4/09/2012

スローガン「絆」

 震災後,私たちはみな,「絆を大切にしよう」という言葉をよく使うようになりました。絆とは素晴らしい言葉ですが,もし,最初から私たちが絆を持っていたら,これほどまでに声高に,絆,と言ったでしょうか?実は,もともと私たちに絆がなかったからこそ,スローガンのように掲げて,自らを鼓舞しているように思えます。
 テレビや雑誌などでは,震災以降,「絆の大切さを感じて結婚するカップルが増えた」と報じられていましたが,私はそうは感じていません。仮に本当に増えているのだとしても,それは「絆の大切さを感じて結婚した」というだけではなく,「何かあったときにひとりでいるのはさみしい」という気持ちがもとになっている人も多いのではないかとみています。しかし,もしそうした気持ちだけで結婚したのなら,それは打算があるのではないでしょうか。小我で決断したことなら,そこに本当の絆は結べませんから,お互いに「心を失う」ことになりかねません。

江原啓之 『予言』 講談社。 pp. 123-124.



絆がなかったからこそ,その必要性を痛感し始めた,とは共感できる内容です。震災のショックから,一時的に皆で助け合わなくちゃ!という意識が多くの人々に出ていましたが,根本的には以前とさほど変わりがないようです。例えば,かつて他の場所で大震災を経験した人々は当時を思い出したくない,まだ語れない,と言って会話の話題に上げようとしません。タブー扱いです。また,被災地から遠く離れて暮らす人々も,通り一遍の関心は示しますが,それだけ,という人が多い感じがします。

本物の「絆」は,にわかには築くことができません。

悩みが晴れないとき

 便利なモノをひとつでも手放せば,そこに時間ができます。そして,一日のうちにわずかでも,自分自身と静かに向き合う「内観」のときを持てるでしょう。四六時中誰かとつながって,話したり,メールをして気を紛らわせていても,実は「孤独」という人は多いと思います。悩みがいつまでも晴れないということもあるでしょう。それはある意味で当然です。自分自身と向き合い,そして自分のグループ・ソウルの叡智とつながる内観をしないから,根本的に解決できないのです。
 便利な「モノ」に依存して怠けず,もっと自分と向き合う時間をつくりましょう。そして,マニュアルに頼らず,想像力を養う訓練を日々のなかで積んでいきましょう。そうすればきっと,人生の迷いや悩みを自ら解決する糸口を見つけられるでしょう。

江原啓之 『予言』 講談社。 p. 174。

 (強調はブログ作成者のものです)


よく「 自分とつながる」と言いますが,それはこういうことです。スピリット・ガイドからインスピレーションを,多くの場合は間接的に,受け取りやすい状態が「つながっている」状態です。スピリット・ガイドというと,自分以外の存在と考えがちですが,別の存在というよりも,私たちの一部といえます。ここから内側は自分,外側はガイド,と線引きするのが非常に難しい(し,またその必要もない)存在です。

始終,外部からの刺激(視覚・聴覚を経て入ってくる)があると,必要なインスピレーションや助けを受け取りにくくなってしまいます。前頭葉を使いすぎている場合もよくありません。感情的に不安が強いときも同様です。

最も効果的なのは瞑想ですが,瞑想に抵抗がある場合は,テレビを観ない,ネットをしない,ラジオ・音楽(特に,歌詞があるもの)を聴かない状態を1日5分でも10分でも意図的に持ち,それを毎日継続していくのも良いと思います。椅子に座ったり,座禅を組む必要もありません。電車に乗っているときでも,入浴中でも構いません。また,個人で行うスポーツ(水泳やジョギング)にも,無になりやすい,という点で,瞑想と同じ効果が期待できるようです。ストレスの強い状態で,いろいろ考え事をして泳いでいたら溺れそうになった,という話はよく耳にします。(個人的には,思いがけないとき―入浴中や食卓についてぼうっとしているときが多い―にふっとひらめくことが多いです。)

ガイドが働きかけやすい常態-心が穏やかで何にもとらわれていない状態-にあることが肝心です。



近道が「ほんとうの近道」とは限らない

 しかし,人生というものは,いつもうまくいくとは限りません。そして,上手くいくことだけが必ずしも良いわけでもありません。幸せから遠い道を歩んでいると感じられることもあるかもしれませんが,たましいを磨くという視点で見れば,思いどおりにならない人生のほうがむしろ,より鍛えられるとも言えるのです。そう考えれば,幸せへの「近道」でないことが,実は「正しき道」と言えるのではないでしょうか。

江原啓之(2012) 『予言』 講談社。pp. 176-177.

(強調はブログ作成者によるものです)



何が本当によいことかを正しく見極める際,目に見える部分は手がかりにはならないということですね。 



4/08/2012

便利さを選択する

 「前へ,前へ」と進み続けた過程で,たくさんの「便利なモノ」が生まれました。そして,今度はいったん手にしたそれらのモノを手放せなくなってしまっているのです。たとえば,携帯電話を手放せないばかりか,今度はやれスマートフォンだなんだと,「もっと先へ」と進んでいこうとします。テレビも地デジになり,DVDもブルーレイになってきています。次から次へと新しいモノを目の前につるされ,まるで踊らされているようです。どれも,前のままではいけなかったのでしょうか。世間的な流れとして,物質的価値観に逆らえずにいることを,私自身はとても悔しく感じています。そもそも,みなの言う「便利なモノ」とは,人間の感性を鈍麻させる一面もあります。ただスピーディーであるという利便性のみを追求するのであれば,「便利なモノ」=「怠惰の産物」とも言えるのではないでしょうか。(中略)
 機械化によって,そこに人の温もりを感じられなくなってしまっています。そればかりか,「効率の悪いものは切り捨てる」という弱肉強食の世をつくりだしてしまいかねないでしょう。もし今後,何でもコンピューターやロボットが人の代わりに仕事をするようになったら,職を失う人がさらに増え,よほど能力のある人しか生き残れないような時代になってしまうのではないでしょうか。便利を求め,経済効率を優先していたら,ますます「格差社会」になるのでは?と危惧してしまいます。
 これからは,あえて「不便なもの」を残し,効率を追求することに歯止めをかけることも大切ではないでしょうか。この先どこまで科学の進歩を取り入れるのか―。 (中略)「便利なモノ」もどこまで発展させ,どこまで取り入れるのかをしっかりと見直していくことが急務ではないでしょうか。
 どんなモノも,それ自体が何か悪さをするわけではありません。お金と一緒で,それを使う人の「心」が問われるのです。これからは,「私は,この便利はいらない」というふうに,自分で取捨選択し,自律していくことが大切ではないでしょうか?

江原啓之(2012) 『予言』 講談社。 pp. 141-147。

(強調はブログ作成者によるものです)



過剰な効率追求も,物質至上主義の一側面かもしれません。

「馬鹿と刃物は使いよう」という諺が示すように,核にしても,インターネットにしても,それらに本質的な問題があるということではないでしょう。ラジウムを発見したキュリー夫妻も,自らの研究成果が,やがては戦争の兵器として,さらには,原発事故を通じて,多くの人々に苦しみを与えることになろうとは予想だにしなかったでしょう。すべては人類の未熟さゆえに生じた出来事で,何であっても賢く使えば便利でも,使い方を誤ると命取りになりかねません。そして,地上には,さまざまな道具をより正しく,より賢く使えない人間が圧倒的に多いということでしょう。

話は少し飛躍しますが,霊能も同じです。人格のあまり高くない人が振り回すと刃物となり,ひとを不用意に傷つけます。また,霊能者経由で得た情報を他者に対して濫用することも同様です。

万事に通じることだと思います。

豊かさを見直す

 終戦後のまったく食べ物のない状態からたかだか60年あまりでここまで豊かになった,そのスピード感たるやまさに超特急です。しかし,この変化で私たちはどこかで幸せを見失い,幸せ迷子になっているのではないでしょうか。さすがのアメリカでも,一般の家庭の日常食は質素なもので,日本ほどの贅沢をしている国はないと感じます。
 けれど,あなたは本当にいま,幸せを感じていますか?たとえば,仕事のつきあいで食べるご馳走より,家に帰ってから食べる一杯のお茶漬けのほうがホッとできるように,どんなに質素な食事でも,家族や友達など気のおけない相手と食べていれば,それだけで十分心が満たされると思いませんか?
 人は未熟さゆえに,ついついわかりやすい贅沢や物質的な豊かさに溺れてしまいます。しかし,それで得られるのは,刹那的な充足にすぎません。たとえお金をたくさん持っていなくても,1冊の本を読むなり美術館で絵画を観るなり,心を豊かにする方法はたくさんあります。モノやお金でしか幸せを得られない,というのは思い込みなのです。
 「足るを知る」というのは,とりもなおさず,本当の幸せを探すということ。人と比べず,自分自身の心が豊かに満たされる生き方をするということではないでしょうか。人は物質的に満たされすぎるとかえって喜びを感じづらくなります。「あって当たり前」と思うと,そこに感謝も生まれませんが,「ないのが当たり前」と思っていれば,謙虚になれるものなのです。

江原啓之(2012) 『予言』 講談社。 pp.116-117。

(強調はブログ作成者のものです)



失ってはじめてわかるものがあります。大震災がきっかけで,当たり前の有難さに気づいた人も多いと報じられています。

バブル崩壊後に私たちは気づくべきでした。しかし,まだ気づけなかったので,今回のような事態となりました。これでもまだ気づけなければ,次は何が起こるかわかりません。

気づいている人々には,その気づきを周囲へ伝える“責任”があります。

一人の目覚めは全体の目覚めにつながります。







2025年は大きな転換期

2025年7月5日(土)の早朝(夜明け前),フィリピン沖の海底火山が噴火して,周辺国と日本の太平洋沿岸に巨大津波(120mほど)が押し寄せ,国土の1/3から1/4 が津波に呑まれる,という予知情報があります。最初にこれが注目されたのは,下にも関連動画のリンクを貼っていますが,たつ...