8/13/2008

疑うとき

 どのような人にあなたは心を開いてきたのでしょうか。
いい人。信じられる人。自分のことを大切にしてくれる人。
 あなたは、その時その場の自分の利害だけで、人物をふるい分けてこなかったでしょうか。
 自分の快苦、利害の判断と「信ずること」とは次元の違うことです。
 もしあなたの迷いに利害が色濃く絡んでいるならば,それは信じるかどうかより、利害の問題として考えるべきかもしれません。

 信じることは全部受けとめてゆくこと。
 眼を閉じてしまうことではありません。
 眼を開いてどこまでも見とどけること。
 耳をふさいでしまうことではないのです。
 耳を開いてどこまでも聞きとどけること。
 すべてを受けとめ、それに応えつつ
 最後に決して壊れることのない絆に心を託すこと、それが信じることなのです。

 信じるためには
 深く深く受けとめなければなりません。
 良いところも
 悪いところも
 ありのままに見なければなりません。

 あるときには、じっと見守り、
 あるときには、ひたすら関わり合うのです。
 そしてときには、忠告し叱咤激励し、腹蔵なくぶつかり合うこと。
 
たとえその言動に「ノー」と言うときでも、
 存在に対しては「イエス」という、神の心につながる絶対肯定の姿勢で臨むこと。
 それが信じるということでしょう。
 自分の快苦、利害の計算をひとまず脇において、もう一度、その人を見てください。
 先入観と思い入れと、期待と恐れをつき抜けてゆく、真実だけに忠実な出会いを念じるのです。


 雪ダルマのようにふくらんでゆく疑いは、ボタンのかけ違えのような判断の謝りを誘う妄想になりやすいものです。
 事実を見、事実を想って、疑いの肥大を絶つことです。

 疑問は根本の肯定のために投げかけられるべきもの。
 否定のための疑念になるとき、人は黒い想念に巻き込まれます。
 そこに、愛と慈しみの想いがあるかどうか、
 神の心につながってゆく清さがあるかが鍵になります。
 
                                        

高橋佳子 『祈りのみち』 pp. 134-135.



「疑いが生じるとき」と題された文章の一部抜粋になります.

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