"One of the most surprising things about the readings given for people who were lonely and were looking for friends, companionship, or a marriage partner is that Cayce never told them where to find a relationship. Instead, the focus of the information was that there was something individuals were supposed to be doing with their time alone. Oftentimes, the readings saw loneliness as a period needing to encompass both personal growth and healing as well as a time of reaching out to others who were less fortunate. Individuals who were suffering from all kinds of lineliness were freuqnetly told to begin discovering their unique soul talents and abilities and to find ways in which they could be helpful to others. Cayce believed that once individuals put their efforts in these directions, relationships would inevitably be drawn to them."
孤独で,友人や結婚相手を探している人々へのリーディングに関して,最も驚くべきことのひとつは,ケイシーがどこに相手を探しにいけばよいか決して言わなかったことだ。代わりに,情報は,各自がひとりの時になすべきことがあることに焦点を合わせた。往々にして,リーディングは,孤独を,自分よりも恵まれない人々に手を差し伸べる時期であると同様,個人的な成長および癒しを達成する時期とみていた。どのような孤独感であれ,淋しい人々は頻繁に,各自に備わった才能や能力を発見し,他の人々を助ける方法を見つけるように言われた。ケイシーは,一旦各自がそうした方向性で努力すれば,必ずパートナーを引き寄せることになるだろうと信じていた。
Kevin Todeschi (1999). Edgar Cayce on Soul Mates: Unlocking the Dynamics of Soul Attraction. pp. 132-133.
5/04/2012
困難への対処法(4-2)-孤独なとき
前回の記事では,孤独感への応急措置的対応として,早めの就床と規則正しい生活を提案しました。その後,もう少し前向きな提案はできないものかと考えていたところ,少し興味深いブログに出会いました。全ての記事に目を通してはいませんが,たとえばこの記事やこちら,こちらも参考になるかと思います。似たような感情を経験したことがあれば,共感できて少しは癒されるかもしれません。
これらの記事でも少し触れられていますが,できるだけスピリチュアルな観点から,孤独感の軽減(解消ではない)に役立つポイントを2つ提案します。非常に単純なことですが:
1.人と交流する
2.自分が助けられる誰かを助ける(もしくは,すべき仕事や活動に専念する)
です。今回はまず,1の「人との交流」について述べてみたいと思います。これは,身近に家族や友人がいても理解されない,心が通わないと感じて孤独を感じるケースと,物理的に独りで,なお且つ孤独感を持っているケースのどちらにも有効でしょう。
但し,交流に際してはおさえるべきポイントがあります。まず,誰彼構わず交流するのではなく,ある程度慎重に相手を選ぶ必要がある,ということです。能天気に明るいタイプ,他者に批判的なタイプ,いわゆる強い性格の人や,自分と同じように何らかの辛さを抱え込んでいて余裕のない人々は避けるのが賢明でしょう。上辺の優しさではない情があって,他愛ない会話の楽しめる人,自らも苦労を乗り越えてきた人,包容力のあるタイプの人々は理想的ですが,自分の感覚で,この人なら安心できると思える人であれば大丈夫です。ご縁のある人々との出会いがあって,必ずわかります。よく,「家族がいてもいろいろあるし,誰にも悩みはあるから」ともっともらしい見解を述べて,軽く受け流す人がいます。「甘いわ」と言いたげな様子が垣間見えることも。全く見当違いというわけではありませんが,ほかの苦しみ同様,孤独は自ら経験しないとわからない痛みであって,「私には経験がないからわからない」というのが,最も誠実で適切な返答のはず。このように,人の苦境を想像しようとさえしない,もしくは理解できる素地のない人や,自分の問題で精一杯の人々は回避します。警戒心や恐怖心,不信感,不安感が刺激されそうな相手には極力近づかないことです。そして,悩みを聞いてもらう,というよりも,あくまでも対等な立場で,何気ない会話を楽しむことが肝心です。つまり,互いの生活や心の中に踏み込みすぎず,ある一定の距離―少し遠いと感じるくらいが適当―を保ちながらお付き合いすること。「交流」には“適度な距離感を保った付き合い”という含みがあります。相手を選び,一定の距離感を保つ―この2点に留意して,無理のない範囲で取り組むことが大切です。こうして上手に交流することには,癒しの効果があります。
深い孤独感に悩む人々は,無関心の冷たさをよくわかっていると言えます。そして,程度の差こそあれ,心に傷を抱える人々でもあります。それは,理解されない寂しさ,認められない悔しさや悲しみ,低下した自己評価,自己否定や自己卑下の想い,先に希望が見出せない絶望感など様々で,これらのいくつかを経験しています。さらに,様々に渦巻く思いを心に閉じ込めたまま,自分の良さをも表現できないでいることがあります。従って,受容的な優しい人,自己表現しやすい相手,傷が刺激されない人々を選ぶことが大切です。自己否定感や無価値感,そばにいると淋しさを強めかねない人々との接触は避けます。「岩をめぐりて流れゆく」です。
相手さえ選べば,人との交流が癒しになるのは,交流を通じて人間の本質である,不可視のエネルギーを受け取ることができるからです。私たちの本来の状態は,肉体ではなく光のエネルギーで,たましいとか,ソウル(soul) などと呼ばれます。これは,「神性」と言い換えることもできます。神性とは,「愛」や「智恵」と呼ばれる,広範で抽象的な概念であり,エネルギーです。つまり,人間は誰もが愛と智恵でできている,とも言えます。ただ,地上を生きる上で必要な肉体を持つと,この本質の部分が弱まり,代わりに,生存(競争?)に必要な,防衛本能という名の「エゴ」(自分の福利厚生が最優先,という観念)が強くなります。そのため,地上では人間関係上の問題が起こりやすくなり,修行の場としてよく機能するともいえるのですが,癒しに有効なエネルギーを得られるのもまた,人を通じてです。淋しさを感じていたり,傷ついている時には,この本来持てるエネルギーが弱まっているので,「プラスの想いやことばだけ」を上手に受け取ることができれば,私たちに本来必要なエネルギーを補給することができる,というわけです。
孤独感の軽減には,孤独を否定的に捉えすぎないことも非常に大切です。孤独感は,信頼できる人間関係の不在や,関係性がうまく機能していないことに由来することが多いでしょう。過去生にその原因を遡ることができるケースもあります。どのような原因であっても,人間が抱える悩みや問題に,人間関係が絡まないものは何ひとつないことを考えると,孤独もひとつの学びの機会であるといえます。だれの問題であっても,孤独は否定的に捉えられるべきではありません。
そして,孤独な時期には,人は自分と向き合うことを余儀なくされます。自分を見つめ,自分を知ることができます。自分の至らなさだけでなく,隠れた才能や美点にも気づくことができるチャンスです。と同時に,人間の心や人生について多くを学ぶチャンスでもあります。周囲の人々の言動を静かに観察・分析し,思い巡らせることは,日常生活に追われ,人間関係に恵まれ,人生が順調に進んでいるときには難しいことです。このように考えれば,孤独な時期は,内観と洞察を深める絶好の機会となり得るのです。孤独に伴う感情的な痛みを否定せずに認め,受け入れた上で,いましかできないこと,いまだからできることを探すことが,真に前向きな生き方といえます。
これらの記事でも少し触れられていますが,できるだけスピリチュアルな観点から,孤独感の軽減(解消ではない)に役立つポイントを2つ提案します。非常に単純なことですが:
1.人と交流する
2.自分が助けられる誰かを助ける(もしくは,すべき仕事や活動に専念する)
です。今回はまず,1の「人との交流」について述べてみたいと思います。これは,身近に家族や友人がいても理解されない,心が通わないと感じて孤独を感じるケースと,物理的に独りで,なお且つ孤独感を持っているケースのどちらにも有効でしょう。
但し,交流に際してはおさえるべきポイントがあります。まず,誰彼構わず交流するのではなく,ある程度慎重に相手を選ぶ必要がある,ということです。能天気に明るいタイプ,他者に批判的なタイプ,いわゆる強い性格の人や,自分と同じように何らかの辛さを抱え込んでいて余裕のない人々は避けるのが賢明でしょう。上辺の優しさではない情があって,他愛ない会話の楽しめる人,自らも苦労を乗り越えてきた人,包容力のあるタイプの人々は理想的ですが,自分の感覚で,この人なら安心できると思える人であれば大丈夫です。ご縁のある人々との出会いがあって,必ずわかります。よく,「家族がいてもいろいろあるし,誰にも悩みはあるから」ともっともらしい見解を述べて,軽く受け流す人がいます。「甘いわ」と言いたげな様子が垣間見えることも。全く見当違いというわけではありませんが,ほかの苦しみ同様,孤独は自ら経験しないとわからない痛みであって,「私には経験がないからわからない」というのが,最も誠実で適切な返答のはず。このように,人の苦境を想像しようとさえしない,もしくは理解できる素地のない人や,自分の問題で精一杯の人々は回避します。警戒心や恐怖心,不信感,不安感が刺激されそうな相手には極力近づかないことです。そして,悩みを聞いてもらう,というよりも,あくまでも対等な立場で,何気ない会話を楽しむことが肝心です。つまり,互いの生活や心の中に踏み込みすぎず,ある一定の距離―少し遠いと感じるくらいが適当―を保ちながらお付き合いすること。「交流」には“適度な距離感を保った付き合い”という含みがあります。相手を選び,一定の距離感を保つ―この2点に留意して,無理のない範囲で取り組むことが大切です。こうして上手に交流することには,癒しの効果があります。
深い孤独感に悩む人々は,無関心の冷たさをよくわかっていると言えます。そして,程度の差こそあれ,心に傷を抱える人々でもあります。それは,理解されない寂しさ,認められない悔しさや悲しみ,低下した自己評価,自己否定や自己卑下の想い,先に希望が見出せない絶望感など様々で,これらのいくつかを経験しています。さらに,様々に渦巻く思いを心に閉じ込めたまま,自分の良さをも表現できないでいることがあります。従って,受容的な優しい人,自己表現しやすい相手,傷が刺激されない人々を選ぶことが大切です。自己否定感や無価値感,そばにいると淋しさを強めかねない人々との接触は避けます。「岩をめぐりて流れゆく」です。
相手さえ選べば,人との交流が癒しになるのは,交流を通じて人間の本質である,不可視のエネルギーを受け取ることができるからです。私たちの本来の状態は,肉体ではなく光のエネルギーで,たましいとか,ソウル(soul) などと呼ばれます。これは,「神性」と言い換えることもできます。神性とは,「愛」や「智恵」と呼ばれる,広範で抽象的な概念であり,エネルギーです。つまり,人間は誰もが愛と智恵でできている,とも言えます。ただ,地上を生きる上で必要な肉体を持つと,この本質の部分が弱まり,代わりに,生存(競争?)に必要な,防衛本能という名の「エゴ」(自分の福利厚生が最優先,という観念)が強くなります。そのため,地上では人間関係上の問題が起こりやすくなり,修行の場としてよく機能するともいえるのですが,癒しに有効なエネルギーを得られるのもまた,人を通じてです。淋しさを感じていたり,傷ついている時には,この本来持てるエネルギーが弱まっているので,「プラスの想いやことばだけ」を上手に受け取ることができれば,私たちに本来必要なエネルギーを補給することができる,というわけです。
* * *
孤独感の軽減には,孤独を否定的に捉えすぎないことも非常に大切です。孤独感は,信頼できる人間関係の不在や,関係性がうまく機能していないことに由来することが多いでしょう。過去生にその原因を遡ることができるケースもあります。どのような原因であっても,人間が抱える悩みや問題に,人間関係が絡まないものは何ひとつないことを考えると,孤独もひとつの学びの機会であるといえます。だれの問題であっても,孤独は否定的に捉えられるべきではありません。
そして,孤独な時期には,人は自分と向き合うことを余儀なくされます。自分を見つめ,自分を知ることができます。自分の至らなさだけでなく,隠れた才能や美点にも気づくことができるチャンスです。と同時に,人間の心や人生について多くを学ぶチャンスでもあります。周囲の人々の言動を静かに観察・分析し,思い巡らせることは,日常生活に追われ,人間関係に恵まれ,人生が順調に進んでいるときには難しいことです。このように考えれば,孤独な時期は,内観と洞察を深める絶好の機会となり得るのです。孤独に伴う感情的な痛みを否定せずに認め,受け入れた上で,いましかできないこと,いまだからできることを探すことが,真に前向きな生き方といえます。
4/09/2012
スローガン「絆」
震災後,私たちはみな,「絆を大切にしよう」という言葉をよく使うようになりました。絆とは素晴らしい言葉ですが,もし,最初から私たちが絆を持っていたら,これほどまでに声高に,絆,と言ったでしょうか?実は,もともと私たちに絆がなかったからこそ,スローガンのように掲げて,自らを鼓舞しているように思えます。
テレビや雑誌などでは,震災以降,「絆の大切さを感じて結婚するカップルが増えた」と報じられていましたが,私はそうは感じていません。仮に本当に増えているのだとしても,それは「絆の大切さを感じて結婚した」というだけではなく,「何かあったときにひとりでいるのはさみしい」という気持ちがもとになっている人も多いのではないかとみています。しかし,もしそうした気持ちだけで結婚したのなら,それは打算があるのではないでしょうか。小我で決断したことなら,そこに本当の絆は結べませんから,お互いに「心を失う」ことになりかねません。
テレビや雑誌などでは,震災以降,「絆の大切さを感じて結婚するカップルが増えた」と報じられていましたが,私はそうは感じていません。仮に本当に増えているのだとしても,それは「絆の大切さを感じて結婚した」というだけではなく,「何かあったときにひとりでいるのはさみしい」という気持ちがもとになっている人も多いのではないかとみています。しかし,もしそうした気持ちだけで結婚したのなら,それは打算があるのではないでしょうか。小我で決断したことなら,そこに本当の絆は結べませんから,お互いに「心を失う」ことになりかねません。
江原啓之 『予言』 講談社。 pp. 123-124.
絆がなかったからこそ,その必要性を痛感し始めた,とは共感できる内容です。震災のショックから,一時的に皆で助け合わなくちゃ!という意識が多くの人々に出ていましたが,根本的には以前とさほど変わりがないようです。例えば,かつて他の場所で大震災を経験した人々は当時を思い出したくない,まだ語れない,と言って会話の話題に上げようとしません。タブー扱いです。また,被災地から遠く離れて暮らす人々も,通り一遍の関心は示しますが,それだけ,という人が多い感じがします。
本物の「絆」は,にわかには築くことができません。
悩みが晴れないとき
便利なモノをひとつでも手放せば,そこに時間ができます。そして,一日のうちにわずかでも,自分自身と静かに向き合う「内観」のときを持てるでしょう。四六時中誰かとつながって,話したり,メールをして気を紛らわせていても,実は「孤独」という人は多いと思います。悩みがいつまでも晴れないということもあるでしょう。それはある意味で当然です。自分自身と向き合い,そして自分のグループ・ソウルの叡智とつながる内観をしないから,根本的に解決できないのです。
便利な「モノ」に依存して怠けず,もっと自分と向き合う時間をつくりましょう。そして,マニュアルに頼らず,想像力を養う訓練を日々のなかで積んでいきましょう。そうすればきっと,人生の迷いや悩みを自ら解決する糸口を見つけられるでしょう。
(強調はブログ作成者のものです)
よく「 自分とつながる」と言いますが,それはこういうことです。スピリット・ガイドからインスピレーションを,多くの場合は間接的に,受け取りやすい状態が「つながっている」状態です。スピリット・ガイドというと,自分以外の存在と考えがちですが,別の存在というよりも,私たちの一部といえます。ここから内側は自分,外側はガイド,と線引きするのが非常に難しい(し,またその必要もない)存在です。
始終,外部からの刺激(視覚・聴覚を経て入ってくる)があると,必要なインスピレーションや助けを受け取りにくくなってしまいます。前頭葉を使いすぎている場合もよくありません。感情的に不安が強いときも同様です。
最も効果的なのは瞑想ですが,瞑想に抵抗がある場合は,テレビを観ない,ネットをしない,ラジオ・音楽(特に,歌詞があるもの)を聴かない状態を1日5分でも10分でも意図的に持ち,それを毎日継続していくのも良いと思います。椅子に座ったり,座禅を組む必要もありません。電車に乗っているときでも,入浴中でも構いません。また,個人で行うスポーツ(水泳やジョギング)にも,無になりやすい,という点で,瞑想と同じ効果が期待できるようです。ストレスの強い状態で,いろいろ考え事をして泳いでいたら溺れそうになった,という話はよく耳にします。(個人的には,思いがけないとき―入浴中や食卓についてぼうっとしているときが多い―にふっとひらめくことが多いです。)
ガイドが働きかけやすい常態-心が穏やかで何にもとらわれていない状態-にあることが肝心です。
便利な「モノ」に依存して怠けず,もっと自分と向き合う時間をつくりましょう。そして,マニュアルに頼らず,想像力を養う訓練を日々のなかで積んでいきましょう。そうすればきっと,人生の迷いや悩みを自ら解決する糸口を見つけられるでしょう。
江原啓之 『予言』 講談社。 p. 174。
(強調はブログ作成者のものです)
よく「 自分とつながる」と言いますが,それはこういうことです。スピリット・ガイドからインスピレーションを,多くの場合は間接的に,受け取りやすい状態が「つながっている」状態です。スピリット・ガイドというと,自分以外の存在と考えがちですが,別の存在というよりも,私たちの一部といえます。ここから内側は自分,外側はガイド,と線引きするのが非常に難しい(し,またその必要もない)存在です。
始終,外部からの刺激(視覚・聴覚を経て入ってくる)があると,必要なインスピレーションや助けを受け取りにくくなってしまいます。前頭葉を使いすぎている場合もよくありません。感情的に不安が強いときも同様です。
最も効果的なのは瞑想ですが,瞑想に抵抗がある場合は,テレビを観ない,ネットをしない,ラジオ・音楽(特に,歌詞があるもの)を聴かない状態を1日5分でも10分でも意図的に持ち,それを毎日継続していくのも良いと思います。椅子に座ったり,座禅を組む必要もありません。電車に乗っているときでも,入浴中でも構いません。また,個人で行うスポーツ(水泳やジョギング)にも,無になりやすい,という点で,瞑想と同じ効果が期待できるようです。ストレスの強い状態で,いろいろ考え事をして泳いでいたら溺れそうになった,という話はよく耳にします。(個人的には,思いがけないとき―入浴中や食卓についてぼうっとしているときが多い―にふっとひらめくことが多いです。)
ガイドが働きかけやすい常態-心が穏やかで何にもとらわれていない状態-にあることが肝心です。
近道が「ほんとうの近道」とは限らない
しかし,人生というものは,いつもうまくいくとは限りません。そして,上手くいくことだけが必ずしも良いわけでもありません。幸せから遠い道を歩んでいると感じられることもあるかもしれませんが,たましいを磨くという視点で見れば,思いどおりにならない人生のほうがむしろ,より鍛えられるとも言えるのです。そう考えれば,幸せへの「近道」でないことが,実は「正しき道」と言えるのではないでしょうか。
(強調はブログ作成者によるものです)
何が本当によいことかを正しく見極める際,目に見える部分は手がかりにはならないということですね。
江原啓之(2012) 『予言』 講談社。pp. 176-177.
(強調はブログ作成者によるものです)
何が本当によいことかを正しく見極める際,目に見える部分は手がかりにはならないということですね。
4/08/2012
便利さを選択する
「前へ,前へ」と進み続けた過程で,たくさんの「便利なモノ」が生まれました。そして,今度はいったん手にしたそれらのモノを手放せなくなってしまっているのです。たとえば,携帯電話を手放せないばかりか,今度はやれスマートフォンだなんだと,「もっと先へ」と進んでいこうとします。テレビも地デジになり,DVDもブルーレイになってきています。次から次へと新しいモノを目の前につるされ,まるで踊らされているようです。どれも,前のままではいけなかったのでしょうか。世間的な流れとして,物質的価値観に逆らえずにいることを,私自身はとても悔しく感じています。そもそも,みなの言う「便利なモノ」とは,人間の感性を鈍麻させる一面もあります。ただスピーディーであるという利便性のみを追求するのであれば,「便利なモノ」=「怠惰の産物」とも言えるのではないでしょうか。(中略)
機械化によって,そこに人の温もりを感じられなくなってしまっています。そればかりか,「効率の悪いものは切り捨てる」という弱肉強食の世をつくりだしてしまいかねないでしょう。もし今後,何でもコンピューターやロボットが人の代わりに仕事をするようになったら,職を失う人がさらに増え,よほど能力のある人しか生き残れないような時代になってしまうのではないでしょうか。便利を求め,経済効率を優先していたら,ますます「格差社会」になるのでは?と危惧してしまいます。
これからは,あえて「不便なもの」を残し,効率を追求することに歯止めをかけることも大切ではないでしょうか。この先どこまで科学の進歩を取り入れるのか―。 (中略)「便利なモノ」もどこまで発展させ,どこまで取り入れるのかをしっかりと見直していくことが急務ではないでしょうか。
どんなモノも,それ自体が何か悪さをするわけではありません。お金と一緒で,それを使う人の「心」が問われるのです。これからは,「私は,この便利はいらない」というふうに,自分で取捨選択し,自律していくことが大切ではないでしょうか?
(強調はブログ作成者によるものです)
過剰な効率追求も,物質至上主義の一側面かもしれません。
「馬鹿と刃物は使いよう」という諺が示すように,核にしても,インターネットにしても,それらに本質的な問題があるということではないでしょう。ラジウムを発見したキュリー夫妻も,自らの研究成果が,やがては戦争の兵器として,さらには,原発事故を通じて,多くの人々に苦しみを与えることになろうとは予想だにしなかったでしょう。すべては人類の未熟さゆえに生じた出来事で,何であっても賢く使えば便利でも,使い方を誤ると命取りになりかねません。そして,地上には,さまざまな道具をより正しく,より賢く使えない人間が圧倒的に多いということでしょう。
話は少し飛躍しますが,霊能も同じです。人格のあまり高くない人が振り回すと刃物となり,ひとを不用意に傷つけます。また,霊能者経由で得た情報を他者に対して濫用することも同様です。
万事に通じることだと思います。
機械化によって,そこに人の温もりを感じられなくなってしまっています。そればかりか,「効率の悪いものは切り捨てる」という弱肉強食の世をつくりだしてしまいかねないでしょう。もし今後,何でもコンピューターやロボットが人の代わりに仕事をするようになったら,職を失う人がさらに増え,よほど能力のある人しか生き残れないような時代になってしまうのではないでしょうか。便利を求め,経済効率を優先していたら,ますます「格差社会」になるのでは?と危惧してしまいます。
これからは,あえて「不便なもの」を残し,効率を追求することに歯止めをかけることも大切ではないでしょうか。この先どこまで科学の進歩を取り入れるのか―。 (中略)「便利なモノ」もどこまで発展させ,どこまで取り入れるのかをしっかりと見直していくことが急務ではないでしょうか。
どんなモノも,それ自体が何か悪さをするわけではありません。お金と一緒で,それを使う人の「心」が問われるのです。これからは,「私は,この便利はいらない」というふうに,自分で取捨選択し,自律していくことが大切ではないでしょうか?
江原啓之(2012) 『予言』 講談社。 pp. 141-147。
(強調はブログ作成者によるものです)
過剰な効率追求も,物質至上主義の一側面かもしれません。
「馬鹿と刃物は使いよう」という諺が示すように,核にしても,インターネットにしても,それらに本質的な問題があるということではないでしょう。ラジウムを発見したキュリー夫妻も,自らの研究成果が,やがては戦争の兵器として,さらには,原発事故を通じて,多くの人々に苦しみを与えることになろうとは予想だにしなかったでしょう。すべては人類の未熟さゆえに生じた出来事で,何であっても賢く使えば便利でも,使い方を誤ると命取りになりかねません。そして,地上には,さまざまな道具をより正しく,より賢く使えない人間が圧倒的に多いということでしょう。
話は少し飛躍しますが,霊能も同じです。人格のあまり高くない人が振り回すと刃物となり,ひとを不用意に傷つけます。また,霊能者経由で得た情報を他者に対して濫用することも同様です。
万事に通じることだと思います。
豊かさを見直す
終戦後のまったく食べ物のない状態からたかだか60年あまりでここまで豊かになった,そのスピード感たるやまさに超特急です。しかし,この変化で私たちはどこかで幸せを見失い,幸せ迷子になっているのではないでしょうか。さすがのアメリカでも,一般の家庭の日常食は質素なもので,日本ほどの贅沢をしている国はないと感じます。
けれど,あなたは本当にいま,幸せを感じていますか?たとえば,仕事のつきあいで食べるご馳走より,家に帰ってから食べる一杯のお茶漬けのほうがホッとできるように,どんなに質素な食事でも,家族や友達など気のおけない相手と食べていれば,それだけで十分心が満たされると思いませんか?
人は未熟さゆえに,ついついわかりやすい贅沢や物質的な豊かさに溺れてしまいます。しかし,それで得られるのは,刹那的な充足にすぎません。たとえお金をたくさん持っていなくても,1冊の本を読むなり美術館で絵画を観るなり,心を豊かにする方法はたくさんあります。モノやお金でしか幸せを得られない,というのは思い込みなのです。
「足るを知る」というのは,とりもなおさず,本当の幸せを探すということ。人と比べず,自分自身の心が豊かに満たされる生き方をするということではないでしょうか。人は物質的に満たされすぎるとかえって喜びを感じづらくなります。「あって当たり前」と思うと,そこに感謝も生まれませんが,「ないのが当たり前」と思っていれば,謙虚になれるものなのです。
失ってはじめてわかるものがあります。大震災がきっかけで,当たり前の有難さに気づいた人も多いと報じられています。
バブル崩壊後に私たちは気づくべきでした。しかし,まだ気づけなかったので,今回のような事態となりました。これでもまだ気づけなければ,次は何が起こるかわかりません。
気づいている人々には,その気づきを周囲へ伝える“責任”があります。
一人の目覚めは全体の目覚めにつながります。
けれど,あなたは本当にいま,幸せを感じていますか?たとえば,仕事のつきあいで食べるご馳走より,家に帰ってから食べる一杯のお茶漬けのほうがホッとできるように,どんなに質素な食事でも,家族や友達など気のおけない相手と食べていれば,それだけで十分心が満たされると思いませんか?
人は未熟さゆえに,ついついわかりやすい贅沢や物質的な豊かさに溺れてしまいます。しかし,それで得られるのは,刹那的な充足にすぎません。たとえお金をたくさん持っていなくても,1冊の本を読むなり美術館で絵画を観るなり,心を豊かにする方法はたくさんあります。モノやお金でしか幸せを得られない,というのは思い込みなのです。
「足るを知る」というのは,とりもなおさず,本当の幸せを探すということ。人と比べず,自分自身の心が豊かに満たされる生き方をするということではないでしょうか。人は物質的に満たされすぎるとかえって喜びを感じづらくなります。「あって当たり前」と思うと,そこに感謝も生まれませんが,「ないのが当たり前」と思っていれば,謙虚になれるものなのです。
江原啓之(2012) 『予言』 講談社。 pp.116-117。
(強調はブログ作成者のものです)
失ってはじめてわかるものがあります。大震災がきっかけで,当たり前の有難さに気づいた人も多いと報じられています。
バブル崩壊後に私たちは気づくべきでした。しかし,まだ気づけなかったので,今回のような事態となりました。これでもまだ気づけなければ,次は何が起こるかわかりません。
気づいている人々には,その気づきを周囲へ伝える“責任”があります。
一人の目覚めは全体の目覚めにつながります。
登録:
コメント (Atom)
過去生体験 3
その教会では,牧師さんの説教の後などに,合計3度お祈りをする機会がありました。が,不思議なことに,目を閉じて祈るたびに涙が溢れてきます。そして,きまって「キリスト教を棄てた私を,こうして皆さんで暖かく迎えてくださって,こんなに嬉しいことはない」という想いがこみ上げてくるのです。今...
-
A burden has been placed upon your shoulders; how you bear it you will decide. If you square your shoulders and say, "This is my bu...
-
あなたにとっては正しいことも他の人にとっては間違ったことであることがあります. なぜなら,あなたとその人とは霊的進化のレベルが違うからです. シルバーバーチ 進化した魂のひと には厳しい基準が適用されますが,それほどでもない人にはゆるやかでなければ,公平とはいえません. 自分と人...
-
社会の不正 社会の弱者 社会の陰にいる人々に 光を当てること 自分は顧みられなくても 神の正義のために 働くひとに幸あれ 名声を求めず 愚直なる神の下僕であれ 志はやがて 必ず実を結び さらに多くの光を この暗闇へと 届けることになろう ひるまず進め 我らが共にいます。