1/29/2015

ジャパニーズ・ドリームの果てに

  <モノ語り>の人びとは,夥しいモノを生産し消費する社会から生まれました。彼らの周囲には,人づきあいや自分自身のことでモノに依存する数多くの人びと,つまり「消費する大衆」がいます。モノに依存する点で<モノ語り>の人びとと「消費する大衆」は五十歩百歩です。<モノ語り>の人びとの特徴は,人づき合いの上でのささいな葛藤で受診する点にのみあります。
 <モノ語り>の人びとが受診するのは,ほんのささいな葛藤に立ち向かうことができず,自分の力で解決する術を知らないからです。葛藤慣れ(原文傍点)していないために,葛藤に対する抵抗力が弱いのです。その意味で,<モノ語り>の人びとは葛藤の軽減化に成功しすぎていると言わざるをえません。彼らは人づき合いの上で生じがちな「ドロドロ」したものを「消毒」しすぎているのです。それ故の抵抗力の低下が,彼らの特徴だと言えます。
 僕は初めのうちは,何とひ弱な人たちだろう,と驚きました。僕は自分を主として精神病患者の治療をする精神病医と考えていましたから,このような軽症の,患者と言うことも難しいような人びとが受診してくるのが,正直,わずらわしくさえありました。
 しかし,次々と訪れる<モノ語り>の<患者>たちの話を聞いて,彼らの人となりを知り,生活の仕方がわかるにつれ,考えを改めました。
 短い年月の間に急速に豊かになり,身の回りにモノが溢れるようになった日本の社会に,彼らはある種の積極性を持って適応しているのではないか,と思うようになったのです。底の浅い葛藤を持つ彼らのような人びとこそが,現代の精神科の患者らしい患者なのではないかと考え始めたのです。(中略)
 ところで,彼らの人づき合いのやり方を僕が,ある程度,評価するようになったのは,次のように考えたからです。僕の少年時代,しばしば赤痢が流行し,えき痢で死ぬ子供も少なくありませんでした。今では,衛生設備の完備によって,そういうことは本当に珍しくなりました。しかし,その代り,少々腐ったバナナを食べても平気だった以前とは異なり,今では油断をするとすぐおなかをこわす人が増えました。(中略)
 <モノ語り>の人びとは,人づき合いにおけるナマナマシイ感情,「ドロドロ」したものを洗い流し,言ってみれば人づき合いを丸ごと消毒しています。その結果,葛藤に対する抵抗力が落ちてくるのはやむをえないことのようにも思えるのです。「(心の)裸のつきあい」という言い方は確かに耳に快く響きますが,それが現実には人の心の中に土足で立ち入ることになりやすいということを,僕は「土足で立ち入られた」側の人びとである患者たちからいく度となく知らされてきました。
 <モノ語り>の人びとの人づき合いの方法は,親密さを得られないという欠点を持ちます。反面,それなりにやさしく滑らかな人づき合いを可能にします。<モノ語り>の人びとは,本来,孤立主義者ではありません。身近な人びととの円満な宥和を求めているとも言えるのです。
  確かに,<モノ語り>の人びとには,広い社会を展望する視野がありません。また,人類の将来に対する理念も理想もありません。
 しかし,もともと,僕たち日本人とはそういう国民だったようにも思うのです。大それた理念や理想を持たず,身近な人々との間の「和」を保つという等身大の理想を追うのに熱心でした。おおきなことを言ってヒトとの間に葛藤を生じさせるよりは身近な人びとと平和に暮らすほうが好きだった,と言った方がよいかも知れません。「親しき仲にも礼儀あり」の好きな国民なのです。
 その意味で,モノ化によって葛藤の軽減化を計る<モノ語り>の人びとは,実に日本的なのかも知れません。「モノ化によって」という点が少々気になりますが,彼らの周囲にいる「消費する大衆」ですら「親しき仲にこそ高価なプレゼント」というところにまで到達しているのです。<モノ語り>の人びとはもう少し先までいっているだけのようにも思えます。
 モノと言えば,僕たち日本人は,豊かさを求めるのに実にプラグマティックで即物的でした。昭和三十年頃の「三種の神器」(電気洗濯機,電気冷蔵庫,テレビ)あたりに始まり,3C(新三種の神器―カー,クーラー,カラー・テレビ)を経て,現在の「絶対に欲しいモノ」と常に少し頑張れば手に入れられそうなモノを目標に立てては,その目標を達成してきました。これらのモノは,戦後の日本人にとってわかりやすい具体的な「豊かさ」そのものでした。
 魂の豊かさといった曖昧なものも忘れはしませんでしたが,棚上げにしてきました。漠然とした価値はプラグマティックに処理しにくいからです。この戦略は,ある意味で,実に有効でした。僕たち日本人は,目標めがけてまっしぐらに進み,モノに溢れる「豊かな」社会,「消費する大衆」の社会を築き上げることができました。
 魂の豊かさを棚上げにした社会であるとは言え,夢を失ったわけではありません。むしろ,新しい夢を得たのです。まだ名前がありませんから,僕は,仮にジャパニーズ・ドリームと名づけておこうと思います。(中略)
  日本には国家がスタートした時の定かな記憶がないので,アメリカのような「建国以来」の壮大な理想というものがありません。個々人が自分の経済的な繁栄を計ると,そのことが直ちに自由・平等や機会均等という壮大な理想や理念を実現するための方法になるといったプラグマティックな考え方はありません。(中略)
 しかし,僕たち日本人には,ヒトとの間に波風を立てず,「親しき仲にも礼儀あり」を守って暮らすという等身大の理想があります。
 個々人が「リッチ」になり,恋人・家族・友人に「絶対欲しいモノ」を贈ると,理想の現代版「親しき仲にこそ高価なプレゼント」がいとも簡単に実践できてしまいます。入学祝いに外車を買ってもらえる大学生,あるいは生前贈与で家の建築資金をもらえる人は,文句なしにうらやまれます。これなら,アメリカン・ドリームの日本版と言えるではありませんか。
 ジャパニーズ・ドリームはあくまでも夢です。いくら「豊か」になったとはいえ,この夢を実現した人は極くわずかです。アメリカン・ドリームのかげで,多くの人々が敗北感と粗暴な怒りにさいなまれているように,ジャパニーズ・ドリームのかげで,多くの人びとが相対的な貧困感に蝕まれていますノの壮大な階梯には,自分には手の届かないより高価な(原文傍点)プレゼントが常にあるからです。しかし,それでも人びとはこの夢の実現を目指すことをやめないでしょう。ジャパニーズ・ドリームに向き進む人びとの先頭に,僕は<モノ語り>の人びとの姿を見る思いがするのです。

 大平健.『豊かさの精神病理』 岩波新書,1990.pp. 237-243.



<モノ語り>の人びととは,自他ともに,人について描写したり説明するのが苦手な一方で,モノを媒介にすると雄弁になる特徴を持つ<患者>たちのことです。例えば,あるOLは,「私ですか・・・・・・えーと,まあ普通だと思います。明るいところも暗いところもあるし・・・・・・」「その人は,何て言うか,いじわるな人です。どういじわるかって言われても・・・・・・とにかくいじわるなんですよ」と,人間描写は苦手ですが,持ちモノについて尋ねられると,「そのオバサン,若ぶっちゃって,LLビーンのトートバッグか何かで会社に来るんですよ。靴もオイルド・モカシンで会社でパンプスに履きかえるの。なに気どってんのって皆で笑ってますよ。若い娘のまねしてリーボックならまだ可愛いですけどね。」などと途端に雄弁になるような人びとのことです(大平 1990, pp. 8-9)。

団塊の世代にあたる人々の中には,第二次世界大戦中,特攻隊員として短い命を散らした記憶を持つ魂が多くいる,という話をどこかで読んだことがありました。同じようなことが戦後のアメリカでも起こりました。ドイツ軍によるホロコーストで命を落とした多くの魂が,自分達を助けてくれた連合国軍を選び,自由の国アメリカを再生の地としてベビー・ブーム時に大勢転生したということです。

モノの非常に乏しかった戦時下に生き,国家を信じて,国家のために命を捧げた青少年たちが,モノの豊かな時代に転生して,その豊かさを享受しようとしたことは,ある意味当然の流れだったといえるでしょう。豊かさを通じて学ぶ,というカリキュラムだったかもしれません。本当の豊かさとは何か。それは物質的繁栄と同義なのか。

個々人によって学びも,答えも異なるかもしれません。しかし,昨今の社会諸情勢の中に,ひとつの答えがすでに提示されているのではないでしょうか。

人間関係の葛藤に耐えにくくなる程度のことで済んでいるうちはまだよいでしょう。風が吹けば桶屋が儲かるように,そうした人々を助ける職業に従事する方々も大勢います。ですが,それらがさらに深刻化したように思える事件の数々が,毎日のように新聞の紙面やテレビのニュースを賑わせていることにあらためて目を向けなければならないでしょう。

多少の縮小を伴いつつ,これまでの延長線上を歩き続けるのか,それとも,ここで立ち止まり,自分にとって「ほんとうの豊かさ」とは何かを思索し,模索するのか。最終判断と決断は,すべて各自に任されています。 



1/27/2015

45 真の信仰

真の信仰を身につける好機は全てのことが順調に行っている時ではありません.そんな時に信仰を口にするのは誰にでもできることです.暗黒の時に身につけたものこそ本当の信念といえます。

『シルバーバーチの霊訓』 3: 32.



既存宗教を批判するわけではありませんが,歴史を経て人間が大きく手を加えた宗教に限界があることは否定できません.完璧なものがこの地上に存在しないように,「100パーセント完全な」宗教も,少なくとも今の世には,存在しません.諸宗教の枠を超えたところにある,そして,さまざまな宗教がそこから出てきた大元である叡智,即ち,真理を求めることが,最終的には近道となるでしょう.

難病,借金苦,人間関係のトラブル,仕事上の困難など,人生にはさまざまな苦労があります.どのような苦労であれ,大きな困難を克服した人々が往々にして信心深くなるのは,人間の力だけではどうにも太刀打ちのできない問題に直面する為です.そういう経験を経てはじめて,人は人智を超えた存在を「悟る」ことになります.というよりも,そうした形でしか悟りは得られないないようになっているようです.

>> 以前の記事 5.悟りへの近道 も参照ください.





1/23/2015

愛にふさわしいもの

 一問一答は略しますが,僕が<患者>に説明したのは次のようなことです。
 老夫婦が求めていたのは愛の対象です。自分の子供がいれば,否が応でも愛はその子に向けなくてはならなかったでしょうが,老夫婦には幸か不幸か,愛を与える特定のものがいませんでした。自分たちが愛を与えるのにふさわしいものを選べる立場にあったのです。しかし,老爺はそれができずに,全ての猫を連れて帰ります。愛を与えるのにふさわしいものを選ぶというのは,どだい,無理なことなのです。しかも,外見で選ぶということは。
 したがって,老爺の不決断を責めることはできません。老爺は自分が選べなかったにもかかわらず,選んだつもりになっています。全部の猫が愛を与えるのにふさわしいと選んだつもりなのです。老爺は自分の愛に酔っているのです。その点,家で待っていた老婆の方は現実的です。猫を養う家計に限りがあると言うのです。そうは言っても,老婆自身も自分が愛を与えるのにふさわしいものを選ぶことなどできません。そこで,その仕事を猫たち自身に押しつけるのです。誰が愛を受けるにふさわしいか,愛を受ける者が決める。
 無理はさらに大きな無理になります。この無理は,猫たちが食い合いをして一匹消えてしまうことで,終ります。残っていたみにくい仔猫は,自分が愛を受けるのにふさわしくないと思っていた猫です。この猫が,結局は,老夫婦の愛を受けます。そして,その愛にふさわしく美しくなるのです。つまり,愛を受けたものがその愛にふさわしくなるのであって,愛にふさわしいものが愛を受けるのではないのです。
 僕が<患者>に話したのはこういう主旨のことです。

大平健。『豊かさの精神病理』 岩波書店,1990。pp. 153-155.



イライラに悩んで精神科を受診した青年に,精神科医である著者が,自分の問題を客観視する姿勢を促すために,引き合いに出したガアグ作『100まんびきのねこ』(福音館)の解説です。童話の分析と解釈における深い洞察は,心に響きます。

ご存知の方も多いかもしれませんが,童話のあらすじは次の通りです: 老夫婦が二人だけで暮らしていましたが,子どもがおらず寂しかったので,おばあさんは可愛い猫を飼いたい,と言います。おじいさんは,猫を探しに出かけ,100万匹の猫がいる丘にやってきます。そこから気に入った猫を1匹選ぼうとしますが,選べません。そこで,全部連れていくことになりました。家に向かう道中,喉が渇いた猫たちは池の水を飲みほし,空腹を訴えては,野原の草をすべて食いつくしますが,それでもかまわずおじいさんは猫たちを連れて帰ります。おばあさんは大勢の猫に驚いて,全部に餌をやっていたら貧乏になってしまう,といいます。そこで二人は,どの猫を引き取るか,猫たちに決めさせることにしました。すると,猫たちは,自分こそが一番美しいと,猫同士の争いに発展し,老夫婦を驚かせます。しばらくして,猫たちは共食いして,一匹を残してすべて死んでしまいました。唯一の生き残りは,ちいさくてみにくい仔猫で,そのみにくさから誰も自分に見向きもしなかった,というのです。結局,二人はこの猫を引き取り,世話をします。ミルクをたくさん飲ませると,丸々と太って可愛い猫になります。おばあさんもおじいさんも大いに満足します。やはり,この猫こそ世界一美しい猫だった,何しろ100万匹の猫を見た自分の目に狂いはなかったのだ,と (大平 1990,pp. 151-153)。

本書が出版されたのは,バブル期の真っ只中です。その頃,本来なら心理カウンセリングを受けるべき人々が,次々と精神科医である著者のもとを訪れ,戸惑わせたことが本書誕生のひとつのきっかけとなっています。若いOLやサラリーマンでも,数か月貯金すれば,ヨーロッパ貴族向けの高級ブランド商品を,しかも,ヨーロッパの本店まで出向いて買うことができたような時代でした。ブランド品や高級品を所有し,身に着けることが,自分のランクを上げ,豊かにすること,と何の疑いもなく信じられていた時代です。もちろん,日本国民全員がそうだったわけではありませんが,少なくとも,物質至上主義的価値観に大きな意味を見出す人々が今よりは多かったでしょう。筆者が,「モノ語り」の人々と呼ぶ,人間関係における根の浅い心理的葛藤に耐えられず,精神科の門をくぐった老若男女の症例がいくつも紹介されています。モノはコントロールすることができますが,人の感情はコントロールできないため,ほんの些細な葛藤で容易に悩みを深め,自力で解決することができなってしまう。というか,他者との精神的葛藤を避けたいという気持ちがあまりにも強いために,モノに依存しているのではないか,と筆者は述べています。葛藤を避けるためには,欲しいモノに囲まれた「幸せ」に満足するよりほかなく,たとえ心のどこかで物足りなさや不幸感を感じていても,モノがある=幸せ,と思うしかないのだろう,というわけです。

必要以上の物質的満足は,自分が本当に求めるもの―自分のこころ,たましいが最もよろこぶものが何か―を見えなくしてしまいます。貧困は人間の心を蝕み,物心ともに貧しくする,と言われますが,バブル期(末期)に見られたような行き過ぎた物質的豊かさと,それを求める志向性も,人間を不幸にしてしまうもののようです。

スピリチュアリズムをよくご存知の方々には,いささか前時代的な感が否めなくもないでしょうが,紹介されている患者たちはやや極端なだけで,いまこの時代でも,彼らと似たような価値観を持つ人々は決して少なくはないだろう,と感じます。「彼ら」は私たちなのかもしれないし,私たちも容易に「彼ら」になりうるのだ,と読みながら恐怖を覚えました。

1/19/2015

Many Approaches to One Truth

Even though there may be one truth, many approaches exist to this truth.

B. L. Weiss, MD

真理は一つかもしれませんが,この真理に辿り着く道は沢山あります. 



たとえば「愛」について学ぶ場合,学び方-体験する出来事-は人により実にさまざまで多岐に亘っています.幸せでも短い結婚生活のあとの配偶者の突然死であったり,結婚したいのになかなか相手に出会えないつらさを通して,または配偶者の不貞であったり,家族との深刻な葛藤など,枚挙にいとまがありません.人の数だけパターンがあります.

また,真理探究への道程も様々です.イスラム教を通じて歩みを続ける人々もあれば,マザー・テレサに感銘を受けたり,サイババを通じて目覚める人々もいます.日本の諸新興宗教しかりです.どういうコースを選んでも,最終的に到達すべき目的地はひとつです.即ち,人間の本質は光,たましいであって,本質は永続することを知り,地上人生を「真理」に沿った形でよりよく生きることです.

霊界サイドは(主護霊を始めとするガイドを通じて),あらかじめ立てた(はずの),「納得ずくの」人生計画に則って,われわれ個々人の興味・関心を「利用して」,あくまでも我々が受け入れやすいように "カスタマイズされた" 方法で,真理に気づき,学ぶことを奨励し,サポートしています.真理を学ぶコースは,人の数だけあります.通う学校が異なれば,使用する教科書や,カリキュラムや,教わる先生が異なるのとも酷似しています.また,各自の「たましいの経験値」が異なるため,自分にとっての正解が他の人々にとっても同じように正解とは限りません.

とはいえ,特定の高級霊からの霊界通信に基づくスピリチュアリズムしか認めないとか,宗教もスピリチュアリズムも,ある種の必要悪と見做すような,"超スピリチュアル" こそが最善であるかのような主張を展開する方々も一部にはいらっしゃるようですが (スピリチュアリズム普及のため,長年に亘り苦労と勉強とを積み重ね,大我で活動されて来られた数多くの先達ならびに同時代の人々に対する,ある種の挑戦とも受けとられかねず,思慮が足りません) ,どちらにも,小我な部分 (ある種の偏狭さと勉強不足) が感じられます.人に危害を加えて社会に多大な迷惑をかけたり,良識に反する,明らかに誤った教えを広めたり,多額の献金を求め,高価な商品の購入を要求するようなものでなければ,既存の宗教,新興宗教,新新興宗教もよし,ニュー・エイジも結構です.相手が信ずるものへの尊重を大きく欠いた態度は,残念ながら,真理に適ったものとはいえません.

また,霊能力(霊視,霊聴)を殊更に有難がったり,自負する,といった風潮も真理に沿うものではありません.某霊能者の言葉を借りれば,「だれでもあの世に帰れば霊能者(で,自分はただの人になる)」です。優れた霊能者やヒーラーを,それこそ"救世主"よろしく崇め奉る態度も,非常に物質主義的であり,無知から来るものでしょう。霊性は霊能の優劣とはほぼ無関係であり,いわゆる "霊能" がなくても霊性が高く,そのことを別段自覚するでもなく,「ひとのために」をモットーに日々を真摯に生きている人々は少なくありません。逆に,どれほど優れた霊能者でも,群がり,おもねる大衆の愚昧さによって,勘違いをして優越感を抱き,傲慢に陥るケースも後を絶ちません。

特に熱心に信じている宗教等がなければ科学的にある程度立証され,確立され,継承されてきた知識を体系的に学びそれに則って日々生きるように努めること,長い目で見て,自他ともに有益であると思います.

1/06/2015

101 知識の伝達者になる

 私はスピリチュアリズムが信仰だとは思いません。知識です。その影響力の息吹きは止めようにも止められるものではありません。真理の普及は抑えられるものではありません。みずからの力で発展してまいります。外部の力で規制できるものではありません。あなた方が寄与できるのは,それがより多くの人々に行きわたるように,その伝達手段となることです。

『シルバーバーチの霊訓 第七巻』  潮文社.  p. 173.



地上にも,そして宇宙にも,善なる光の広がりを阻止しようとするエネルギーが作用しているようです。そうした闇のエネルギーによって地上にいかなる困難が起ころうとも,真理の光に出会った人々が,その光から目を逸らすことなく,ただひたすらに善なる導きを信じ,高い波動を持って生き続けることで,必ずや問題は克服できることでしょう。

各自の“内なる善の光”を広めようとする,具体的な行動の積み重ねが鍵となります。



70 霊的な褒美を得るために

気楽な道は前途に霊的な目標をもたない人に任せればよろしい.霊的な鍛錬とそれに伴ってもたらされる霊的な豊かさを求める者には,厳しい道が用意されます.霊的褒賞は気楽な道を求める者にはもたらされません.もしそうでなかったら,その褒賞は敢えて求めるほどの価値はないことになります.闘いを挑み苦しみ抜いた末に勝利を得る方が,何の挑戦課題もなく呑ん気に生きているよりはるかに上です.魂が自我に目覚め内在する神性が表現の機会を得るのは,必死に努力するその最中(さなか)においてです.

『シルバーバーチの霊訓』 第12巻 p. 170.



ひとは往々にして,苦しみや困難について,あまり語りたがりませんし,相手のことも聞きたがりません.渦中にある時は致し方ありませんが,苦労をマイナスに捉えるのは,単なる無知のようです.

キサー・ゴータミーの悟り-個人的な悲しみを超えて

わが子の死をきっかけに,ブッダの弟子になった女性,キサー・ゴータミーの話は有名です。

キサーは,結婚して幸せな家庭生活を送ることに夢を抱いていた若い女性でした。親が決めた結婚ではありましたが,夫となる男性とは最初に会った時から,互いに惹かれました。が,結婚して1年後,夫は事故で亡くなります。そして,生まれたばかりの,夫にそっくりな息子を育てることに情熱を注ぎ始めた矢先のある朝,ベッドの上で亡くなっている息子を発見しました。悲しみが余りにも大きく,彼女は気がふれてしまいます。腐敗しはじめても,息子の遺体を手放しませんでした。この続きはこちらをご覧下さい



    ". . . the Buddah as a friend and facilitator headed Kisha-Gotami in the right direction, and she was able to move from her painful intimate loss to loss as a general human issue.  He helped her successfully move from a particular to the general.  This is the way of wisdom.  This gave her distancing.  Wisdom is what makes us rise above life's miseries, not unrealistically but rather in the same timely existential way that Kisha-Gotami did.  She confronted the main challenge of her life as she went from door to door.  Little by little wisdom awakened in her like the morning sun.      True release from suffering is never effected by harping ad infinitum on the personally toned material of a painful complex.  Freedom comes when, bearing our scars, we are able to rise above the personal to the level of the transpersonal . . . ."

Eugene Pascal (1992).  Jung to Live by: A Guide to the Practical Application of Jungian Principles for Everyday Life.  p. 77.

 ブッダは,友として,且つ,先導役(ファシリテーター)としてキサー・ゴータミーを正しい方向へ向かわせたので,彼女は,辛い個人的喪失から人間の一般的な喪失の問題へと前進することができたのである。ブッダは,彼女が特殊から一般へと上手に進む手助けをした。これが智恵のはたらきである。そうして,彼女は,自分の問題から距離を置いた。智恵とは,非現実的なやり方でではなく,キサー・ゴータミーのように,いまの生活の中で,われわれに人生の惨めな出来事を乗り越えさせるものである。彼女は,人生の大きな挑戦に,一軒一軒家を訪ね歩くことで向き合った。そして,少しずつ,朝日が昇るように智恵に目覚めていったのである。
 苦しみからの真の解放が,つらい個人的な経験を延々と語り続けることによって達成されることは決してない。解放は,痛みに耐えながら,個人を超越した段階に至ることができたときに訪れるものなのだ。

(原文中および訳文中の強調はブログ作成者によるもので,和訳は同作成者による試訳です。)



否定的で後ろ向きなものの見方・考え方は,前向きな性質を培うことで克服できる,と著者は述べています。それには時間がかかります。車の運転のように比較的簡単なことでも教習所に通って覚える必要があることを考えれば当然でしょう。

ブッダは,悲しみに暮れる彼女に最初から教えを授けたわけではありませんでした。彼女自身が気づけるようにと,そのきっかけを提供したにすぎません。私たち一人ひとりを守り導いているスピリット・ガイド(守護霊)たちも,このブッダと同じことをしています。気づけるか気づけないかは,すべて私たち次第です。

「共感を広げるもご覧ください。



1/05/2015

Age of Aquarius  グルは自分の中にいる

"In terms of prophesy," Teabing said, "we are currently in an epoch of enormous change.  The millennium has recently passed, and with it has ended the two-thousand-year-long astrological Age of Pisces--the fish, which is also the sign of Jesus.  As any astrological symbologist will tell you, the Piscean ideal believes that man must be told what to do by higher powers because man is incapable of thinking for himself.  Hence it has been a time of fervent religion.  Now, however, we are entering the Age of Aquarius--the water bearer--whose ideals claim that man will learn the truth and be able to think for himself.  The ideological shift is enormous, and it is occurring right now."

Dan Brown.  (2003) The Da Vinci Code. 『ダ・ヴィンチ・コード』  pp.289-290.

「預言によれば」と,ティービングは答えて言った。「いまわれわれは大きな変化の時代にある。千年至福期がちょうど終わり,それと共に2000年の長きに及ぶうお座の時代が終わった。うお座はイエスの星座でもある。占星術象徴学者たちが言うように,うお座の観念では,人類には自分で思考する力がないために権力者から何をすべきか“教わらなくて”はいけなかった。だから,熱烈な宗教の時代でもあったわけだ。だが,いまわれわれは,水瓶座の時代に入り,人類は真理を学び,自ら考えることができる,と言われている。イデオロギーのシフトは非常に大きく,それがちょうど今起きているのだよ」 (emphasized and translated by Eunice)



イングランドでは,スピリチュアリズム (Spiritualism) は,宗教 (religion) として扱われているようです。スピリチュアリスト・チャーチが点在し,毎週日曜にはサンデー・サービスが行われています。しかし,厳密に言えば,スピリチュアリズムは宗教ではないでしょう。宗教には,教祖(guru) と聖典 (sacred text) がつきものですが,そのどちらも存在しないからです。

スピリチュアリズムでは,グルは唯一絶対の神(シルバーバーチからの霊界通信では,Great Spirit 「大霊」と呼ばれている)であると同時に,われわれ一人ひとりの中に存在するものです。そして,自分が理解できる教えだけを信じ,日常生活において実行すればよいのです。宗教では,グルの教えを絶対的なものとして,よくわからなくてもひたすら信じ続ける,という情熱や熱狂が必要になります。そうした態度は,個人レベルでも,集団レベルでも,多くの問題を引き起こす原因でした。本来は寛容であるべき宗教ですが,熱狂的な信仰は,自らの教義の押し付けや押し売りとなり,これまた本来ならば救うべき悩み苦しむ人々を救う力を,実質的には大幅に失っているような状態です。

グルは宇宙に遍在しており,かつ,個々人の中に存在するものであるなら,どんな素晴らしい霊能者であろうと,人格者であろうとも,私たちはグルにすべきではないし,また,自らをグル的な存在とすべきでもありません。私たちは,誰をもグルにしてはならないのです。こちらもご覧ください(専門家によれば,ブッダは,儀式や個人的カルトの無意味さを説いていた,とのことです)。

2025年は大きな転換期

2025年7月5日(土)の早朝(夜明け前),フィリピン沖の海底火山が噴火して,周辺国と日本の太平洋沿岸に巨大津波(120mほど)が押し寄せ,国土の1/3から1/4 が津波に呑まれる,という予知情報があります。最初にこれが注目されたのは,下にも関連動画のリンクを貼っていますが,たつ...