顔が見えないコミュニケーションは難しい。例えば,電話での会話,オンラインでのチャット,メールのみでの付き合い,一部のSNS経由での遣り取りなどがそれにあたる。家族,友人,知人との顔が見えるコミュニケーションでさえ充分難しいのに,面識の全くない人々との遣り取りともなればなおさらだ。言葉とは本来曖昧なもので,意志伝達手段として完璧とはいえない。社会言語学でよく言われるのは,言葉による情報量よりも,顔の表情やしぐさ(ジェスチャー)といったノン・バーバルコミュニケーションによる情報伝達量の方が多い,ということ。これに対しては否定的な見解もあるのだが,例えば,「ありがとう」という言葉も,優しい笑顔で言われれば感謝の表現だが,こわばった表情では,困惑と受け取られかねないことを考えれば,あながち否定できないだろうと思う。
もう少し堅苦しい話にお付き合いいただければ,よりよいコミュニケーションのためには,相手がどんな人かを適切に知ることが不可欠だ。「どんな人か」には,その人が「どんな人だと思われたいか」ということも含まれる。そのいわば“共有してほしい自己イメージ” (専門的には "face" = 体面 と呼ばれることもある) は,必ずしも自分の真の姿と一致しないことも多いし,一致する必要はない。自己評価が高い人や,逆に低い人など様々な人がいる。自分を正しく知ることは意外に難しい。が,いずれにせよ,相手の face を正しく把握し,こちらの face もちゃんとわかってもらえないと,互いに話が噛み合わない,ということも充分に起こりうるわけだ。日本語でも,「顔を潰す」「顔を立てる」「面子が丸つぶれ」といった表現があるが,自己イメージを否定されて不快だったり,逆に,尊重してもらえたことを言い表している。もの言わぬ壁に向かって話すなら別だが,人間同士が関わる限り,"faceless" なコミュニケーションは存在しない。このように,理論的にみても,面識のない人と,文字通り「顔が見えない」状況下で行う会話は,少なくともどちらかが不愉快な思いをせずに成立する確率は非常に低い,と言える。
確かにその通りなのだろう。でも,人間にはだれにも「見えないものを感じとる力」や「想像する力」,即ち「インスピレーション」が備わっている。そのひとつの顕れが芸術だ。われわれは美しい音楽を聞いてこころ癒され,演劇を見て涙し,感動する。この生まれつき備わった能力を駆使すれば,「顔がなくなりがちな」コミュニケーションになるという,高い壁を少しだけ低くすることは決して不可能ではない。そんなことを考えさせられる出来事がいろいろある。
最近気になるのは,相手の状況や気持ちを気にかけることも想像することもなく,ほぼ一方的に話してくる人々の存在。どういうわけか,私は「話しやすい,いい人」で,文句も言わずに,まるで母のように「自分を受け入れて,話をやさしく聞いてくれる人」という位置づけらしい。だから,平気で(プチ)自慢したり,普通であれば,かなり親しくならなければ話さないような話題もぽろっと話す。例えば,過去には,こちらがお金を払ってかけた電話相談で(1分刻みで料金が発生する),鑑定士の愚痴やら身の上話に付き合ったことも少なくない。相談者の私が相談にのってもらえるはずの占い師の相談に乗るという立場が逆転した状態だ。その一方で,彼らが,妙に上から目線でモノを言うことが度重なったため,耐えかねて会社に意見したことも。また,オンラインで交流のある人々の中にも,自慢話をしに私のところへわざわざやってくる暇な人々がいる。それでいて,話を聞いてくれてありがとう,というのではない。そもそも,面識のない相手には関心がない。だから,感謝もない。いや,なにも感謝されたいのではない。彼女らの無関心さ,思いやりの欠如,もっと言えばその無思慮と自己中心性が悲しいのだ。私としては,ひとに好かれたくていい人を演じているつもりはなく,自分が理想とするモラルにできるだけ沿う形で行動しようと努めているだけだ。自分の感情を最優先したり,やたらと自慢話をしたり,ひけらかしたり,一方的に甘える,といったことをできるだけしないようにしている(つもり)のだが,その結果,不愉快な思いをするというのは,どう捉えたらよいのか。もちろん,私も,気づかないうちに誰かに嫌な思いをさせてきただろうし,させているに違いないのだが。
本当に満たされた人,即ち,幸せな人は,誰かのために役立ちたい,ひとの幸せのために働きたい,と思うものだ。彼ら・彼女らの言動から察するに,そこまで満たされているわけでもなさそうだ。物心共に「ほどほどに」満たされて,且つ,本当の苦しみ・痛みを知らない人々は,どちらかといえば残酷とも思える言動を平気で取るかもしれない,と感じる。いまのその一言が,相手を不快にしたり,傷つけているかもしれない,といったことはみじんも考えないで。
ここに「甘え」を見て取ることもできる。「自分の話に同調してくれて当然」,「自分をわかってくれて,楽しい気持ちにさせてくれて当たり前」という甘えだ。冷たいようだが,私には面識も無い彼女らの話を聞く「義務」など全くないし,仮に,話に付き合ったとしても,彼らの感情を優先したり,理解しようとする努力を払う必要もない。ある人は,短いやり取りの後で,「愚痴を言ってすみません」と述べた。この人などは,まだわきまえている部類だ。それどころか,人の好意に乗じて,さらなる手柄話をひけらかすひとの方が数の上で圧倒的に優るから油断も隙もない。
「腹八部」というが,ある人々は,人付き合いは「腹六部」,と言う。相手がどれほど親しかろうと―家族であろうが,親しい友人であろうが―自分の思いをすべてさらけ出すのではなく,画すべき一線は画し,自分の腹におさめるべきはおさめ,相手を思いやり,尊重して対するべき,ということだろう。自分の思いを相手構わず無思慮に丸投げするのは,子どものすることだ。
痛みを知らない人に,痛みを知る人々と同じ感性を求めるのは無謀だし,過大な要求かもしれない。そして,なにより言葉に依存するコミュニケーションには限界がある。とくに顔が見えない会話は難しい。だからこそ,私たちは注意しなければならない。せめて次の点だけでも心に留めたい。まず,距離を取ること。人とのこころのスペースを普段より多めにとろう。そして,もう少しだけ相手のことを考えて,コミュニケーションをとることを意識しよう。その人はいまどんな暮らしをしているのか,どんな思いでいるだろうか,自分のことばをどのように受け止めるだろうか,といったことに少しだけ(詮索ではなく)思いを馳せてもらいたい。人の数だけ人生があり,考え方・感じ方があり,相手はあなたと同じ人間ではないのだから。