霊的真理・摂理と呼ばれるスピリチュアルな教えは素晴らしい。特に,19世紀後半から20世紀半ばにかけて英仏の有識者を霊媒として降ろされた数々の霊訓の奥深さには,いまなお他の追随を許さないものがある。ところで,当時,神学者,牧師,教育家といった知識人たちが霊媒として選ばれたのは,彼らの,抽象概念をよく扱い得る発達した知性や豊富な語彙力を利用して,真理のメッセージを活字として残し,時空を超えて地上にできるだけ広く行き渡らせる為だったのだろう。高度なインスピレーションは,ことばではなく,映像やイメージで来るものだ,と言うミディアムがいたが,私は少し疑問に思う。言葉による受信を否定することは,『シルバーバーチの霊訓』に代表される優れた霊界通信・霊訓の信憑性をも否定することになりはしないか。要は,霊媒の得意な部分,優位な器官を利用してメッセージを送ってくるのだろう。大雑把に言えば,右脳をよく使う,直観や感覚が発達したタイプの人(アーティストなど)は,霊視が発達しやすく,左脳的思考に馴染じむ人の場合は,言葉や思念として受け取られる(変換される)ことが多いのではないかと思う。
しかし,デパ地下の惣菜売り場で試食を繰り返しても食事の代わりにならないように,霊界から届けられた教えの(さらに)ごく一部を拾い読みし続けても,決して自分の身にはつかない。「簡単に手に入れたものは簡単に失う」とシルバーバーチも伝えているように,額に汗して自らの手で掴みとらなければ,本当に学ぶことはできないものだ。かといって,膨大な冊数の本を読んで,知識を得さえすればそれで充分ということもない。知識を得るだけでも,体験から学ぶだけでも不十分で,この両方のバランスがとれてはじめて(バランス比は人によって異なるかもしれないが),スピリチュアルな教えが身に着いていくのではないか。本を読んで知識を得ることと,日常生活での具体的な体験と沈思黙考(内省や自己分析)を通じて気づきを重ねていくことは,車の両輪のようなものだろうと思う。
といったことを考えさせられる出来事がある。* * *
世の中には,さまざまな個性の人がいて,私も,他の人々からみれば,その「さまざまな人」のひとりだが,人間同士が理解し合うことはとても難しいと思う。特に,面識の全くない人々と,オンラインや電話などでの言葉のみによる散発的なコミュニケーションを積み重ねて信頼関係を築くことは,ほぼ不可能な場合が多いと感じる。
例えば,明らかに大変好意的と読める文面に違和感を覚える。「益々のご活躍をお祈りします」と締めくくられている。形式的で丁寧な決まり文句,と読み流せばそれまでだが,ひっかかる。「活躍」には「(世間的)成功」のニュアンスがあるから。同義語の「活動」には成功・不成功という価値判断は含まれない。ブログ上でしか私をご存知ないのに,なぜ「活躍」などと書かれるのだろう,と悩む。ある時点まで,閲覧数も記事数も少ないほうのブログで,ここ十余年の個人的な事情のごく一部を開示していた。メインのブログにも触れている記事がある。関心を持って注意深く読まれれば,「活躍」などとは言えないはず,というのがこちらの言い分だが,いろいろな人がいて,いろいろな考え方・受け止め方がある。そのブログの存在はご存知ないのかもしれない。自分と比較して,「活躍」していると思われたのかもしれない。或いは,「今後はもっと活躍してくださいね」と励まされたつもりなのかもしれない。いずれにせよ,書き手の意図は私にはわからないし,「ご活躍」と仰るのはごく一部の方なので,揚げ足取りは慎むべきだと思うものの,読み流すことができない。(ちなみに,「充実した日々をお過ごし下さい」などの決まり文句も同様で,個人的な事情を全く知らない相手に対する使用に際しては,注意を要する。「ご多幸をお祈りします」はこれらの亜型であり,気持ちのない形式だけの挨拶表現の典型である。)
また,あるブログ記事の言葉を読んで,入院されていた知人の方がとても心を動かされたとお知らせ下さる。記事の言葉に私の名前を添える(添えてもいいですか?という問いではなく),とのお申し出だった。数年前に他のブログで記事が無断転載されているのを見つけて以来,リンクを張らない引用に関する注意喚起文を掲載しているが,それを読まれて連絡されたようであった。正直なところ,これには少し当惑した。なぜなら,ブログを少しでもご覧いただけば一目瞭然なように,私は実名を出してはいないからだ。リーディングでは,お申込みになる方々から氏名を伺うので,こちらの名前もお知らせしているが,それ以外では,ことスピリチュアルな活動に関する限り,年齢等の素性は明かしていない。差し当たり明かす予定もない。記事を直接読んでいただけるように,(紹介する,と言われたので,どうせなら)名前ではなくブログを紹介してください,とお願いしたと思う。メインのブログはよくご覧になっている様子だが,にも拘わらず,なぜ名前を添えるなどと言われたのか。そう書けば,私が喜ぶとでもと思われたのか。真意は量りかねるものの,メールを下さる度に,配慮の方向性がどこかずれている印象があった。(いや,そもそも配慮などなかったことに,私が気づけていなかっただけかもしれない。)紹介した二つのケースの,いずれも一見,“非常に好意的で丁寧な”メールの文面に,有り体に言えば,傷つくのである。
これらの実例は,きわめて些細な出来事で,受け取る側としては,たとえ違和感を感じたり悲しくなったとしても,けなされたわけではないのだから,自分に都合よく良く受け取るか,読み流せば済む話である。わざわざ時間を割いて取り沙汰するほどのことでもないと思われるだろう。しかし,敢えて記事にしたのには意味がある。
二つの共通点があることに気づいたから。
ひとつは,いわゆる物質(至上)主義的価値観。いわゆる「マーヤー」(反義語の「サティヤ」は真理の意)と通じるものがあると思うのだが,地上にしかないもの,地上でしか価値を持たないもの全てを殊更に重視する考え方を指す。例えば,財力,学歴,家柄,肩書き,美貌,世間的な成功や名誉,年齢,性別(男性のほうが上)などを,量が多いほうがよい,ないよりも持っているほうが良い,とする価値観だ。これがやや強く感じられる。尤も,「成功」を暗示する表現に反応することも,突き詰めれば根本は同じだろうが。
もうひとつの共通点は,一見相手に好意的であり,賞賛しているように読めるものの,実は,自分自身が理解されることや賞賛されることを求めていて,しかも,本人にその自覚が(おそらく)殆どない,という点だ。つまり,相手に本当に関心があるわけではない。自分をわかってもらいたい,認めてもらいたい,誉めてもらいたい,癒されたい,という想いがまずあって,その自己愛を満たすために相手に取り入る(と言うと語弊があるかもしれないが),という感じがする。
人間だから我が身可愛さはあって当然だが,その自覚がないところに問題があると思う。何かをする時,自分の本音や真の動機を,ある程度でも,把握しているのといないのとでは,相手に及ぼす影響など,“最終的な”部分で違いが出てしまう。この人なら私の気持ちをわかってくれるだろう,という期待がおありだったかもしれない。また,私個人よりも,私「経由で」伝えられる言葉やメッセージの方に興味があるのではないか。私自身は,人に好かれるためにブログで発信しているわけではないので,個人的にご好意や(好奇心ではなく)関心を持っていただかなくても差し支えはない。しかし,残念ながら,ほぼ一方的に愛情を求められる類いのご期待には沿えないことの方が多いと思う。リーディング後のコメント等で,いろいろなお話を伺うことは全く厭わないし,痒いところに手の届くようなことはなかなか言えないが,できる範囲内でお返事もする(たまに返事が長すぎて,ご迷惑をおかけしている方々もいるかもしれない)。が,「私をわかってください!癒してください!」といった強い訴えにお応えすることは難しいかと思う。少なくとも今はかなり厳しい。
以前,メインのブログにいただいたコメントや,リーディングを受けてくださった方々との遣り取りの中で,人それぞれに思い描いておられるイメージが,私の実像とかけ離れていると知って驚いた。浮かび上がる“60代の男性像”は,現実とは全く異なっている。たとえ面識があったとしても,相手を知ろうとしなければ,わからないことは多い。例えば,実際の年齢よりかなり下に見られることがよくある(家系的に)が,この個性は仕事面ではあまりプラスに作用しないことが多く,諸事情も手伝って,若く見えると指摘されるたびに複雑な心境になる。このように,顔を合わせる人であっても,その実像を正しく把握することは非常に難しいものだ。
そもそも,この15年間,私が「具体的に」どのような境遇で,どのような心境で暮らしてきたか,現状がどうであるかはご存知ないはず。全貌や詳細を知っていただく必要も,お知らせするつもりもないが,せめて,「私はこの人のことはよく知らない」という認識を持っていただけないものか,と思う。事実を知らない,という「事実」を知っていただきたいのだ。
話を戻すと,スピリチュアリズムをよく知っています,ブログをいつも読んでいます,としきりにアピールされる一方で,文面に成功や名声を想起させる言葉が見え隠れするというのは,霊的真理の理解が断片的であるか,或いは,最初から理解されていないからだと思わざるを得ない。さらに,相手も自分と同じ(物質主義的)価値観を共有していることを(暗に)前提とされている。その前提にはどのくらい確かな根拠があるのだろう。
私たち誰もが心すべきこと,それは: 汝自身を知る (Know thyself) ということ。自分の本当の気持ちは,動機は何なのか,立ち止まって静かに見つめたい。そして,自分にとっての「常識」が,万人にとっての常識とは限らないことを意識しなければならない。
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普段のごく些細な出来事にも,気づきの種は潜んでいて,その気になりさえすれば,一瞬一瞬が貴重な学びのチャンスになり得る。「小事を軽んじて大事をなすことはできない」という趣旨の言葉をある本で読んだが,千里の道も一歩から始まるように,日々の生活から学ばずして,真理の深い理解に到達することなどあり得ない。