考になるかと思います。似たような感情を経験したことがあれば,共感できて少しは癒されるかもしれません。

これらの記事でも少し触れられていますが,できるだけスピリチュアルな観点から孤独感の軽減(解消ではない)に役立つポイントを2つ提案します。非常に単純なことですが:


1.人と交流する

 


2.自分が助けられる誰かを助ける(もしくは,すべき仕事や活動に専念する)



です。今回はまず,1の「人との交流」について述べてみたいと思います。これは,身近に家族や友人がいても理解されない,心が通わないと感じて孤独を感じるケースと,物理的に独りで,なお且つ孤独感を持っているケースのどちらにも有効でしょう。

但し,交流に際してはおさえるべきポイントがあります。まず,誰彼構わず交流するのではなく,ある程度慎重に相手を選ぶ必要がある,ということです。能天気に明るいタイプ,他者に批判的なタイプ,いわゆる強い性格の人や,自分と同じように何らかの辛さを抱え込んでいて余裕のない人々は避けるのが賢明でしょう。上辺の優しさではない情があって,他愛ない会話の楽しめる人,自らも苦労を乗り越えてきた人,包容力のあるタイプの人々は理想的ですが,自分の感覚で,この人なら安心できると思える人であれば大丈夫です。ご縁のある人々との出会いがあって,必ずわかります。よく,「家族がいてもいろいろあるし,誰にも悩みはあるから」ともっともらしい見解を述べて,軽く受け流す人がいます。「甘いわ」と言いたげな様子が垣間見えることも。全く見当違いというわけではありませんが,ほかの苦しみ同様,孤独は自ら経験しないとわからない痛みであって,「私には経験がないからわからない」というのが,最も誠実で適切な返答のはず。このように,人の苦境を想像しようとさえしない,もしくは理解できる素地のない人や,自分の問題で精一杯の人々は回避します。警戒心や恐怖心,不信感,不安感が刺激されそうな相手には極力近づかないことです。そして,悩みを聞いてもらう,というよりも,あくまでも対等な立場で,何気ない会話を楽しむことが肝心です。つまり,互いの生活や心の中に踏み込みすぎず,ある一定の距離―少し遠いと感じるくらいが適当―を保ちながらお付き合いすること。「交流」には“適度な距離感を保った付き合い”という含みがあります。相手を選び,一定の距離感を保つ―この2点に留意して,無理のない範囲で取り組むことが大切です。こうして上手に交流することには,癒しの効果があります

深い孤独感に悩む人々は,無関心の冷たさをよくわかっていると言えます。そして,程度の差こそあれ,心に傷を抱える人々でもあります。それは,理解されない寂しさ,認められない悔しさや悲しみ,低下した自己評価,自己否定や自己卑下の想い,先に希望が見出せない絶望感など様々で,これらのいくつかを経験しています。さらに,様々に渦巻く思いを心に閉じ込めたまま,自分の良さをも表現できないでいることがあります。従って,受容的な優しい人,自己表現しやすい相手,傷が刺激されない人々を選ぶことが大切です。自己否定感や無価値感,そばにいると淋しさを強めかねない人々との接触は避けます。「岩をめぐりて流れゆく」です。

相手さえ選べば,人との交流が癒しになるのは,交流を通じて人間の本質である,不可視のエネルギーを受け取ることができるからです。私たちの本来の状態は,肉体ではなく光のエネルギーで,たましいとか,ソウル(soul) などと呼ばれます。これは,「神性」と言い換えることもできます。神性とは,「愛」や「智恵」と呼ばれる,広範で抽象的な概念であり,エネルギーです。つまり,人間は誰もが愛と智恵でできている,とも言えます。ただ,地上を生きる上で必要な肉体を持つと,この本質の部分が弱まり,代わりに,生存(競争?)に必要な,防衛本能という名の「エゴ」(自分の福利厚生が最優先,という観念)が強くなります。そのため,地上では人間関係上の問題が起こりやすくなり,修行の場としてよく機能するともいえるのですが,癒しに有効なエネルギーを得られるのもまた,人を通じてです。淋しさを感じていたり,傷ついている時には,この本来持てるエネルギーが弱まっているので「プラスの想いやことばだけ」を上手に受け取ることができれば,私たちに本来必要なエネルギーを補給することができる,というわけです。

* * *

孤独感の軽減には,孤独を否定的に捉えすぎないことも非常に大切です。孤独感は,信頼できる人間関係の不在や,関係性がうまく機能していないことに由来することが多いでしょう。過去生にその原因を遡ることができるケースもあります。どのような原因であっても,人間が抱える悩みや問題に,人間関係が絡まないものは何ひとつないことを考えると,孤独もひとつの学びの機会であるといえます。だれの問題であっても,孤独は否定的に捉えられるべきではありません。

そして,孤独な時期には,人は自分と向き合うことを余儀なくされます。自分を見つめ,自分を知ることができます。自分の至らなさだけでなく,隠れた才能や美点にも気づくことができるチャンスです。と同時に,人間の心や人生について多くを学ぶチャンスでもあります。周囲の人々の言動を静かに観察・分析し,思い巡らせることは,日常生活に追われ,人間関係に恵まれ,人生が順調に進んでいるときには難しいことです。このように考えれば,孤独な時期は,内観と洞察を深める絶好の機会となり得るのです。孤独に伴う感情的な痛みを否定せずに認め,受け入れた上で,いましかできないこと,いまだからできることを探すことが,真に前向きな生き方といえます。

4/09/2012

スローガン「絆」

 震災後,私たちはみな,「絆を大切にしよう」という言葉をよく使うようになりました。絆とは素晴らしい言葉ですが,もし,最初から私たちが絆を持っていたら,これほどまでに声高に,絆,と言ったでしょうか?実は,もともと私たちに絆がなかったからこそ,スローガンのように掲げて,自らを鼓舞しているように思えます。
 テレビや雑誌などでは,震災以降,「絆の大切さを感じて結婚するカップルが増えた」と報じられていましたが,私はそうは感じていません。仮に本当に増えているのだとしても,それは「絆の大切さを感じて結婚した」というだけではなく,「何かあったときにひとりでいるのはさみしい」という気持ちがもとになっている人も多いのではないかとみています。しかし,もしそうした気持ちだけで結婚したのなら,それは打算があるのではないでしょうか。小我で決断したことなら,そこに本当の絆は結べませんから,お互いに「心を失う」ことになりかねません。

江原啓之 『予言』 講談社。 pp. 123-124.



絆がなかったからこそ,その必要性を痛感し始めた,とは共感できる内容です。震災のショックから,一時的に皆で助け合わなくちゃ!という意識が多くの人々に出ていましたが,根本的には以前とさほど変わりがないようです。例えば,かつて他の場所で大震災を経験した人々は当時を思い出したくない,まだ語れない,と言って会話の話題に上げようとしません。タブー扱いです。また,被災地から遠く離れて暮らす人々も,通り一遍の関心は示しますが,それだけ,という人が多い感じがします。

本物の「絆」は,にわかには築くことができません。

悩みが晴れないとき

 便利なモノをひとつでも手放せば,そこに時間ができます。そして,一日のうちにわずかでも,自分自身と静かに向き合う「内観」のときを持てるでしょう。四六時中誰かとつながって,話したり,メールをして気を紛らわせていても,実は「孤独」という人は多いと思います。悩みがいつまでも晴れないということもあるでしょう。それはある意味で当然です。自分自身と向き合い,そして自分のグループ・ソウルの叡智とつながる内観をしないから,根本的に解決できないのです。
 便利な「モノ」に依存して怠けず,もっと自分と向き合う時間をつくりましょう。そして,マニュアルに頼らず,想像力を養う訓練を日々のなかで積んでいきましょう。そうすればきっと,人生の迷いや悩みを自ら解決する糸口を見つけられるでしょう。

江原啓之 『予言』 講談社。 p. 174。

 (強調はブログ作成者のものです)


よく「 自分とつながる」と言いますが,それはこういうことです。スピリット・ガイドからインスピレーションを,多くの場合は間接的に,受け取りやすい状態が「つながっている」状態です。スピリット・ガイドというと,自分以外の存在と考えがちですが,別の存在というよりも,私たちの一部といえます。ここから内側は自分,外側はガイド,と線引きするのが非常に難しい(し,またその必要もない)存在です。

始終,外部からの刺激(視覚・聴覚を経て入ってくる)があると,必要なインスピレーションや助けを受け取りにくくなってしまいます。前頭葉を使いすぎている場合もよくありません。感情的に不安が強いときも同様です。

最も効果的なのは瞑想ですが,瞑想に抵抗がある場合は,テレビを観ない,ネットをしない,ラジオ・音楽(特に,歌詞があるもの)を聴かない状態を1日5分でも10分でも意図的に持ち,それを毎日継続していくのも良いと思います。椅子に座ったり,座禅を組む必要もありません。電車に乗っているときでも,入浴中でも構いません。また,個人で行うスポーツ(水泳やジョギング)にも,無になりやすい,という点で,瞑想と同じ効果が期待できるようです。ストレスの強い状態で,いろいろ考え事をして泳いでいたら溺れそうになった,という話はよく耳にします。(個人的には,思いがけないとき―入浴中や食卓についてぼうっとしているときが多い―にふっとひらめくことが多いです。)

ガイドが働きかけやすい常態-心が穏やかで何にもとらわれていない状態-にあることが肝心です。



近道が「ほんとうの近道」とは限らない

 しかし,人生というものは,いつもうまくいくとは限りません。そして,上手くいくことだけが必ずしも良いわけでもありません。幸せから遠い道を歩んでいると感じられることもあるかもしれませんが,たましいを磨くという視点で見れば,思いどおりにならない人生のほうがむしろ,より鍛えられるとも言えるのです。そう考えれば,幸せへの「近道」でないことが,実は「正しき道」と言えるのではないでしょうか。

江原啓之(2012) 『予言』 講談社。pp. 176-177.

(強調はブログ作成者によるものです)



何が本当によいことかを正しく見極める際,目に見える部分は手がかりにはならないということですね。 



読みたい本(7)

  千賀一生。『ガイアの法則』ヒカルランド。 いまの時代に読むべき必読書です。 正・続2冊ありますが、1冊目の裏表紙に印刷されている言葉を以下に紹介します: 宇宙に,聖なる16ビートが存在することを告げるガイアの法則— 新型コロナとの驚くべき精緻なる関係性も明らかに! 地球の歳差...