本当の愛をこの世によみがえらせるためには,心と心がふれ合う世の中にする必要があります.そのためには,みんなが「家族」として生きること.それにまさる道はありません.血縁の家族に限定せず,他人同士が「雑居家族」のように支え合って生きる,そんな世の中になるべきなのです.理想にすぎないと思う方もいるでしょう.でももうそれ以上にいい道は見つからないのではないでしょうか. 私が子どものころは,隣近所が家族のように助け合う「擬似家族」的な人間関係は,東京にさえまだ生きていました.しかしその後,物質主義的価値観が蔓延するにしたがい,各家庭の孤立化が進みました.その結果,孤独なお年寄り,密室育児に煮詰まる母親,人間関係の結び方がわからない子どもたちがあふれ返ってしまったのです.
プライバシー尊重の美名のもと,隣に住む人の顔もわからないような世の中になってしまった今の日本.凶悪な犯罪も多発しているので,簡単にドアの鍵を開けられません.そのため,隣の家で誰かが孤独死や自殺をしていたり,虐待を受けていたりしても気づけません.みんなが寂しいのに,お互いに心を開けない悲しい世の中です.
心のふれ合いを阻んで(はばんで)いるのは警戒心だけではありません.一人ひとりが自分や家族の「商品価値」を保つことで精いっぱいになっているのです.物質的な幸せへのレールから逸脱しないように走り続けるばかりで,他人を思いやる余裕をなくしているのです.
それでも最近は,地域のコミュニティの重要性が見直されたり,ボランティア活動が盛んになっていたりと,いいことがたくさん起きています.バブル経済の崩壊は,物質主義的価値観から見ると不幸なできごとなのかもしれませんが,あれを機に人々が心のつながりを見直すようになったのは,とてもすばらしいことです.
江原啓之 『いのちが危ない』 pp. 126-7.
人身事故で電車が遅れたりすると,特に朝のラッシュ時などには大勢の人が迷惑します.だから,「鉄道自殺は辞めよう」ということではありません.すべての人は見えない領域でひとつながりであって,物質至上主義に基づく生き方やそれによる他者(の困難)への無関心・冷淡さ,「自分(たち)さえ良ければ,それ以外のことは無関心」という姿勢は形を変えて,必ず自分の元へ返って来る,ということを教えていると受け取めるべきでしょう.人で溢れかえる大都市にあって,孤独に陥り,はからずも死を選んでしまうたましいがある.それは見知らぬ他人かもしれませんが,自分の身近にも,思いやりや優しさが足りないために寂しい思いをしている人がいないとも限りません.忙しいから,自分の生活が大変だから気づかないのも仕方ない,という言い訳は一見正当なもののように響きますが,必ずしもそうではないということを知らなくてはなりません.我だけ幸せであろうとすることは,たましいの本来のあり方と対極にあるのです.確かに,「家族愛」は善いものであり,美しいものです.でも,そこからさらに血縁という枠組みを超えて,外へ外へと広がっていくことがより一層望ましいあり方であり,尊い姿です.本来,「愛」とはどんな(物質的な)違いをも乗り越えて,無限に広がろうとする性質を持っているからです.