12/30/2012

楽観が大切

 「大丈夫・・・・・・」と老人は繰り返した。「あんたの悲しみもまだまだ大したことはない。人生はながいからな。これから先いいことも悪いことも,いろんなことがある。母なるロシアは広いんだ!」と老人は言い,左右を見まわした。「私はロシア中を歩いて,ありとあらゆることを見て来たから,嘘は言わない,信用しなさい。これから先いいことも悪いこともあるさ。私はね,歩いてシベリアにも,アムールにも,アルタイにも行ったんだ。シベリアに住みついて百姓をやったこともあるが,そのうちに母なるロシアが恋しくなってな,生まれ故郷の村へ帰ってきた。帰りもやっぱり歩いてさ。今でも覚えているが,渡し船に乗っていたときのことだ,私はがりがりに痩せて,ぼろ服を着て,はだしで,寒さにがたがた震えながらパンの皮をかじっていた。するとその渡し船に乗っていた旅の旦那が-もし亡くなったのなら安らかに眠りたまえー気の毒そうに私を見て,涙を流してこう言った。『ああ,黒パンを食べているんだね,あんたの暮らしもお先真っ暗なんだね・・・・・・』 村に帰り着いたときは,いわゆる素寒貧というやつでね,女房はいたけれどもシベリアに残って,あっちで骨を埋めた。そんなわけで今じゃこうして日雇いの百姓の暮らしさ。といったって,なあに,その後いいこともあったし,悪いこともあった。今だって死にたくはない,あと二十年がとこは生きたいな。つまり,いいことのほうが多かったということさ。なにしろ母なるロシアは広いんだ!」

 アントン・チェーホフ 「谷間」 『可愛い女・犬を連れた奥さん』 新潮文庫.p. 183.



チェーホフは結核のため44歳という若さでこの世を去っています。引用元の作品は,亡くなる5年前に発表されたもので,老人の台詞には,彼の人生観やまだ生きたいという思いを読み取ることができなくもありません。

人生は長いようで短く,短いようで長いかもしれません。そして,いいことばかりも悪いことばかりもない。この老人は人生に対して楽観的ですが,こうした「ある種の楽観」が,苦しいときこそ必要かもしれません。



12/19/2012

NOTHING IS THE END OF THE WORLD

Relax.  Nothing is the end of the world. 
There is a solution to everything. 
We must never, ever, take ourselves too seriously.


Ted Waitt (a co-founder of Gateway)

リラックスしてください.何も「この世の終わり」というほど最悪ではありません.全てのことには解決策があります.私たちは決して深刻になりすぎてはなりません.


アメリカのGateway社の創立者の一人,テッド・ウェイトの言葉です.出典は不明です.

ゼロから会社を立ち上げ大企業にまで成長させた自身の体験から生まれた哲学のようですが,これもスピリチュアルな教えにぴたりと符号していて見事です.

どんな試練の時も,私たちは,常にスピリット・ガイドに見守られ,導かれています.絶体絶命のように見えても,前向きな気持ちを失わない限り,そこから抜け出すきっかけに必ずや導かれます.自分が乗り越えられない試練は絶対に起こりません.そう信じて,不安からできるだけ自分を解放しましょう.不安の念が強いと,ガイドからの援助を受け取りにくくなります.
 

11/22/2012

あなたの価値

 真の価値は心にあること,そして自分の価値に責任があるのは自分だけなのだ,ということを覚えておいてほしい。雇い主が自分の価値を与えてくれることはあり得ないのだ。または仕事上の地位などというものは,まったくの錯覚だということを銘記しておこう。地位には何の意味もない。事実,職業上の地位や名声にこだわるあまり道に迷う者が多いので,こちら側にいるわれわれは深く悲しんでいる。

ジュディ・ラドン 『輪廻を超えて』

11/11/2012

伊勢神宮参拝 2

一生に一度は行きたい伊勢参り,と言われた時代があった。現代のように交通網が発達した時代では,時間とお金の都合さえつけば,どこからでも何度でも行かれる。だから,ありがたいのか,逆にありがたみが減るのか。

伊勢神宮は,日本の神社の中では最高の位置づけである。カジュアルな軽装ではなく,男性ならスーツとか,女性なら最低でもスカートにジャケットといった,きちんとした服装で行くのが本当なのだが,そうした服装の人は,お宮参りで訪れた(らしい)一部の人々以外には殆ど見当たらなかった。我々のグループは40名余りの団体だったが,その中でもスカートを穿いていたのは私だけではなかっただろうか。さすがに添乗員さん(女性)はパンツ・スーツだったが。スピリチュアルなことや霊的世界に特別な関心のない人々が,特に遠方から出向くとなれば,服装にまでは気がまわらないかもしれない。が,それでも,お墓参りにくだけた普段着で出かけるべきではないのと同じ理由で,格式の高い神社参拝の際にも服装に注意したい。いやしくも霊的な仕事に携わっているなら,言うまでもない。
 
* * *

さて,両参りは今回が初めてだが,内宮へは(おそらく)2回目の参拝となる。最初に行ったのは小学校の修学旅行で。が,いかんせん五十鈴川しか記憶にないため,本当に参拝したかどうか定かではない。

来年の式年遷宮(20年毎に正殿・社殿を建て直し,御神体を移す行事)に向けて,内宮でも新しいお社の建設中であった。鳥居や川に掛かる橋もすべて新しくされるとか。新しい橋げたが見えた。


橋の反対側は,


木々が美しい。

どちらも,風日祈宮(かざひのみのみや)の手前に架けられた橋の上から撮影したもの。風日祈宮とは,風の神様を祭る別宮で,鎌倉時代元寇のとき神風を吹かせて日本を守った神様。この別宮の傍に立つどれかの木に強いパワーが感じられるらしいと,どなたかのブログで読んで期待していたが,特に何も感じなかった。


その後で,荒祭宮(あらまつりのみや)という別宮へ向かったが,どうやらこちらの宮が格が高いらしく,正殿の次に向かうべきは荒祭宮だったと,風日祈宮へ行ってから判明。引き返す時間も惜しいので,そのまま参拝。別宮にも格の違いがあるそうで,格の高い別宮から参拝するのが正式だ。建て替えも格の高い順に行われるとか。風日祈宮の前にいらした警備員さん(らしき男性)が,他の参拝客に説明されているのを,立ち聞きして知った。


荒祭宮は,内宮のご祭神,天照大御神(あまてらすおおみかみ)の荒御魂(あらみたま)が祀られているが,石段を上がった高台にある。石段のふもとに,樹齢200年とも言われる巨大な杉の木がある。その幹に耳を当てると,中を水が流れる音が聴こえるとか聴こえないとか。試したが何も聴こえない。大勢の人がそのエネルギーを感じようとして触った跡だけが,遠目に黒ずんで見えた。


出口の方へ向かって歩いていると,通りがかりの年配の女性(地元の方)が,池に鯉がいるわよ,と教えてくださった。なんでも,五十鈴川の鯉は最近の大水で流されてしまったそうだ。せっかくなのでその池をのぞいてみると,立派な鯉が何匹も泳いでいた。うちの近所の,とある有名なお寺の池にも鯉がたくさん泳いでいるが,その鯉たちと比べると,やはり色つやも,雰囲気も一段と立派な様子。きっとお値段もお高いのだろうな,などと下世話な考えが一瞬頭をよぎる。


それから,馬がどうとか言われていた。厩がおはらい町通りのほうにある,ということだが,未確認。白馬だけじゃなくて,茶色い馬もくるのよ,とお話されていたが,そもそも何のために馬が来るかがわからない私。鯉が泳いでいるという別の池の方へ歩みを進めて,その方とは別れた。

出口へ向かう途中,ふと見上げた空には珍しい形の雲が浮かんでいた。



この2枚はあまり時間を置かずに撮影したもので,場所も殆ど移動していないが,カメラを向ける方角を変えてみたもの。いま改めて見直してみると,上の写真の雲は,翼を大きく広げた鳥のようにも見えて面白い。(みなさんは何を感じますか。)

宇治橋をわたって内宮を後に。(下は,宇治橋からみた五十鈴川)


内宮では風景写真しか撮っていないことに改めて気がついた。個々のお社というより,川の流れから空に至るまで,この境内そのもの,この場一帯に強いエネルギーが満ち溢れている,ということかもしれない。(それとも,ただ大勢の参拝客を避けた結果なのか。)少なくとも,内宮は,自然の多様さにおいて外宮よりまさる。


伊勢神宮とは,外宮,内宮を中心として,合計125の神社から成る全体を指すとか。たしかに,ご存知の通り,外宮と内宮は離れた場所にある。また,今回は月読宮(つきよみのみや)など,立ち寄れないところもいくつかあった。内宮に行ったのは土曜日とあって,参拝客が非常に多く,神社参拝というより,有名観光地を訪れた気分だった。正宮の拝殿で拝むのも順番待ちで,後ろを気にしながら祈らなければならない。初詣はこの比ではないとか。「ところてん状態」とはバスガイドさんの言葉。が,平日はとても空いているらしいので,次回は今回廻れなかったところも含めて,平日に参拝したい。




猿田彦神社

伊勢神宮内宮から徒歩で15分くらいのところに,猿田彦神社がある。ご祭神は,二見興玉神社と同じ猿田彦大神とその子孫と言われる大田命(おおたのみこと)。みちひらき(啓行)の神様として知られている。

名前は聞いていたが,内宮の近所にあるとは知らず,出発前に参拝の予定はなかったが,時間もあったので参ることに。内宮から行くにはいくつかのルートがあるが,内宮を出て,右手に広がるおはらい町通りを突き抜けて,御幸(みゆき)道路に出るコースが初めて行くときは間違いがないだろう。幹線道路に出てしまえば,大きな看板が見えるので必ず辿りつける。

猿田彦神社に到着した時点で,出発時間が気になったのと疲労のためか,写真を撮ることさえ忘れていて画像は何も残っていない。宇治橋から撮影したのが今回最後の写真となった。内宮の後で訪れたせいか,境内はかなり狭い印象がある。七五三参りの家族が多かった。

鳥居を入ってすぐ右側に小さな社(佐瑠女神社 さるめじんじゃ)があるが,芸事と鎮魂の神様,天宇受売命(あめのうずめのみこと)が祀られている。天照大神が天岩戸にお隠れになったとき,世の中が真っ暗になり混乱が生じた。そこで,あめのうずめのみことが岩の上で舞を踊り,集まった八百万の神々を笑わせた。その騒ぎを聞いた天照大神が,なにごとか,と岩戸を少しだけあけて尋ねたところ,「新しい神様の誕生をみなでお歓びしているところです」と答えた。新しい神様と聞いて興味をそそられたアマテラスは,さらに大きく岩戸を開け,世の中に光が戻った,という神話は有名だろう。
* * *

日本人は,人生の節目節目で神社を訪れる。「神社に詣でるから,転機が来る」のではなく,「転機を迎えるにあたり」神社参拝をして新たな気を戴き,古い気を手放すのだと思う。この辺りのことをわかっていないと,参拝も「ご利益」を求める,ただの“パワースポット巡り” になってしまう。

11/10/2012

伊勢神宮参拝 1

ある朝聞いたラジオ番組で,ふと耳にした情報から,急に伊勢神宮参拝を思い立った。気がつくと,その日の夕方には伊勢神宮両参りのツアーに申し込んでいた。

細かく計画を立てて用意周到であることも少なくない反面,このように全くの思いつきで行動を起こすことも同じくらい少なくない。この殆ど全く根拠のない思いつきは,大抵の場合,インスピレーションである。今年の11月は,都合よく金曜の仕事が休みの日が多く,週末にかけて出かけることが可能だった。また,どういうわけか利用が著しく減った占いのお陰で,経済的にも若干の余裕があった。進めてもよい,または進めるべき出来事は,こうして万事上手く流れていく。


最初は,神宮参拝を(後ろから)促されているのかと思った。それもあるだろう。しかし,どうやら先方から呼ばれてもいるらしかった。この「呼ばれた」感覚は,現地でさらに強まった。


神宮参拝の古来からの順序は,外宮(げくう)から内宮(ないくう)とされている。これはよく知られているのではないだろうか。しかし,昔は,外宮へ向かう前に寄る場所があった。それは二見浦。こちらに寄り,実際に海に入って禊ぎをしてから詣でたとか。旅の全行程で,天候には恵まれたが,1日目の夕方は風が強くなり(ガイドさんによれば,もっと強いことも珍しくないとか),神社へ向かう途中,波しぶきがかかる場面も。かなり強い風と少しの波しぶきで,禊ぎの効果は充分あったと思う。


今回は,宿泊場所の関係などで,まず外宮を参拝し,それから
二見浦興宮神社へと向かった。1泊2日の団体行動はなにかと慌しく,写真を撮る余裕もあまりなかったが,二見浦のとあるショット:




蛙の像は,二見蛙とも呼ばれるようだが,後に人々から奉納されたもののひとつ。蛙は,この神社のご祭神,猿田彦大神(さるたひこおおかみ)の使いと信じられていて,帰る,返る,との語呂合わせにちなんだご利益(お金が返る,無事に帰る,若返るなど)があるらしい。信じる信じないは全く自由である。

しめ縄が掛けられた岩をご存知の方は多いだろうが,蛙とのツーショットはちょっと珍しいかもしれない。(画像の上でクリックすると大きくなります。蛙の眼差しがややリアルですね。)ちなみに,岩のしめ縄は,一本(いや,一箇所というべきか)でも切れると,全て掛けなおさなければならないとか。


時間が前後するが,1日目のハイライトは外宮参拝。金曜日だったせいか,人も少なく,静かで良かった。




写真は,人気が無くなってから,出発時間を気にしながら撮影したもの。正宮の鳥居とその奥には,拝殿の一部と新たに建設中の新御敷地(しん・みしきち)の一部が見える。来年は20年に一度の式年遷宮(しきねんせんぐう)の年。正宮・別宮がすべて建て替えられ,御神体が移される。川に架かる橋や鳥居もすべて新しくされるという。境内のあちこちで,建て替え作業の様子が聴こえてきた。

多賀宮(たかのみや)は別宮(べつぐう)で,外宮の祭神,豊受大御神荒御魂(とようけのおおみかみのあらみたま)を祀ってある。ちなみに,外宮ご祭神の豊受大御神は,内宮のご祭神(天照大御神)とともに,女性の神様である。が,バスガイドさんの話によれば,なかなか強く,頼もしい気質を持たれた方とか。
荒御魂とは,和御魂(にぎみたま)とは対照的に,神性の荒々しさ,強さの部分が顕現したもの。気のせいでなければ,確かにそうした強いパワーを感じた(かも)。

呼ばれたと感じた,と最初に書いた。多賀宮の参拝後,鳥居を出たすぐのところにある杉の巨木の幹に触れていたとき,「よく参った(か,参られた)」という言葉が浮かんだ。外宮へ向かうバスの中でも出ていたのだが,まさか多賀宮から発信されていたとは。次の日参拝した内宮でも似たようなことがあった。正宮に参る前,人の多さに少々うんざりしながら,拝殿に背を向けて,ひとり目の前の空き地を眺めていた時だった。「よく参られた」と言葉が来た。バスの中でも,外宮でも,自分が考えた文句ではないか,と思っていた。が,内宮で再びその言葉が出たときようやく,そうではない,伝わってきたものなのだ,と信じるに至った。


面白いのは,いずれも背後から来た,ということ。外宮では,真後ろではないが,鳥居を出て右手に出た位置に背を向けて立っており,内宮ではほぼ真後ろだった。いずれも後ろから声をかけられる,というのは,神々が私たちに姿を見せられることはない,ということなのか。挨拶の主が誰なのか今以て定かではない(それぞれのご祭神なのか,その方々に仕える下々の神様なのか)し,また,なぜ呼ばれたのかもまだ不明だが,いずれにせよ何らかの必然性によって今回の参拝が実現したにちがいない。


この日の夜から次の日にかけて,夢-怖くて,驚いて目が覚めるような-を見た。そのおかげで明け方5時に目覚め,東向きの窓から朝日を拝むことが出来た。
  6.19am

 6.25am

東向きの部屋だったことに感謝。



10/10/2012

Humility 謙虚さ

It is said that humility is truth.
The path that will make us more like Jesus
is the path to humility.

Pride destroys everything.  To imitate Jesus
is the key to be meek and humble in heart.


謙虚さは真実だと言われます。
私たちがイエスに近づく道は
謙虚さへの道です。

プライドはすべてを破壊します。イエスを見習うということは優しく,控えめな心になるということです。(マザー・テレサ)

Mother Teresa: In My Own Words.  (1996)
Compiled by Jose Luis Gonzalez-Balbado. 
 Liguori: Misouri, p. 56. 

Poverty in the developed countries 先進国の貧しさ

"In the developed countries there is a poverty of intimacy, a poverty of spirit, of loneliness, of lack of love.  There is no greater sickness in the world today than that one."

先進諸国には,親密さ,霊性,寂しさ,愛の不足という貧困があります。今日の世界に,それほど重い病はありません。(マザー・テレサ)



Mother Teresa: In My Own Words.  (1996)
Compiled by Jose Luis Gonzalez-Balbado.  Liguori: Misouri, p. 89.



BOP (the Base of the Pyramid ピラミッドの土台もしくは最下部)に属するとされる人々の数は約40億人と言われています。世界人口は約70億人ですが,その6割近くの人々が,電気・水道・ガス・通信網といったインフラの殆ど全くない環境で,非常に貧しい暮らしをされています。一日に何度も川まで水汲みにいかなければ,食事も入浴もできない生活など,私たちには想像もつきません。

日本は大災害でも起こらない限り,停電は滅多に起こりません。これは世界的にみても,非常に稀なことだそうです。ピラミッドの頂点で暮らす人々が住む国々では,しかし,痛ましい事件が後を絶ちません。幼児・女性虐待,学校でのいじめ,無差別殺人,セルフ・二グレクトによる孤独死など,都会だけをみても,人々の暮らしが本当に豊かとはいえない現実があります。

さまざまな意味で恵まれない人々,困難を抱えた人々に直接手を差し伸べたり,役立つことはそう容易いことではないかもしれません。福祉の専門家に任せるほうがいいのではないか,いや国が,地方自治体がもっと策を講ずるべきなのだ,と思われるかもしれません。ならば,せめて関心を持ちましょう。何もできなくても,そうした人々の存在を「知る」ことなら,今すぐにでもできます。

無関心は罪だからです。

9/24/2012

92 本来の姿

人間がその基本的霊的真理に則って生活すれば,地上で享受できるかぎりの生き甲斐ある豊かさを手にすることができます。反対にそれを無視した生活を送れば,その生活は内面に関する限り空虚で無意味なものとなります。魂,霊,それがあなたの永遠の所有物です。それがあなたの本来の実像であり,肉体を捨てたあとに残るのはそれだけです

 『シルバーバーチの霊訓 第二巻』(近藤千雄訳 潮文社) p. 53.



物質的に快適で豊かな生活を楽しむことをよしとする風潮がまだまだ強い日本ですが,2011年の大震災を機に,僅かながらも,従来の生き方に疑問を感じる人々がではじめているのではないでしょうか。まだまだとても少ないのですが,すべては1からはじまります。一人でも多くの人々が,「ほんとうのこと」を知って,本来あるべき生き方を目指すようになることが必要です。

9/10/2012

希望は自分の中に

宮崎駿監督アニメ映画『千と千尋の神隠し』のエンディング・テーマ曲,「いつも何度でも」(歌詞はこちら)。木村弓さんのハープの音色と歌声がひとつに溶け合い,静かな癒しの曲になっています。

歌詞には深いメッセージを見い出すことができるように感じます。映画とは切り離して意味を探ってみたいと思います。(オスカーを受賞した同映画にも,見方によってはさまざまなメッセージを読み解くことができますが,それは後日述べてみたいと思います。)

私たちはたくさんの夢を抱き,それらを叶えようと思って転生します。「胸のどこか奥」,つまり,私たちの最もひかり輝く部分でそう決めて,いまを生きています。その夢実現プロセスにおいて,多くのかなしみがあり,希望が「こなごなに砕かれ」てしまうことがあるかもしれません。それでも,つねに希望をもち続けることが大切です(「いつも心躍る夢を見たい」,「この両手は光を抱ける」,「同じくちびるでそっと歌おう」)。砕かれた鏡が「新しい景色」を映し出すように,挫折のように思える出来事にも,必ず希望の種は宿っているからです。

かなしい時,夢を見失いそうな時,私たちには「ゼロになるからだ」があることを思い出しましょう。そして,「静かな」気持ちでこころの声に耳を澄ませば,自然とエネルギーに充たされ,希望と智恵とは,外ではなく(「海の彼方にはもう探さない」)自分の中にあることに気がつくでしょう(「輝くものはいつも・・・私のなかにみつけられたから」)

数え切れないかなしみの向こうで会える「あなた」は,夢実現の如何に関わらず,夢に向かって邁進したその先で到達する境地であり,一層輝きを放つ自分の本質なのかもしれません。

89 最高の判事は理性

 「霊が言うことも霊媒を通して届けられるわけですから,必ずしも正しく伝えられているとはかぎりません。こちらから見ていると,誤り伝えられているのに,それが我々のせいにされていることがよくあります。
 一方,われわれも絶対に誤りを犯さない存在ではありませんから,間違ったことを言う可能性もあるわけです。私の言うことが絶対に間違っていないとは申しません,と何度も申し上げてきたことはご存知かと思います。
 いかなる霊媒を通して届けられたものでも,かならず理性による判断を通さないといけません。最高の判事は理性です。これも大霊からの授かりものです。道義心とあわせて使用すれば,進むべき正しい方角が示されます。」



トニー・オツセン編 近藤千雄訳 
『シルバーバーチの新たなる啓示―スピリチュアルな言葉が教える“生きる”ことの意味』 ハート出版 p.128. 




霊能者,ミディアムにわかるのはほんの断片的な情報でしかありません。霊界から情報やメッセージをある程度正確且つ純粋に受け取れていると仮定した場合でも,相談者の具体的な感情や実情まではわからないケースがとても多いと思います。ましてや,相談者の全貌などはわかろう筈もありません。

断片的な情報だけで,「あなたは××よ」と決め付けたものの言い方をする占い師,霊能者,ミディアムが後を絶ちません。明言・断言を求める相談者が少なくないこともまた事実です。が,そうやって第三者の人間性や人生について決め付けること自体がそもそも不可能であり,誤りであることを知りましょう。一事が万事,ということはありますが,一部で全体を推し量ることは必ずしも適切ではありません。

適切な霊感占い・リーディングは,目に見えない種類の情報を提供したり,本人が気づいていない点を指摘して,さまざまな気づきや困難を乗り越えるヒントを与えるという点で,非常に有効な手段といえます。しかし,ヘビーユーザーだった私の個人的な経験から言っても,利用の仕方次第では,利用者の思考力や洞察力を奪いかねない危険性も孕んでいます。いわゆる「依存(症)」に陥らないよう注意が必要です。最も頼れるものは,自分(の内なる叡智)以外にない,と理解するようになることが最終目標です。

優秀な霊能者に相談してあらゆる問題が解決するなら,こんなラクなことはありませんが,残念ながら人生は自ら試行錯誤しながら進んでいかなければならないもののようです。

8/08/2012

愛は信頼

愛と心配を同一視する人々は多い。例えば,親が子どもを心配するのは子どもを愛しているから,という。心配は愛の証し,というわけだ。しかし,心配の念はネガティブで重い。子どもが学校でいじめをしているという報告を学校から受け,心配しすぎていた母親が,心配するのを意図的に止めたら,子どももいじめをやめるようになった,という実例もあるほど(越智啓子氏の最初の著書をご参照下さい)。人のすべての想いは,目に見えぬエネルギーとして瞬時に相手に届き,何らかの影響を及ぼす。ならば,受け取った人が元気で前向きになれる,そんな明るく暖かい愛の想いを送りたい。 愛は信頼である。

信頼の源はひとつ。それは,「自分」である。つまり,自分を信頼している人(「自信のある」人)は,ひとも信頼できる,ということ。人に対して何かとネガティブな思いを抱きやすい人は,自分に対しても否定的な傾向があるだろう。このことについて,間接的にだが,改めて考えさせられる出来事があった。


* * *

先月下旬にリーディングを受けた。私が以前,瞑想やサイコメトリーなどのエネルギー・ワークを中心とした訓練を受けていた時に出会った方(以下Dさんと呼ぶ)にである。メッセージは納得のいくものだった。ここ数ヶ月間,何となく感じていたこと,夢や気になる曲を通じて漠然と心に掛かっていたことについて,進むべき方向性を明確な形で示された。今回のリーディングは,しかし,私への個人的なアドバイスに留まらず,我々の双方にとっても意味のある出来事らしかった。

Dさんと出会ったのは約2年前だが,数ヶ月間,隔週ペースでクラスで顔を合わせるだけの間柄だった。一度,ペアでリーディングの練習をした時,当時抱えていた大きな悩み(で,まだ結果は出ないが,私はその答えを知っているはずの問題)に,短いが非常に端的なメッセージを伝えてもらったことがあった。そうしたメッセージは,こちらが全く予想もしないタイミングでもたらされることが多いが,それが非常に印象深かった。Dさんの実力を実感する機会は他にもあり,また,認定試験には昨年合格されていた。とはいえ,初めから彼のリーディングを受けようとしたわけではない。イギリス式のシッティングに近いリーディング(一方的にメッセージを受け取るタイプの)を希望していたが,以前の記事(夢は知らせる3)で記した経緯で,通っていたスクールを自ら去っていた為,そこに申し込むつもりはなかった。ネットサーフしているうちに,Dさんのブログを見つけた。しかし,彼は,私が去った当時すでに内部関係者だったこともあり,予約を受け付けて貰えるかどうか不安があった。思い切って問い合わせてみたら,すぐに快諾いただき,その5日後にお会いすることになった。

リーディングの後で,少しだが話す時間があった。彼とまともに会話したのはその時が始めてだったが,この時の会話は大変興味深かった。まず,Dさんについて新たな発見があった。さらに,事務所の男性(は受講生でもあった)が,つい最近まで,私のことを非常に気に掛けておられたことも知った。スクールを辞めるきっかけとなった出来事は,その最終局面で,この男性を介して展開した部分もあり,彼は,当事者である私ともう一人の女性以外で,間接的ながらも関わりを持った唯一の存在だった。ずっと,きっと彼は彼女の肩を持つだろう,いや,私に対してはむしろ批判的かもしれない,と何となく思っていた。というのも,私は必要最低限の時間しかその場所では過ごさないようにしており,クラス外で言葉を交わす人すらいなかったからだ。リーディングの練習の妨げになるという理由から,受講者同士の親しい交流は避けるようにという指示があり,この,個人的には大変好都合な規則を遵守していた。一方,彼女は,他のクラスにも積極的に参加するなど熱心で,スクールで比較的長い時間を費やしていた。事務所の男性とも親しそうだった。昨年9月に,講師(兼責任者)から,大変なことになりましたね(スピリチュアルなことをやっているにもかかわらず),という私に対して批判的なコメントも貰っていた(その直後,彼女にどのような対応をされたかは知らなかったし,彼自身にも責任がないとは決して言えないはずなのだが)。とはいえ,去るべき時期が来て去ったと納得していたし,「今後は余計なストレスと出費が減る」くらいの気持ちでいた私は,その件について考えることも思い出すこともなかった。Dさんは何度も安心した表情で,「元気そうでよかった!」と言われた。最低でも3回くらいは聞いたような気がする。通っていた当時より遥かに元気そうだと言われて,少し複雑な心境だった。また,少なくとも昨年夏の出来事に関して,私に共感できるといった趣旨のことばも聞いて,なるほど,それでリーディングを引き受けて下さったのか,と思った。

繰り返しになるが,私にとって問題の一件は既に過去の出来事だった(もう一人の女性に対しては”指導”で,私にとっては場所を変わるべき区切り,というのが本当のところらしいが)。詳しい経緯もかなり忘れている。しかし,Dさんにリーディングを受けたことで,そこに所属している人々の中には,批判的どころか,私を気遣って下さっている人がいたと知ることができた。また,Dさんの安堵ぶりを思い返すと,おそらく彼(と,彼にかなり心配させたらしい事務室の男性)にとっても,心の重荷を下ろす機会になったのかもしれない。二人は,私がそこを離れたことに関して,団体側に多少なりとも疑念や失意の念を抱いていたのではないか。スピリチュアリズムを標榜している団体が人を潰すような真似をしていいのか,と。しかし,彼らの立場上,もちろん意見することもできず,現実を受け入れるより他になす術がないわけで,その意味では無力であり,いくばくかの罪悪感を感じていたのかもしれない,と。

私の身を案じていてくださったらしいことは,大きな驚きであったし,ありがたいことだと感じた。これまでの十余年間,好奇心(関心ではなく)を向ける人々はいたが,私を本当に気遣ったり,心配してくれる人間などただの一人もいない,と感じてきたから。

私をよく知らない人々,そして,その場所以外には霊能を伸ばす術がないと信じている人々からすれば,そこを離れてしまうことは,即ち将来への道が閉ざされる・絶たれる,と結論づけられるだろう。その発想は容易に想像がつくし,あながち咎められるものではない。が,同時に,非常に悲観的でネガティブな見方ともいえる。突き詰めれば,厳しいようだが,スピリチュアルな教えとは多くの点で相容れない見方だと思う。意外に知られていないこととして,霊能者やミディアムなど,広く意識的に霊能を用いることが必要な仕事に従事する人はあらかじめ決まっている,という真実がある。霊媒になることを決めて転生してくる。ということは,本人の(表層意識の)意思や好き嫌いとは無関係に,(大抵の場合)なる人はなるし,ならない人はならない(なりたいと望んでもなれない)。だから,もし誰かがある師の元を去ったとしても,その人が霊能者もしくはミディアムになることが予め決まっているなら,必ず導きがあってなるようになる。一見,上手くいっていないように見えたとしても,本人も周りも徒に焦ったり心配する必要はないし,心配すべきではない。心配というネガティブなエネルギーは,下手をすると足を引っ張りかねないから特に慎むべきだ。さらに,誰にも複数のスピリット・ガイドがついていて,守り,導いている,ということを思い出したい。彼らの視野は私たち人間より遥かに広く,愛は深い。私たちのことを誰よりもよくわかっている彼らのサポートがある限り,基本的には,私たちに必要な出来事だけが起こり,学びのチャンスが与えられる。

学生時代,今回と重なるような状況を経験していたことを思い出した。学生の身分だった時間が長かったせいもあり,自慢じゃないが,放校・退学と主席で入学・卒業以外は全て経験した。今回のリーディングで思い出したのは,2回同じ学校を受験して不合格になった時のこと。1回目の成績を聞いて,挽回の余地があると感じた私は,再チャレンジすべく準備した。しかし,さすがに2回目も不合格だった時は,その学校には留まる必要がないとわかった。そして,その2年という時間も,その後の(留学を中心とした)出来事が起こるべきタイミングで起こるために必要な時間調整だったと悟った。が,そう深く理解するまでは,できれば人に知られたくない出来事だったし,周囲もそのように見ていたことに傷ついた。合格発表のあと間もなく,今にして思えばよせばいいものを,何の用事か忘れたが,わざわざ母校に出向いた。図書館の前で私に気づいた2名の仲間はどちらも合格者だったが,次の瞬間,見てはいけないものでも見たように,さっと視線をそらした。そのあと会った指導教授も一瞬私を見て見ぬふりをした。(この先生とは,その後もご縁があり,折々に必要な指導を受けることになった。今となっては,数少ない,本当の意味で敬愛できる方の一人である。)幸い,滑り止めというのではないが,他の学校も受験して合格しており,そちらへいくことにしたが,そこは“世間的に”みると,不合格になった学校よりランクが下がる場所だった。「上の学校に行くならともかく」と,母も最初は不満を漏らした。しかし,専攻分野や様々なことを考慮すると,私にはそこへ行くのがベストな選択だと思えたし,それを裏付ける夢も,しばらくして経ってからだが,見た。だから,というべきか,当時は彼らの反応がとてつもなく冷たいものに感じられ,静かに傷ついた。「失敗者」と見られている,と感じた。私が彼らの立場だったら,あぁ残念だったな,という気持ちから同じように反応していたかもしれないし,別段咎められる態度ではないかもしれないが。

2011年夏の一件にしても,不合格時の仲間の態度にしても,その背後には「無知」が潜んでいる。進学先も就職先も決まっている。なぜなら,そこで出会わなければならない人々がいるから。いつどこで会うか,ということは予め決まっているので,出会うべきタイミングで出会うために,ストレートで合格したりしなかったりする。もちろん,それ以外の学びもあろう。

* * *

一見したところ,失敗や不幸な出来事に見えることも,当事者にとって必要な出来事であり,何らかの意味があり,次の段階に移るのに必要なプロセスであったりする。見えがかりにとらわれて,不幸や失敗と否定的に決めつけ,落胆したり心配しすぎるのは,突き詰めれば,無知と自分への信頼の欠如から来る反応ではないか。もし,上手くいってないように見える人が周りにいたら,心配の念を送るのではなく,“万事上手く進みますように” という祈りと,“本人にとって最善の出来事でありますように” という信頼と希望の念を送りたい。それこそほんとうに愛のある態度だと思うから。


8/07/2012

24 心配は毒

思い煩ってはなりません.心配の念はせっかくの援助の通路を塞いでしまいます. 私はいつも取り越し苦労はおやめなさいと申し上げております. 心配の念は有毒です.悪気を生み出し,それがあたりを取り囲みます. 陰湿な雰囲気で包まれてしまいます. その状態になると霊の力も突き通せなくなります.  

 『シルバーバーチの霊訓  第9巻』 p. 65.



インスピレーションは,予期せぬ時に湧くことが多いです.リラックスした状態の時にひらめきやすいのは,私たちの恐れや不安など否定的な想いが強いと,ガイド達が助けたくても,働きかけにくくなってしまうからです。

"Never trouble trouble until trouble troubles you." ― 「取り越し苦労はするな」という意味です.

7/18/2012

ほんとうの「仕事の流儀」とは

某放送局で放映中の『○○フェッショナル』をたまに観る。似たような番組に,他局で放映中の『●●モン流』がある。いずれも,各業界の第一線で活躍する成功者に密着取材し,その華々しい仕事ぶりや充実した私生活と共に,舞台裏での努力や苦労も併せて紹介し,成功の秘訣を探っている。正の要素と負の要素の両方があるから視聴率が取れるのかもしれないが,番組の一環した基調は,やはり“サクセス・ストーリー”だろうと思う。ドキュメンタリー番組ではない。取材される人々が赤裸々に描かれ,その全貌が明かされる,ということはあり得ない。あくまでも,働く姿を,いくつかのアングルから美しく切り取ったものにすぎない。プライバシーの問題もあろうし,番組を通じて伝えられるイメージが,彼らの仕事に少なからず影響する可能性なども考慮すれば,それも致し方ないことかもしれないが。

もちろん,成功の陰にあった過去の数々の苦労や日々のたゆまぬ努力,仕事に取り組む真摯な姿勢に心打たれ,勇気を得ることもあるが,いささか斜に構えて眺めてしまうことも少なくない。番組制作側の意図がどの辺りにあるのか私には図りかねるものの,視聴者はこの番組から何に気づき,何を学ぶだろうか,と疑問に思う。何がしかの不満や悩み・苦しみといった負の想いを誰もが抱え,だからこそ,他人の不幸せや失敗に安堵し,ほくそ笑む人が多いこの現世にあって,仕事で華々しい成功を収め,充実した人生を体現している(ように見える)同時代人を紹介することが,観る人々にとってどんなプラスとなり得るのか。取材され,番組で取り上げられる人々にとっての,いわば“ご褒美的”番組になっているような気がしないでもない。

スピリチュアルな観点からいえば,いくつかの過去生に亘って経験と研鑽を積んできたことは得意である。よく,「すじがいい」とか「才能がある」などと言うが,それは過去生での経験の積み重ね,努力の集積の結果といえる。だから,仮に,いま達人でなくても,誰もがそれぞれの得意分野で前向きな気持ちと努力を怠らない限り,やがては「達人」になりうる,“達人予備軍” であり,“プロフェッショナルの卵” といえる。やがて訪れるであろう未来の自分の姿を重ね合わせ,予習気分で観る分には,夢があって楽しいだろう。成功イメージを潜在意識にしっかりインプットし,植えつけるイメージトレーニング的な効果があるかもしれない。

とはいえ,人生における「成功」とは,いわゆる同番組で映し出されるようなものとは限らないはずだ。その道のプロであることは無価値ではもちろんないが,世間が思うほど,番組が謳い上げるほど,素晴らしいとも思わない。勤勉,ハード・ワークは,間違いなく評価に値する。しかし,どのような仕事に従事しようとも,最も肝心なことは,「他者の利益のためにどれだけ無私の想いで尽くせるか」,それだけだと思うから,「プロフェッショナルね・・・・・・」とつい冷めた目で観てしまう。ひがみと言われてしまえばそれまでなのだが。

英国留学を機に,私は大きな試練を経験することとなった。自分の置かれた状況がそうさせたのか,ある時期から,教育テレビの『福祉ネットワーク』という番組を,時々だが,観るようになった。そんなことでもなければ絶対観なかっただろう。世の中には,想像もつかない困難や経験を生きている人々が少なくないことを知った。例えば,祖国を追われて日本に来たものの,難民として受け入れて貰えず,かといって帰る国もない無国籍のアジアの人々。拒食症に長年苦しむ若い女性たちや幼児虐待の果てに施設で暮らす,心に深い傷を持つ子ども達。悩み・苦しみから,自殺を図るも,未遂で救急搬送される人々。経済的困窮に負いこまれ,生活保護について何も知らず,本気で自殺を考える中高年世代。あるいは,身体的なハンディキャップをものともせず,経済的自立を目指して仕事をし,また,アスリートとしてスポーツ競技に打ち込む人達。そして,そんな彼らに向き合い,心寄り添い,日々全力で支える無名の多くの人びと。普段の生活では決して知りえない人々の存在を,間接的にも知る絶好の機会である。気づきや励ましを得ることが圧倒的に多いのは,前述の番組より,この『ネットワーク』であることは言うまでもない。

逆境の中で,試行錯誤を繰り返し,つまづきながらも,ひたすら前進する人びとの姿は,われわれに多くの教訓を与える。いわわゆる「健常者」の側が,様々なハンディキャップを背負った人々から教わることの方が,その逆よりも圧倒的に多い。また,彼らをサポートするという行為を通じて,大勢の人々が間接・直接に結びついていく。

この世的な成功が悪いわけではない。そうした人々の存在は社会にとって欠かせない。成功を夢見る気持ちは,ひいては自己の成長へとつながり得る。しかし,社会から賞賛や名声を得ることと同じくらい,いや,もしかするとそれ以上に,追求する価値のあること,深い喜びを見い出せることがあるかもしれない。自分にとってそれは何なのか,心静かに内なる声に耳を傾けてみたい


タイミングと決意が肝心

小田和正さん作詞・作曲の『風と君を待つだけ』。

久しぶりに聴いて,メッセージ性のある曲だと感じました。

『遠景』と重なるメッセージ(夢をあきらめない)もありますが,さらに一歩前進するように,その機が熟しつつあることを伝えているようにも感じられます。

白い帆船の出航準備は整っています。あとは,「強い風」と「君」,つまり,その時期・タイミング(スピリット・ワールドからの後押しも含め)とあなたの(私たちの)踏み出そうとする意志・決意さえあれば,大海へと漕ぎ出せる段階まですでに来ています。

ですから,怯むべきではありませんし,心を閉ざしてもいけません。徒に焦ることなく,好機が到来したら,行動あるのみです。





夢をあきらめないで

遠 景

作詞・作曲,唄: 中村隆道 編曲: 西本 明

つまらぬ悲しみに足をとられて
やけになってしまうよりも
転んで起きたときのあの光景は
いつか強さに変わるはず
豊かな時代に響く笑い声
時々寂しくなるけど
目の前の現実に 背を向けないで
首を傾げるだけでいい

忘れるなよ 決して 君だけじゃないさ
本当の自分を隠して もがいているのは

左手を上げて 右手をあげて
「参りました」と空を仰いだら
報われなくても ほめられなくても
何かをつかむまで あきらめるな

あんなに愛したあの人も今は
どこかで誰かの夢になる
悲しみが肩をたたいて喜びが振り返る
見えぬ春風はやがて吹くさ
今は遠くて追いつけないけれど
いつか辿りつく景色に
ひとにぎりの友達と一人だけの君が
そばにいてくれるだけでいい

忘れるなよ いつも どこかで誰かが
言い出せない君を信じて 見つめてるのを

左手を上げて 右手をあげて
「参りました」と空を仰いだら
報われなくても ほめられなくて
何かをつかむまで あきらめるな

左手を上げて 右手をあげて
「参りました」と空を仰いだら
報われなくても ほめられなくても
何かをつかむまで あきらめるな

何かをつかむまで あきらめるな



1990年代半ばにリリースされたシングルCDの曲で,中村隆道さんのデビュー曲です。(当時,少しだけ面識があった方です。)

作詞者本人へのメッセージにもなっていると感じますが,誰が聞いてもなにか感じるものがあるでしょう。 

夢に向かって進む道程で,いかなる困難に出会おうとも,苦しいのは自分だけじゃない。苦労は自分を強くし,自分の肥やしになる。だから決して降参してはいけない。諦めずに歩み続けていけば,必ず苦労は報われ,実を結ぶ,というのが一貫したメッセージのようです。「遠景」は「夢」と受け取ることもできます。

サビの部分の歌詞(「参りました」と空を仰いだら)は,「天に委ねる」(自力で何とかしようと悪あがきするというより),とも解釈できます。天に委ねつつも,諦めず前進し続ける,ということかもしれません。なぜなら,「いつも どこかで誰かが・・・君を信じて 見つめてる」,つまり,私たちのスピリット・ガイドが必ずや見守り,導いているのですから。

歌い出だしの部分(「・・・転んでおきたときのあの光景は いつか強さに変わるはず」)や1回目のリフレインの後の,「悲しみが肩をたたいて 喜びが振り返る 見えぬ春風はやがて吹くさ 今は遠くて追いつけないけれど いつか辿りつく景色」が示すように,困難や苦労は自分のかけがえのない糧となり,いつか必ず何らかの形で報われます。

7/09/2012

21 人生はプランに従う

閉め切られたドアを忙しく叩いてはいけません.自然に開くのを待つのです. 宇宙全体だけでなく一人一人の人間にも,きちんとした計画があります. そのプランが実行に移されていくのです. ・・・私たちはそのプランのもとに,私たちのやり方で私たちのタイミングで事を運ぶしかないのです.人間側の都合に合わせるわけにはいかないのです
 
その理由の一つは,
人間には自分にとってどうなるのが一ばん良いかが判断できないからです.物質的に,精神的に,そして霊的にあなたに何が一ばん望ましいかを判断するには,私たちの方が有利な立場にあります.
 待つのです.きっとドアは開かれます.
 
 

『シルバーバーチの霊訓  第10巻』  p. 172.



人生では思ったように物事が進まないことがあります.それがたまに起こるなら何とか対処できても,そういう状態が長期に及ぶのはとても辛いもの.自分自身の努力で解決が図れる問題ならともかく,相手があることや,とりあえず為す術がない,現状維持に甘んじなければならない場合は特に大変です.例えば,就職先が決まらない,恋愛や結婚の話が進まない,職場や家庭内のトラブル,などは本当に消耗します.

多くの問題は,自分の心の持ち方や考え方,行動を変えることによって,何らかの変化が見られるでしょう.しかし,自分の言動を変えても何をどうやっても状況が変わらない場合には,問題の受け止め方を変えるしかありません.大きく分けて,2つのアプローチがあります: 1)願望を変えるか,諦める(軌道修正); 2)今は結果が出る時期ではない,と受け止めて,一切の抵抗を辞め,できることをしながら時を待つ(「人事を尽くして天命を待つ」,つまり一種の諦念と辛抱)です.

宿命(意志力で変えられない部分)と運命(自分次第の部分)は違う,人間は霊界の操り人形ではない,自由意志こそが大切,とよく言われますが,個人的には,宿命の占める割合のほうが運命よりも大きいのではないか,と感じることが多いです。自由意志発動の範囲も,負うべきカルマによって,ある程度制約を受けています。

ですが,基本的には,前向きな気持ちさえ忘れなければ,そして,日々努力している人であれば,霊的な世界を信じようと信じまいと,必ずなるようになります.

いかなるときも自分自身を信じることが大切です. 

6/11/2012

無関心は残酷 −見えない相手も思いやる気持ちを

顔が見えないコミュニケーションは難しい。例えば,電話での会話,オンラインでのチャット,メールのみでの付き合い,一部のSNS経由での遣り取りなどがそれにあたる。家族,友人,知人との顔が見えるコミュニケーションでさえ充分難しいのに,面識の全くない人々との遣り取りともなればなおさらだ。言葉とは本来曖昧なもので,意志伝達手段として完璧とはいえない。社会言語学でよく言われるのは,言葉による情報量よりも,顔の表情やしぐさ(ジェスチャー)といったノン・バーバルコミュニケーションによる情報伝達量の方が多い,ということ。これに対しては否定的な見解もあるのだが,例えば,「ありがとう」という言葉も,優しい笑顔で言われれば感謝の表現だが,こわばった表情では,困惑と受け取られかねないことを考えれば,あながち否定できないだろうと思う。

もう少し堅苦しい話にお付き合いいただければ,よりよいコミュニケーションのためには,相手がどんな人かを適切に知ることが不可欠だ。「どんな人か」には,その人が「どんな人だと思われたいか」ということも含まれる。そのいわば“共有してほしい自己イメージ” (専門的には "face" = 体面 と呼ばれることもある) は,必ずしも自分の真の姿と一致しないことも多いし,一致する必要はない。自己評価が高い人や,逆に低い人など様々な人がいる。自分を正しく知ることは意外に難しい。が,いずれにせよ,相手の face を正しく把握し,こちらの face もちゃんとわかってもらえないと,互いに話が噛み合わない,ということも充分に起こりうるわけだ。日本語でも,「顔を潰す」「顔を立てる」「面子が丸つぶれ」といった表現があるが,自己イメージを否定されて不快だったり,逆に,尊重してもらえたことを言い表している。もの言わぬ壁に向かって話すなら別だが,人間同士が関わる限り,"faceless" なコミュニケーションは存在しない。このように,理論的にみても,面識のない人と,文字通り「顔が見えない」状況下で行う会話は,少なくともどちらかが不愉快な思いをせずに成立する確率は非常に低い,と言える。

確かにその通りなのだろう。でも,人間にはだれにも「見えないものを感じとる力」や「想像する力」,即ち「インスピレーション」が備わっている。そのひとつの顕れが芸術だ。われわれは美しい音楽を聞いてこころ癒され,演劇を見て涙し,感動する。この生まれつき備わった能力を駆使すれば,「顔がなくなりがちな」コミュニケーションになるという,高い壁を少しだけ低くすることは決して不可能ではない。そんなことを考えさせられる出来事がいろいろある。

最近気になるのは,相手の状況や気持ちを気にかけることも想像することもなく,ほぼ一方的に話してくる人々の存在。どういうわけか,私は「話しやすい,いい人」で,文句も言わずに,まるで母のように「自分を受け入れて,話をやさしく聞いてくれる人」という位置づけらしい。だから,平気で(プチ)自慢したり,普通であれば,かなり親しくならなければ話さないような話題もぽろっと話す。例えば,過去には,こちらがお金を払ってかけた電話相談で(1分刻みで料金が発生する),鑑定士の愚痴やら身の上話に付き合ったことも少なくない。相談者の私が相談にのってもらえるはずの占い師の相談に乗るという立場が逆転した状態だ。その一方で,彼らが,妙に上から目線でモノを言うことが度重なったため,耐えかねて会社に意見したことも。また,オンラインで交流のある人々の中にも,自慢話をしに私のところへわざわざやってくる暇な人々がいる。それでいて,話を聞いてくれてありがとう,というのではない。そもそも,面識のない相手には関心がない。だから,感謝もない。いや,なにも感謝されたいのではない。彼女らの無関心さ,思いやりの欠如,もっと言えばその無思慮と自己中心性が悲しいのだ。私としては,ひとに好かれたくていい人を演じているつもりはなく,自分が理想とするモラルにできるだけ沿う形で行動しようと努めているだけだ。自分の感情を最優先したり,やたらと自慢話をしたり,ひけらかしたり,一方的に甘える,といったことをできるだけしないようにしている(つもり)のだが,その結果,不愉快な思いをするというのは,どう捉えたらよいのか。もちろん,私も,気づかないうちに誰かに嫌な思いをさせてきただろうし,させているに違いないのだが。

本当に満たされた人,即ち,幸せな人は,誰かのために役立ちたい,ひとの幸せのために働きたい,と思うものだ。彼ら・彼女らの言動から察するに,そこまで満たされているわけでもなさそうだ。物心共に「ほどほどに」満たされて,且つ,本当の苦しみ・痛みを知らない人々は,どちらかといえば残酷とも思える言動を平気で取るかもしれない,と感じる。いまのその一言が,相手を不快にしたり,傷つけているかもしれない,といったことはみじんも考えないで。

ここに「甘え」を見て取ることもできる。「自分の話に同調してくれて当然」,「自分をわかってくれて,楽しい気持ちにさせてくれて当たり前」という甘えだ。冷たいようだが,私には面識も無い彼女らの話を聞く「義務」など全くないし,仮に,話に付き合ったとしても,彼らの感情を優先したり,理解しようとする努力を払う必要もない。ある人は,短いやり取りの後で,「愚痴を言ってすみません」と述べた。この人などは,まだわきまえている部類だ。それどころか,人の好意に乗じて,さらなる手柄話をひけらかすひとの方が数の上で圧倒的に優るから油断も隙もない。
「腹八部」というが,ある人々は,人付き合いは「腹六部」,と言う。相手がどれほど親しかろうと―家族であろうが,親しい友人であろうが―自分の思いをすべてさらけ出すのではなく,画すべき一線は画し,自分の腹におさめるべきはおさめ,相手を思いやり,尊重して対するべき,ということだろう。自分の思いを相手構わず無思慮に丸投げするのは,子どものすることだ。 

痛みを知らない人に,痛みを知る人々と同じ感性を求めるのは無謀だし,過大な要求かもしれない。そして,なにより言葉に依存するコミュニケーションには限界がある。とくに顔が見えない会話は難しい。だからこそ,私たちは注意しなければならない。せめて次の点だけでも心に留めたい。まず,距離を取ること。人とのこころのスペースを普段より多めにとろう。そして,もう少しだけ相手のことを考えて,コミュニケーションをとることを意識しよう。その人はいまどんな暮らしをしているのか,どんな思いでいるだろうか,自分のことばをどのように受け止めるだろうか,といったことに少しだけ(詮索ではなく)思いを馳せてもらいたい。人の数だけ人生があり,考え方・感じ方があり,相手はあなたと同じ人間ではないのだから。

5/04/2012

Loneliness as a period of growth and healing 淋しさは成長と癒しのために

"One of the most surprising things about the readings given for people who were lonely and were looking for friends, companionship, or a marriage partner is that Cayce never told them where to find a relationship.  Instead, the focus of the information was that there was something individuals were supposed to be doing with their time alone.  Oftentimes, the readings saw loneliness as a period needing to encompass both personal growth and healing as well as a time of reaching out to others who were less fortunate.  Individuals who were suffering from all kinds of lineliness were freuqnetly told to begin discovering their unique soul talents and abilities and to find ways in which they could be helpful to others.  Cayce believed that once individuals put their efforts in these directions, relationships would inevitably be drawn to them."

孤独で,友人や結婚相手を探している人々へのリーディングに関して,最も驚くべきことのひとつは,ケイシーがどこに相手を探しにいけばよいか決して言わなかったことだ。代わりに,情報は,各自がひとりの時になすべきことがあることに焦点を合わせた。往々にして,リーディングは,孤独を,自分よりも恵まれない人々に手を差し伸べる時期であると同様,個人的な成長および癒しを達成する時期とみていた。どのような孤独感であれ,淋しい人々は頻繁に,各自に備わった才能や能力を発見し,他の人々を助ける方法を見つけるように言われた。ケイシーは,一旦各自がそうした方向性で努力すれば,必ずパートナーを引き寄せることになるだろうと信じていた。

Kevin Todeschi (1999). Edgar Cayce on Soul Mates: Unlocking the Dynamics of Soul Attraction. pp. 132-133.



困難への対処法(4-2)-孤独なとき

前回の記事では,孤独感への応急措置的対応として,早めの就床と規則正しい生活を提案しました。その後,もう少し前向きな提案はできないものかと考えていたところ,少し興味深いブログに出会いました全ての記事に目を通してはいませんが,たとえばこの記事こちらこちらも参考になるかと思います。似たような感情を経験したことがあれば,共感できて少しは癒されるかもしれません。

これらの記事でも少し触れられていますが,できるだけスピリチュアルな観点から孤独感の軽減(解消ではない)に役立つポイントを2つ提案します。非常に単純なことですが:


1.人と交流する

 


2.自分が助けられる誰かを助ける(もしくは,すべき仕事や活動に専念する)



です。今回はまず,1の「人との交流」について述べてみたいと思います。これは,身近に家族や友人がいても理解されない,心が通わないと感じて孤独を感じるケースと,物理的に独りで,なお且つ孤独感を持っているケースのどちらにも有効でしょう。

但し,交流に際してはおさえるべきポイントがあります。まず,誰彼構わず交流するのではなく,ある程度慎重に相手を選ぶ必要がある,ということです。能天気に明るいタイプ,他者に批判的なタイプ,いわゆる強い性格の人や,自分と同じように何らかの辛さを抱え込んでいて余裕のない人々は避けるのが賢明でしょう。上辺の優しさではない情があって,他愛ない会話の楽しめる人,自らも苦労を乗り越えてきた人,包容力のあるタイプの人々は理想的ですが,自分の感覚で,この人なら安心できると思える人であれば大丈夫です。ご縁のある人々との出会いがあって,必ずわかります。よく,「家族がいてもいろいろあるし,誰にも悩みはあるから」ともっともらしい見解を述べて,軽く受け流す人がいます。「甘いわ」と言いたげな様子が垣間見えることも。全く見当違いというわけではありませんが,ほかの苦しみ同様,孤独は自ら経験しないとわからない痛みであって,「私には経験がないからわからない」というのが,最も誠実で適切な返答のはず。このように,人の苦境を想像しようとさえしない,もしくは理解できる素地のない人や,自分の問題で精一杯の人々は回避します。警戒心や恐怖心,不信感,不安感が刺激されそうな相手には極力近づかないことです。そして,悩みを聞いてもらう,というよりも,あくまでも対等な立場で,何気ない会話を楽しむことが肝心です。つまり,互いの生活や心の中に踏み込みすぎず,ある一定の距離―少し遠いと感じるくらいが適当―を保ちながらお付き合いすること。「交流」には“適度な距離感を保った付き合い”という含みがあります。相手を選び,一定の距離感を保つ―この2点に留意して,無理のない範囲で取り組むことが大切です。こうして上手に交流することには,癒しの効果があります

深い孤独感に悩む人々は,無関心の冷たさをよくわかっていると言えます。そして,程度の差こそあれ,心に傷を抱える人々でもあります。それは,理解されない寂しさ,認められない悔しさや悲しみ,低下した自己評価,自己否定や自己卑下の想い,先に希望が見出せない絶望感など様々で,これらのいくつかを経験しています。さらに,様々に渦巻く思いを心に閉じ込めたまま,自分の良さをも表現できないでいることがあります。従って,受容的な優しい人,自己表現しやすい相手,傷が刺激されない人々を選ぶことが大切です。自己否定感や無価値感,そばにいると淋しさを強めかねない人々との接触は避けます。「岩をめぐりて流れゆく」です。

相手さえ選べば,人との交流が癒しになるのは,交流を通じて人間の本質である,不可視のエネルギーを受け取ることができるからです。私たちの本来の状態は,肉体ではなく光のエネルギーで,たましいとか,ソウル(soul) などと呼ばれます。これは,「神性」と言い換えることもできます。神性とは,「愛」や「智恵」と呼ばれる,広範で抽象的な概念であり,エネルギーです。つまり,人間は誰もが愛と智恵でできている,とも言えます。ただ,地上を生きる上で必要な肉体を持つと,この本質の部分が弱まり,代わりに,生存(競争?)に必要な,防衛本能という名の「エゴ」(自分の福利厚生が最優先,という観念)が強くなります。そのため,地上では人間関係上の問題が起こりやすくなり,修行の場としてよく機能するともいえるのですが,癒しに有効なエネルギーを得られるのもまた,人を通じてです。淋しさを感じていたり,傷ついている時には,この本来持てるエネルギーが弱まっているので「プラスの想いやことばだけ」を上手に受け取ることができれば,私たちに本来必要なエネルギーを補給することができる,というわけです。

* * *

孤独感の軽減には,孤独を否定的に捉えすぎないことも非常に大切です。孤独感は,信頼できる人間関係の不在や,関係性がうまく機能していないことに由来することが多いでしょう。過去生にその原因を遡ることができるケースもあります。どのような原因であっても,人間が抱える悩みや問題に,人間関係が絡まないものは何ひとつないことを考えると,孤独もひとつの学びの機会であるといえます。だれの問題であっても,孤独は否定的に捉えられるべきではありません。

そして,孤独な時期には,人は自分と向き合うことを余儀なくされます。自分を見つめ,自分を知ることができます。自分の至らなさだけでなく,隠れた才能や美点にも気づくことができるチャンスです。と同時に,人間の心や人生について多くを学ぶチャンスでもあります。周囲の人々の言動を静かに観察・分析し,思い巡らせることは,日常生活に追われ,人間関係に恵まれ,人生が順調に進んでいるときには難しいことです。このように考えれば,孤独な時期は,内観と洞察を深める絶好の機会となり得るのです。孤独に伴う感情的な痛みを否定せずに認め,受け入れた上で,いましかできないこと,いまだからできることを探すことが,真に前向きな生き方といえます。

4/09/2012

スローガン「絆」

 震災後,私たちはみな,「絆を大切にしよう」という言葉をよく使うようになりました。絆とは素晴らしい言葉ですが,もし,最初から私たちが絆を持っていたら,これほどまでに声高に,絆,と言ったでしょうか?実は,もともと私たちに絆がなかったからこそ,スローガンのように掲げて,自らを鼓舞しているように思えます。
 テレビや雑誌などでは,震災以降,「絆の大切さを感じて結婚するカップルが増えた」と報じられていましたが,私はそうは感じていません。仮に本当に増えているのだとしても,それは「絆の大切さを感じて結婚した」というだけではなく,「何かあったときにひとりでいるのはさみしい」という気持ちがもとになっている人も多いのではないかとみています。しかし,もしそうした気持ちだけで結婚したのなら,それは打算があるのではないでしょうか。小我で決断したことなら,そこに本当の絆は結べませんから,お互いに「心を失う」ことになりかねません。

江原啓之 『予言』 講談社。 pp. 123-124.



絆がなかったからこそ,その必要性を痛感し始めた,とは共感できる内容です。震災のショックから,一時的に皆で助け合わなくちゃ!という意識が多くの人々に出ていましたが,根本的には以前とさほど変わりがないようです。例えば,かつて他の場所で大震災を経験した人々は当時を思い出したくない,まだ語れない,と言って会話の話題に上げようとしません。タブー扱いです。また,被災地から遠く離れて暮らす人々も,通り一遍の関心は示しますが,それだけ,という人が多い感じがします。

本物の「絆」は,にわかには築くことができません。

悩みが晴れないとき

 便利なモノをひとつでも手放せば,そこに時間ができます。そして,一日のうちにわずかでも,自分自身と静かに向き合う「内観」のときを持てるでしょう。四六時中誰かとつながって,話したり,メールをして気を紛らわせていても,実は「孤独」という人は多いと思います。悩みがいつまでも晴れないということもあるでしょう。それはある意味で当然です。自分自身と向き合い,そして自分のグループ・ソウルの叡智とつながる内観をしないから,根本的に解決できないのです。
 便利な「モノ」に依存して怠けず,もっと自分と向き合う時間をつくりましょう。そして,マニュアルに頼らず,想像力を養う訓練を日々のなかで積んでいきましょう。そうすればきっと,人生の迷いや悩みを自ら解決する糸口を見つけられるでしょう。

江原啓之 『予言』 講談社。 p. 174。

 (強調はブログ作成者のものです)


よく「 自分とつながる」と言いますが,それはこういうことです。スピリット・ガイドからインスピレーションを,多くの場合は間接的に,受け取りやすい状態が「つながっている」状態です。スピリット・ガイドというと,自分以外の存在と考えがちですが,別の存在というよりも,私たちの一部といえます。ここから内側は自分,外側はガイド,と線引きするのが非常に難しい(し,またその必要もない)存在です。

始終,外部からの刺激(視覚・聴覚を経て入ってくる)があると,必要なインスピレーションや助けを受け取りにくくなってしまいます。前頭葉を使いすぎている場合もよくありません。感情的に不安が強いときも同様です。

最も効果的なのは瞑想ですが,瞑想に抵抗がある場合は,テレビを観ない,ネットをしない,ラジオ・音楽(特に,歌詞があるもの)を聴かない状態を1日5分でも10分でも意図的に持ち,それを毎日継続していくのも良いと思います。椅子に座ったり,座禅を組む必要もありません。電車に乗っているときでも,入浴中でも構いません。また,個人で行うスポーツ(水泳やジョギング)にも,無になりやすい,という点で,瞑想と同じ効果が期待できるようです。ストレスの強い状態で,いろいろ考え事をして泳いでいたら溺れそうになった,という話はよく耳にします。(個人的には,思いがけないとき―入浴中や食卓についてぼうっとしているときが多い―にふっとひらめくことが多いです。)

ガイドが働きかけやすい常態-心が穏やかで何にもとらわれていない状態-にあることが肝心です。



近道が「ほんとうの近道」とは限らない

 しかし,人生というものは,いつもうまくいくとは限りません。そして,上手くいくことだけが必ずしも良いわけでもありません。幸せから遠い道を歩んでいると感じられることもあるかもしれませんが,たましいを磨くという視点で見れば,思いどおりにならない人生のほうがむしろ,より鍛えられるとも言えるのです。そう考えれば,幸せへの「近道」でないことが,実は「正しき道」と言えるのではないでしょうか。

江原啓之(2012) 『予言』 講談社。pp. 176-177.

(強調はブログ作成者によるものです)



何が本当によいことかを正しく見極める際,目に見える部分は手がかりにはならないということですね。 



4/08/2012

便利さを選択する

 「前へ,前へ」と進み続けた過程で,たくさんの「便利なモノ」が生まれました。そして,今度はいったん手にしたそれらのモノを手放せなくなってしまっているのです。たとえば,携帯電話を手放せないばかりか,今度はやれスマートフォンだなんだと,「もっと先へ」と進んでいこうとします。テレビも地デジになり,DVDもブルーレイになってきています。次から次へと新しいモノを目の前につるされ,まるで踊らされているようです。どれも,前のままではいけなかったのでしょうか。世間的な流れとして,物質的価値観に逆らえずにいることを,私自身はとても悔しく感じています。そもそも,みなの言う「便利なモノ」とは,人間の感性を鈍麻させる一面もあります。ただスピーディーであるという利便性のみを追求するのであれば,「便利なモノ」=「怠惰の産物」とも言えるのではないでしょうか。(中略)
 機械化によって,そこに人の温もりを感じられなくなってしまっています。そればかりか,「効率の悪いものは切り捨てる」という弱肉強食の世をつくりだしてしまいかねないでしょう。もし今後,何でもコンピューターやロボットが人の代わりに仕事をするようになったら,職を失う人がさらに増え,よほど能力のある人しか生き残れないような時代になってしまうのではないでしょうか。便利を求め,経済効率を優先していたら,ますます「格差社会」になるのでは?と危惧してしまいます。
 これからは,あえて「不便なもの」を残し,効率を追求することに歯止めをかけることも大切ではないでしょうか。この先どこまで科学の進歩を取り入れるのか―。 (中略)「便利なモノ」もどこまで発展させ,どこまで取り入れるのかをしっかりと見直していくことが急務ではないでしょうか。
 どんなモノも,それ自体が何か悪さをするわけではありません。お金と一緒で,それを使う人の「心」が問われるのです。これからは,「私は,この便利はいらない」というふうに,自分で取捨選択し,自律していくことが大切ではないでしょうか?

江原啓之(2012) 『予言』 講談社。 pp. 141-147。

(強調はブログ作成者によるものです)



過剰な効率追求も,物質至上主義の一側面かもしれません。

「馬鹿と刃物は使いよう」という諺が示すように,核にしても,インターネットにしても,それらに本質的な問題があるということではないでしょう。ラジウムを発見したキュリー夫妻も,自らの研究成果が,やがては戦争の兵器として,さらには,原発事故を通じて,多くの人々に苦しみを与えることになろうとは予想だにしなかったでしょう。すべては人類の未熟さゆえに生じた出来事で,何であっても賢く使えば便利でも,使い方を誤ると命取りになりかねません。そして,地上には,さまざまな道具をより正しく,より賢く使えない人間が圧倒的に多いということでしょう。

話は少し飛躍しますが,霊能も同じです。人格のあまり高くない人が振り回すと刃物となり,ひとを不用意に傷つけます。また,霊能者経由で得た情報を他者に対して濫用することも同様です。

万事に通じることだと思います。

豊かさを見直す

 終戦後のまったく食べ物のない状態からたかだか60年あまりでここまで豊かになった,そのスピード感たるやまさに超特急です。しかし,この変化で私たちはどこかで幸せを見失い,幸せ迷子になっているのではないでしょうか。さすがのアメリカでも,一般の家庭の日常食は質素なもので,日本ほどの贅沢をしている国はないと感じます。
 けれど,あなたは本当にいま,幸せを感じていますか?たとえば,仕事のつきあいで食べるご馳走より,家に帰ってから食べる一杯のお茶漬けのほうがホッとできるように,どんなに質素な食事でも,家族や友達など気のおけない相手と食べていれば,それだけで十分心が満たされると思いませんか?
 人は未熟さゆえに,ついついわかりやすい贅沢や物質的な豊かさに溺れてしまいます。しかし,それで得られるのは,刹那的な充足にすぎません。たとえお金をたくさん持っていなくても,1冊の本を読むなり美術館で絵画を観るなり,心を豊かにする方法はたくさんあります。モノやお金でしか幸せを得られない,というのは思い込みなのです。
 「足るを知る」というのは,とりもなおさず,本当の幸せを探すということ。人と比べず,自分自身の心が豊かに満たされる生き方をするということではないでしょうか。人は物質的に満たされすぎるとかえって喜びを感じづらくなります。「あって当たり前」と思うと,そこに感謝も生まれませんが,「ないのが当たり前」と思っていれば,謙虚になれるものなのです。

江原啓之(2012) 『予言』 講談社。 pp.116-117。

(強調はブログ作成者のものです)



失ってはじめてわかるものがあります。大震災がきっかけで,当たり前の有難さに気づいた人も多いと報じられています。

バブル崩壊後に私たちは気づくべきでした。しかし,まだ気づけなかったので,今回のような事態となりました。これでもまだ気づけなければ,次は何が起こるかわかりません。

気づいている人々には,その気づきを周囲へ伝える“責任”があります。

一人の目覚めは全体の目覚めにつながります。







3/23/2012

ベニシアさんの講演会

ハーブ研究家として一躍有名になったヴェニシア・スタンリー・スミス(Venetia Stanley-Smith)さん.彼女は,インド総督を務めた曽祖父を持つ英国貴族の出身だが,貴族社会に疑問を感じ,19歳でインドへ渡り,瞑想を学ばれた.その後,21歳のとき来日.2月末,NHKの朝の番組を見て,彼女の生き方に共感し,気づきや癒しを得た私は,東京で講演会が開催されることを知り,早速申し込んで出掛けてきた.番組では,日本の女性を助ける役割があると(誰かから)言われた,と話されていた(この部分から番組を見始めた為,誰かは不明なのです).最初,ベニシアさんは,英会話講師のことかと思われたようだが,実はそうではなかった.ハーブを取り入れた生活を自ら実践して示すことで自然の力や自然と共に暮らす大切さを伝え,さらには講演会を通じて,日本の女性たちに人生哲学を伝えることか,と思いながら観ていた.ハーブは自然の恵み.西洋医学の貢献も偉大だが,人間には自然治癒力が備わっており,ハーブなどの植物(漢方然り)はその力を引き出したり,助ける働きがある.庭仕事を始める前には瞑想をされることや,庭ではハーブと対話して,花を切るときは必ず「切ってもいいですか?」と尋ねる,といった話を聞いて魅かれるものがあった.

講演会の来場者は,とある韓流スターのファンとほぼ同年代の女性たちばかり.若い人の姿もちらほら見られたが,大半が中(高)年の女性だった.ベニシアさんのレギュラー番組を見ている方や本を読まれている方が多かったようだ.(私は本はまだ読んだことがない.)

今回は3年ぶりの東京講演会だったらしい.開場30分前に会場に着いたが,座席はすべて自由席ということで,すでに100人以上の人の列があった.彼女の人気の程をうかがわせる.幸運にも前から4列目で,ベニシアさんの姿がかなりはっきり見える座席を取ることができた.が,実は,会場に入る前,エレベーターでベニシアさんとご一緒していた.満員のエレベーターで,すぐ右斜め後ろに関係者の男性と並んで立っておられた.駅の改札を出てから道に迷い,予定より時間を費やしたために却ってタイミングが合って,あれほどの至近距離に居合わせられたのだと,帰宅後に思い返して驚いた.道に迷ったことも恵みだったようだ.私と目線が殆ど変わらないくらいで,英国人女性としてはごく平均的な身長の方だった.テレビは大きく映ることをあらためて実感.

ベニシアさんは,明るく,楽しくユーモアのある方で,たまに観たテレビ番組で受けた印象とは少し違っていた.いろいろなお話をされていたが,話の内容自体は,スピリチュアリズムや精神世界に馴染み深い人々にとっては特別目新しいものではなかったと思う.前半は来日までの経緯に終始した.人生は旅のようだと思う,その旅路で出会う人々との出会いから何を学んだか,といったことを中心に話は進んだ.後半では,なぜハーブを生活に取り入れるようになったか(大原には下水がないことなど)と,ハーブの効用について簡単なお話があった.スライドの映像があり,最初のところでは,イギリスの貴族の館や非常に広大な緑の庭の写真などもあって少し懐かしく感じた.が,一番印象深かったのは,講演会の締めくくりに話されたことば,「いまを生きる」(Live this moment).余命1週間と宣告されたときにしたいこと―自然と触れること,家族に優しくして,時間を共に過ごすなど―は,そのときまで待たなくても,いまだってできるはず,というお話だ.これは,ニュー・エイジでも言われており,スピリチュアリズムでも,たとえばシルバーバーチが伝えてきているメッセージと同じものだ.過去を振り返って思い煩ったり,まだ来ぬ未来を心配して不安になるのではなく,いまにフォーカスをあわせて生きる,という教えだ.さらに付け加えるならば,人生では全てがプロセス.目的地よりもそこに至るプロセスが大切,ということになろうか.ベニシアさんは,スピリチュアルな分野の方では全くないはずだが,東洋の宗教について様々な本を読まれていたり,またインド人の師から瞑想を教わって以来,40年間瞑想を続けておられることもあってか,彼女の言葉にはスピリチュアルな教えと合致するものが非常に多い.視えたり聞こえたり,というのではないかもしれないが,インスピレーションが強い方のようである.

ハーブのお話の後で,Q&Aセッションがあり,それまで舞台の右端でお話をされていたベニシアさんは,舞台の真ん中に移動してお答えになった.しばらくしてから,ほんの一瞬だが,彼女の向かって右上(つまり,本人の左上)に,ガイドらしき人物の姿がみえた(気がした).修道士のような,聖人のような,ベールを被った男性の横顔が,彼女を少し上から見下ろしている様子だった.オーラにはいろいろなものが映し出されるため,一概には言えないのだが,あれは彼女のガイドのお一人ではなかったか,と思うがどうか.
* * *

講演会の2日前には,The Iron Lady (邦題 『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』)を観た.三度目のオスカーを手にしたメリル・ストリープの演技は確かに素晴らしかったが,映画そのものは期待したほどではなかった.映画にしても,講演会にしても,なにか自分へのメッセージを含んでいるはず.映画についてはひとつ思い当たることがある.ベニシアさんのお話は総じて楽しく,笑える場面も多くて少し元気になった.講演会に出かけた意味が,「いまを生きる」以外にも何かあるとすれば,それは何だかまだわからない.

1/27/2012

夢からのメッセージ

"Goonies 'R' Good Enough" は,スピルバーグ監督の映画 『グーニーズ』(1985) のテーマ曲としてリリースされたシンディ・ローパーさんの曲だ.昨年の5月半ばにみた夢の最後の部分で,サビの部分('What's good enough for you is good enough for me. It's good enough, it's good enough for me')の歌詞とメロディーが,目覚めてからもしばらく頭のなかで鳴り響いていた.当時は,これが何を言わんとしているのかさっぱりわからなかったが,最近になってようやくその意味が判明した.ちなみに,スピルバーグ監督の映画は好きで,公開当時劇場で見たが,シンディー・ローパーさんのファンというわけではない.夢をみた週の初めに,あるラジオ番組で,ローパーさんは震災直後にも日本でのコンサートをキャンセルされなかったことや,とてもスピリチュアルな方であるという話を聞いていた.夢から覚めて真っ先に思い浮かんだのは,このラジオ番組の話だったが,なぜ「グーニーズ」なのか非常に不可解だった.

ところで,"enough"という単語は中学校で教わるが,その意味が日本人の学生には正しく理解されにくい表現のひとつである.英和辞典には,よく「十分な」という訳がついているが,正しくは「何かをするに足りる程度の」という意味で用いられることが多く,本来の目的には必ずしも「充分」ではない,という含みがある.例えば,I have enough money to buy a woolen sweater. と言えば,ウールのセーターを1枚買えるお金はあるが,例えば,高級なカシミアセーターを買えるほどの余裕はない,という意味合いになる.私がまずひっかかったのは,"good enough" であって,"very good"ではない点だった.さらに,「何が」 good なのかも不明だった.

メッセージがリーディングに関することだ,とひらめいたのは,つい最近のこと.私はミディアムになるべく,都内某所で昨年7月まで訓練を受けていた.英国には「ミディアム・ヒーラー養成機関」とでも呼ぶべき学校が数箇所あるのだが,私が通っていたのはそれと似たようなところだった.英国で訓練を受けたプロのミディアム/ヒーラーが中心となって指導・運営にあたっていた.しかし,夏のある出来事がきっかけで,私はそのスクールをみずから辞めることにした.夢で聞いた歌詞の 'good enough' は,これと関係があるらしいとわかった.'good enough' が意味するところは,'good enough to be independent' ではないか.スクールを離れて一人で続けていかれるだけの段階に達したのだ,と.

実は,スクールに通ううちに,様々な理由から辞めたいと思うようになっていた.講師や他の受講者と関わる中で(といっても,個人的な付き合いは全くなかったが)やり場のない怒りや悲しみを感じることが少しずつ増えていった.ただでさえ,苦しい時期が長く続き,自分の希望通りに物事が進むということは殆ど全く言っていいほどない状態にあり,更に新たな苦労が付け加わったという印象しかなかった.同時に,認定試験にパスするまでは辞められない,という思いもあった.辞めたいが辞められない,という葛藤を抱えながら通い続けた3年半の間には,相談業を生業とする人々(俗に「占い師」と呼ばれる)に相談することも多かった.資格取得を薦める意見もあったが,ひとりだけ,「資格を取らなくてもできるよ.あなたはそこには最後までいかない」と言う方がいた.この札幌の女性占い師は,霊視は殆ど利かないし,オーラも見えない人だったが,いわゆる「よく当たる占い師」で,彼女から言われたことで実現したことは少なくない.当時は疑う気持ちの方が強かったが,いま振り返ると,彼女の言った通りであったことがわかる.ほかの占い師・霊能者からは,リーディングの実践を積むように,とのアドバイスがあった.その時は力も自信もなく,実践の段階にはないと思っていたが,今まさに彼女らが指摘した通りの状況になっていることを考えれば,昨年の夏にスクールを辞めることも計画どおりだったのだと納得できる.

昨年9月,辞めるか否か決めかねて,霊媒のS氏に相談してみた.すると,このスクールに通い続けても上には上がれないこと,そこの男性講師(兼経営責任者)からは私が必要とする指導を受けられないこと,ひとりで続けることが必要,といった情報が伝えられた.決断を最も強く促したのは,この男性講師が,私との縁を切りたいが立場上自分からそう切り出すことができず,対応を決めかねている,という情報だった.実際,秋のクラスも継続するつもりで申し込んでいたが,夏に起こったある問題が原因で許可を待つように言われていた.この情報を得て,自ら去る決心がついた.ガイドからは「耐えなさい」というアドバイスもあり,やめるのがベストな選択だと思った.

これ以前に,2名のミディアム(うち1名は元講師・ミディアムだった)から,当該スクールに関する不評を聞いたことがあった.そこに通い続けていても力はつかない,というのだ.S氏や札幌の占い師なども「基礎を学ぶ場所」と言われていた.別々に与えられた一見ばらばらの情報が,パズルのピースのようにつながって現実と符合する.

* * *

話は少し逸れるが,私がリーディングを始めたのは2011年4月.インスピレーションに従って決めた.スクールの瞑想中にも,ガイドからリーディングの練習をするようにと言われていて,そのように講師に伝えていた.が,春のクラスが終わる7月半ばまで,講師から認められることはなかった.同スクールでは,講師は案内役にすぎないとし,各自が,各自のスピリット・ガイドとつながり,ガイドの指導に従って行動できるようになることを目標として掲げているにも関わらず.3,4年前,スクールに在籍していたある女性ミディアム(『奇蹟を呼ぶ十人』でも紹介されている方)に受けたリーディングでは,私が自分を表現しないことによって「損をしている」ので,「もっと自分を表現しなさい」という趣旨のメッセージを得ていた.その時は何のことかよくわからなかった.「損」をしている,などというのは怪しい,と思った.なぜなら,物質世界に生きない彼らは,「損得」といった人間臭いことを言うはずがないから.クラスのことを言っていたらしい,とわかったのは,またしてもしばらく経ってからである.何かを感じても自信なさそうな様子でいたり,きちんと発言しなかったために,講師から正当な評価を受けられないでいたようだ.それによって,下手をすれば霊界の計画も狂いかねなかったため,つまり,私がいつごろ,どのような形で霊能を開花させるか,といったことは予めほぼ決まっていて,その通りに進まないと霊界サイドの全体的な計画も狂いかねないために,そうした表現で伝えてきたのかもしれない.

ひとりの人間の人生から,さらに大きな地球規模の出来事に至るまで,多くの事象は計画に従って起こったり,起こらないでいる.ものごとには時機があり,出来事はベスト・タイミングで起こる.中でも,全体に大きく影響を及ぼす出来事は必ずや遂行されることになっており,そうでないものに関しては本人次第というところがあるようだ.全体に関わる出来事を無事遂行させるために,その障害や妨害の芽は必ず摘み取られる.彼らは,要所要所でわれわれに危険信号を送り,警報を発令して知らせようとするが,それは私たちには,往々にして,ショックな出来事とか,想定外の事態といった形で経験される.将来,ミディアムとして,また,スピリチュアリズムに立脚した何らかの社会的活動をするらしい.国境・人種の垣根を越えて人々の役に立つことを,今回の人生では決めてきたようである.

* * *

スピリット・ガイドは,私たちに理解できるように,最もふさわしい形や手段を選んでメッセージを送ってくる.それは夢であったり,誰かの口から出た言葉や,ふと目にした文字や絵であったり,非常に多岐にわたる.たとえすぐにはわからなくても,必ずベスト・タイミングで意味は解明できる.昨年5月の時点では,シンディー・ローパーさんのその曲が最も簡潔でインパクトがあり,且つ,それを夢で伝えるのがよい,と彼らは判断したのだろう.その本当の意味が半年以上あとに理解されることまでも見通したうえで.

スピリット・ガイドの導き・采配には驚きと感謝しかない。




1/26/2012

夢が教えてくれること


夢のメッセージは,ストーリーや映像だけでなく音楽など「音」によって伝えられることも少なくない.夢から目覚めてしばらくの間,ある特定の曲や音楽が耳に残って離れないということがあった.


「仰げば尊し」

卒業式で歌われる定番の曲.最後の,「いまこそわかれめ いざさらば」の部分が,目覚めた後も,繰り返し聞こえていたことがあった.その時は,何かからの卒業を暗示しているのだろうと思ったが,いまふり返っても,かなりストレートなメッセージを伝えている.

様々な事情によって,留学中に書き始めた博士論文を完成させるのにトータルで12年という,異例に長い年月を要することになった.学位は何を差し置いても取得したかったが,「書けなかったらどうしよう」という不安に幾度となく駆られた.その不安感と,掛け持ちでしていた複数の仕事に時間がとられてしまう日常,物理的・精神的な孤独とそれに伴うさまざまな痛み・苦しみ・葛藤,さらにはいつになっても改善の目処が立たない経済的困難と格闘した末,ようやく論文を仕上げ,提出の準備をしていた頃に見た夢だった.そう考えると,「(論文は合格して,大学院を無事)卒業できますよ」というお知らせだとわかる.「よくやりましたね」というねぎらいでもあっただろう.正式の卒業はその翌年の夏になったが(基本的に,欧米は7月が卒業月),審査を受ける前に結果を知らされていたことになるので,カテゴリー分けするとすれば予知夢の一種だろう.

1/23/2012

夢によるみちびき

学生時代から夢分析に関心があった.ユング心理学をほんの少しだけかじったことがあり,夢に人生のいろいろなヒントや答えがあることを知っていた.そもそも夢に興味を持ち出したのは,母が予知夢などの不思議な夢をよく見る人だったことが大きい.

夢分析の本などを読むと,夢を覚えておくために枕元にペンとメモを置いておき,目が覚めたらすぐメモをとるようにアドバイスしているものがあるが,夢を覚えている・覚えていないということ自体にすでに意味があるので,覚えていない,もしくは思い出せない夢については気にする必要はないと思う.鮮明に覚えている夢で,その意味がすぐにわからないものに関してはストーリーを書きとめておいて,あとでゆっくり解釈を考えてみる,ということは非常に有意義だろう.

私は,母ほど直接的な(分析や解釈の必要が全くない)予知夢を見ることは稀だが,それでも折々に,不思議なストーリーの夢や,夢で聞いた言葉や音楽に励まされたり,教えられたり,みちびかれている.その一部を紹介したい.


ぼやを出す夢

数年前に見た夢.家が火事になったので,私はすぐに119番に電話して消防車を手配したが,近くに居合わせた3〜4人の人々が助けてくれて,消防車が来る前に火を消し止めることができた,というストーリーだった.これはそれまで私が見たものの中では,珍しくはっきりとした予知夢であり,警告夢だったことが,目覚めてから数時間後にわかった.

その日は,自宅から最も近い勤務先に出かける日だった.スクールバスに乗りかえて5分くらい経った時,出かける前に,ヘアーアイロンの電源を入れたままにして(おそらく使うことすらも忘れて)出かけたことをふと思い出した.同時に,その朝見た夢のことも思い出した.冷蔵庫やアイロンのように,電源が自動的に入ったり切れたりする機能がないので,長時間放置しておけば,ほぼ間違いなく火事になる.バスが学校に着くとすぐに,そのまま駅へ向かうバスに乗って引き返した.自宅に着くまでの約50分間,全く生きた心地がせず,家のドアを開けて何事もないことを確認したときは,そのまま床に座り込んでしまったほど.スチーム式のヘアアイロンで,スチーム用の水が,小さな容器にめいっぱい入っていたことが幸いしたのではないかと思う.気づくのがあと1時間遅ければ,或いは最悪の事態になっていたかもしれない.夢では消防車が来なかったので,火事になることはないだろうとは思ったものの,家に着くまでは気が気でなかった.その後,かなり長い間,外出先から戻ると自宅が火事になっているのではないか,という恐怖感に度々襲われ,ちょっとしたトラウマになった.夢の中で助けてくれた数名の人々は,おそらく私のガイドと思われる.その後しばらくして,ヘアアイロンは一部が破損し,非常に使いにくくなってしまい,最終的には処分することとなった.

1/12/2012

同性を愛する学び

 同性しか愛することができないセクシャリティを持ったことも宿命です.私たちは,生まれてくるときに自分の学びにとってもっともふさわしい性別を選んできます.男性として生まれ,男性を愛することも,女性として生まれ,女性を愛することも,その人の学びのカリキュラムとして,自分で選んできています.(中略)
 同性愛というカリキュラムを選んできた人の前世を視ると,いくつかの傾向があります.まずひとつはお稚児さんだったり,大奥で女の園のなかで生きていたりするなど,どちらかの性別に偏った環境で生きていた前世の場合.そして,もうひとつには,男尊女卑の根強い地域に生きていた経験がある場合.前者は,過去の経験がたましいに刻まれていて,今生でも同じように同性を愛するというカリキュラムを選び,「性別にとらわれない愛」を知ることを望んで生まれてきています.そして,後者の場合,前世で男女という「性別」によって人を差別した経験のあるたましいが,反対に「性別」を通して学んでいることがあります.
 また,もうひとつの傾向としては,これまでにたましいが何度も現世に再生するなかで,両方の性を何度も経験していて,男女のどちらを愛することにもこだわりがなくなっている場合があります.このケースでは,肉体的な欲は少なく,どちらかというとプラトニックな関係になることが多くみられました.
 どの前世の傾向であったとしても,たましいはとても真摯に「愛を学ぼう」としています.偏見差別は少なくなりつつあるとはいえ,この国ではまだ同性結婚は難しいなど,いろいろな縛りもあります.そのような意味で,「形にとらわれずに絆を結ぶこと」に挑みたくて,このカリキュラムを選んだとも言えます.試練があるぶん,得るものも多いのです.


江原啓之(2009) 『トラウマ あなたが生まれてきた理由』 pp. 282-283.

(太字は作成者によるものです)



同書は,同性愛者であることを家族に打ち明けるべきか否かといった問題にも触れています.伝えるにせよ伝えないにせよ,何事も動機が大切.家族にショックを与えないために敢えて黙っておくのと,自分がラクになるために伝えようとするのかでは,その動機に大きな差があると述べられています.

パートナーが見つからない,人間関係がうまくいかないなど,人生のあらゆる不幸や不満の理由を,「セクシュアル・マイノリティであること」に探してはいないでしょうか。過去生は確かに理由の一つでしょう。しかし,理由の一部にすぎません。あくまでも,性別に関する問題を「利用して」,その人生で学ぶべき課題を学び,クリアすべき問題に取り組んでいます。セクシュアル・マイノリティであろうとなかろうと,過去生を知ったからといって,それだけで悩みや問題がすべて解決されることなどありえません。そもそも,過去生の情報とは,特定の過去生に起因する課題を解決した後や,もう少しでクリアできるタイミングで知らされるものです。前向きに努力している場合に限り,問題を解くひとつのヒントとして与えられる類いのものです。(退行催眠で過去の記憶を思い出し,感情を解放することで,身体の症状や恐怖症等が改善されることはあります。)

ある番組で,日本はセクシュアル・マイノリティに優しい国ではないから自分らしく生きられない,といって,意識の進んだオランダに渡り,オランダ人パートナーと出会って結婚したケースが紹介されていました。ところ変われば価値観も変わる,という柔軟な発想と,それを実行に移した行動力には並々ならぬものがあります。日本より進歩しているとはいえ,しかし,そこに暮らす人々全員が同性愛者に対して理解があるわけではありません。宗教上の理由で,差別的に見る人もまだ少なくないそうです。この男性は,いまの個人的な幸せに安住するだけでなく,そうした人たちに,少しでも自分たちのことを理解して貰いたい,と話していました。

これは数少ない大きな成功例かもしれませんが,ここに至るまでに,彼は,両親や先生をはじめとする周囲の人々から理解されず,長年に亘り苦悩を抱え,精神科に通院されていました。自分の問題として正面から受け止め,前向きに取り組んだからこそ,大きなステップを踏み出すことができました。

根本は何事も同じだと思います。自分の問題として受け止める勇気を持ち,自分の人生,自分の足で歩みたいものです。







1/03/2012

88 願いは通じている

時おり皆さんは自分の魂にとって為にならないもの,進化を遅らせることになるものを要求されます.それは叶えてあげるわけにはいきません.また時おりそれを手にするだけの十分な努力をしていないものを要求されます.それも与えられません.そして時にはそれを手にする用意のできたものを要求されます.それは,ここという好機をみて与えられます.このように皆さんが心に抱く祈りは,口に出さずとも神は先刻ご承知なのです.

『シルバーバーチの霊訓  第12巻』  p. 123.



87 悩みの種が尽きないのは

悩みの種が尽きることはありません.だからこそ地上に来ているのです.すなわち問題を一つ一つ片づけていく中で,新たな力,より大きな発展を獲得していくのです.次から次へと生じる問題を挑戦課題として受け止め,一つ一つ処理していくことです.

『シルバーバーチの霊訓  第12巻』 p. 182.



1/02/2012

86 人生の一コマ

挫折もまた人生の一コマです.抑止と照合の作用を抜きにした人生はありえません.思いきり前進できる時期があるかと思えば,進もうにも進めない時期がありますそれはそれで意義があるのです.摂理は完ぺきで,必ず作用し,各自がそれ相当のものを受けるようになっているのです.

『シルバーバーチの霊訓  第12巻』  p. 172.



85 いちばん大切なこと

一ばん厄介なことは,人間が物的なものに浸り切ってしまい,人生のすべての基盤である永遠の霊的原理を忘れてしまうことです.あなたがもし思い通りにならないからといって悩んだり,失望したり,イライラしたりするようであれば,それはあなたがまだ一ばん大切なことは本当のあなたである“霊”に係わることでありその“身体”ではないということを理解していない証拠です.

『シルバーバーチの霊訓  第12巻』 p. 173.



1/01/2012

84 感謝を

同じこの地球上に身を横たえる場所もなく,星空の下で寝なければならないひとが大勢いるのです.風雨にさらされている人が大勢いるのです.その日の食べ物にすら事欠いている人がいるのです.そういう現実のもとで,あなたは今の自分の身の上について神に向かって不平を言う資格があると思われますか

『シルバーバーチの霊訓  第12巻』  p. 166.



現代の先進諸国に暮らすわれわれ全員にこの言葉はあてはまるでしょう.

83 今日が大切

右を向いたり左を向いたり後ろを向いたりしてはなりません.やってしまったことを悔やむのは間違いです.過去のページはすでに閉じられたのです.もう二度と開くことはできないのです.大切なのは今日です.明日の運命は今この時点で取る態度によって決まるのです.

『シルバーバーチの霊訓  第12巻』  p. 162.



82 信仰に知識を加える

地上のいかなる賢人も,問題のすべてに対する回答を手にすることはできません.三次元の世界に閉じ込められている以上,叡智のすべてを手にすることは不可能なのです.その三次元の殻を破らないことには悟れないことがあるのです.そこに“信じる”ことの必要性が生じるわけです.私は,“信仰だけではいけません.信仰に知識を加えなさい”と申し上げていることは事実ですが,その段階をさらに進むと,その知識にも三次元ゆえの限界があるために“信じる”しかない段階に至ります.すべてを理性で片づけるわけにはいかなくなった時,直感的洞察力の必要性が生じます.

『シルバーバーチの霊訓  第12巻 p. 152.





2025年は大きな転換期

2025年7月5日(土)の早朝(夜明け前),フィリピン沖の海底火山が噴火して,周辺国と日本の太平洋沿岸に巨大津波(120mほど)が押し寄せ,国土の1/3から1/4 が津波に呑まれる,という予知情報があります。最初にこれが注目されたのは,下にも関連動画のリンクを貼っていますが,たつ...