<モノ語り>の人びとが受診するのは,ほんのささいな葛藤に立ち向かうことができず,自分の力で解決する術を知らないからです。葛藤慣れ(原文傍点)していないために,葛藤に対する抵抗力が弱いのです。その意味で,<モノ語り>の人びとは葛藤の軽減化に成功しすぎていると言わざるをえません。彼らは人づき合いの上で生じがちな「ドロドロ」したものを「消毒」しすぎているのです。それ故の抵抗力の低下が,彼らの特徴だと言えます。
僕は初めのうちは,何とひ弱な人たちだろう,と驚きました。僕は自分を主として精神病患者の治療をする精神病医と考えていましたから,このような軽症の,患者と言うことも難しいような人びとが受診してくるのが,正直,わずらわしくさえありました。
しかし,次々と訪れる<モノ語り>の<患者>たちの話を聞いて,彼らの人となりを知り,生活の仕方がわかるにつれ,考えを改めました。
短い年月の間に急速に豊かになり,身の回りにモノが溢れるようになった日本の社会に,彼らはある種の積極性を持って適応しているのではないか,と思うようになったのです。底の浅い葛藤を持つ彼らのような人びとこそが,現代の精神科の患者らしい患者なのではないかと考え始めたのです。(中略)
ところで,彼らの人づき合いのやり方を僕が,ある程度,評価するようになったのは,次のように考えたからです。僕の少年時代,しばしば赤痢が流行し,えき痢で死ぬ子供も少なくありませんでした。今では,衛生設備の完備によって,そういうことは本当に珍しくなりました。しかし,その代り,少々腐ったバナナを食べても平気だった以前とは異なり,今では油断をするとすぐおなかをこわす人が増えました。(中略)
<モノ語り>の人びとは,人づき合いにおけるナマナマシイ感情,「ドロドロ」したものを洗い流し,言ってみれば人づき合いを丸ごと消毒しています。その結果,葛藤に対する抵抗力が落ちてくるのはやむをえないことのようにも思えるのです。「(心の)裸のつきあい」という言い方は確かに耳に快く響きますが,それが現実には人の心の中に土足で立ち入ることになりやすいということを,僕は「土足で立ち入られた」側の人びとである患者たちからいく度となく知らされてきました。
<モノ語り>の人びとの人づき合いの方法は,親密さを得られないという欠点を持ちます。反面,それなりにやさしく滑らかな人づき合いを可能にします。<モノ語り>の人びとは,本来,孤立主義者ではありません。身近な人びととの円満な宥和を求めているとも言えるのです。
確かに,<モノ語り>の人びとには,広い社会を展望する視野がありません。また,人類の将来に対する理念も理想もありません。
しかし,もともと,僕たち日本人とはそういう国民だったようにも思うのです。大それた理念や理想を持たず,身近な人々との間の「和」を保つという等身大の理想を追うのに熱心でした。おおきなことを言ってヒトとの間に葛藤を生じさせるよりは身近な人びとと平和に暮らすほうが好きだった,と言った方がよいかも知れません。「親しき仲にも礼儀あり」の好きな国民なのです。
その意味で,モノ化によって葛藤の軽減化を計る<モノ語り>の人びとは,実に日本的なのかも知れません。「モノ化によって」という点が少々気になりますが,彼らの周囲にいる「消費する大衆」ですら「親しき仲にこそ高価なプレゼント」というところにまで到達しているのです。<モノ語り>の人びとはもう少し先までいっているだけのようにも思えます。
モノと言えば,僕たち日本人は,豊かさを求めるのに実にプラグマティックで即物的でした。昭和三十年頃の「三種の神器」(電気洗濯機,電気冷蔵庫,テレビ)あたりに始まり,3C(新三種の神器―カー,クーラー,カラー・テレビ)を経て,現在の「絶対に欲しいモノ」と常に少し頑張れば手に入れられそうなモノを目標に立てては,その目標を達成してきました。これらのモノは,戦後の日本人にとってわかりやすい具体的な「豊かさ」そのものでした。
魂の豊かさといった曖昧なものも忘れはしませんでしたが,棚上げにしてきました。漠然とした価値はプラグマティックに処理しにくいからです。この戦略は,ある意味で,実に有効でした。僕たち日本人は,目標めがけてまっしぐらに進み,モノに溢れる「豊かな」社会,「消費する大衆」の社会を築き上げることができました。
魂の豊かさを棚上げにした社会であるとは言え,夢を失ったわけではありません。むしろ,新しい夢を得たのです。まだ名前がありませんから,僕は,仮にジャパニーズ・ドリームと名づけておこうと思います。(中略)
日本には国家がスタートした時の定かな記憶がないので,アメリカのような「建国以来」の壮大な理想というものがありません。個々人が自分の経済的な繁栄を計ると,そのことが直ちに自由・平等や機会均等という壮大な理想や理念を実現するための方法になるといったプラグマティックな考え方はありません。(中略)
しかし,僕たち日本人には,ヒトとの間に波風を立てず,「親しき仲にも礼儀あり」を守って暮らすという等身大の理想があります。
個々人が「リッチ」になり,恋人・家族・友人に「絶対欲しいモノ」を贈ると,理想の現代版「親しき仲にこそ高価なプレゼント」がいとも簡単に実践できてしまいます。入学祝いに外車を買ってもらえる大学生,あるいは生前贈与で家の建築資金をもらえる人は,文句なしにうらやまれます。これなら,アメリカン・ドリームの日本版と言えるではありませんか。
ジャパニーズ・ドリームはあくまでも夢です。いくら「豊か」になったとはいえ,この夢を実現した人は極くわずかです。アメリカン・ドリームのかげで,多くの人々が敗北感と粗暴な怒りにさいなまれているように,ジャパニーズ・ドリームのかげで,多くの人びとが相対的な貧困感に蝕まれています。モノの壮大な階梯には,自分には手の届かないより高価な(原文傍点)プレゼントが常にあるからです。しかし,それでも人びとはこの夢の実現を目指すことをやめないでしょう。ジャパニーズ・ドリームに向き進む人びとの先頭に,僕は<モノ語り>の人びとの姿を見る思いがするのです。
大平健.『豊かさの精神病理』 岩波新書,1990.pp. 237-243.
<モノ語り>の人びととは,自他ともに,人について描写したり説明するのが苦手な一方で,モノを媒介にすると雄弁になる特徴を持つ<患者>たちのことです。例えば,あるOLは,「私ですか・・・・・・えーと,まあ普通だと思います。明るいところも暗いところもあるし・・・・・・」「その人は,何て言うか,いじわるな人です。どういじわるかって言われても・・・・・・とにかくいじわるなんですよ」と,人間描写は苦手ですが,持ちモノについて尋ねられると,「そのオバサン,若ぶっちゃって,LLビーンのトートバッグか何かで会社に来るんですよ。靴もオイルド・モカシンで会社でパンプスに履きかえるの。なに気どってんのって皆で笑ってますよ。若い娘のまねしてリーボックならまだ可愛いですけどね。」などと途端に雄弁になるような人びとのことです(大平 1990, pp. 8-9)。
団塊の世代にあたる人々の中には,第二次世界大戦中,特攻隊員として短い命を散らした記憶を持つ魂が多くいる,という話をどこかで読んだことがありました。同じようなことが戦後のアメリカでも起こりました。ドイツ軍によるホロコーストで命を落とした多くの魂が,自分達を助けてくれた連合国軍を選び,自由の国アメリカを再生の地としてベビー・ブーム時に大勢転生したということです。
モノの非常に乏しかった戦時下に生き,国家を信じて,国家のために命を捧げた青少年たちが,モノの豊かな時代に転生して,その豊かさを享受しようとしたことは,ある意味当然の流れだったといえるでしょう。豊かさを通じて学ぶ,というカリキュラムだったかもしれません。本当の豊かさとは何か。それは物質的繁栄と同義なのか。
個々人によって学びも,答えも異なるかもしれません。しかし,昨今の社会諸情勢の中に,ひとつの答えがすでに提示されているのではないでしょうか。
人間関係の葛藤に耐えにくくなる程度のことで済んでいるうちはまだよいでしょう。風が吹けば桶屋が儲かるように,そうした人々を助ける職業に従事する方々も大勢います。ですが,それらがさらに深刻化したように思える事件の数々が,毎日のように新聞の紙面やテレビのニュースを賑わせていることにあらためて目を向けなければならないでしょう。
多少の縮小を伴いつつ,これまでの延長線上を歩き続けるのか,それとも,ここで立ち止まり,自分にとって「ほんとうの豊かさ」とは何かを思索し,模索するのか。最終判断と決断は,すべて各自に任されています。