2/11/2015

96 スピリットの発露は様々ある

 霊は全生命の創造力であるからこそじっとしていることができず,どこかに新らしい捌け口を求め,従って満足することがないのです。何も霊媒現象を通して働くばかりが霊力ではありません。芸術家を通して,哲学者を通して,あるいは科学者を通しても発現することができます。要するにあなた方自身の霊的自覚を深める行為,あなた方より恵まれない人々に何か役に立つ仕事に携わることです。看板は何であっても構いません。かかわる宗教,政治,芸術,経済がいかなる主義・主張を掲げようと問題ではありません。実際に行う無私の施しが進化を決定づけるのです。

近藤千雄訳.『シルバーバーチの霊訓 第1巻』 潮文社.pp. 81-82.



地上から貧困を失くし,Poverty Museum (貧困博物館)の設立を目標に掲げる,経済学者でありノーベル平和賞受賞者でもあるムハマド・ユヌス氏の働きは,霊界から非常に多くの援助を得ていると思います。グラミン銀行は,発展途上国は言うまでもなく,世界で最も裕福な国であり,格差社会でもあるアメリカに進出し,いまや三支店を構えるまでに成長しました。彼が生み出したソーシャル・ビジネスは,やがて,ビジネスの主要スタイルとして定着することでしょう。ユヌス氏は,宗教家でも霊能者でもありませんが,彼の理念(グラミン設立後のインタビューで,「貧困と惨めさの中で生きていい人間は一人もいない」と言われています)は真理と見事に合致しており,大きな役目を持って転生されたたましいであろうと思います。

メディアで報じられる様々な情報や,専門家の見解でさえ,真実でないことが少なくはありません。科学では事象の全側面を説明することができないので,知性と科学的態度を重要視する欧米先進国的アプローチが主流となっている現状では,真実に迫りきれないのは仕方がないことでしょう。

では,霊能者を通じてしか真実を知り得ないか,というと決してそのようなことはありません。人間の本質はスピリットであり,我々全員がスピリット・ガイドに守り導かれている存在であるなら,誰の言葉や思想や行いにも,何らかの真理・真実を―たとえわずかな片鱗でも―見い出すことができるはずです。

例えば,第二次世界大戦を生き延びた人々であれば,戦時中は狂気の時間であることをその実体験から知っています。わざわざ霊眼で見る必要はありません。おじいさんやおばあさんなど,戦争体験者に直接尋ねてみれば済むことです。また,専門家らも,イスラム国はやがて,一旦は崩壊することを予見しています。

霊能者でなければわからない情報―第三者の過去生や憑依による霊的な影響など―は,ごく一部です。霊能がなければ知り得ない情報など,私たちの日常生活でそうそう必要になるわけではありませんし,必要とする人々の割合もそう高くはありません。

物質文明が発達するに従い,人類の多くが,現実の物質的側面に過度な関心を向けるようになったために,もう少し霊的な側面にも目を向け,なぜこの世に生まれてきたのか正しく認識して(知って)よりよく生き,よりよくあの世に戻るように,と伝えてきています。それが人類全体の向上につながるからです。霊的なことに関心を持つということは,しかし,発達した霊能がなければ知り得ない(且つ知る必要のない)ごく一部の情報をあれこれ詮索することと同義では必ずしもありません。霊能者を特別視したり,優位に見よ,ということでもありません。

世のため人のためになる方法は実に多岐に亘っています。誰でも誰かの役に立つことができるのです。

そして,敬意は常に,愛に基づく高い志を持ち,勤勉な人びとに対して払われるべきでしょう。



2/08/2015

信仰の落とし穴

「神を信じている」「人間は霊的な存在だと思う」という言葉だけで,その人の生き方がわかるわけではありません.たとえ,そう表明をしていたとしても,自分は全てをわかっているというような錯覚に陥っているとしたら,それはきわめて即物的な態度であるといえるでしょう.
 もしその人がどんなにたくさんのことを知っていたとしても,知識を物のように持っているに過ぎないとしたら,それでは,恐れや畏敬に結びついていく本当の霊的な人生の姿勢からは,ほど遠い状態というほかありません.
 また,信仰や霊的な人生観を持っていることで,自分はそうでない人たちより人間として高尚であるとか,優れていると思うなら,信仰を他人よりワンランク・アップするための材料にしていることになります.
 残念なことに人生の目的が心や霊的な歩みにあるといいながら,まったく唯物的な生き方をしかねないのが人間なのです. 


高橋佳子 『人間の絆 基盤編』 pp. 275-6.


信仰心や,自分はスピリチュアリズムを知っている,という想いでさえも,モノと化してしまう可能性がある,ということです。

ひたすら謙虚さを心がけることが肝要ではないでしょうか。

スピリチュアル・ブックス 6

『トルストイ民話集 人はなんで生きるか 他四篇』 中村白葉訳。 岩波文庫。

ロシアの文豪トルストイの晩年の短編小説が収められています。ロシア地方に伝わる伝説や民話を題材とし,民衆にわかりやすい表現で,理解しやすい作品に仕上げたものということです。

ベースにあるのは,キリスト教信仰ですが,中核にあるもの―信仰心と同胞への奉仕―は,スピリチュアリズムと何ら変わりがありません。

ストーリーも登場人物もシンプルで,わかりやすく,どの作品も読後に心が暖かくなるものばかりです。四話で178ページと分量も少なめです。

特に,最後の作品,「二老人」は,現代の我々の姿とも重なるところがあり,内省材料として大いに資するストーリーではないかと思います。







2/06/2015

81 霊的なことにもう少し関心を

 霊的なものと物的なものとのいずれにも偏らないように配慮しないといけません.物的なことに向けておられる関心よりももっと多くとは申しませんが,せめて同じ程度の関心を霊的なことにも向けるように努力してください

『シルバーバーチの霊訓』 第12巻 p. 156.





1/30/2015

ジャパニーズ・ドリームの果てに

  <モノ語り>の人びとは,夥しいモノを生産し消費する社会から生まれました。彼らの周囲には,人づきあいや自分自身のことでモノに依存する数多くの人びと,つまり「消費する大衆」がいます。モノに依存する点で<モノ語り>の人びとと「消費する大衆」は五十歩百歩です。<モノ語り>の人びとの特徴は,人づき合いの上でのささいな葛藤で受診する点にのみあります。
 <モノ語り>の人びとが受診するのは,ほんのささいな葛藤に立ち向かうことができず,自分の力で解決する術を知らないからです。葛藤慣れ(原文傍点)していないために,葛藤に対する抵抗力が弱いのです。その意味で,<モノ語り>の人びとは葛藤の軽減化に成功しすぎていると言わざるをえません。彼らは人づき合いの上で生じがちな「ドロドロ」したものを「消毒」しすぎているのです。それ故の抵抗力の低下が,彼らの特徴だと言えます。
 僕は初めのうちは,何とひ弱な人たちだろう,と驚きました。僕は自分を主として精神病患者の治療をする精神病医と考えていましたから,このような軽症の,患者と言うことも難しいような人びとが受診してくるのが,正直,わずらわしくさえありました。
 しかし,次々と訪れる<モノ語り>の<患者>たちの話を聞いて,彼らの人となりを知り,生活の仕方がわかるにつれ,考えを改めました。
 短い年月の間に急速に豊かになり,身の回りにモノが溢れるようになった日本の社会に,彼らはある種の積極性を持って適応しているのではないか,と思うようになったのです。底の浅い葛藤を持つ彼らのような人びとこそが,現代の精神科の患者らしい患者なのではないかと考え始めたのです。(中略)
 ところで,彼らの人づき合いのやり方を僕が,ある程度,評価するようになったのは,次のように考えたからです。僕の少年時代,しばしば赤痢が流行し,えき痢で死ぬ子供も少なくありませんでした。今では,衛生設備の完備によって,そういうことは本当に珍しくなりました。しかし,その代り,少々腐ったバナナを食べても平気だった以前とは異なり,今では油断をするとすぐおなかをこわす人が増えました。(中略)
 <モノ語り>の人びとは,人づき合いにおけるナマナマシイ感情,「ドロドロ」したものを洗い流し,言ってみれば人づき合いを丸ごと消毒しています。その結果,葛藤に対する抵抗力が落ちてくるのはやむをえないことのようにも思えるのです。「(心の)裸のつきあい」という言い方は確かに耳に快く響きますが,それが現実には人の心の中に土足で立ち入ることになりやすいということを,僕は「土足で立ち入られた」側の人びとである患者たちからいく度となく知らされてきました。
 <モノ語り>の人びとの人づき合いの方法は,親密さを得られないという欠点を持ちます。反面,それなりにやさしく滑らかな人づき合いを可能にします。<モノ語り>の人びとは,本来,孤立主義者ではありません。身近な人びととの円満な宥和を求めているとも言えるのです。
  確かに,<モノ語り>の人びとには,広い社会を展望する視野がありません。また,人類の将来に対する理念も理想もありません。
 しかし,もともと,僕たち日本人とはそういう国民だったようにも思うのです。大それた理念や理想を持たず,身近な人々との間の「和」を保つという等身大の理想を追うのに熱心でした。おおきなことを言ってヒトとの間に葛藤を生じさせるよりは身近な人びとと平和に暮らすほうが好きだった,と言った方がよいかも知れません。「親しき仲にも礼儀あり」の好きな国民なのです。
 その意味で,モノ化によって葛藤の軽減化を計る<モノ語り>の人びとは,実に日本的なのかも知れません。「モノ化によって」という点が少々気になりますが,彼らの周囲にいる「消費する大衆」ですら「親しき仲にこそ高価なプレゼント」というところにまで到達しているのです。<モノ語り>の人びとはもう少し先までいっているだけのようにも思えます。
 モノと言えば,僕たち日本人は,豊かさを求めるのに実にプラグマティックで即物的でした。昭和三十年頃の「三種の神器」(電気洗濯機,電気冷蔵庫,テレビ)あたりに始まり,3C(新三種の神器―カー,クーラー,カラー・テレビ)を経て,現在の「絶対に欲しいモノ」と常に少し頑張れば手に入れられそうなモノを目標に立てては,その目標を達成してきました。これらのモノは,戦後の日本人にとってわかりやすい具体的な「豊かさ」そのものでした。
 魂の豊かさといった曖昧なものも忘れはしませんでしたが,棚上げにしてきました。漠然とした価値はプラグマティックに処理しにくいからです。この戦略は,ある意味で,実に有効でした。僕たち日本人は,目標めがけてまっしぐらに進み,モノに溢れる「豊かな」社会,「消費する大衆」の社会を築き上げることができました。
 魂の豊かさを棚上げにした社会であるとは言え,夢を失ったわけではありません。むしろ,新しい夢を得たのです。まだ名前がありませんから,僕は,仮にジャパニーズ・ドリームと名づけておこうと思います。(中略)
  日本には国家がスタートした時の定かな記憶がないので,アメリカのような「建国以来」の壮大な理想というものがありません。個々人が自分の経済的な繁栄を計ると,そのことが直ちに自由・平等や機会均等という壮大な理想や理念を実現するための方法になるといったプラグマティックな考え方はありません。(中略)
 しかし,僕たち日本人には,ヒトとの間に波風を立てず,「親しき仲にも礼儀あり」を守って暮らすという等身大の理想があります。
 個々人が「リッチ」になり,恋人・家族・友人に「絶対欲しいモノ」を贈ると,理想の現代版「親しき仲にこそ高価なプレゼント」がいとも簡単に実践できてしまいます。入学祝いに外車を買ってもらえる大学生,あるいは生前贈与で家の建築資金をもらえる人は,文句なしにうらやまれます。これなら,アメリカン・ドリームの日本版と言えるではありませんか。
 ジャパニーズ・ドリームはあくまでも夢です。いくら「豊か」になったとはいえ,この夢を実現した人は極くわずかです。アメリカン・ドリームのかげで,多くの人々が敗北感と粗暴な怒りにさいなまれているように,ジャパニーズ・ドリームのかげで,多くの人びとが相対的な貧困感に蝕まれていますノの壮大な階梯には,自分には手の届かないより高価な(原文傍点)プレゼントが常にあるからです。しかし,それでも人びとはこの夢の実現を目指すことをやめないでしょう。ジャパニーズ・ドリームに向き進む人びとの先頭に,僕は<モノ語り>の人びとの姿を見る思いがするのです。

 大平健.『豊かさの精神病理』 岩波新書,1990.pp. 237-243.



<モノ語り>の人びととは,自他ともに,人について描写したり説明するのが苦手な一方で,モノを媒介にすると雄弁になる特徴を持つ<患者>たちのことです。例えば,あるOLは,「私ですか・・・・・・えーと,まあ普通だと思います。明るいところも暗いところもあるし・・・・・・」「その人は,何て言うか,いじわるな人です。どういじわるかって言われても・・・・・・とにかくいじわるなんですよ」と,人間描写は苦手ですが,持ちモノについて尋ねられると,「そのオバサン,若ぶっちゃって,LLビーンのトートバッグか何かで会社に来るんですよ。靴もオイルド・モカシンで会社でパンプスに履きかえるの。なに気どってんのって皆で笑ってますよ。若い娘のまねしてリーボックならまだ可愛いですけどね。」などと途端に雄弁になるような人びとのことです(大平 1990, pp. 8-9)。

団塊の世代にあたる人々の中には,第二次世界大戦中,特攻隊員として短い命を散らした記憶を持つ魂が多くいる,という話をどこかで読んだことがありました。同じようなことが戦後のアメリカでも起こりました。ドイツ軍によるホロコーストで命を落とした多くの魂が,自分達を助けてくれた連合国軍を選び,自由の国アメリカを再生の地としてベビー・ブーム時に大勢転生したということです。

モノの非常に乏しかった戦時下に生き,国家を信じて,国家のために命を捧げた青少年たちが,モノの豊かな時代に転生して,その豊かさを享受しようとしたことは,ある意味当然の流れだったといえるでしょう。豊かさを通じて学ぶ,というカリキュラムだったかもしれません。本当の豊かさとは何か。それは物質的繁栄と同義なのか。

個々人によって学びも,答えも異なるかもしれません。しかし,昨今の社会諸情勢の中に,ひとつの答えがすでに提示されているのではないでしょうか。

人間関係の葛藤に耐えにくくなる程度のことで済んでいるうちはまだよいでしょう。風が吹けば桶屋が儲かるように,そうした人々を助ける職業に従事する方々も大勢います。ですが,それらがさらに深刻化したように思える事件の数々が,毎日のように新聞の紙面やテレビのニュースを賑わせていることにあらためて目を向けなければならないでしょう。

多少の縮小を伴いつつ,これまでの延長線上を歩き続けるのか,それとも,ここで立ち止まり,自分にとって「ほんとうの豊かさ」とは何かを思索し,模索するのか。最終判断と決断は,すべて各自に任されています。 



1/28/2015

45 真の信仰

真の信仰を身につける好機は全てのことが順調に行っている時ではありません.そんな時に信仰を口にするのは誰にでもできることです.暗黒の時に身につけたものこそ本当の信念といえます。

『シルバーバーチの霊訓』 3: 32.



既存宗教を批判するわけではありませんが,歴史を経て人間が大きく手を加えた宗教に限界があることは否定できません.完璧なものがこの地上に存在しないように,「100パーセント完全な」宗教も,少なくとも今の世には,存在しません.諸宗教の枠を超えたところにある,そして,さまざまな宗教がそこから出てきた大元である叡智,即ち,真理を求めることが,最終的には近道となるでしょう.

難病,借金苦,人間関係のトラブル,仕事上の困難など,人生にはさまざまな苦労があります.どのような苦労であれ,大きな困難を克服した人々が往々にして信心深くなるのは,人間の力だけではどうにも太刀打ちのできない問題に直面する為です.そういう経験を経てはじめて,人は人智を超えた存在を「悟る」ことになります.というよりも,そうした形でしか悟りは得られないないようになっているようです.

>> 以前の記事 5.悟りへの近道 も参照ください.





1/24/2015

愛にふさわしいもの

 一問一答は略しますが,僕が<患者>に説明したのは次のようなことです。
 老夫婦が求めていたのは愛の対象です。自分の子供がいれば,否が応でも愛はその子に向けなくてはならなかったでしょうが,老夫婦には幸か不幸か,愛を与える特定のものがいませんでした。自分たちが愛を与えるのにふさわしいものを選べる立場にあったのです。しかし,老爺はそれができずに,全ての猫を連れて帰ります。愛を与えるのにふさわしいものを選ぶというのは,どだい,無理なことなのです。しかも,外見で選ぶということは。
 したがって,老爺の不決断を責めることはできません。老爺は自分が選べなかったにもかかわらず,選んだつもりになっています。全部の猫が愛を与えるのにふさわしいと選んだつもりなのです。老爺は自分の愛に酔っているのです。その点,家で待っていた老婆の方は現実的です。猫を養う家計に限りがあると言うのです。そうは言っても,老婆自身も自分が愛を与えるのにふさわしいものを選ぶことなどできません。そこで,その仕事を猫たち自身に押しつけるのです。誰が愛を受けるにふさわしいか,愛を受ける者が決める。
 無理はさらに大きな無理になります。この無理は,猫たちが食い合いをして一匹消えてしまうことで,終ります。残っていたみにくい仔猫は,自分が愛を受けるのにふさわしくないと思っていた猫です。この猫が,結局は,老夫婦の愛を受けます。そして,その愛にふさわしく美しくなるのです。つまり,愛を受けたものがその愛にふさわしくなるのであって,愛にふさわしいものが愛を受けるのではないのです。
 僕が<患者>に話したのはこういう主旨のことです。

大平健。『豊かさの精神病理』 岩波書店,1990。pp. 153-155.



イライラに悩んで精神科を受診した青年に,精神科医である著者が,自分の問題を客観視する姿勢を促すために,引き合いに出したガアグ作『100まんびきのねこ』(福音館)の解説です。童話の分析と解釈における深い洞察は,心に響きます。

ご存知の方も多いかもしれませんが,童話のあらすじは次の通りです: 老夫婦が二人だけで暮らしていましたが,子どもがおらず寂しかったので,おばあさんは可愛い猫を飼いたい,と言います。おじいさんは,猫を探しに出かけ,100万匹の猫がいる丘にやってきます。そこから気に入った猫を1匹選ぼうとしますが,選べません。そこで,全部連れていくことになりました。家に向かう道中,喉が渇いた猫たちは池の水を飲みほし,空腹を訴えては,野原の草をすべて食いつくしますが,それでもかまわずおじいさんは猫たちを連れて帰ります。おばあさんは大勢の猫に驚いて,全部に餌をやっていたら貧乏になってしまう,といいます。そこで二人は,どの猫を引き取るか,猫たちに決めさせることにしました。すると,猫たちは,自分こそが一番美しいと,猫同士の争いに発展し,老夫婦を驚かせます。しばらくして,猫たちは共食いして,一匹を残してすべて死んでしまいました。唯一の生き残りは,ちいさくてみにくい仔猫で,そのみにくさから誰も自分に見向きもしなかった,というのです。結局,二人はこの猫を引き取り,世話をします。ミルクをたくさん飲ませると,丸々と太って可愛い猫になります。おばあさんもおじいさんも大いに満足します。やはり,この猫こそ世界一美しい猫だった,何しろ100万匹の猫を見た自分の目に狂いはなかったのだ,と (大平 1990,pp. 151-153)。

本書が出版されたのは,バブル期の真っ只中です。その頃,本来なら心理カウンセリングを受けるべき人々が,次々と精神科医である著者のもとを訪れ,戸惑わせたことが本書誕生のひとつのきっかけとなっています。若いOLやサラリーマンでも,数か月貯金すれば,ヨーロッパ貴族向けの高級ブランド商品を,しかも,ヨーロッパの本店まで出向いて買うことができたような時代でした。ブランド品や高級品を所有し,身に着けることが,自分のランクを上げ,豊かにすること,と何の疑いもなく信じられていた時代です。もちろん,日本国民全員がそうだったわけではありませんが,少なくとも,物質至上主義的価値観に大きな意味を見出す人々が今よりは多かったでしょう。筆者が,「モノ語り」の人々と呼ぶ,人間関係における根の浅い心理的葛藤に耐えられず,精神科の門をくぐった老若男女の症例がいくつも紹介されています。モノはコントロールすることができますが,人の感情はコントロールできないため,ほんの些細な葛藤で容易に悩みを深め,自力で解決することができなってしまう。というか,他者との精神的葛藤を避けたいという気持ちがあまりにも強いために,モノに依存しているのではないか,と筆者は述べています。葛藤を避けるためには,欲しいモノに囲まれた「幸せ」に満足するよりほかなく,たとえ心のどこかで物足りなさや不幸感を感じていても,モノがある=幸せ,と思うしかないのだろう,というわけです。

必要以上の物質的満足は,自分が本当に求めるもの―自分のこころ,たましいが最もよろこぶものが何か―を見えなくしてしまいます。貧困は人間の心を蝕み,物心ともに貧しくする,と言われますが,バブル期(末期)に見られたような行き過ぎた物質的豊かさと,それを求める志向性も,人間を不幸にしてしまうもののようです。

スピリチュアリズムをよくご存知の方々には,いささか前時代的な感が否めなくもないでしょうが,紹介されている患者たちはやや極端なだけで,いまこの時代でも,彼らと似たような価値観を持つ人々は決して少なくはないだろう,と感じます。「彼ら」は私たちなのかもしれないし,私たちも容易に「彼ら」になりうるのだ,と読みながら恐怖を覚えました。

読みたい本(7)

  千賀一生。『ガイアの法則』ヒカルランド。 いまの時代に読むべき必読書です。 正・続2冊ありますが、1冊目の裏表紙に印刷されている言葉を以下に紹介します: 宇宙に,聖なる16ビートが存在することを告げるガイアの法則— 新型コロナとの驚くべき精緻なる関係性も明らかに! 地球の歳差...