2/28/2015

スピリット・ガイド

スピリット・ガイドは「指導霊」と訳されることがあるが,「指導霊」は,その語順に正確に従うなら,ガイド・スピリット(guide=指導 spirit=霊) という英語に置き換えられ,或いは,この英語を和訳したものなのかもしれない.「ガイド・スピリット=指導霊」と明言する人々も見かける.しかし,はっきり言って,スピリットが先か,ガイドが先か,といった瑣末なことにこだわるのは,殆ど全く意味がない.少なくとも,精神世界に直接携わらない人々が用語にこだわる必要はないと思う.

ちなみに,ミディアム(霊媒 れいばい)とは,霊感・霊視・霊聴といったいわゆる第六感が発達し,且つ霊媒体質であって,そうした特徴を意識的に利用して「あの世」からのメッセージを「この世」の人々に伝える作業に従事できる人間全般を指して使っている.霊能者と呼んでもいいし,巫女と言っても構わない.それでも,私が「ミディアム」という表現を好む理由は2つある.まず,「霊」という日本語が持つ一般的な印象が少しおどろおどろしく,誤解を招きやすいということ.霊=幽霊・お化け=怖いもの,即ち,忌み嫌い,避けるべきもの,といった短絡的な連想・発想を避けてもらいたいから.また,英語のミディアム(medium) という語には,「媒体,仲介役」という意味があり,この世とあの世の橋渡し役,という本来の役目を客観的かつ端的に表現しているためである.本来の,と書いたが,それ以外に仕事はない,といっても過言ではない.(いわゆるスピリチュアル・ヒーリングや浄霊はここでは含めません.) 呼び名は重要でないと思うものの,私が「ミディアム」という表現を特に好むのは,リーディングを受けられる方々にもこうした理解を共有していただきたいからだ.

「霊を怖いと言える人は,ある意味,“お幸せ”なのです」と,ある霊能者が(笑顔で)言われているのを聞いたことがあるが,全くその通りだと思う.天国にいる愛する人(の霊)からメッセージを貰って,彼らを失った嘆き悲しみから救われる人も決して少なくないからだ.例えば,逆縁を経験した親の嘆きは想像を絶する.

話を戻すと,呼び名は所詮呼び名にすぎない.それよりも大切なことは,この地上に生きる,肉体を持った「人間」と呼ばれる私たちには,もれなく全員に,同じ肉体を持たない存在が,肉眼では見えない形で付き添い,見守り,導いている,ということ.その存在を,「守護霊」と呼んだり,「守護天使」といったりするのだ.もっとやわらかい,やさしい響きが好きなら,「エンジェル」と呼んでもいい.どのように呼ぼうと呼ぶまいと,彼らは怒りもしなければ,私たちを置き去りにすることもない.

この守護霊と呼ばれる存在は,一人に複数ついている.その内訳は,非常に大雑把にいえば,メインの1名とその他多数となる.このメインの1名を「主護霊」と呼ぶなら,守護霊グループは,1名の主護霊とその他多数のスピリット・ガイドから成り立っているといえる.スピリット・ガイドは守護霊と言っても同じだ.

主護霊は,自分の「グループ・ソウル」とか「類魂(るいこん)」と呼ばれる存在である.私たちは,あの世に帰ると,この世でのように個として他から独立して存在しているわけではなく,グループに属している.自分の個性は保ちつつも,グループ全体に溶け込んでいるといわれる.

ひとつのソウル・グループは,6つのソウルから構成されているらしい.この「6」という数字はおそらく信頼できるものと思われる.ただ,グループ構成に関しては説が分かれるようだ.6体のうち,本体と呼ばれる存在が1体あり,残り5体が本体の類魂である,という説と,6体は同等とする説とがあるようだ.前者の説では,あたかも桜の花のように,中心に本体があり,花びらの位置に残り5体が位置する状態としてイメージされるらしい.主護霊になるのは,その5体の中のひとつとされる.個人的には,後者の説がそうらしいのではないか,と感じているが,ただ,この辺りもかなり細かい話となり,さきの用語同様,グループ・ソウルの構成がどうなっているかについて多くの人々は気にする必要はないだろう. 

メインのスピリット(主護霊)は,私たちと同じグループに属していて,その導き,守るという役割のゆえに,「たましいの親」とも呼ばれたりするが,生まれる前からの,最も親密且つ最も信頼できる仲間,知り合い,と呼んでも間違いではなかろう.現世の親や配偶者よりそうなのだ.この世の誰よりも,私たちのことを熟知しているのが主護霊である.

あるがままの存在

行動や思想が立派だからといって地上で称賛される必要はない.あらゆる行動,あらゆる動機はすべて宇宙の広大な領域に記録されており,みなさんは嘘偽りのない,あるがままの存在として判断される.他者からの注目や尊敬を求めるのではなく,私利私欲抜きで誠実に他の人びとを豊かにするよう努力しながら,地道に人生に取り組んでいこう.あなたは今生でも来世でも,自分の魂に満足することによって十分に報われることだろう 

ジュディ・ラドン 『輪廻を超えて』



ひとから認められなかったり,努力が目に見える結果としてなかなか形にならない時,嘆き悲しんだり,焦ったり,成功している仲間を妬んだりするのが人の常でしょう。そうした体験や感情を味わうことも,貴重な学びと言えます。

しかし,わたしたちは常に見守られていて,全ての思い,言葉,行いはふさわしい結果を伴って残る,ということが真理であるなら,ひたすらそう信じて前進しつづけるしかなく,それが最善の道かもしれません。


2/11/2015

96 スピリットの発露は様々ある

 霊は全生命の創造力であるからこそじっとしていることができず,どこかに新らしい捌け口を求め,従って満足することがないのです。何も霊媒現象を通して働くばかりが霊力ではありません。芸術家を通して,哲学者を通して,あるいは科学者を通しても発現することができます。要するにあなた方自身の霊的自覚を深める行為,あなた方より恵まれない人々に何か役に立つ仕事に携わることです。看板は何であっても構いません。かかわる宗教,政治,芸術,経済がいかなる主義・主張を掲げようと問題ではありません。実際に行う無私の施しが進化を決定づけるのです。

近藤千雄訳.『シルバーバーチの霊訓 第1巻』 潮文社.pp. 81-82.



地上から貧困を失くし,Poverty Museum (貧困博物館)の設立を目標に掲げる,経済学者でありノーベル平和賞受賞者でもあるムハマド・ユヌス氏の働きは,霊界から非常に多くの援助を得ていると思います。グラミン銀行は,発展途上国は言うまでもなく,世界で最も裕福な国であり,格差社会でもあるアメリカに進出し,いまや三支店を構えるまでに成長しました。彼が生み出したソーシャル・ビジネスは,やがて,ビジネスの主要スタイルとして定着することでしょう。ユヌス氏は,宗教家でも霊能者でもありませんが,彼の理念(グラミン設立後のインタビューで,「貧困と惨めさの中で生きていい人間は一人もいない」と言われています)は真理と見事に合致しており,大きな役目を持って転生されたたましいであろうと思います。

メディアで報じられる様々な情報や,専門家の見解でさえ,真実でないことが少なくはありません。科学では事象の全側面を説明することができないので,知性と科学的態度を重要視する欧米先進国的アプローチが主流となっている現状では,真実に迫りきれないのは仕方がないことでしょう。

では,霊能者を通じてしか真実を知り得ないか,というと決してそのようなことはありません。人間の本質はスピリットであり,我々全員がスピリット・ガイドに守り導かれている存在であるなら,誰の言葉や思想や行いにも,何らかの真理・真実を―たとえわずかな片鱗でも―見い出すことができるはずです。

例えば,第二次世界大戦を生き延びた人々であれば,戦時中は狂気の時間であることをその実体験から知っています。わざわざ霊眼で見る必要はありません。おじいさんやおばあさんなど,戦争体験者に直接尋ねてみれば済むことです。また,専門家らも,イスラム国はやがて,一旦は崩壊することを予見しています。

霊能者でなければわからない情報―第三者の過去生や憑依による霊的な影響など―は,ごく一部です。霊能がなければ知り得ない情報など,私たちの日常生活でそうそう必要になるわけではありませんし,必要とする人々の割合もそう高くはありません。

物質文明が発達するに従い,人類の多くが,現実の物質的側面に過度な関心を向けるようになったために,もう少し霊的な側面にも目を向け,なぜこの世に生まれてきたのか正しく認識して(知って)よりよく生き,よりよくあの世に戻るように,と伝えてきています。それが人類全体の向上につながるからです。霊的なことに関心を持つということは,しかし,発達した霊能がなければ知り得ない(且つ知る必要のない)ごく一部の情報をあれこれ詮索することと同義では必ずしもありません。霊能者を特別視したり,優位に見よ,ということでもありません。

世のため人のためになる方法は実に多岐に亘っています。誰でも誰かの役に立つことができるのです。

そして,敬意は常に,愛に基づく高い志を持ち,勤勉な人びとに対して払われるべきでしょう。



2/08/2015

信仰の落とし穴

「神を信じている」「人間は霊的な存在だと思う」という言葉だけで,その人の生き方がわかるわけではありません.たとえ,そう表明をしていたとしても,自分は全てをわかっているというような錯覚に陥っているとしたら,それはきわめて即物的な態度であるといえるでしょう.
 もしその人がどんなにたくさんのことを知っていたとしても,知識を物のように持っているに過ぎないとしたら,それでは,恐れや畏敬に結びついていく本当の霊的な人生の姿勢からは,ほど遠い状態というほかありません.
 また,信仰や霊的な人生観を持っていることで,自分はそうでない人たちより人間として高尚であるとか,優れていると思うなら,信仰を他人よりワンランク・アップするための材料にしていることになります.
 残念なことに人生の目的が心や霊的な歩みにあるといいながら,まったく唯物的な生き方をしかねないのが人間なのです. 


高橋佳子 『人間の絆 基盤編』 pp. 275-6.


信仰心や,自分はスピリチュアリズムを知っている,という想いでさえも,モノと化してしまう可能性がある,ということです。

ひたすら謙虚さを心がけることが肝要ではないでしょうか。

スピリチュアル・ブックス 6

『トルストイ民話集 人はなんで生きるか 他四篇』 中村白葉訳。 岩波文庫。

ロシアの文豪トルストイの晩年の短編小説が収められています。ロシア地方に伝わる伝説や民話を題材とし,民衆にわかりやすい表現で,理解しやすい作品に仕上げたものということです。

ベースにあるのは,キリスト教信仰ですが,中核にあるもの―信仰心と同胞への奉仕―は,スピリチュアリズムと何ら変わりがありません。

ストーリーも登場人物もシンプルで,わかりやすく,どの作品も読後に心が暖かくなるものばかりです。四話で178ページと分量も少なめです。

特に,最後の作品,「二老人」は,現代の我々の姿とも重なるところがあり,内省材料として大いに資するストーリーではないかと思います。







2/06/2015

81 霊的なことにもう少し関心を

 霊的なものと物的なものとのいずれにも偏らないように配慮しないといけません.物的なことに向けておられる関心よりももっと多くとは申しませんが,せめて同じ程度の関心を霊的なことにも向けるように努力してください

『シルバーバーチの霊訓』 第12巻 p. 156.





1/30/2015

ジャパニーズ・ドリームの果てに

  <モノ語り>の人びとは,夥しいモノを生産し消費する社会から生まれました。彼らの周囲には,人づきあいや自分自身のことでモノに依存する数多くの人びと,つまり「消費する大衆」がいます。モノに依存する点で<モノ語り>の人びとと「消費する大衆」は五十歩百歩です。<モノ語り>の人びとの特徴は,人づき合いの上でのささいな葛藤で受診する点にのみあります。
 <モノ語り>の人びとが受診するのは,ほんのささいな葛藤に立ち向かうことができず,自分の力で解決する術を知らないからです。葛藤慣れ(原文傍点)していないために,葛藤に対する抵抗力が弱いのです。その意味で,<モノ語り>の人びとは葛藤の軽減化に成功しすぎていると言わざるをえません。彼らは人づき合いの上で生じがちな「ドロドロ」したものを「消毒」しすぎているのです。それ故の抵抗力の低下が,彼らの特徴だと言えます。
 僕は初めのうちは,何とひ弱な人たちだろう,と驚きました。僕は自分を主として精神病患者の治療をする精神病医と考えていましたから,このような軽症の,患者と言うことも難しいような人びとが受診してくるのが,正直,わずらわしくさえありました。
 しかし,次々と訪れる<モノ語り>の<患者>たちの話を聞いて,彼らの人となりを知り,生活の仕方がわかるにつれ,考えを改めました。
 短い年月の間に急速に豊かになり,身の回りにモノが溢れるようになった日本の社会に,彼らはある種の積極性を持って適応しているのではないか,と思うようになったのです。底の浅い葛藤を持つ彼らのような人びとこそが,現代の精神科の患者らしい患者なのではないかと考え始めたのです。(中略)
 ところで,彼らの人づき合いのやり方を僕が,ある程度,評価するようになったのは,次のように考えたからです。僕の少年時代,しばしば赤痢が流行し,えき痢で死ぬ子供も少なくありませんでした。今では,衛生設備の完備によって,そういうことは本当に珍しくなりました。しかし,その代り,少々腐ったバナナを食べても平気だった以前とは異なり,今では油断をするとすぐおなかをこわす人が増えました。(中略)
 <モノ語り>の人びとは,人づき合いにおけるナマナマシイ感情,「ドロドロ」したものを洗い流し,言ってみれば人づき合いを丸ごと消毒しています。その結果,葛藤に対する抵抗力が落ちてくるのはやむをえないことのようにも思えるのです。「(心の)裸のつきあい」という言い方は確かに耳に快く響きますが,それが現実には人の心の中に土足で立ち入ることになりやすいということを,僕は「土足で立ち入られた」側の人びとである患者たちからいく度となく知らされてきました。
 <モノ語り>の人びとの人づき合いの方法は,親密さを得られないという欠点を持ちます。反面,それなりにやさしく滑らかな人づき合いを可能にします。<モノ語り>の人びとは,本来,孤立主義者ではありません。身近な人びととの円満な宥和を求めているとも言えるのです。
  確かに,<モノ語り>の人びとには,広い社会を展望する視野がありません。また,人類の将来に対する理念も理想もありません。
 しかし,もともと,僕たち日本人とはそういう国民だったようにも思うのです。大それた理念や理想を持たず,身近な人々との間の「和」を保つという等身大の理想を追うのに熱心でした。おおきなことを言ってヒトとの間に葛藤を生じさせるよりは身近な人びとと平和に暮らすほうが好きだった,と言った方がよいかも知れません。「親しき仲にも礼儀あり」の好きな国民なのです。
 その意味で,モノ化によって葛藤の軽減化を計る<モノ語り>の人びとは,実に日本的なのかも知れません。「モノ化によって」という点が少々気になりますが,彼らの周囲にいる「消費する大衆」ですら「親しき仲にこそ高価なプレゼント」というところにまで到達しているのです。<モノ語り>の人びとはもう少し先までいっているだけのようにも思えます。
 モノと言えば,僕たち日本人は,豊かさを求めるのに実にプラグマティックで即物的でした。昭和三十年頃の「三種の神器」(電気洗濯機,電気冷蔵庫,テレビ)あたりに始まり,3C(新三種の神器―カー,クーラー,カラー・テレビ)を経て,現在の「絶対に欲しいモノ」と常に少し頑張れば手に入れられそうなモノを目標に立てては,その目標を達成してきました。これらのモノは,戦後の日本人にとってわかりやすい具体的な「豊かさ」そのものでした。
 魂の豊かさといった曖昧なものも忘れはしませんでしたが,棚上げにしてきました。漠然とした価値はプラグマティックに処理しにくいからです。この戦略は,ある意味で,実に有効でした。僕たち日本人は,目標めがけてまっしぐらに進み,モノに溢れる「豊かな」社会,「消費する大衆」の社会を築き上げることができました。
 魂の豊かさを棚上げにした社会であるとは言え,夢を失ったわけではありません。むしろ,新しい夢を得たのです。まだ名前がありませんから,僕は,仮にジャパニーズ・ドリームと名づけておこうと思います。(中略)
  日本には国家がスタートした時の定かな記憶がないので,アメリカのような「建国以来」の壮大な理想というものがありません。個々人が自分の経済的な繁栄を計ると,そのことが直ちに自由・平等や機会均等という壮大な理想や理念を実現するための方法になるといったプラグマティックな考え方はありません。(中略)
 しかし,僕たち日本人には,ヒトとの間に波風を立てず,「親しき仲にも礼儀あり」を守って暮らすという等身大の理想があります。
 個々人が「リッチ」になり,恋人・家族・友人に「絶対欲しいモノ」を贈ると,理想の現代版「親しき仲にこそ高価なプレゼント」がいとも簡単に実践できてしまいます。入学祝いに外車を買ってもらえる大学生,あるいは生前贈与で家の建築資金をもらえる人は,文句なしにうらやまれます。これなら,アメリカン・ドリームの日本版と言えるではありませんか。
 ジャパニーズ・ドリームはあくまでも夢です。いくら「豊か」になったとはいえ,この夢を実現した人は極くわずかです。アメリカン・ドリームのかげで,多くの人々が敗北感と粗暴な怒りにさいなまれているように,ジャパニーズ・ドリームのかげで,多くの人びとが相対的な貧困感に蝕まれていますノの壮大な階梯には,自分には手の届かないより高価な(原文傍点)プレゼントが常にあるからです。しかし,それでも人びとはこの夢の実現を目指すことをやめないでしょう。ジャパニーズ・ドリームに向き進む人びとの先頭に,僕は<モノ語り>の人びとの姿を見る思いがするのです。

 大平健.『豊かさの精神病理』 岩波新書,1990.pp. 237-243.



<モノ語り>の人びととは,自他ともに,人について描写したり説明するのが苦手な一方で,モノを媒介にすると雄弁になる特徴を持つ<患者>たちのことです。例えば,あるOLは,「私ですか・・・・・・えーと,まあ普通だと思います。明るいところも暗いところもあるし・・・・・・」「その人は,何て言うか,いじわるな人です。どういじわるかって言われても・・・・・・とにかくいじわるなんですよ」と,人間描写は苦手ですが,持ちモノについて尋ねられると,「そのオバサン,若ぶっちゃって,LLビーンのトートバッグか何かで会社に来るんですよ。靴もオイルド・モカシンで会社でパンプスに履きかえるの。なに気どってんのって皆で笑ってますよ。若い娘のまねしてリーボックならまだ可愛いですけどね。」などと途端に雄弁になるような人びとのことです(大平 1990, pp. 8-9)。

団塊の世代にあたる人々の中には,第二次世界大戦中,特攻隊員として短い命を散らした記憶を持つ魂が多くいる,という話をどこかで読んだことがありました。同じようなことが戦後のアメリカでも起こりました。ドイツ軍によるホロコーストで命を落とした多くの魂が,自分達を助けてくれた連合国軍を選び,自由の国アメリカを再生の地としてベビー・ブーム時に大勢転生したということです。

モノの非常に乏しかった戦時下に生き,国家を信じて,国家のために命を捧げた青少年たちが,モノの豊かな時代に転生して,その豊かさを享受しようとしたことは,ある意味当然の流れだったといえるでしょう。豊かさを通じて学ぶ,というカリキュラムだったかもしれません。本当の豊かさとは何か。それは物質的繁栄と同義なのか。

個々人によって学びも,答えも異なるかもしれません。しかし,昨今の社会諸情勢の中に,ひとつの答えがすでに提示されているのではないでしょうか。

人間関係の葛藤に耐えにくくなる程度のことで済んでいるうちはまだよいでしょう。風が吹けば桶屋が儲かるように,そうした人々を助ける職業に従事する方々も大勢います。ですが,それらがさらに深刻化したように思える事件の数々が,毎日のように新聞の紙面やテレビのニュースを賑わせていることにあらためて目を向けなければならないでしょう。

多少の縮小を伴いつつ,これまでの延長線上を歩き続けるのか,それとも,ここで立ち止まり,自分にとって「ほんとうの豊かさ」とは何かを思索し,模索するのか。最終判断と決断は,すべて各自に任されています。 



読みたい本(7)

  千賀一生。『ガイアの法則』ヒカルランド。 いまの時代に読むべき必読書です。 正・続2冊ありますが、1冊目の裏表紙に印刷されている言葉を以下に紹介します: 宇宙に,聖なる16ビートが存在することを告げるガイアの法則— 新型コロナとの驚くべき精緻なる関係性も明らかに! 地球の歳差...