1/10/2013

同じで違うからいい−逆説は創造と成長の源

グラミン銀行を設立し,「貧困のない世界(poverty-free world)」を目指してソーシャル・ビジネス(social business 社会貢献型ビジネス)を展開するムハマド・ユヌス氏(2006年ノーベル平和賞受賞)によれば,人種や性別に関係なく,人間はみな同じ,という。98%は似ていて,違いは残り2%だけなのに,人はその2%を取り沙汰して,問題を必要以上に複雑にしている,と。バングラデシュで始まったグラミン銀行は,世界で最も裕福な国・アメリカはニューヨークに支店を開き,バングラデシュと全く同じシステムで多くの貧しい女性たちに少額無担保融資を行い,彼女らの自立支援に成功している。

社会的生物である人間は,心理学(マズローなど)で言うところの一次欲求(生理的欲求)と二次欲求(社会的,自我的欲求)の満足を求めるという点では同じだろう。また,人間はみな等しく神の子。その意味でも同じといえる。物理的にせよ霊的にせよ,マクロの視点で見ると同じだが,ミクロの視点で見ると,一人ひとり少しずつ異なる,ユニークな(unique 独自の,という意味)存在だ。世の中には実に様々な人がいる。外見は言うまでもなく,生い立ち,性格や考え方,職業,宗教,食べ物や服装の好み等,どれひとつをとっても相似形の人間などひとりもいない。

「同じか違うか」ということだけで言えば,私たちは,同じであると同時に違っていて,その両方があるからいいのだと思う。
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社会的および自我欲求は,細かく下位分類されているが,おそらくあまり細かく区分する必要はないかもしれない。ひとが求める多くのものはほぼ2つに集約できると思うから。即ち,「安全」と「愛」である。

人は,生き延びるために生命の危険から身を守り,餓死しないようにエネルギー摂取しなければならない。そのために,住む家や食べ物が必要になる。家や食糧を手に入れるために,資本主義社会では貨幣が必要になる。貨幣を手に入れるためには働かなければならない。人々はより多くの貨幣を手に入れようとして,競争するようになり,格差が生じてきた。

なるほど,貨幣経済の発達が人間社会を複雑化させた大きな一因には違いないだろう。が,お金が諸悪の根源かといえばそうではなく,それを使う人間の未熟さが本当の原因であることは,いまさら言うまでもない。「馬鹿とはさみは使いよう」と言うが,お金に限らず,どんな文明の利器も,使い方を誤れば問題を起こすのは同じこと。放射能もレントゲンに使われるだけなら何の問題もなかったはずだが,兵器や燃料として使ったために,生命を脅かす脅威となった。インターネットも,情報収集,有益な情報の発信や,遠方の人々との通信手段として利用するなら便利で安全なツールだが,物欲を満たすために使えば,犯罪の温床になるのは自明のこと。しかし,人間は自らの落ち度を棚にあげて,やれお金が悪い,ネットの世界は怖い,とか,核は危ない,などと責任転嫁する。それらを危険な存在にしたのは,他ならぬ人類自身なのに。同じ論理は,子育てにも用いられる。子どもの様子が最近おかしい。どうやら不良グループと付き合っているようだ。親は,「息子が変わったのは,悪いお友達のせいなんです」と,不良グループのせいにする。自分の愛情が足りなかったことは振り返りもしないで。

人間にはまた,身の安全確保とともに,心理的な安全・安定を求める気持ちもある。それを満たすものが愛ということになろうが,愛には,より社会的なレベルで「承認」を求める気持ちも含まれている。人から尊敬されたい,大切に扱われたい,才能や努力を評価してもらいたい,という思いは,突き詰めれば「愛」を求める気持ちと同じだ。(こうした一部の欲求を,「名誉欲」と呼んで区別する人々もいる。)この世に,絶対的な客観評価や尊敬というものは存在しないからだ。そもそも人間は,表と裏しかない一枚の紙切れのような平面ではなく,さまざまな面を持つ多面的な存在である。Aさんは,相手の右側を見て仲良くしていても,Bさんには,同じ人の左側や裏側が目に留まっているかもしれない。その結果,同じ人でも,AさんとBさんとでは評価が分かれてしまう。仕事の評価も同じだと思う。この世の「評価」というものは何であれ,概ね相対的なものだろう。さほど実力のない人が,高い地位に就いているというのはよくある話だ。私たちは,真に厳正かつ公正な審査や査定を求めているわけではないだろう。評価するのも様々な事情や感情を抱えた人間であって,ひとは,自分の価値観に合うもの,自分の信念を否定しないもの,尊厳を脅かさないもの,端的に言えば,自分が「好きなもの」を是とする傾向が強い。冷静かつ客観的・論理的に見ている「つもり」でも,大なり小なり,エゴが混ざってしまう。つまり,承認や評価は,個人的な好悪の感情(好み)に左右され得てしまうものだといえる。そして,人間は,低い評価,正当ではない評価や不承認に対して,強いストレスを感じる。言いかえれば,個人的な生活においても,社会的場面においても,愛の不在や否定が精神的ストレスの主な要因であると考えられる。

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こうして,根本的に求めているものは「同じ」でも,好みや価値観,人生観,性格,人格などの個性の「違い」があるから,人と人がぶつかり,悩み,成長していく。共通性と多様性−この二つが共存するからこそ,さまざまな葛藤・衝突が生じ,その緊張感や不調和の問題点を解消・解決すべく,調和と協調を求める動きが展開される。その過程で,新たな発明や知識が見い出され,各自が様々な学びの機会に恵まれる。地上世界とは,一見相反する要素が,互いに矛盾することなくプラスの相乗作用を新たに引き起こす,逆説が見事に行き渡った次元なのだと思う。


1/07/2013

平穏な人生にも

申し上げておきたいのは,どの人生にもそれぞれ目的があり,あなたがたは互いに批判しあうべきではない,ということだ。平穏な人生に大した意味などない,と決め込まないでいただきたい。なぜなら物質界での静かな生活の中で,多くの人々はきわめて深遠な真理を理解するようになるからだ。彼らにとってこれらの真理は肉体の死を迎えたのちにしか明らかにならないだろうが,彼らの人生の記憶は鮮やかで印象深いものなのだ。
 しばしば実に当を得た説明がなされる真理に,つぎのようなものがある。
 物質界での人生は,魂にとって驚くべき試練である-うわべの姿があまりにも完璧に覆い隠されているため,その真の目的を見破ることができない。人生はいわば仮装パーティーのようなものなのだが,招かれた客は仮面の下の自分のアイデンティティをすっかり忘れ去っている。暗黙のうちに行われる試験では彼らが要求されるのは,仮装の下の自分たちの真の自己を確認することなのである。(中略)
 ベールのあちら側でもこちら側でも,多くの魂が自分の任務や限界を正確に知らずに,物質界へと生まれてくることを選ぶ。すべてを理解していない時でさえもなお学習は行われるのである。
 他の人の人生があなたからみて浅薄に見えても,その人を裁かないように気をつけよう。人は誰もが,それぞれちがったテンポの曲に合わせて行進しているのだ。

ジュディ・ラドン 片桐すみ子訳 『輪廻を超えて』 人文書院. pp. 177-178.





 

互助は定め

 だがどうか現在の艱難辛苦や欠乏状態のすべてがカルマから生じるもの,あるいは魂の発達に必要なものであると断定しないでいただきたい。あらゆる物質界のできごとにはその奥に秘められた心理的な複合概念が存在しており,これまでのカルマのつみ重ねが直接あなたがたの世界に作用することは事実だ。しかし,他人の苦しみに悦に入って「なるほど,あの人たちは前世で悪いことをしてきたに違いない。苦しむのも当然だ」と言ってもいいというわけではない。みなさんはお互いに助け合いながら,食物を与え合い,住む家や着るものや仲間づきあいや愛情を提供しあうよう定められているのだ。現代の医学もまた多くの点ですぐれており,われわれはこちら側から子供のないカップルが問題解決のために医学の助けを受けるのを見て,喜ばしいことだと思っている。
ジュディ・ラドン 『輪廻を超えて』 pp. 130-131.





孤独に耐える力

 「友人が欲しい,あるいは親友が欲しいといっても,単に自分のメリットだけを考えている人は,決して,その人が望むような人間関係は得られない。人間関係は,「持ちつ持たれつ」なのだ。

 心の苦痛も体の苦痛も,最終的には,自分がその苦痛と戦い,解決していくしかないのだ。
 そこで,人間は孤独な存在なのだということがわかると思う。だからといって,苦しんでいる相手を放っておけというのではなく,相手の苦痛を思いやり,その苦痛を少しでも軽減してあげるために努力することはできる。
 友情のあり方,あるいは愛情のあり方というのは,そういうものではないだろうか。つまり,相手に対して,どのくらい気遣いができるかということである。
 相手に対して,求めるだけでは,友情は成り立たない。自分が相手に対してどのように気遣いができるかも,また試されるものだ。そこで孤独に耐えることができる精神が必要になってくるのではないか。孤独に耐えられないと,相手に依存しがちだ。相手に依存し甘えるだけでは,決して友情は成り立たない。それでは,相手を利用しているだけにすぎない。
 ここで孤独と言っているのは,心の在り方のことである。

 孤独に耐えることのできる人は,人間は本来孤独であることがわかっているから,逆に付き合う人に対して気遣うことができる。そして,人間関係の距離を上手に保つことができる。
 関係の距離をきちんと維持できる人は,人間関係で孤立することはない。
 いま,精神的な在り方を述べてきたが,具体的に言うと,一人で時間を過ごすことのできる強さを持つことが,孤独に耐える強さを持つことの第一歩である。一人で時間を過ごすことができることは,一人で決断し,悩みを解決していく強さをもつことにもつながる。
 まず,自分の力で立つことができること,つまり孤独に耐える力があってこそ,人に対する気遣いもでき,そこではじめて相互的な人間関係を持つことができるのだ。
 孤独でいられることと,人間関係を上手く保って行くことができることは,矛盾することではなく,イコールなのである。」



おそらく,斉藤茂太氏の著書(のどれか)からの引用かと思いますが,かなり前に抜粋したもので,定かではありません。

依存的な人は,人間関係で適正な距離を保つことができない,というのは全くそのとおりです。個人的な付き合いが全くないにも関わらず,いきなり救いを求める意味不明なメールを(はじめの挨拶すらない)送ってくる人が,非常に稀に,いますが,これなどは依存以外の何者でもありません。年齢は重ねていても,精神的に幼い場合,求めるばかりで,相手の心情や事情を気遣ったり,配慮することができません。自分こそこの世で一番不幸だ,とたやすく自己憐憫に陥るのも依存的な人々の特徴です。(ちなみに,この類いのメールには一切返信しませんし,依存が程度を超えていると判断された時点で,一旦距離を置かせていただきます。)

そういう人々は,相手から善意で与えられた,もしくは,ミディアム経由で伝えられるスピリット・ガイドからの愛あるアドバイスにも耳を傾けることができません。そもそも,有益なアドバイスを求めているわけではありません。彼らが求めているのは表面的な優しさや同情など,自分に好都合な言葉と反応だけです。この世知辛い現代社会にあって,一方的に求める“大人”に-しかも個人的な付き合いもない,いや,親しい間柄でも-快く与える人なんて滅多にいません。物乞いにだって,せがまれれば逃げ出したくなるのと同じことです。

誰もが,自分に背負えるだけの重荷を背負っています。

歩みはとまらない

 こちらの領域でもみなさんの領域でも,進歩を達成したからといってそれに甘んじて歩みを止めることは決してない。どの段階においても,それを超えればまたつぎの目標があらわれて,前方へと手招きするのである。

ジュディ・ラドン 『輪廻を超えて』 人文書院. p. 36.






カルマは影

 釈迦は,たとえ高いところまで到達しても,前世の過ちをのがれることも破棄することもできないことをあきらかにした.法は法であり,カルマの状況の目標である叡智に到達する近道はない.アラン・ワッツは『禅の精神』で,「…人間のカルマは影のように人についてまわる.『自分の影のなかに立ちながら,暗いのはなぜなのだろうと人間は不思議がる』といわれてきたように,たしかにカルマとはみずからの影なのだ」と書いている.カルマに終止符をうつには,昔の負債を完済しなければならず,新しく借りをつくってはならない.多くの生涯にわたる帳簿上の収支を清算しうる方法はただひとつ,愛と無我の戒めを全身全霊で受け入れることだ.もうひとつ,ジョセフ・ウィードのことばを引用してみよう.

 「ほんの少しでも利己心をもって行動したり,見返りをもとめて善行を行うかぎり,その報いを受けるためにこの世へと戻らなくてはならない.原因には結果があり,活動には成果がある.欲望はこれらをつなぐ紐である.紐の一本一本の糸が燃えつきて切れるとき,その関係も終わり,魂は自由になるであろう.」

 カルマの概念のもたらす結論としていちばん重要なのは,私たちのおかれた境遇は決して偶然のなせるわざによって決められたのではない,ということだ.この世で私たちはバルド*で選んだことを体現している.私たちが,バルドの肉体をもたない状態にあって決定したことによって今生の境遇が決まり,潜在意識のありかたによって,良運や悪運がめぐってくる.カルマの法則が真実だと確信することはすなわち,たとえ現状がいかに困難でも,この現状にわが身をおいたのは自分自身なのだ,と認めることなのだ.人はそれぞれ,試練や苦難の中にこそ学び成長するための最大の機会がある,と理解したうえでその試練や苦難を探しだしていくのである.

J.L. ホイットン他著 片桐すみ子訳 
『輪廻転生 驚くべき現代の神話』 pp. 114-5.



*バルドとは,本書では「中間生」と訳されてあり,「仏教用語では中有または中陰という.死の瞬間からつぎの生を受けるまでの間の時期.生きとし生けるもの,すなわち「有情」の4つの存在の仕方―死有・中有・生有・本有のひとつ」(p. 238) と注釈があります.おそらく,霊界に入る手前の幽界の最上層部,もしくは霊界のことを言っているのではないかと推測されます.ちなみに,人間の魂は死後,平均して1年ほどは幽現界にとどまり,その後,幽界に移行し,そこで数十年を過ごすといわれています.幽界は幽現界に近い低い段階のところから,霊界のすぐ手間のサマーランドと呼ばれる波長の高いところまで広く幅があります.霊界に入るのは,従って,かなり先のことになります.もちろん,幽界の上層部や霊界に移行できる時間には個人差があります(が,一足飛びに霊界に帰ることは滅多にありません).魂によっては,霊界に戻らず幽界から直接現界に転生する場合もあります.



エドガー・ケイシーのリーディングに,"meeting self" という表現がよく出てきますが,上の引用にある「カルマとは自分の影なのだ」,と同じ内容を指していると思います.カルマは誰かとの間に生じますが,相手が悪い,とか,相手との組み合わせが良くなかった,ということではなく,あくまでも自分の未熟さが原因なので,カルマは「自分の問題」であると言えます.もちろん,相手にもカルマがありますが,それは自分とは別の問題として捉えるべきです.

カルマを「完済」しなければ次の段階には進めないとありますが,必ずしもそうではないようです.ある段階にまで到達したら,まだ返済すべきものが若干残っていても,地球での転生を終えることが許されるケースも伝えられています.そうした場合には,守護霊の立場になった時,守護する人間に裏切られるなど,何らかの方法でカルマを返済する可能性があるかもしれません.

自らの選択

…この世の運命をなげき不運をかこつたびごとに,我々が非難することになるのは自分自身の選択であって,ひどい仕打ちをする気まぐれな神または神々の選択ではない.ゆえにカルマを知る者の犯してはならない悪徳は,嫉妬ということになる―それが他人の境遇に対してであろうと,他人のもつ才能や富や友人などに対してであろうと―なぜなら我々が手にしているのは,みずからが選び取ったものであるからだ.

ホイットン他 『輪廻転生』 p. 110.



「なぜ,私だけがいつまでも前に進めないのだろう,他の人の人生はもっとスムーズなのに」-こう考えて,苛立ちと悲しみを抑えられなかった時に出会った一節です.その時,私は,ガイドたちを無言のうちに責めていました.数年前に引用しておいたこの文章を目にした瞬間,愚痴を言ったことに対して,彼らから「喝を入れられた」ような,そんな気持ちになって目が覚めた思いでした.

私たちは,今回の転生でどのようなたましいの学びをするのか,そのためにはどういった環境に身を置くのが相応しくて,どのような体験が適切かなど,予め決めています.そして,肉体を持って記憶が薄れたあとで,その道筋からそれないように主護霊を初めとするスピリットたちがつねに見守り,導いてくださっています.私たちは各々が,それぞれのガイド・スピリットたちと,いわば「チームを組んで」生きている,と言えます.私たちの地上での学びの内容や成果は,私たちだけのものではなく,やがてはガイドたちのものにもなるからです.

とはいえ,嫉妬しやすい心理的な状態(寂しさなど愛の欠乏状態)というのは確かにあるので(智恵の多寡は別にして),そうした状況に陥った場合には,心身を充分に休めて,自分を労わってください. 

以前の記事,「転生四つのテーマ」も参照ください.

読みたい本(7)

  千賀一生。『ガイアの法則』ヒカルランド。 いまの時代に読むべき必読書です。 正・続2冊ありますが、1冊目の裏表紙に印刷されている言葉を以下に紹介します: 宇宙に,聖なる16ビートが存在することを告げるガイアの法則— 新型コロナとの驚くべき精緻なる関係性も明らかに! 地球の歳差...