老夫婦が求めていたのは愛の対象です。自分の子供がいれば,否が応でも愛はその子に向けなくてはならなかったでしょうが,老夫婦には幸か不幸か,愛を与える特定のものがいませんでした。自分たちが愛を与えるのにふさわしいものを選べる立場にあったのです。しかし,老爺はそれができずに,全ての猫を連れて帰ります。愛を与えるのにふさわしいものを選ぶというのは,どだい,無理なことなのです。しかも,外見で選ぶということは。
したがって,老爺の不決断を責めることはできません。老爺は自分が選べなかったにもかかわらず,選んだつもりになっています。全部の猫が愛を与えるのにふさわしいと選んだつもりなのです。老爺は自分の愛に酔っているのです。その点,家で待っていた老婆の方は現実的です。猫を養う家計に限りがあると言うのです。そうは言っても,老婆自身も自分が愛を与えるのにふさわしいものを選ぶことなどできません。そこで,その仕事を猫たち自身に押しつけるのです。誰が愛を受けるにふさわしいか,愛を受ける者が決める。
無理はさらに大きな無理になります。この無理は,猫たちが食い合いをして一匹消えてしまうことで,終ります。残っていたみにくい仔猫は,自分が愛を受けるのにふさわしくないと思っていた猫です。この猫が,結局は,老夫婦の愛を受けます。そして,その愛にふさわしく美しくなるのです。つまり,愛を受けたものがその愛にふさわしくなるのであって,愛にふさわしいものが愛を受けるのではないのです。
僕が<患者>に話したのはこういう主旨のことです。
大平健。『豊かさの精神病理』 岩波書店,1990。pp. 153-155.
イライラに悩んで精神科を受診した青年に,精神科医である著者が,自分の問題を客観視する姿勢を促すために,引き合いに出したガアグ作『100まんびきのねこ』(福音館)の解説です。童話の分析と解釈における深い洞察は,心に響きます。
ご存知の方も多いかもしれませんが,童話のあらすじは次の通りです: 老夫婦が二人だけで暮らしていましたが,子どもがおらず寂しかったので,おばあさんは可愛い猫を飼いたい,と言います。おじいさんは,猫を探しに出かけ,100万匹の猫がいる丘にやってきます。そこから気に入った猫を1匹選ぼうとしますが,選べません。そこで,全部連れていくことになりました。家に向かう道中,喉が渇いた猫たちは池の水を飲みほし,空腹を訴えては,野原の草をすべて食いつくしますが,それでもかまわずおじいさんは猫たちを連れて帰ります。おばあさんは大勢の猫に驚いて,全部に餌をやっていたら貧乏になってしまう,といいます。そこで二人は,どの猫を引き取るか,猫たちに決めさせることにしました。すると,猫たちは,自分こそが一番美しいと,猫同士の争いに発展し,老夫婦を驚かせます。しばらくして,猫たちは共食いして,一匹を残してすべて死んでしまいました。唯一の生き残りは,ちいさくてみにくい仔猫で,そのみにくさから誰も自分に見向きもしなかった,というのです。結局,二人はこの猫を引き取り,世話をします。ミルクをたくさん飲ませると,丸々と太って可愛い猫になります。おばあさんもおじいさんも大いに満足します。やはり,この猫こそ世界一美しい猫だった,何しろ100万匹の猫を見た自分の目に狂いはなかったのだ,と (大平 1990,pp. 151-153)。
本書が出版されたのは,バブル期の真っ只中です。その頃,本来なら心理カウンセリングを受けるべき人々が,次々と精神科医である著者のもとを訪れ,戸惑わせたことが本書誕生のひとつのきっかけとなっています。若いOLやサラリーマンでも,数か月貯金すれば,ヨーロッパ貴族向けの高級ブランド商品を,しかも,ヨーロッパの本店まで出向いて買うことができたような時代でした。ブランド品や高級品を所有し,身に着けることが,自分のランクを上げ,豊かにすること,と何の疑いもなく信じられていた時代です。もちろん,日本国民全員がそうだったわけではありませんが,少なくとも,物質至上主義的価値観に大きな意味を見出す人々が今よりは多かったでしょう。筆者が,「モノ語り」の人々と呼ぶ,人間関係における根の浅い心理的葛藤に耐えられず,精神科の門をくぐった老若男女の症例がいくつも紹介されています。モノはコントロールすることができますが,人の感情はコントロールできないため,ほんの些細な葛藤で容易に悩みを深め,自力で解決することができなってしまう。というか,他者との精神的葛藤を避けたいという気持ちがあまりにも強いために,モノに依存しているのではないか,と筆者は述べています。葛藤を避けるためには,欲しいモノに囲まれた「幸せ」に満足するよりほかなく,たとえ心のどこかで物足りなさや不幸感を感じていても,モノがある=幸せ,と思うしかないのだろう,というわけです。
必要以上の物質的満足は,自分が本当に求めるもの―自分のこころ,たましいが最もよろこぶものが何か―を見えなくしてしまいます。貧困は人間の心を蝕み,物心ともに貧しくする,と言われますが,バブル期(末期)に見られたような行き過ぎた物質的豊かさと,それを求める志向性も,人間を不幸にしてしまうもののようです。
スピリチュアリズムをよくご存知の方々には,いささか前時代的な感が否めなくもないでしょうが,紹介されている患者たちはやや極端なだけで,いまこの時代でも,彼らと似たような価値観を持つ人々は決して少なくはないだろう,と感じます。「彼ら」は私たちなのかもしれないし,私たちも容易に「彼ら」になりうるのだ,と読みながら恐怖を覚えました。
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