12/26/2014

61 無関心をなくす

自分を愛するごとく隣人を愛せよ.苦しむ者に手を差しのべよ.人生に疲れた人,潤いを求める者に真理を語って聞かせよ.病の人を癒し,悲しみの人を慰め,不幸な人を訪ねてあげよ.こうした訓えは遠い昔から説かれてきた真実です.こうしたことを実行しさえすれば地上は一変し,二度と恐ろしい悲劇をもたらす戦争も訪れなくなるでしょう.

 『シルバーバーチの霊訓  第3巻』  p. 66.


現代人は,自分のことで忙しく,他人はおろか,家族・友人にさえ無関心になりがちかもしれません.近すぎて見えにくい,気づきにくいという部分もありますが.自分の用事が片付いたら,または,気持ちに余裕がある時,周囲の人に目を向けてみることも大切です.

「愛の反対は無関心」という言葉はあまりに有名です.この真理に反した他者への無関心は,必ずや形を変えて,思いがけないタイミングで自分の元へ返ってきます.通勤・帰宅ラッシュ時の人身事故(いわゆる事故以外のケース)で会社や学校に遅刻したり,帰宅が遅れたりするのはひとつの好例かもしれません.

11/02/2014

兼業が理想―霊能は人助けのために

ある時期から思うようになったことだが,霊能を使った仕事は,兼業(副業)が理想かもしれない。生活の糧を得る仕事をきちんと確保した上で,スピリチュアルな活動に従事する方が,本来の精神・あるべき姿から逸れずにいられると思うが,どうか。

現実には,専業で霊能者もしくは霊感占い師をされている方々はとても多い。その中で,文字通り引く手あまたで,数か月先まで予約が埋まる人々は,ごく一握りで,一般的には,それほど収益の上がる職業とは言えないのではないか。大雑把にいえば,実力があるから,予約が途切れない正統派タイプと,話術の巧みさ,優しさや親しみやすさ,といったような実力以外の部分で人を惹きつけるパフォーマンス型があるだろう。前者の典型で言えば,青森のKさんが真っ先に思い浮かぶ。が,彼女ほどの方でも,ネット上に流れる情報を見る限り,全国から相談者が殺到して多忙を極めるということもあろうが(早朝から夜遅くまで,途中ゆっくり休憩もとらずに鑑定をされているらしいし,鑑定終了後には執筆活動もされている),霊能一本でやっていく,というのは非常に大変なことなのだと思う。男性で扶養家族がいる場合には,お客さん(相談者)の確保が非常にシビアな問題になろう。自分独りならいかようにもできようが,家族の生活が懸かっているとなれば,集客は最優先事項となる。単価もある程度高額に設定する必要が出てくるし,自己アピール(営業)も欠かせない。「霊界の意思に沿うように,すべきことをしていけば,必要なものはすべて何とかなるのです」的発想では,ある程度(以上)の生活水準を維持することは難しいだろう。かつて,奇跡の心霊治療(無償)で多くの人々を癒した,ハリー・エドワーズ氏も絶えず経済的に困窮していたと言われている。

ということは,経済的困難をも引き受けるだけの覚悟がなければ,霊能者を専業とすべきではないのかもしれない。霊能を授かるということは,地上で富と名声を享受することと同義では決してない。自分の名前を売り込んだり,人々に愛されるためのものでは,もちろんない。それを活かして,助けが必要な人々の役に立ち,いのちは永遠であることや本来あるべき人の道を伝えていく,ということだ。何かを得れば何かを失う。こと霊能に関しては,経済的犠牲はある程度つきもののようだ。経済的困難がなければ,他の点で大きな犠牲を払う可能性が高い。

が,これまた現実には,本来の大義名分より,現実の利益や自分の野望・エゴを優先させる霊能者,ミディアム,占い師のなんと多いことか。 私自身,ごく一部のスピ関係者のエゴに,ある意味巻き込まれて,とある場所を追われたと認識している。(そこを去ったことは大正解だったが。)基本的に,宣伝して組織を大きくしようとか,改名・リニューアルして新たに売り込みをかけよう的な発想からして的外れではないか。「国際」とつければ本物らしく響くとでも思うのか。名前だけ立派にしようとするのは,物質主義的であるという意味で,スピリチュアルな教えと相容れずお粗末なことこのうえない。「大風呂敷を広げる」というが,看板ばかり立派でも,その看板を掲げる人間の器が不釣り合いに小さくては名前負けするだけ。名称に相応しい懐の深さがあれば,風評被害を恐れる余り,優秀なヒーラーやらミディアム(として重んじていた人々)をある日突然解雇したりしない(そして,二次災害として新たな人材喪失を生じることもない)。ましてや,自分(たち)がやりにくい存在になるや否や,それまで重んじていた立場の人々をばっさり切り捨てるということも,あまりしないだろう。指導力やリーダーとしての素質が豊かとはとても思えない。自分に甘く,(自分より秀でた部分―スピリチュアルな領域で,或いは,社会的に―を持つ)他者に厳しい人間性にも常に違和感があった。


さらに,霊性の高いことを自慢するのもまるで違う。(優秀・有名な)ミディアムといってもいろいろいるからね,などと言う。さも,人間のレベルが自分とは違う(自分の方が高い)と言わんばかりだ。その謙虚さの欠如は,「スピリチュアリスト」としてどうなのか。知る限り「たましいの年齢ってあるしね」といったり(スピリチュアリズムを知らない家族・友人への批判も込められている),某国の先輩ミディアムから霊性の高さを指摘されたことをやたらとひけらかす人々に限って,少なくとも “自分が思うほどには” 霊性は高くない。未熟ながらも,精一杯ご奉仕させて戴きます,とか,皆で共に成長していきましょう,といった姿勢ではないのだ。「我(ら)こそスピリチュアリスト」的な雰囲気が,しばしば観察される,思慮の浅い一連の言動と合致していない点は,常に疑問だった。

また,優秀な霊能者に指導を受ければ,その霊能者並みに力がつくだろうと期待し,或いは,その傘下に入れば自分にも得なことがあるのではないか,おこぼれにあずかれるに違いない,といった「打算」から協力するということがある,と最近知った。不思議なことに,私がリーディングを受けた数名の(専業)霊能者全員が,時期は異なるが完全独立(または休業/廃業)されていた。それぞれ自分の実力に自信もあり,また,当初の目論見が外れた部分もあったようだが,いずれにしても,霊能者本来のあるべき理想ばかりでないことだけは,全員に共通してみえる。人間だから当然といえば当然だろうが。


* * *

福祉とスピリチュアルの組み合わせー福祉の仕事を生業として,空き時間に(天職として)スピリチュアルな活動をする―は理想かもしれない,と思う。もちろん,福祉の仕事も内容によっては,非常に体力を消耗するものであるし,拘束時間の割に待遇が良くないといった面もあるようなので,決してラクなものではないだろう。が,福祉とスピリチュアルは,その中核に,「人助けの精神」を共有し,その純粋な精神からぶれずに生きやすい,という大きなメリットがあり,ひとつの理想の形なのかもしれない。

10/16/2014

Elements that were hostile as well as supporting 不都合さも自然の一部

"It took hundreds of millions of years to produce the life that now inhabits the earth--aeons of time in which that developing and evolving and diversifying life reached a state of adjustment and balance with its surroundings.  The environment, rigorously shaping and directing the life it supported, contained elements that were hostile as well as supporting.  Certain rocks gave out dangerous radiation; even within the light of the sun, from which all life draws its energy, there were short-wave radiations with power to injure.  Given time--time not in years but in milennia--life adjusts, and a balance has been reached.  For time is the essential ingredient; but in the modern world there is no time." 

Rachel Carsonl (1962). Silent Spring.  Penguin, p. 24.

(レイチェル・カーソン著,青樹簗一訳.『沈黙の春』 新潮文庫)

いま地球に生きる命を生み出すのに,何億年もかかった。それは,発達し,進化し,多様化する生命が,環境に順応し,均衡のとれた状態に達するのに要した無限に近い時間だ。環境は,それが支える生命を厳密に形作り,方向づけてきたが,そこには,支えるばかりでなく,不都合な要素も含まれていた。ある岩石は,危険な放射能を放ち,すべての生命のエネルギー源である太陽光線の中にさえ,傷つける力を持つ短波放射能があったのだ。時間―年単位ではなく,千年単位の―があってはじめて生命は適応し,均衡が保たれるようになった。というのも,時間は必要不可欠な要素だからである。しかし,現代世界には,時間というものが全くないのだ。(拙訳)



放射能には,自然界に元々存在するものと人工的に作り出されたものがある,とされています。例えば,花崗岩は放射性物質を多く含んでおり,花崗岩が多い地域では,放射線量が高い傾向にあります。また,宇宙空間には高エネルギーの放射線が飛び交っており,それは,地球にも常時飛来しています。そして,太陽の紫外線は,浴びすぎると日焼けを引き起こしたり,肌の老化(光老化)の原因になります。オゾン層の破壊により,紫外線の被害はすでに日常的な脅威となっています。

人類は,その創造性と好奇心から,原子爆弾や原子力発電所を造り出しました。20世紀半ばのある時期,一部の核保有国は,戦争に原子爆弾を使用し,水爆実験を繰り返し行って,地球の大気を放射能で汚染してきました。そして,「海暖め装置」,「トイレのないマンション」の異名を持つ原発は,たびたび大事故を起こしては,自然環境を汚染し,人類の生命を脅かし続けています。

自然界には,ただでさえ生命にとって脅威になり得るものが少なくはないのに,人類は更に危険なものを付け加え,撒き散らし,自らの命を自らの手で脅かしている。その愚かさを,あらためて知らねばなりません。

自然は恵みを与えてくれるばかりではありません。自然が,私たちが望むエネルギーと癒しだけを与えるものではないからこそ,ただでさえ傲慢な人類が更なる傲慢に陥る危険性を免れているのではないでしょうか。地球あっての生命,自然あっての人類です。自然災害が激甚化している昨今,われわれは自然をもっと正しく「畏れ」,我々の先祖がしていたような,自然に調和した暮らしを思い出す必要がありそうです。



9/27/2014

のりこえる

 のりこえる時代が来た。今まで通りに安住しているときでなくなった。なるべくそのままでと,甘えている時代ではなくなった。 今までがそうであったから,だからこれからもそうであろうと考える甘い時代はもはや終わったのである。自分の今までの視野で見わたして,そこで自分の位置を定めて,それでまずは安楽という時代ではなくなったのである。
 眼をさまさなければならない。今まで眠っていたというのではないけれど,今となっては,眠っていたと言われても仕方がないほどの時代が来たのである。よほど,強く揺さぶり起こさないと,ウツラウツラの眠りからさめない。
 峠をのりこえるのは容易でない。汗も流す。血もにじむ。時にはころげ落ちる危険もあるけれども仕方がない。覚悟をきめねばならない。それでなければ次の新たな展望はひらけないのである。
 周りをよくよく見まわしてみたい。きざしは一ぱいある。
(作者不詳)




かなり昔に,『PHP』の裏表紙に掲載されていた文章です。

何を「のりこえる」かは,個々人によって異なるかと思いますが,思い切った打開策を講じる必要性を強く訴えかけるメッセージです。

無思考・無理解によるスピリチュアルなメッセージへの依存・ぶら下がりにも,何らかの打開策が必要でしょう。

9/14/2014

Help the needy in your midst 恵まれない人々を助ける

Another heroic tendency we would like to see developed among you of all lands is the desire to help the needy in your midst.  Even though you feel your society is generous—and in a way that is quite true—still, for many people there is an aversion to others who are retarded or disabled, those who are poor, dishevelled or unwashed.  There still exists a deep suspicion about human misfortune.  ...  But if you feel too smug in your affluence or your comfort, be aware that you just might lose all you have materially in order to bring home that you are not better than others. If you have gifts, be grateful for them; don't presume superiority over others.  Don’t be suspicious of people with less material wealth than you, thinking that they must envy you.  Instead, be prepared to lose all you have and still feel happy in your heart.  Then you can enjoy your neighbors and be glad to help the less fortunate.  This is a very great lesson and a hard one.  If you dwell on your relation to our world—the world of spirit—then it will become easier and more natural to develop these more positive attitudes.

もう一つの利他的な傾向で私たちが世界中の人々に伸ばしてもらいたいと思っているものは,あなたがたの中にいる困窮した人々を助けたいと思う気持ちである。みなさんは,みなさんの社会は寛大で気前が良いとー確かにある意味では,そうだが―感じているにも関わらず,まだ多くの人々には,心身のハンディキャップを持つ人々,貧しい人々,身なりの悪い人々や不潔な人々に対する嫌悪感がある。人間の不幸について深い猜疑心がまだ存在しているのだ。(中略)しかし,もし,自分たちの豊かさや快適さにあまりにも自己満足を覚えるようであれば,あなたがたは他の人々より優れているわけではないとはっきり悟るために,物質的な所有物をすべて失うかもしれないと思いなさいもし,多くの点で恵まれているなら,感謝しなさい。他の人々より自分が優越していると思ってはいけない。自分より物質的に豊かでない人々を,自分たちを妬んでいるに違いないと考え,疑ってはならない。それよりも,持てる全てを失っても幸せな気持ちでいられるように備えなさい。これは,非常に大きな学びで,しかも,困難なレッスンなのだ。あなたがたと私たちの世界―霊界―との関係についてじっくり考えるなら,こうしたより前向きな態度を培うことはより容易く,またより自然なものになるだろう

Judy Laddon (1988/2001).  A Further Step beyond the Veil.  Kindle edition.



この世があるのは,あの世があるから,つまり,物質がたましいを造るのではなく,霊的エネルギーがまず(宇宙に)存在し,それがその他すべてのものを創造している,という前提の上で述べられた部分の抜粋です。

あの世に帰るときは,肉体でさえも置いていかなければなりません。にも関わらず,物質的豊かさに執着し,自己中心的な生き方をすることの愚かさを説いています。







8/12/2014

プラスチックの使用を避けよう

今や,文房具や収納用品から食品保存容器に至るまで,プラスチック製品は身の回りに溢れており,それなしで暮らすことは不可能な生活様式になっています。

一時,プラスチックの危険性が注目され,最近では危険度の低いものが材料として使われるようになっていますが,それでも,特に食品の保存に際しては,できる限り避けるのが賢明なようです。

ベニシアさんのブログ記事のリンクを張ります。ぜひご覧になってください。

★「プラスチックの危険性





7/26/2014

大切なものはここにある

自然がどれほど美しいか

ひとは気づいていない。

気づきさえすれば

人類を取り巻く環境は

ずい分改善されるだろうに。

ひとは近くにあるものを見ずに

遠くの星ばかり追い求める。

最も大切なものは足元にあって

誰にも

必要なものが全て与えられている。

「いま」という時を

慈しんで生きることが大切。


7/17/2014

腐ったりんごは1つだけ―客観的思考は大切

"One rotten apple spoils a hundred [または its neighbours]." というラテン語起源のことわざがある。箱の中の腐った1個のリンゴは,他の新鮮なリンゴもすべて腐らせてしまう,つまり,悪人は,たとえ一人でも,周囲の多くの人間に悪影響を及ぼす,という意味らしい。(だから,悪い芽は早急に摘み取らなければならない,という発想か?)しかし,虚心に考えると,箱の中に腐ったりんごが1つあるからといって,残りのリンゴも全部腐っているわけではない。それならば,腐ったリンゴだけ取り除けばよいのではないか。

* * *

退行催眠を受けて,現在の心身の症状に影響を及ぼしている過去生での出来事を知り,その症状を改善・解消するヒプノセラピーは,アメリカの精神分析医B. ワイス博士の著書,Many Lives, Many Masters.  と Through Time into Healing. (『前世療法 上・下』 山川訳) で一躍世界に知られるようになった。日本のテレビ番組でも紹介されたと,昔の友人が話していた。私自身,退行催眠を何度か試したことがあるが(スピリット・ガイドから強く促されて),相性の良いセラピストと出会い,深い催眠状態に入ることができれば,大変気持ちがよい。症状を改善したいというよりも,ある情報を得たくて受けた。欲しい情報は得られなかったものの,エネルギーレベルの癒し(オーラの浄化)と,思いがけない発見や学びがあった。過去生の情報は,第三者を介して教えてもらう方が信憑性が高いような気がして,ヒプノセラピーからはすっかり遠ざかってしまったが,セラピー自体を否定するつもりは全くない。(退行催眠で過去生を知ることができる患者は6割程度とされている。)日本にも,患者さんの過去生を視て,薬を使わずに心身の症状を改善される有名な精神科医(生まれつきの霊能者)もおり,そうした人々の著書を読み,話を聞くにつけても,多くの人々にとって非常に有効なセラピーだと信じている。

最近知った面白い実例に,ワイス博士の娘さん (Amy E. Weiss)ケースがある。25歳の若さで,目に白内障の症状が出た彼女は,眼科医に失明の可能性も宣告された。なぜ老人が罹る病気になったのか不思議に思った彼女は,当時勤めていた病院で,ワイス博士がワークショップを開催することになったため,試しに退行催眠を受けて白内障の原因を探ることにした。しかし,それまで,誘導瞑想を体験しても寝てしまうことが多くて,効果はあまり期待していなかったとか。

催眠状態に入ってすぐに,14-5世紀頃の長い白髪の老人が現れた。彼は,自然をこよなく愛する,いわゆる世捨て人で,自己完結していて,町の人々と全く関わりを持たなかった。人々は,彼が魔法使いで,何か不吉なことを企んでいると信じて,彼の小屋に火を放ち,すべて焼き払ってしまった。その炎は,彼の目をも焼いてしまい,老人は失明する。そして,心も深い悲しみに塞がれしまった。「人生の最後に行って,その人生についてメッセージを受け取ってください」というワイス博士の指示があり,彼女はひとつのメッセージ,"Sadness clouds the eyes." (悲しみは目を曇らせる),を受け取った。メッセージは,白内障の症状も示唆しているが,当時の彼女には,まだ人生の方向性がよく見えておらず,それは,失明した老人の過去生から持ち越した「悲しみ」と関係があるのではないかと思った(彼女自身の人生テーマとして,「悲しみ」があるようだ)。退行催眠を受けてから数年後に,白内障の症状は見事に消えてなくなり,ワイス博士を驚かせた。

エイミー・ワイスさんは,なぜ白内障がきれいに消えたか,その医学的な説明にあまり関心はない,と言う。彼女の心を動かしたのは,目の症状が無くなったこと,癒しが起こったという事実だ。そして,父であるワイス博士が,多くの人々を癒してきたことの素晴らしさを,自らの体験を通して実感されたのである。


* * *

前世療法については,賛否両論ある。クライアントは,自分のものだと思っている前世が,実はクライアントに憑依している霊の前世の場合がある,という根拠で,やや否定的な見解や,価値を軽んじるようなニュアンスの発言がなされる。英国系スピリチュアリズムを信奉する人々の間に多い。実に,『シルバーバーチの霊訓』にも同趣旨の記述があるので,そうした事実は確かにあるのだろう。しかし,だからといって,前世療法はすべて無意味で効果がなく,所詮クライアントの想像力の産物なのだ,と結論づけるのはあまりに短絡的だ。ワイス博士は,想像力では症状は改善されない,と明言する。具体的にどういった療法なのか,そして,患者たちはどういう過去生を見て,どういう症状がどのように緩和・改善されたかという事実をつぶさに調べもせず,一部の情報だけに基づいて判断してはいないだろうか。退行催眠を受けた患者の中には,あとで歴史的調査を行い,裏付けが取れたケースも少なくないという。ワイス博士の近著,Miracles Happen. には,実際に退行催眠を受けた大勢の人々の手記が掲載されており,一人ひとりにとって,様々な気づきの機会になっていることがよくわかる。

仮に,みえた過去生が自分のものでなかったとしても,セラピーによって憑依していたエネルギーが癒されたとすれば,そして,そのことで自分もラクになったならば,それでよいのではないか。癒されたのは,(だれかの)過去生(か何らかの想い)には違いないわけで,それが本当は誰のものだったかということは,最終的には重要な問題ではないかもしれない。間違えて自分のものだと思い込んでいたとしても,それで誰かを傷つけたり,大きな問題を引き起こすことがなければ,よいのではないか。

少なくとも,ワイス博士をはじめとするヒプノセラピストの基本的な仕事は「誘導」であって,これは,クライアント自身が気付けるように手助けする作業だ。霊能者のように,霊能によって過去生の情報を得て,相談者に伝えるのではない。従って,ヒプノセラピーとは,あくまでも,クライアント主体のアプローチと言える。催眠中に,当時の感情を再体験して(思い出す),癒しが起こる(古いエネルギーを解放する)わけだが,百聞は一見に如かず,体験に勝る薬はないわけで,当たるか当たらないかわからない霊能者に相談するより,遥かに効き目があるかもしれない。症状改善以外に,いろいろな気づきが得られる。生命は一度きりのものではない,人生を通じて人は成長し,愛の絆は切れることがない,など多くの気づきが,書店に並んでいる本を一冊買ってきて読むより,多くの実感を伴って得られるかもしれないのだ。


* * *

人によって,真理に出会うルートはさまざまである。悩み・苦しみを経て,という部分は概ね共通しているだろうが,それ以外の点については,これでなければだめ,というものはない。人の数だけ道のりがあり,気づきのスタイル,学びの方法がある。ヒプノセラピーも,数あるルートの中の一つとして認められるべきではないか。1つ腐ったりんごがあったからといって,すべて腐っているわけではないのだから,箱ごと処分するのはもったいない。腐った1個のリンゴを取沙汰して,リンゴという果物全体を否定するのも実におかしなことである。

スピリチュアルな世界で生きる人々の見解というものは,確かに傾聴の価値はある。が,まず,何よりも事実を,現実を自分の目でよくみて確かめて,その上で,自分の頭で虚心に考えることが大切かもしれない。それは,ただの猜疑心や不信心とは違う。看板を盲目的に信奉したり,著名人の見解を鵜呑みにしない,ということだ。自分を信頼する,と言い換えても同じかもしれない。自分を信頼して,できる限り客観的にものを見,考える癖を。自戒の意味でも記しておきたい。 


6/14/2014

Inner journey only you can make あなたにしかできない旅

I am aware that spiritual teachers can point the way and give me techniques, but that is not enough.

Spiritual process is an inner journey that ultimately only you can make.

Brian Weiss,MD (2003)

わたしは,スピリチュアルな師は道を示し,テクニックを教えることができるけれども,それだけでは十分でないことに気づいています。

霊的成長プロセスは,最終的にはあなたにしかできない内なる旅です。





心の支えを,自分の外に求めるのが人間の常なのかもしれませんが,外に探しているうちは,本当の意味で前進することも成長することもできません。

書籍などを利用して学ぶことも含めて,自分の心を満たすもの,幸福にするものは,試行錯誤しながら自ら模索するしかありません。いつまでも特定のブログや誰かのことばにすがり続ける態度でいて,いいはずなどありません。





6/12/2014

ひとの評価

 「評価してほしい」と思っているときほど,評価はしてもらえないものです.評価される人には共通点があります.どれだけ自分以外の人のために役に立てるか,それを常に意識しながら仕事をしていることです.
 自分の評価のことを考えて仕事をしても,評価はされません.自分以外の人のことを考えた仕事ができたとき,評価という結果がついてくるのです.


江原啓之 『スピリチュアル処方箋』 pp. 94-5.



使命感から取り組んだ結果として,または(個人的な好悪の感情や名誉欲といったエゴではなく)職務に忠実に努力した場合に,高く評価されやすいということは確かにあるでしょう。しかし,評価を受ける理由は,実は様々です。過去生で自ら積んだプラスの貯金の結果(正のカルマ)として,または,先祖の徳によって,というケースもあります。実力の割に高い地位に就くなど,いわゆる“仕事運が強い”タイプに多いようです。その代わり,他方面の運(異性運など)が弱いかもしれません。全てを同じ分量で持つ,ということはそうあることではありません。すべては因果律に従う,という意味で,誰もが平等ではありますが,しかし,人生は人それぞれです。

何をするにも,動機が大切,ということは紛れもない真実ですが,人間社会の評価というものは,多分に「相対的」なものだ,という認識も必要です。

行動の動機が,「人に認められたい」,「人から高く評価されたい」という想いであるとき,その背後には何らかの「淋しさ」が隠れているかもしれません.あるいは,自信のなさかもしれません.その場合には、まず自分で自分を認められるようになることが大切かもしれません。



5/24/2014

困難への対処法(4-3)-孤独なとき

エドガー・ケイシーのライフ・リーディングは,孤独の時期を,自分よりも恵まれない人々に援助の手を差し伸べる時であるとともに,個人的な成長と癒しを経験しなければならない時,と捉えています(Todeschi 1999: 133)。ケイシ―のリーディングでは,様々な孤独感に悩む相談者たちに,「自分の才能や能力が何であるかを探しはじめて,他の人々に役立つ方法を模索しなさい」というアドバイスが非常に頻繁に与えられた,とあります(Todeshi 133)。孤独の理由は必ずしも1種類ではありません。ケイシーにリーディングを受けた人々の中には,自分の性格的な傾向のために,みずから孤独な状況を作り出していると指摘されたケースや,過去生にその原因を遡ることができる場合もありました。(孤独感の理由も様々なら,その深さや感じ方も人により異なりますが,信頼できる誰かと,時空を共有することで解消される程度の “寂しさ” は,当記事の対象外です。)

例えば,36歳の男性は循環器系統の問題でフィジカル・リーディングを受けましたが,彼には友人関係が長続きしないという悩みもありました。その原因を尋ねたところ,男性には批判精神とカウンセラーの才能があって,人々を引きつけるものもあるが,アドバイスを求められると,自分の意見を述べることにこだわりすぎていた為,援助を求められた時はいつでも,自分がどれほど知っているかに満足するのではなく,相手の役に立つことに焦点を合わせるようにアドバイスされました (Todeshi 140-141)。

また,51歳の芸術家は,人から認めてもらえない不満と孤独感を常に抱えていましたが,他の人々を認める態度を培うように言われました。自分が出すものは,最終的に自分に戻ってくるものだ,と (Todeschi 143)。

ある11歳の少女の両親は,少女はひとりで時間を過ごすことに長けており,これは天与の才であるが,他の人々ともよい仲間となるように助言されています。彼女には批判的過ぎる傾向があり,これが矯正されなければ,ゆくゆくは孤独になってしまうだろう,と。「他者の欠点を大目に見なさい。他の人々が自分自身の欠点を大目に見てくれるように」(リーディング番号2648-1) (Todeschi 142) というアドバイスが与えられました。

孤独感の原因が過去生に遡るケースをいくつか紹介しましょう。政府機関に勤務していたある女性は,他の人々といる時や混雑した場所でも,孤独感を感じることがよくありました。リーディングで,この感情のある部分は,十字軍遠征の時代に起因すると言われました。当時,家族の不在時,家を守るために留守番させられることが頻繁にあり,その時感じた寂しさを今生に持ち越しているようでした。寂しいと感じる時間を内省と自己探求の機会と捉えるように,との助言が与えられました。

31歳の女性は離婚経験者でしたが,一人でいるよりも,「一人にされる」ことを恐れるあまり,自分に全くふさわしくない人々と関わることが多かった,と指摘されました。道徳観念と責任感に欠ける男性と結婚していましたが,一人になることへの恐怖心は,この失敗した結婚だけが理由ではありませんでした。直前の過去生で探検隊に属していたとき,仲間が帰国したとき自分だけうっかり取り残されたことがありました。彼女の恐怖心は,自分を見つめ,自分の内側とつながることで克服されるだろう (リーディング番号 958-3),とリーディングは告げました。

また,53歳の男性は,人々を愛し,周囲の人々からも愛されましたが,自分から人々に近づくと,いつも人々が自分から離れてしまうと感じていました。人ごみの中にいても寂しさを感じることがあり,ひとは自分から遠のいていく,という理由で,自分も人々から離れていました。ケイシ―は彼に,この状況は彼がサクソン人だった人生で始まった,と伝えました。当時,彼は人から尊敬されることが大好きでした。「この存在(本人のたましい)は,仲間から一目置かれていた―そしてその状況を好んだのだ!しかし,それをより大きな奉仕に使う代わりに,尊敬されることを好みすぎた結果,人々はあなたのことを忘れてしまった」(リーディング番号 3544-1) (Todeschi 144)。

ケイシ―・リーディングでは,孤独の理由が,過去生・生い立ち・性質のどれであっても,自分の内側を見つめて掘り下げることで,自分が神とつながっていることに気づくようにとアドバイスされることが多かったようです。ケイシーのリーディングでは,20世紀前半当時のアメリカの精神的土壌に(霊界サイドが)配慮してか,キリスト教の「神」を指す表現 (the Creator, Christ など) が頻用されていますが,大元の神(や超高級霊としてのイエス・キリスト)というよりも,個々人を導くスピリット・ガイド(いわゆる守護霊)と言い換えるほうが適切な場合が少なくないように感じられます。

さて,今回の孤独への最後の対処法は,前回(4-2)の記事の第二の項目でもあり,冒頭に紹介したアプローチ,つまり:

自分の仕事や活動に専念して,「他の人々のために」働く

です。自分の苦しみを注視し,傷の痛みにもがき続けるのではなく,その傷から一旦目を離して,異なる苦しみを抱える人々や,広く社会のため自分ができること,または,自分のすべき事(生活の糧を得る仕事も含め)など,対外的な活動に専念する時間を持つ,ということです。孤独の悩みに対しては,自分の好きなことや楽しめること(趣味や娯楽的な活動)に時間を費やすとよい,というアドバイスがよく与えられるかと思います。趣味や好きなことをするのも悪くないでしょうが,その内容によっては,意識やエネルギーの方向性が内向きなままで変わりません。「自分以外の誰か」のために働くには,自分に向いていた意識を,外へ転換する必要があります。ここが重要なポイントです。いわゆる趣味的な楽しみは,時々するから息抜きになるのものであり,それを問題からの逃避手段にしてしまうと,場合によっては,中毒となり,抜け出せなくなる恐れがあります。アルコール,異性関係,買い物,ゲームなど,人々が中毒に陥って問題となるものは,困難からの逃避手段になったためかもしれません。

この対処法は,しかし,孤独だけに有効なわけではありません。例えば,自然災害に被災して,様々な喪失感に苦しむケースにも同様に有効です。何かの作業に没頭する時間を作って,自分の悩み・苦しみを「忘れて」しまう,というのではありません。他の人のためになる活動に取り組むことで,喜びや感謝といったプラスの波動を受け取るということです。この小さな喜びの経験を少しずつ積み重ねていくことで,徐々に孤独感から解放されていくでしょう。

そういう仕事や活動がない場合は,冒頭でも読んでいただいたように,自分の才能や能力を見つける機会と捉え,模索することがブレイク・スルーのきっかけとなるかもしれません。自分にできること,やってみたいことでまだしていないこと,興味・関心があることがきっと何かあるはずです。それを,頭ではなく,心で選ぶことが大切です。本気で探せば必ず見つかります。

 * * *

続き記事では,3つの提案を挙げてみましたが,これらはいずれも,孤独感の軽減や打開の「きっかけ」や「手助け」にすぎません。最終的には,自分で自分自身(才能や性質など)を(適切に)認められること,自分の内側に満足を見い出だせるようになることが必要です。それは,各自のスピリット・ガイドとのつながりを強め,内なる愛を感じられるようになることと言っても同じでしょう。少なくとも,孤独感や不幸感にのみフォーカスを合わせ,それを,自分以外の「だれか」からわかってもらい,慰めてもらうこと,または,環境が“自動的に”好転することを,何もしないでただひたすら待ち続ける,というように,外界からの援助や働きかけ,変化のみで解消することを求める限り,孤独感はいつまでもつきまとうものではないでしょうか。誰かの役に立てる自分であることを知り,行動する。そうして,少しずつ自信と自分を取り戻した時,内なる変化が起こり始めます。その内側の変化に呼応するように,周囲の環境や状況も自然と好転し始めることでしょう。

3回の続き記事では,孤独に対する,ややスピリチュアルな対処法を提案してみました。次回は,さらに一歩踏み込んで,孤独の時期が,特に精神世界(および関連分野)での学びや諸活動に直結するケースを取り上げてみたいと思います。

出典: Todeschi, Kevin J. (1999) Edgar Cayce on Soul Mates: Unlocking the Dynamics of Soul Attraction. Virginia: ARE Press.




3/11/2014

遥かな夢を追いかけて

ミリオンセラーとなった,ZARDの「負けないで」(作詞:坂井泉水 作曲:織田哲郎 編曲:葉山たけし 唄: ZARD 音声はこちらへ)。甲子園の入場行進曲や様々なテーマ曲,CMソングとして,1993年のリリース以来,長年に亘り親しまれています。

歌詞を書いた坂井泉水さんは,数年前にスピリット・ワールドに戻られていますが,このような素晴らしい曲を残すことで,今も地上で多くの人々を励まし続けています。「死んだ後も生きているような仕事がしたい」と,アンネ・フランクは日記に書き残していますが,坂井さんもまさに同じことをしています。

解釈の必要もないほど,ごく普通に聴いて元気をもらえる,ストレートな応援ソングです。

しかし,敢えてスピリチュアルな視点から説明を試みると,次のような解釈が可能です。

誰にも叶えたい夢があります。夢とは,「パステルカラーの季節に恋した」時の「幸運(しあわせ)のときめき」や,いわゆるワクワクする目標です。それがあるから,私たちは夢実現を目指して走り続けることができます。

そうはいっても,夢に向かって走り続けることは大変なことです。楽しいことばかりではありません。辛くてもこらえて,人前では弱音を吐かずに,「ヘッチャラな顔して どうにかなるサと おどけてみせる」こともあります。少しでも弱音を漏らしてしまうと,倒れてしまうからかもしれません。そんなやせ我慢をする私たちの胸中も,しかし,スピリット・ガイドはすべてお見通しです。そして,強がる私たちの健気さを,「今も そんなあなたが好きよ 忘れないで」と,とても愛おしく思っています。走り続けることに疲れたときは,ゆっくり休むことが大切です。私たちは,毎晩,スピリット・ワールドへ一時帰還してエネルギー充電していますが,特に疲れてしまったときは,ガイドたちが,「今宵は私(わたくし)と一緒に踊りましょ」と手招きして,元気づけてくれるでしょう。

このように「負けないで」,とスピリット・ガイドは励ましています。彼らは,常に私たちを守り,導いてはいますが,私たちと同じ3次元の世界にいるわけではありません。「どんなに離れてても 心は そばにいるわ」と,異次元の空間から私たちを見守っています。そして,彼らの愛を感じて欲しいと思っています(「感じてね 見つめる瞳」)。何があっても,夢を抱いた「あの日のように輝いてる あなたでいて」欲しいと願っています。なぜなら,「ゴールは近づいてる」からです。「遥かな夢」の実現には,日々一歩一歩近づいています。自分の気持ちに「負けないで もう少し 最後まで 走り抜けて」いきましょう。

* * *

スピリット・ガイドは,ありとあらゆる手段を用いて,その時々に必要な大切なメッセージを私たちに伝えようとします。音楽や歌謡曲も,そのような手段として頻繁に利用されます。よく耳にしていた曲が,ある時急に気になり出した,とか,なぜだか耳について離れない曲があるときは,その歌詞にメッセージが含まれていることが多いものです。歌詞を調べて,心に響く言葉があれば,それがいま必要なメッセージでしょう。

3/06/2014

SNSが悪いのか

 ブログやフェイスブックがすべて悪いというのではありません。どんな形であれ,人と交流することは素晴らしいと思いますし,情報を得ることで救われる人もいることでしょう。(中略)
 フェイスブックで公開される情報はリアルなものではあっても,それがその人のすべてではありません。こんな場所へ行った,こんな人と会った,こんな食事をしたと切り取って貼りつけた人生のいいところ取りでしかないのです。
 相手に賛同する意味でクリックする「いいね!」と思う行為の中に,実は「悔しい」という羨望が含まれてはいないでしょうか?自分とは違う人をうらやましく思い,焦りに繋がってはいないでしょうか?
 ブログやフェイスブックは基本的にひけらかし文化といえます。昔の日本人の感覚であれば,日記など個人的な書き物は「墓場まで持っていくもの」という認識があったように思います。他人には言えない心の内を記したり,整理のつかない思いを書き出し,わが身を見つめ直す「内観」の道具だったのです。だからこそ,他人に見せるものではないという意識を持っていたはず。
 しかし,今は「私のことを見て!もっと構って!」と,なにもかもひけらかしてしまうのです。他人のことを理解し思いやるという利他愛よりも,「自分をわかってほしい」という自己愛が強くなって,「かまってちゃん」が増えたのだと分析できます。
 しかし,真の豊かさとは,こういうふうに人にすべてをさらけ出して賛同を得ることで満たすものではないと思います。たとえ多くのひとにはわかってもらえなくても,自分の信念を持って貫き歩む。そのほうがずっと豊かな生き方ではないでしょうか。
 確かに,書くことによって心の整理はできると思いますが,そうやって「自分探し」をしたいのならば,自分しか見ないノートを作るなどして綴ればいいことです。ブログやフェイスブックに情報をアップする人がしているのは自分探しではなく,「自分がどう見られているか探し」でしかありません。賛同の数が多ければ安心し,反応が薄いと不安になるという人もいるそうですが,それも結局は物質主義的価値観。「いいね!」の量で自分の幸せ度をはかろうとしていること自体,おかしいのです。「天は見てござる」という発想があったら,たとえ誰からも「いいね!」と賛同してもらえなくても,不安になどならないでしょう。評価されることを求めて行動するのではなく,自分の信念をもとに「自律した生き方」ができるはずです。
 豊かに生きたいと思うなら,実際に経験と感動を積むことが何よりです。

江原啓之 (2012).『言魂のゆくえ』 pp. 138-141.

(引用中の強調はすべてブログ作成者によるものです。)

こちらの記事特にこちらのサイト, また,こちらのサイトもご覧ください。



ブログや各種SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス: Facebook, Twitter, mixi, Instagram など)の普及によって,パソコンや携帯端末等のアクセス手段を持ちさえすれば,誰でも質・量ともに多様な情報を入手したり,発信したりすることができるようになりました。新聞・テレビ・ラジオといった従来のメディアよりも,「正しい(かもしれない)」情報を「より迅速に」得られる手段として,また,誰にも手軽に使える,気軽な自己表現の手段として,その勢いは止まるところを知らないようです。

引用の趣旨は,あくまでも,ネットを中心に生活する人々への危機感です。しかし,ブログやSNSなど仮想空間上の媒体ではなく,単行本で「波瀾と感動の手記」として出版する分には問題ないのか,多くの人々から称賛された経験のある人々や自己表現の場を多く与えられてきた人々,さらには周囲の理解者に恵まれた人々が,圧倒的大多数の無名の人々の,“周囲から認められたい”という気持ちや,孤独な人の,誰かに理解や癒しを求める想いにどれだけ共感できるだろう,という疑問が,正直なところないわけではありません。現実世界で満たすことが叶わない,叶わなかった自己表現欲求や承認欲求を,SNSを利用して(別の形で)補償しようとする,「埋め合わせ動機」はそれほど問題だろうか,と。

また,引用が指摘している自己愛の強さは,家族や周囲の人々との「こころの絆」が弱体化したことによる寂しさ,孤独感に起因する可能性が高いでしょう。自分以外の人を思いやったり,相手に関心を向けるということは,心に余裕がないとなかなかできることではありません。同著者による以前の著作(2009年, p. 89) では,この点が指摘されていますが,今回論調が変わった理由は何だろうと,疑問を持たざるを得ません。

とはいえ,どんな道具も,使い方ひとつで,利器にも凶器にもなり得ます。その点では,SNS も何ら変わりがありません。自慢したがる人は,ネット上だろうと,リアルな場であろうと,自慢するものです。ゴシップ好きな人は,どこにいても噂話に首を突っ込むでしょうし,人が善意から身を削って書いた文章も,下世話な好奇心から浅い読み方しかできません。ブログやSNSが悪いということではなく,問題の根本原因は,人間の未熟さにほかなりません。物質界に存在するありとあらゆるものに,人を助ける正/善の潜在性と,人を傷つける負/悪の潜在性があります。問題が起こるのは,常に人間の未熟さゆえ,です。

こんな素敵なお店で美味しいランチを食べた,流行りのカフェでお茶をした,とか,最新モデルの携帯機器を入手した,南国のリゾートへ行ってきた,といったトピックには,深みも面白みもありません。特に,記事の投稿者本人を直接知らない人々にとっては,「あ,そう。」のひと言で終わるようなものです。普通なら,家族や親しい友人との他愛ない日常会話の話題になる類いのものだから,わざわざネット上に公開するのは,身近に話し相手がいないか何かだろう,と私なら想像します。或いは,日常的に興味・関心の幅の狭い人かもしれません。

この手の,非常に内容の薄い(物質至上主義の権化的)記事は,基本的には,極めて人畜無害な(=どうでもよい)もので,読むのも退屈ですが,しかし,世の中には様々な事情を抱えた人々がいます。経済的に余裕がなくて,外食したくてもできない人が,たまたま目にしたブログで「美味しいランチ」の記事を読んでしまったらどう思うでしょう。「いまは無理だけど,いつか必ずもっと高いランチを食べて,もっと素敵なブログ記事にしてみせるわ!」と奮起するかもしれないし,「何よ,見せびらかして」と嫉妬するかもしれない。或いは,もっと深刻に,我が身の不遇に気が滅入って,落ち込んでしまう人だっていないとは断言できません。

こういう意味で,自分の(世間体の)良い部分だけを華やかに公開する,“あらゆる自慢行為(や場をわきまえない自己アピール)”には,少なくとも二つの側面があると言えます。一方では,ただの無邪気な自己(愛)表現ですが,他方では,それらを持たない人々のこころを徒らに刺激して,(本人にその意図が全くなくても)聞き手や読み手を間接的に傷つける可能性を孕んでいます。つまり,「ひけらかし行為」は,(何らかの)精神的暴力になり得る,ということです。子どもが往々にして残酷なように,どの“大人”にもある未熟さ・いびつさは,容易に他者を傷つける狂気・凶器たり得てしまうのです。

もし,友人・知人から羨ましがられたい日本人が増加していて,それが社会問題の域に達しつつあるのだとすれば,それは,人間関係が希薄になりがちな(大都市部を中心とした)現代社会の闇を反映していると同時に,心の深いところで自分に自信が持てない人が増えているということかもしれません。自信が持てないのは,周囲の人々の(多分に物質主義的な)価値観に従って,または,それを強く意識して生きているためかもしれないです。

知人・友人のブログFacebook 閲覧後に気分が落ち込んでしまったとき,SNSでの遣り取りに疲れてしまったときは,その場から大急ぎで立ち去りましょう。知人らの近況を確認する代わりに,「本当のこと」を学びましょう生命は永遠であり,一人ひとりに固有の「たましいの歴史」があり,今回も成長を願って生まれてきた,という真理を深く知ること。その上で,自分自身の価値観を模索し,確固たる信念に基づいて人生を歩みはじめるようになると,感じ方も徐々に変わっていくかもしれません。

2/03/2014

100 誕生と死の捉え方

 -そちらから地上界へ誕生するのは一種の“死”とみてよいのでしょうか。

 「結構です,一種の死です。あなた方が死と呼んでいるのは霊的に見れば霊界への誕生であり,あなた方が誕生と呼んでいるのは,霊的には死と同じです。
 何度も申し上げていることですが,仲間が地上界へ行ってしまうのを見て,霊界では大勢の者が涙をながしているのです。反対に,地上を去ってこちらへ来るのをあなた方が悲しんでいる時,私たちは“ようこそ”と言ってよろこんで迎えているのです。すべては全体としての視野の捉え方の問題です。」

トニー・オツセン編 『シルバーバーチの新たなる啓示』 p. 161.


特に愛する人が亡くなったとき,人々が涙を流すのは,その人の姿や存在をもう見られなくなってしまう,という自分自身の寂しさのためではないか,と思います。いわゆる大往生を遂げた人に対しても,人は多かれ少なかれ悲しむものです。非常に単純なことですが,生きとし生けるものは,人間であろうと,アリであろうと,いつか必ず死にます。病死であれ,事故死(や自死)であれ,当事者が「(あの若さで)死んでしまってかわいそう」,「あんな死に方をして気の毒だ」というようなことはありません。どのような方法であの世に戻るかにも意味があり,例えば,病などで苦しんで亡くなることは,(何らかの)カルマの解消になるといわれますし,逆に,即死などで痛みなどを全く感じずに瞬時に身体を失った場合は,死の自覚を持ちにくいため,浄化に時間がかかってしまう,ということもあります。本人はまだ生きていると思って,いつも通りに行動しただけで,「出た!」といって騒がれたりします。死ぬタイミング,死に方など,死にまつわる全てのことにも因果があります。

まだ非常に幼いとか,事故死であった,もしくは,事件に巻き込まれた,自ら命を絶ってしまった場合など,年齢や死に方に対して,人々は頻繁にショックを受けます。そして,その衝撃が様々な気づきや学びをもたらすということが,これもまた非常に頻繁に起こります。多くの人々の,死に対する誤った捉え方でさえも,ムダにはならないようです。

しかし,生命は永遠であり,地上は仮の住み処・学び舎であり,スピリット・ワールドこそが私たちの本来いるべき場所であることを深く理解した方々であれば,こうした反応や悲しみ方からは,少しずつ卒業する必要があるでしょう。

99 原子エネルギーと人類

 スイスから参加した二人のゲスト(夫妻)を交えたある日の交霊会で,原子力が話題となった。
 まず奥さんから質問があった。

 ―放射能の危険から身を守るにはどうすればよいのでしょうか。そもそも原子の秘密は人間が発見することになっていたのでしょうか。

 「地上生活のそもそもの目的は霊的・精神的・物的の三つの側面での体験を積むことです。この地球という天体上で得られるかぎりの,幅広い体験を積むために誕生しているのです。したがって,この地上界に秘められている知識―これは事実上無限です―は,人間にそれだけの能力がそなわれば,当然,自由にその能力を開発してよいに決まってます。
 人間が自然界の秘密を探ろうと努力することは結構なことです。問題はその動機です。発見した知識を全人類のために役立てるためでなくてはなりません。敵軍や自然界を破壊するためであってはなりません。人間には自由意志があります。根元的には神性を有し,その当然の資格として,自分で選択する自由がそなわっています。ですから,その自由意志を行使して,何の目的のために知識を使うかの判断をすればよいわけです。
 人類が精神的ならびに霊的に進化すれば,その自然の結果として,人生の目的が自分以外のもの―同胞だけでなく同じ地上に生息する動物も含めて―にとって地上がより住みよい所となるようにすることであることを悟るものです。あらゆる発見,あらゆる発明,あらゆる新しい知識がその観点からの判定を受けなければいけません。(中略)
 問題は,人類の知的能力が霊的発達を追い越すことがあることです。それがいろいろと厄介な問題を生ぜしめます。霊的に未熟な段階で自然界の大きな秘密を知ってしまうことがあります。今おっしゃった原子エネルギーの発見がそれでした。
 ですが,人間に為しうることには,自然の摂理によって,おのずから限界というものがあります。地球という天体を,そこに住むものもろともに破壊してしまうことはできません。困った事態を引き起こすことはできるでしょうが,地上の生命のすべてを根絶やしにすることはできません。思わぬ秘密を発見しては試行錯誤を重ねながら,正しい使用方法を学んでいくしかないのです
 原子エネルギーも,使い方一つで,神性をもつ人間としてあるまじき悲惨な環境のもとで生きている無数の困窮者に,大きな恵みをもたらすことができますし,現に,すでに恵みを与えています。
 あなたが最初におっしゃっていた放射能の危険性のことですが,私は,あなたが心配なさるほど深刻なものになるとは考えません。その影響を中和する対抗措置を発明するのは,そう難しいことではないでしょう。」

トニー・オツセン編 近藤千雄訳 『シルバーバーチの新たなる啓示』 pp. 157-159.



ここで言われている「困った事態」とは,ロシア,米国,日本などで起きてきた原発事故かと思われます。悲惨な環境で生きている困窮者にもたらした恵みとは何のことを指しているのでしょうか。最後に述べられている「中和する対抗措置」とは,放射能の影響を打ち消したり,もしくは弱める新たな技術のことでしょうか。それとも,原子力エネルギーに変わる自然再生エネルギーの開発でしょうか。

この交霊会の時点で,霊界の高級霊団が,20世紀半ば以降から発生し続けてきた地上での数々の放射能汚染・事故とその規模の悪化を予見していたとすれば,われわれ人類はチェルノブイリやスリーマイル島,福島原発の事故という失敗を重ねながら,正しい道を模索しているのかもしれません。国の政策は相変わらず原発推進ですが,世論は明らかに反原発に向かっています。

人類滅亡の心配はなさそうですが,二度と悲惨な事故を起こさぬよう,さらに一層の試行錯誤を重ねる必要はありそうです。

1/26/2014

地球は宇宙の一部

ひとは,自分の家庭だけ,

自国だけ,または

地球だけのことを考えている。

地球は宇宙の一部。

そして,

神の一部である。

日ごろから

そうした広い視点を持って

生きるように。





1/25/2014

あなたは世界で一番不幸ではない

世の中には人の数だけ苦しみがあり

悲しみがある。

自分たちだけが苦しんでいると思わないで欲しい。

同じ苦しみを背負う仲間に出会えたことだけでも

大きな恵みと考える。

そして,異なる重荷を背負う人々に対しても

できるだけ共感的であるように。

苦労の経験別にグループ分けする姿勢は

神を学ぶ者にふさわしくありません。



同じ苦しみを抱えた仲間と出会えたということは,共感し合える仲間に恵まれた,ということ。仲間がいるということは大きなことです。なぜなら,「共感は癒す」からです。世の中には,共感を得られない苦しみもたくさんあることを知ってください。

同じ痛みを知る人々で集まって体験を共有し,痛みを和らげることも,しばらくの間は前進の手助けになることでしょう。しかし,人生で起こること,とりわけ大きな困難には,それに匹敵する大きな深い学びがあるもの。気づきを得るためには,いつまでも同じ場所に留まり,ただ傷を舐め合っていてよいはずがありません。そうした傷の舐めあいは,最終的に足の引っ張り合いに終わる可能性が高いものです。「所詮,体験者にしかわからないこと。部外者には理解してもらわなくて結構です」と言って,自分たちほど大きな不幸を味わった人間はどこにもいない,といった雰囲気の中で,内輪で固まっているうちはいかなる進歩も望めないのではないでしょうか。自己憐憫は,本当に霊性の高い人の態度ではありません。(ちなみに,霊性が高いことを夢で教えて貰えるということも,あまり聞きません。自分でそう思いたいだけではないでしょうか。)

それでは,しかし,何のためにスピリチュアリズムを学んできたのですか?と疑問に思います。果たすべき役目とは,もう少しスピリチュアリズムに立脚したものであるべきではないのでしょうか。(スピリチュアル・ヒーラーの資格取得を公言する一方で,スピリチュアリズムに関して批判的な文章を掲載することも,明らかな自己矛盾で,浅薄です。また,霊能者も,中途半端な援助であれば,すべきではなかったでしょう。)

キサー・ゴータミーの記事とベートーベン不滅の恋人の記事はいずれも,個人的な悲しみを乗り越えて(或いは,痛みに耐えながら)前進するように告げています。尤も,ゴータミーは非常に優れたたましいの持ち主だったようですから,誰もが彼女のように急速に悟りを開けるわけではないでしょうが。

誰が正義か否かといった狭い話ではありません。客観的かつ冷静に,そしてできるだけ広い視野で,自分の置かれた立場を見つめ,社会を見る努力をしていただきたいと思います。



1/24/2014

個人的な悲しみから普遍的な苦しみへ

 アントーニア・ブレンターノがそうした絶望から立ち直ったのは,不思議なことに,テレーゼ・ブルンズヴィックの場合とはなはだ似ている.二人とも個人的な悲しみをバネに,より普遍的な社会の悲惨に目を向けたことだった.アントーニアもまた,フランクフルトで設立された,貧困者や失業者を支援するための女性たちの教会の共同設立者となった.そうした社会組織や赤十字や教会を通して,彼女は莫大な経済的援助を死ぬまで続けた.当時フランクフルトで,彼女は「貧者の母」と呼ばれていたのだった.(中略)
 こうした度重なる試練の中で,アントーニアは次第にカトリック教会に回帰し,祈祷書に心のよりどころを求めるようになった.ベッティーナは彼女が,カールの障害のせいで人柄が変わり,「悲しみの天使になった」と言っている.だが同じカトリックへの回帰であっても,修道院にこもったあと狂信的なナショナリストになった義弟クレメンス・ブレンターノとは,そのあり方がまったくちがっている.
 彼女の場合,自分自身の大きな不幸を背負いながら,その心がいつも他者に向けてひらかれていたことだ.社会福祉がまだ未熟だった19世紀の前半に,失業者や貧困者のために手をさしのべることは,それ自体勇気のいることだったにちがいない.彼女が名流婦人だっただけに,風当たりも強かったことだろう.そんなとき有形無形に彼女を力づけたのは,ベートーヴェンではなかったのだろうか?作品番号なしの彼の歌曲に『高貴な人は慈悲ぶかく,善良であれ』というのがある.これはゲーテの詩に作曲したものだが,制作年代は1823年と推定されている.こんなところにも,二人のあいだの共通な精神風土が感じられる気がする(後略).


青木やよひ.『ベートーヴェン・不滅の恋人』 河出文庫.pp. 346-347.



終生独身だったベートーヴェンには愛する女性 ("immortal beloved" 不滅の恋人) がいたとされています.青木氏は,アントーニア・ブレンターノがその人ではないかと主張されますが,これは現在最も有力な説と一致しています.引用箇所はその論拠について述べた部分です.

青木氏らの推測が正しいとすれば,かの偉大な作曲家の心を動かしたものは,彼女の崇高な心の在り方であり,生き方だったのかもしれません.

自分の苦しみを乗り越え,それを契機に恵まれない人々へ目を向けられるようになってはじめて人は救われるのでしょう.

ほんとうに強く美しい人は,より普遍的な愛を知っていて,実践します.


1/19/2014

True self-love 本当の自己愛

   Self-love isn’t selfish; it's healthy self-esteem.  The egotist, the braggart, the self-promoter, the diva, and the salesman—those who come across as self-loving in order to sell themselves or their products—are often insecure at heart.  The man I once thought was the most put-together person I knew, a model of public self-assurance and self-promotion, told me in a moment of mutual confidence that he played a game called “dodge the bus,” which meant he stood at a dangerous street corner and tried to see how close he could come to being hit.    “What if you were killed?” I asked, flabbergasted.   “Then the world would be rid of a worthless thing,” he answered. 
 True self-love doesn't need to be broadcast or publicly displayed.  It is an inner state, a feeling, a strength, a happiness; it is security.  Remember, souls are part of the One, which is love.  We all have souls.  We are always loved.  We can always love in return." (p. 138)

Brian Weiss (2004).  Same Soul, Many Bodies.

 
自己愛は自分勝手なものではありません.健全な自尊心です.エゴイスト,自慢家,自分を売り込む人,プリマドンナ,セールスマン-つまり,自分や商品を売り込むために自己愛的な印象を与える人々-は,本当は不安を抱えていることが多いのです.かつて出会った男性で,自惚れと自己宣伝のまさに典型だと思っていた人は,自分は「バスをかわす」ゲームをやっている,と打ち明けてくれました.危険な街角に立って,どのくらい轢かれそうになるか見ようとしているのだ,と.
 「死んだらどうするんですか.」私はびっくりして尋ねました.
 「この世から無駄なものがひとつなくなるだけですよ.」と彼は答えました.
 真の自己愛は,人前で発表する必要がありません.それは,内なる状態であり,感情であり,強さであり,幸福感です.安心です.思い出してください.たましいは神の一部であって,神は愛だということを.私たちはみなたましいを持っています.私たちは常に愛されています.そしてつねに愛することができるのです.

(上記は拙訳にて,山川氏による日本語訳,『未来世療法』(PHP)を参照下さい.)



自慢する人は,本音の部分では自信がなくて,さびしい人かもしれません.自慢して,他者からの承認・賞賛,ひいては愛を得ようとしています.まずは,自分で自分を認められるようになる必要がありそうです.

私たちは既に大いなるものから深く愛されている存在です.愛を外に求めるのではなく,存在の根源にすでにあることを思い出し,気づきましょう,というメッセージです.

いま,ここに生きているということが,即ち,愛されている,ということです.

とはいえ,それだけで問題が解決するケースは極めて稀です.自分の淋しさに気づいた場合の,ひとつの根本的な対処法は,なぜさびしいか,その理由を徹底的に探ってみることです.内観と自己分析でわかる場合もありますが,限界もあります.心理カウンセリング,セラピーやリーディングを利用するのも一案です.原因がわかったら半分は解決したようなもの.あとは具体的な解決法を知って,実行するだけです

1/07/2014

Science abused 科学の濫用

Please understand that all these scientific advances have been given to your world with the greatest sense of goodwill and love, to be used for humankind’s benefit and pleasure.  The abuse of science and technology was born out of people themselves, not out of any desire from this side.  The loving soul of who watch over your world are heartsick over the misappropriation of such gifts for wrong purposes that is so prevalent in your world.  Unfortunate conditions arise from human confusions like selfishness, greed, the desire to be superior to others, hoarding wealth, and so on.  Science is not antihuman.  Scientific advances ideally should advance the human condition, and when technology and medicine are used lovingly, with grace, wisdom, and caution, then they truly can benefit your world.
         When used unwisely and with base motives, then the power that exists as part of human freedom on earth, the power to harm others, may also affect many other beings, even beyond your own solar systems.

これらあらゆる科学的進歩は,人類の福祉と喜びのために用いられる目的で,最大限の善意と愛の想いであなたがたの世界に与えられたものであることを理解してほしい。科学技術の濫用は,人間自身から生じたのであり,こちら側が望んだものではない。あなたがたの世界を見守る愛に溢れたたましいは,あなたがたの世界に広くいきわたっている,この贈り物の間違った目的での誤用に意気消沈しているのだ。不幸な状態は,人類の自己中心性,強欲,他者より上でありたいという気持ち,大量の富を蓄えたい願望といった,人間の混乱から生じている。科学は人間に反抗するものではない。科学的進歩は,理想的には,人類の諸状況を前進させるべきものであり,科学や医療が愛,思慮,智恵,そして慎重さを以て利用されれば,真にみなさんの世界のためになりうるものなのだ。

 愚かに,卑しい動機で利用されれば,地上の人間の自由の一部として存在しているその力,つまり,他者を傷つける力は,あなたがたの太陽系を超えたところに存在するほかの多くの存在にさえ,影響するかもしれないのだ。

Judy Laddon (1988/2001).  A Futher Step beyond the Veil. Kindle edition.



人類の未熟さが,太陽系を超えたところにまで悪影響を及ぼす,というのは聞き捨てなりません。UFOが,これまでも多く目撃されていますが,地球人の在り方を心配して,視察に来たり,注意信号を発信しているのかもしれません。



1/04/2014

目には見えないから

人の愛は,お金や物で計ることはできません。

支払われたプレゼントの金額が,

贈り手の好意や感謝の重さと正比例しているとは限りません。

同様に,人の気持ちを,その行動だけを観察して


判断することにも,私たちは慎重でなければなりません。

観察する時でさえ,見る人それぞれのフィルターがかかり,

現実は様々に歪みうるものです。

そもそも,人のこころは目に見えないものです。

そして,さまざまな行いの結果や答えが

すぐに出るとは限らないからです。

1/03/2014

"After you" - 自己中は罪

"After you"(「お先にどうぞ」)というのは,ひとに順番などを譲るときに使える日常英会話表現のひとつ.英語圏では,譲り合いの精神が日本よりも多く見られるように感じます.イングランドのスーパーマーケットにいくと,レジのひとつがExpress Lane (エキスプレス・レーン)と呼ばれ,買う品物の個数が少ない(5~6個くらいか)お客さんが並ぶ列になっています.旅行や短期滞在の経験のある方はご存知と思います.英国では1週間分の食糧品を週末にまとめて買う家庭が多いこともあるかもしれませんが,大変合理的なシステムで,日本にも取り入れるべきと思うもののひとつです.

2007年に渡英した時,折り畳み傘を無くした私は,スーパーに買いに行きました.そのとき買ったのは小さな折り畳み傘一本だけでしたが,Express Laneは大抵,一番右端にあって(つまり,入口に近い),やけに広い店内をうろうろ歩きまわった後で疲れていた私は,すぐ目の前のレジの,年配の男性の後ろに並びました.何点もの食料品がコンベヤー(レジの手前に1.5メートルくらいのベルト・コンベヤーがあって,その上に商品を置いて店員の手元まで移動させる仕組み)の上に並べてありました.そのおじいさんは,私を見ると,笑顔でなにやら話しかけて来られます.彼の英語は,私には大変聞き取りにくく,最初は何と言われたのか全く聴き取れませんでしたが,彼の身振りやその場の状況から,あなたが先にチェックアウト(支払)しなさい,と言われているのだとわかりました.レジの女性も,「そうよ,あなたが先のほうがいいわ」とあっさり同意.ようやく事態が呑み込めた私は,彼にお礼をのべてレジを後にしました.

近所のスーパーで買物をすると,特に年末など混雑するとき,買う品物の個数の多い人ほど先を争うようにしてレジに並ぶ風景を目にすることがあります.ご夫婦で来られている年配の方々でさえそうなのです.こちらはひとりで,商品のあまり入っていないかごを軽そうにぶら下げていても,私たちが先よ,といった雰囲気で列に並びました.
「私たちは時間がかかるから,お先にどうぞ」というのではないのです. イングランドでの経験も思い出され,あきれました.彼らの「こころ」のあり方に,です.

アルピニストの野口健さんがヒマラヤ登頂を果たした際,日本の登山隊が残すごみの量が多いことに呆れたヨーロッパのある登山家から,「日本は経済では一流だが,文化では三流だ」と言われた話は有名ですが,全くその通りです.

「一時が万事」というべきか,現代の日本人にはこうした自己中心性の強い人々がとても多いように感じます.自己中心性は未熟さの表れにほかなりません.「わがまま」とは,性格のひとつの型などではなく,人間の程度が低い,ということです.この認識を持つことが必要です.

自己中心性はさまざまな場面で,さまざまな形をとります.たとえば,オンラインゲームにおいても頻繁に観察されます.目標達成に必要な情報収集の労は惜しまない一方で,自分が知り得た情報を他の人々にも伝えて助け合おう,という姿勢に欠ける人々が多く見られます.
そういうひとは他の人に頼んだり頼ったりすることは非常に得意でも,誰かのために自ら進んで情報発信しよう,知りえた分を分かち合おうと積極的に振る舞うことは多くありません.そして,そのことを指摘されると,「まだよく把握してないから」とか「従妹の手伝いで忙しくて」などと意味不明な言い訳をします.自分を正当化することにも決して手は抜きませんが,人のために動こうとか,相手を理解しよう,という姿勢は全くないのです.そういう人々は,人と心を本当に通わせることはできません.

「自分勝手なのではなく,自分のことをするのに精一杯で,人のことまで気遣える余裕がないのでは?」という声が聞こえてきそうです.同じことです.精神的に成熟した人は,人のために役立とう,尽くそう,という気持ちが豊かです.そして,自分のことは後回しにできるものです.自分のことは決して手抜きはしないが,他者のために時間やエネルギーを積極的に使おうとしない態度・生き方は,やはり自己中であるといわざるを得ません.また,口癖のように「面倒だから」という人を見かけますが,自己中が罪であるのと同様に,「怠惰も罪」であることを知ってください.

どんな些細なこと(スーパーでの買物に限らず,公共交通機関の利用時,ネットゲーム上の協力等々)であっても,自分は損をしたくない,できる限り得をしたい,とか,自分が上へ上がればそれでいい,自分たちが幸せなら何もいらない,といった気持ちに基づいて取ったあらゆる言動は,どこかで必ずそのツケを払うことになります.「自分だけ」得をしようとすると,必ずどこかで「自分だけ」損をすることになるのです.

他者の利益を優先できる心―そのような「きれいな気持ち」は,たとえ一時的に損をするように思えることがあっても,必ず大きな恵みを引き寄せます


2025年は大きな転換期

2025年7月5日(土)の早朝(夜明け前),フィリピン沖の海底火山が噴火して,周辺国と日本の太平洋沿岸に巨大津波(120mほど)が押し寄せ,国土の1/3から1/4 が津波に呑まれる,という予知情報があります。最初にこれが注目されたのは,下にも関連動画のリンクを貼っていますが,たつ...