12/26/2008

たましいの親

 魂の親がいない人は,誰ひとりいません.
 魂の親は,常にあなたを,あなただけを愛しているのです.あなたがつらいとき,悲しいとき,試練を受けているとき,常にこの親はあなたに愛を注いでいます.その愛の存在を知ること,「愛は必ずある」と感じることが必要なのです.ですから,スピリチュアルな世界を理解しないと,本当の愛は育たないと私は思います.
 人がスピリットの存在であることを知ると,愛を信じられない苦しみから救われるのです.愛されていない人は,この世には一人としていないでしょう.みんな,愛されています.そして,血のつながりがもたらす愛,肉のつながりがもたらす愛よりも,魂の愛のほうがもっと偉大です.
 人は,どんなことがあっても,一人ぼっちにはなりません.殺伐としたこの現代で,孤独に死ぬ人もいます.残虐な事件で殺される人もいます.けれど,その人にもガーディアン・スピリットがいるのです.
 ただ,本当に大きな壁にぶちあたらないと,ガーディアン・スピリットの存在,神の存在には気づきません.絶体絶命の危機に陥ったときに,はじめて見えてくるのです.
 ですから,経験が多ければ多いほど,スピリットの存在は見えてきます.
 年齢を重ねた人に神を信じる人が多いのは,そのためです.
 万策尽きて,にっちもさっちもいかない.ずるい方法で逃げようとしても,逃げられない.そうなったとき,人は「もう,どうにでもなれ」とやけっぱちな気持ちになります.すると,心が一瞬だけピュアになる.からっぽ,無の境地,といわれる状態です.そのとき,不思議とその人の心から高い波動が出るのです. 
中略)
 けれど,日常の暮らしの中でも,感性を研ぎすませば見えてきます.対人関係や仕事でちょっとした壁に突きあたったとき,自分の心を素直に開いてみる.すると,スッと救いが降りてきます.そのときが,気づくチャンスなのです.


江原啓之 『幸運を引き寄せるスピリチュアルブック』  pp. 55-57.




魂の親は,守護霊とか守護天使,ガイドなどとも呼ばれますが,呼び名はどうであれ,私たちはただ一人の例外もなく,霊的な存在に見守られ,導かれています.その導きや愛を受けやすい状態,受けにくい状態というのはあります.前向きで,(いい意味で)楽観的な心的態度を保つことによってガイダンスを受けやすくなります.不安の念が最もいけません.

「ほんとうの愛」とは,魂の親を通じて注がれる「神の愛」,つまり「究極の無償の愛」にほかなりません.私たちは,常に存在しているこの愛を感じさえすればよいのです.そうして初めて同胞である他者に対して利他的な心,無償の愛(もしくは,これに限りなく近い心境)で接しやすくなります.「愛を表現するために」ひとと関わることが可能になります.「愛を求めて」人と関わることが減るので,結果として,人間関係で不必要にいやな思いをすることが減るかもしれません.



弱さと無知と

 「悪意」というと,とても罪なことのようなニュアンスがありますが,言葉をかえれば「未熟」であるということです.私たちは,みんな未熟です.それは,「無知」ゆえです.
 ですから,まず知(知識や知恵)を持つことが必要です.前述したように,生きるとは何か,愛するとは何か,仕事とは,恋愛とは,子育てとは,死とは何か,ということに対して,自分なりに考えて知を深め,自分なりの「哲学」を持つことが大切なのです.
 それによって,初めて私たちは,周囲に流されるのではなく,「自覚的に」生きることができます.自分の中の「悪意」を減じていくことができるのです.
 それはまた「弱さ」を「強さ」に変える作業でもあります.
 私たちは,もともと弱い存在です.だから,人を妬んだり,恨んだり,嫌ったりするのです.
 本当に強い人は,人に「悪意」を向ける必要などありません.そんなことをして自分を防御しなくても,一人で毅然と立っていられるからです.
 今までのあなたの歴史を振り返ってみてください.以前はわからなかったけれど,今はわかるようになった,ということがあるでしょう.以前の自分なら,弱くて耐えられなかったけれど,今は強くなって耐えられるようになった.そんなこともあると思います.
 人が生きる,ということは,そういうことです.
 無知を知に変えていく.弱さを強さに変えていく.もちろん,それは簡単なことではありません.けれど,まずは自覚しましょう.私たちが自分の中にある「悪意」に打ち克つということ.それはすなわち,自分の無知に気づいて,正しい知を得るということ.そして,自分の弱さに気づき,それを強さに変えていく,ということなのです.
 そのとき私たちの人生は,何事もなかったときよりずっと充実し,意義あるものへと変わります.私たちのたましいもまた,豊かに成熟していけるのです.


 江原啓之『悪意/善意』 pp. 155-6.


人生は気づきの連続ですね.

来年もいろいろな気づきを得て,実り多き一年となりますよう….

本当のプライド

 本当の意味でプライドを持つ,ということは,傲慢になることとは違います.
 人にはみんな歴史があります.生まれてから今日まで,さまざまな人から愛を注がれてきたはずです.たとえ家族がいなくても,誰かがかわいがって育ててくれたからこそ,今,こうして生きているのです.
 自分がいわれのない悪口を言われてめそめそしたり,傷ついたりしていては自分を大切に愛してくれた人たちが哀しむ.その人たちに申し訳ない.だから私は毅然として生きていく
 そう思える力,それが本当のプライドです.


江原啓之『悪意/善意-たましいの素顔』 p. 137.



全くその通りだと思います.自分はだめだ,と劣等感を抱き,自己卑下することも,自分を大切に思ってくれた多くの人々の想いを無にしてしまうことにつながります.

プライドというと,「自分自身の誇り」と捉えがちですが,実は「自分を愛してくれた人々への感謝と敬意」と言い換えることができそうです.

さらに遡れば,魂の親,唯一絶対の「神」の子である,という確信なのです. 

12/05/2008

43 平静さ

何よりも大切なのは

いかなる混乱,いかなる騒ぎの中にあっても 

平静さを失わないようにすることです 

『シルバーバーチ 今日のことば』 p. 41.



年末年始は,何かと慌しく,人の心が乱れがちになる時期でもあります.

そういうときにこのことばを思い出したいものです.

42 愛は血縁に勝る 

愛は血縁に勝ります.愛は死を乗り越えます.愛は永遠不易のエネルギーです.それが宇宙を支配しているのです.神の意図によって結び合った者は生涯離れることなく,死後も離れることはありません.墓には愛を切断する力はありません.愛はすべてのものに勝ります 

『シルバーバーチ 今日のことば』 p. 48.


The bond of love never dies; it survives physical death.


9/14/2008

対岸の火事

   悲しい事ですが,毎日といっていいほど残虐な事件が起こっています.「バラバラ殺人だなんて,おぞましい」と身震いをして終わらせていませんか?「自分の子どもに手をかけるなんて,信じられない!」と叫んだきりにしていませんか?世の中で起きる事件は,すべて現代を象徴するものばかり.誰の身に,いつ降りかかってきても,何の不思議もないのです.
    加害者も被害者も,そして私たちも,地球上に生きている人みんなが,広義のソウルメイトであることを忘れてはいけません.すべてのたましいは,究極的にはひとつのまとまりなのです.誰もが自分の分身.そう思えば,無関心ではいられないはずです.
  関心を示さない心は,愛のない心自分には関係のないことだと思うのは,自分さえよければいいという「小我」な心の表れなのです.


江原啓之 『ことたま』 p. 262.


メディアを通じて報道される昨今のニュースには目を覆い,耳を塞ぎたくなるほど残酷,残虐なものが多く,そうした否定的なエネルギーに触れ続けることは,実はあまり好ましいことではありません.

でも,抜粋にもあるように,自分や自分の家族,ごく親しい友人にのみ関心を向けて,それ以外の「他人」のことはどうでもいい,という姿勢-最近の日本人に顕著なように感じます-は,決して誉められたものではありません.個人は全体の分かち難い一部だからです.

8/30/2008

陰徳を積む

 ところが,現代の日本は「ひけらかし文化」.みずからの功績をこれみよがしに主張したがる傾向にあります.しかも,「自分がこれだけやっているのだから見返りが欲しい」という物質主義的価値観に基づいた発想をする人が多く見られます.
 このままでは,「小我」だらけの日本になってしまいます.「自分さえよければいい」という考えで動けば,いつかは誰かのエゴに潰されます.心がどんどん疲弊していき,弱いものいじめで憂さを晴らそうと考えるようになる.ネットの掲示板などで人の誹謗中傷を垂れ流すのも,その表れであるといえるでしょう.
 「ひけらかし文化」は心を崩壊させます.このことわざ
[一将功成りて万骨枯る: 一人の将軍の手柄の陰には,無数の兵士たちの犠牲があり,指導者の功績の陰には,多くの者の努力がある.彼らのことを忘れてはならないという戒め.また批判でもある] から感じ取ってほしいのは,「一部の人だけが得をするのはいかがなものか?」という批判精神だけではなく,むしろ,「自分に何の得もなくても他者のために生きてみてはどうでしょう?」という提案です.


江原啓之 『ことたま』 徳間書店,pp. 226-227.



評価を外に求めるのは人間としてごく当然のことに思えますが,ひとは他者をなかなか認めたがらないものです.さらに,地上での評価というものは,時代や場所,また評価する人によって異なるなど,多分に相対的です.

ひとが認めてくれなくても,神は全てお見通しです.ならば,最も確かで揺るがない,神の「絶対評価」に沿うように生きればよいのかもしれません.そのうち,思いがけないタイミングで,地上でも評価されるでしょう.

本当に人のためになることは,誰の目に映らなくとも,必ず自分のためにもなっています.



8/23/2008

22 人間世界の不幸

人間世界の不幸の原因は物質万能主義,つまりは欲望と利己主義が支配していることにあります.我欲を愛他主義と置き換えないといけません.利己主義を自己犠牲を置きかえないといけません.恵まれた人が恵まれない人に手を差しのべるような社会にしないといけません.それが究極的に今より大きな平和,協調性,思いやりの心を招来する道です.

 『シルバーバーチの霊訓』 第8巻 p. 162.



「自己犠牲」ということが以前は尊ばれていた日本ですが,いまや「自分を犠牲にしてまで,人のために何かするなんて馬鹿げている」といった風潮が優勢ではないでしょうか. 「一番大事なのは自分だ」と,多くの人々が当然のことのように考えていますが,本当は違います.


まずは自分の足場を固めることが必要です.それができたら,自分のことは少し脇へおいて,自分よりも恵まれない人,困っている人々の手助けをすべきであり,そうできるはずなのです.

「自己向上のために」自己犠牲が目的になってしまっては本末転倒ですが,純粋に他の人の利益を優先した結果であれば,それこそが本来のあるべき姿といえます.


I perceive my difficulties as opportunities

I perceive my difficulties as opportunities for spiritual growth.

You can learn more when there are many obstacles than where there are few or none.

B L Weiss (2003)

私は困難を霊的成長の機会と捕らえます.
(障害は,殆どもしくは全くない時よりも,多い時の方が多くを学ぶことができます.)


苦労や困難,と聞くとネガティブに受け取りがちなのが人情です. 

しかし,苦労こそたましいの肥し.くさらず,みじめに思わず,前向きに捕らえられるべきです.試練に直面して,困難な時期を送る友人・知人に対しても,否定的な目を向けたりせず,できる援助があれば援助を。何もなければ,そこから多くを学ぶことができるよう,心から応援しましょう.

身に降りかかる困難は,かならず乗り越えることができます. 

8/14/2008

聖フランチェスコの祈り

わたしをあなたの道具としてお使いください.
憎しみのあるところに愛を
いさかいのあるところにゆるしを
分裂のあるところに調和を 
疑いのあるところに信仰を
あやまちのあるところに真理を 
絶望のあるところに希望を
闇に光を 悲しみのあるところに喜びを
もたらすものとしてください.

慰められることよりは慰めることを
理解されるよりは理解することを
愛されるよりは愛することを
私が求めますように.
私たちは与えるから受け,
ゆるすからゆるされ
自分を捨てて死に
永遠のいいのちをいただくのですから.

アッシジの聖フランチェスコ



有名な祈りの詩ですが,これは最後の一部分のみの抜粋です.



自分を成長させるもの

   慎重に選ぶか無計画に選ぶかの差はあっても,この世の環境を選ぶのは私たち自身である.超意識はこう伝える.どの人の置かれた状況も―たとえその人がエイズの犠牲者であろうと,堕胎児であろうと,映画スターや,足のない新聞売りや、アメリカの大統領であろうと―それはみな、教室の授業のひとこまにすぎない.授業で学べば学ぶほど私たちの成長も早くなる.中間世で計画をたてるときには,かならず愛と奉仕の機会を探すことになるが,結局この愛と奉仕こそが,自己の成長の根本にかかわると考えるべきである。ときどき孤独を体験することが心を落ち着かせ,元気を回復させてはくれるが,カルマの展開には,人間が相互に影響しあうことが必要である.

ホイットン他 『輪廻転生』 p. 251.



純粋に人のためだけを思って為した行ないは,必ず自分のためになります. 言い換えれば,全体のためになることは,必ず個人のためになります.なぜなら個人は全体の一部だからです.私たちの多くが思っているほど,「自分」と「他者」,もしくは「個人」と「全体」とは切り離された別個の存在ではありません.少なくとも本質の部分においては.

「自分のために」を重んじるのも結構ですが,「全体に奉仕できる自分」になるための前提条件として捕らえなくては本末転倒で,ただの自己愛,つまり我欲レベルに留まってしまいます.



「全体のためになる」自分を目指すことこそ,本来あるべき生き方でしょう.




病者の祈り A Creed for Those Who Have Suffered

大事をなそうとして
力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと弱さを授かった

より偉大なことができるようにと
健康を求めたのに
よりよきことが出来るようにと
病弱を与えられた

幸せになろうとして
富を求めたのに
賢明であるようにと
貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして
権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと
弱さを授かった

人生を享楽しようと
あらゆる物を求めたのに
あらゆることを喜べるようにと
生命を授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられ
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
心の中に言い表せない祈りはすべてかなえられた

私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ


(ニューヨーク物理療法リハビリテーション研究所の壁に書かれた一患者の詩)



アメリカで南北戦争当時に,難病を患っていたある患者によって書かれたとのことです.

英語の原詩はこちら



愛を表現するために

内側からの愛こそ,唯一真実の愛の源である
私は内側からの愛を成長させるために自らを育む

もはや愛を見出すために人と関係しない
内側で感じる愛を表現するために人と関係する

自分自身を愛する能力が増したのは,
感情的に自己を受容するようになったからである
痛みの感情を避けずに体験することによって
私は心の成長と変容を果したのだ.




ジョン・ラスカン (1998) 『自分の感情とどうつきあうか―怒りや憂鬱に襲われた時』 
菅靖彦訳



「内側で感じる愛を表現するために人と関係する」-みんながこういう思いでいれば,争いは起きないでしょう.「愛されたい」と思いながらひとと付き合うと,当然のことながら,トラブルが起こりやすいようです.

I am becoming wiser

I am becoming wiser each day.
Wisdom is achieved slowly and is the active expression of knowledge in your everyday life.  Loving service is the highest wisdom.


B. L. Weiss, MD.(2003)

わたしは日々賢くなっています.

(知恵は,ゆっくりと身に着くものであり,日常生活における知識の積極的な表現です.愛ある奉仕こそが最高の知恵です.)





39 たましいの成長

が,偉大な仕事ほど困難が伴うものなのです.霊的な悟りを得ることは容易ではありませんとても孤独な道です.それは当然のことでしょう.もしも人類の登るべき高所がいとも簡単にたどりつくことができるとしたら,それは登ってみるほどの価値はないことになります.安易さ,呑ん気さ,怠惰の中では魂は目を開きません.刻苦と奮闘と難儀の中にあってはじめて目を覚まします.これまで魂の成長が安易に得られるように配慮されたことは一度たりともありません

『シルバーバーチの霊訓 第6巻』 pp. 13-14.



とかく人は,苦労・困難・試練といったものをネガティブにとらえがちで,自分の苦労についても人から隠そうとします.でも,それはあくまでも地上的な見方で,表面的で浅薄な解釈です.また,それとは反対に,苦労自慢する人,苦労を売り物にする人も見かけます.が,決して自慢としてではなく,或いは,自分の苦しみをわかって欲しいという甘えからでもなく,あくまでも貴重な体験として,そこを乗り越えた誇りと確信とをもって語れる人間になりたいものです.


本来の姿に還ったとき,苦しみの時期にこそ霊的にかけがえのない学びをしていたことがわかり,大変ありがたく思うとのことです.




38 喜びと悲しみは二人三脚

感受性が強いということは喜びも悲しみも強烈となるということです.幸福の絶頂まで上がれるということは奈落の底まで落ちることも有り得るということです.強烈な精神的苦悶を味わわずして霊的歓喜は味わえません.二人三脚なのです.私があなたのお役に立てることといえば,たとえ苦境にあってもあなたは決して泥沼に足を取られてにっちもさっちも行かなくなっているのではないこと,いつも背後霊によって導かれているということを理解させてあげることです.一人ぼっちであがいているのではないということです

『シルバーバーチの霊訓 第六巻』  pp. 140-41.

37 呼応

私たちとしては,あなた方人間に理想を披瀝するしかありません.言葉をいい加減に繕うことは許されません.あなたがもし魂の内部に完全な平静を保つことができれば,外部にも完全な平静が訪れます.物的世界には自分を傷つけるもの,自分に影響を及ぼすものは何一つ存在しないことを魂が悟れば,真実,この世に克服できない困難は何一つありません.かくして,訪れる一日一日が新しい幸せをもたらしてくれることになります.いかに優れた魂にとっても,そこまでは容易に至れるものではないでしょう.

 『シルバーバーチの霊訓』 6: 144.


心の中と,外の出来事とは呼応しています. 人間は,外が変われば中も変わる,つまり外的な状況が好転すれば心の状態も好転すると考えがちです. でも,本来,この考え方は全く逆です.つまり,外に平和をもたらすには,内側を平和にすることが先です.

心の内側に外側の状況が呼応する-これが真実です.


36 贖罪はない

バイブルには事実でないことが沢山のべられています.いかなる人間も自分以外の者のために代って苦しみを受けることはできません.自分の成長を管理するのは自分ひとりしかいない―他人の成長は管理できないというのが摂理だからです.贖罪説は神学者が時代の要請にしたがってでっち上げた教説の一つです.自分が過ちを犯したら,その荷は自分で背負ってそれ相当の苦しみを味わわなくてはなりません.そうやって教訓を学ぶのです.もしも誰かほかの者が背負ってあげることができるとしたら,過ちを犯した本人は何の教訓も学べないことになります.
  苦と楽,悲しみと喜び,平静さと怒り,嵐と晴天,こうしたものがみな魂の成長の糧となるのです.そうしたものを体験し教訓を学んではじめて成長するのです.その時はじめて宇宙が無限なる愛によって支配され,その愛から生み出された摂理に間違いはないとの自覚を得ることができるのです.“まず神の国と義をもとめよ.さらばそれらのものもすべて汝のものとならん” (マタイ6: 33) というのは真実です.その心掛けになり切れば,つまり宇宙の摂理に不動の,そして全幅の信頼をおくことができるようになれば,人生で挫折することはありません.なぜならばその信念が内部の霊力を
湧き出させ,何ごとも成就させずにはおかないからです.
  その霊力を枯渇させマヒさせる最たるものは“心配”の念です.全幅の信頼心―盲目的な信仰ではなく知識を土台とした完全なる信念は,人生のあらゆる体験に心配も迷いも不安もなく立ち向かわせます.神の子である以上は自分の魂にも至聖所があり,そこに憩うことを忘れないかぎり,自分を焼きつくす火も吹き倒す嵐も絶対にないとの確信があるからです.


『シルバーバーチの霊訓 第六巻』 pp. 196-197.

34 悩むとき

物的生活に欠かせない必然性から問題が生じ,その解決に迫られたとき,言いかえれば日常生活の物的必需品を手に入れることに全エネルギーを注ぎ込まねばならないときに,本来の自分とは何か,自分はいったい何者なのか,なぜ地上に生活しているかといったことを忘れずにいることは困難なことです.
   そこで私のような古い先輩-すでに地上生活を体験し,俗世的な有為転変に通じ,しかもあなた方一人一人の前途に例外なく待ち受けている別の次元の生活にも通じている者が,その物的身体が朽ち果てたのちにも存在し続ける霊的本性へ関心を向けさせていただいているのです.それが基本だからです.あなた方は霊的な目的のためにこの地上に置かれた霊的存在なのです.そのあなた方を悩まし片時も心から離れない悩みごと,大事に思えてならない困った事態も,やがては消えていく泡沫のようなものにすぎません
  といって,地上の人間としての責務をおろそかにしてよろしいと言っているのではありません.その物的身体が要求するものを無視しなさいと言っているのではありません.大切なのは正しい平衡感覚,正しい視点をもつこと,そして俗世的な悩みや心配事や煩わしさに呑み込まれてしまって自分が神の一部であること,ミニチュアの形ながら神の属性のすべてを内臓している事実を忘れないようにすることです
.そのことを忘れず,その考えを日常生活に生かすことさえできれば,あなた方を悩ませていることがそれなりに意義をもち,物的,精神的,霊的に必要なものをそこから摂取していくコツを身につけ,一方に気を取られて他方を忘れるということはなくなるはずです.

『シルバーバーチの霊訓 第六巻』 pp. 176-177.

33 円熟した魂

円熟した魂とは人生の有為転変のすべてを体験しつくした魂のことです.苦しみの淵を味わわずして魂の修練は得られません.底まで下りずして頂上へはあがれません.それ以外に霊的修練の道はないのです.あなたみずから苦しみ,あなたみずから艱難辛苦を味わい,人生の暗黒面に属することのすべてに通じてはじめて進化が得られるのです.進化とは低いものから高いものへの成長過程にほかならないからです. 

『シルバーバーチの霊訓 第六巻』 p. 195.

32 人生計画

   あなた方には分からなくても,ちゃんと神の計画が出来ているのです.定められた仕事を成就すべく,そのパターンが絶え間なく進行しています.人生の真っただ中で時としてあなた方は,いったいなぜこうなるのか,いつになったらとか,どういう具合にとか,何がどうなるのかといった疑問を抱くことがあることでしょう.無理もないことです.しかし,私には,全てはちゃんとした計画があってのことです,としか言いようがありません.天体の一分一厘の狂いのない運行を見ればわかるように,宇宙には偶然の巡り合わせとか偶然の一致とか,ひょんな出来事といったものは決して起きません
  全ての魂がそうであるように,あなたの魂も,地上でいかなる人生をたどるかを誕生前から承知していたのです.その人生で遭遇する困難,障害,失敗の全てがあなたの魂を目覚めさせるうえでの意味をもっているのです.価値ある賞ほど手に入れるのが困難なのです.容易にもらえるものはもらう価値はないことになります.簡単に達成したものほど忘れやすいものです.内部の神性の開発は達成困難なものの中でも最も困難なものです.


 『シルバーバーチの霊訓』 第一巻 p. 71.

31 神の証

誰一人おろそかにされることはありません.
誰一人見落とされることはありません.
誰一人忘れ去られることはありません.
誰一人として一人ぽっちの者はいません.
法則の働きの及ばない人、範囲からはみ出る人など一人もいません.
あなたがこの世に存在しているという事実そのものが
神の証しです. 


『シルバーバーチの霊訓 第三巻』 p. 73.

30 奇跡はない

 偶然・運命の気まぐれ・奇跡・偶発事故というものは存在しません。すべては整然とした犯すべからざる連鎖の法則にしたがって働く“因果律”の結果なのです。自然の摂理がこの全大宇宙を支配しており、どこで何が起きようと―昆虫であろうと人間であろうと天体であろうと―すべてにその法則が働いているのです。
 そこに人間的願望や意志の入る余地はありません。あなたの考えや見解や願望によってその法則を都合のよいように変えることはできないということです。これまでも変わることなく働いてきましたし、今なお働いていますし、これからも働き続けます。時間は永遠であり、法則もまた永遠です。原因がないという意味での奇跡をわたしは知りません。わたしが知っているのは、霊の力は地上の人間にはまだ啓示されていない、ないしは理解されていない法則によって働きかけ、時にはそれが人間の目には一見すると奇跡と思えるものを引き起こすことがある、ということです。
 霊の力は生命力そのものなのです。生命のあるところには霊が存在し、霊が存在するところには生命があります。その霊力を存分に送り届けることができれば、生命力の全資質が持ち込まれるわけですから、そこに奇跡と思えるようなことが起きるわけです。
 要するに、別の次元の法則が働くからこそ、そこに思いも寄らなかったことが生じるわけです。あなたは何らかの原因に対する結果を見ておられるわけです。歩けなかった人が自由に歩けるようになり、物が言えなかった人が自由にしゃべれるようになり、目の見えなかった人が見えるようになります。その治癒力は、実はそれまでその患者が呼吸し、物を考え、見たり聞いたりの生活を可能にしていたのと同じ生命力なのです。同じ力が形を変えて働き、再び同じことを可能にさせているだけなのです。


 『地上人類への最高の福音』(心の道場出版) 第4章

人間の価値

神ならぬ身の彼らに,人を裁く資格はない.これは前に述べたのと同じ問題なのだ.男性が女性より,あるいは女性が男性よりすぐれているわけではない.同様に,特定の人種や特定の経済グループが他よりすぐれていることもない.個々の人間の価値は,他人からは容易に見えず評価もできない,心の中にある. 

ラドン 『輪廻を超えて』 p. 138.

29 奉仕こそ霊の通貨

 奉仕(サービス)こそ霊の通貨(コイン)です.宗教とは何かと問われれば、わたしは躊躇なく申し上げます―いつどこにいても人のために自分を役立てることです,と.神学などはどうでもよろしい.教義,儀式,祭礼,教典などは関係ありません.祭壇に何の意味がありましょう.尖塔に何の意味があるのでしょう.ステンドグラスの窓にしたからといって、一体どうなるというのでしょう.法衣をまとったら,どこがどう違ってくるというのでしょう.そうしたものに惑わされてはいけません.何の意味もないのです。
 自分を人のために役立てること,それが宗教です.あなたの住むその世界のために役立てるのです.世の中を明るくするために役立てるのです.人の心を思いやり,やさしくいたわり,気持を察してあげなさい。しかし同時に,邪悪なものに対しては敢然と闘ってください.
 わたしが地上へお伝えに戻ってきた真理とは、こうした何でもないことばかりなのです.しかし、こうした基本的な真理にしがみついてさえいれば,道を誤ることはありません.


『地上人類への最高の福音-シルバーバーチの霊訓』 第2章

28 永遠の所有物

  本当の価値の尺度は霊的成長度です.それは,その人の生活、日常の行為・言動によって、みずから成就していくもので,それがすべてであり,それしかないのです.お金で徳は買えません.お金で霊的成長は買えません.お金で霊格は高められません.そうしたものは各自が各自の努力で獲得しなければなりません.粗末な家で生まれたか,御殿のような家で生まれたかは、霊的成長には何の関係もありません.
  霊的実践の場は,すべての人間に平等に存在します.死んでこちらへ来られると,意外に思えることが沢山あります.地上的な虚飾がすべて取っ払われて,魂が素っ裸にされます.その時はじめて自分の本当の姿を知ります.自分はこうだと思い込んでいたり装ったりしていたものとは違います.
  といって,わたしは,お金持ちはすべて貧乏人より霊的に劣ると言っているのではありません。そう言うつもりは毛頭ありません.お金は霊的成長とは何の関係もないこと,進化は各自の生活そのものによって決まっていくのであり、それ以外にないことを言いたいのです.困ったことに,地上の人間は、直面する物的問題に心を奪われて、つい間違った人生観をもってしまいがちですが、いついかなる時も、霊的真理を忘れないようにしないといけません.これだけは永続性のある霊的な宝であり、いったん身につけると,二度と奪われることはありません.永遠の所有物となります.


『地上人類への最高の福音』 第8章より



お金に限らず、年齢・性別から,人種,宗教,学歴,社会的肩書,そして(女性なら)容姿容貌といったことなど,自分や他者の価値づけをするための外的条件には限りがありません.こうした数々の霊的通信で伝えられているのは,肉眼で視認できるものや客観的に測れるものには本質的な意味はない,ということ.かといって,全く度外視してしまって何も認めない,という態度も,ある意味こだわっているのと同じです.われわれの本質的価値を決定してしまうほどの重要性はない,という点さえしっかり押えておけばよいのです.
お金持ちに生まれること,賢く生まれること,美しく生まれることなど,あらゆることには意味があり,自分が選び取った条件を通して,地上でいろいろな学びを得ることができるのですから.


8/13/2008

27 裁かない

3,000年におよぶ永い体験によってわたしは,“人を裁くなかれ”という教えが確かに真実であることを確認しております.他人の欠点を指摘することは容易なことです.もっとも,残念ながら、批判されてもやむを得ないだけの条件が揃っているケースもあることは認めますが….地上の人たちが他人の利己主義に文句を言うのをやめて,自分の欠点を反省し,どうすればそれが改められるかに関心を向けるようになれば、地上はもう少しは進歩することでしょう.

『地上人類への最高の福音』 第8章

20 愛の最高の表現

 家族的情愛や恋愛が間違っていると言っているのではありません.外へ向けてのより広い愛の方が上だと言っているのです.排他性の内向的愛よりも発展性の外向的愛の方が上です.いかなる資質にも上等のものと下等のもの,明るい面と暗い面とがあるものです.
 家族的な愛は往々にして排他性を帯びます.いわゆる血のつながりによる結びつきです.それは進化の過程における動物的段階の名残である防衛本能によって支配されていることがよくあります.が,愛の最高の表現は己を思わず,報酬を求めず,温かさすら伴わずに,全てのものを愛することができることです.その段階に至った時は神の働きと同じです.なぜなら,自我を完全に滅却しているからです.愛は人のために尽くし,人を支え,人を慰めんと欲します.愛は慈悲,同情,親切,優しさとなって表現されます.愛はまた,滅私と犠牲の行為となって表れます
 
 

『シルバーバーチの霊訓』 1: 145-6.

25 正しさ

あなたにとっては正しいことも他の人にとっては間違ったことであることがあります. なぜなら,あなたとその人とは霊的進化のレベルが違うからです.

シルバーバーチ



進化した魂のひとには厳しい基準が適用されますが,それほどでもない人にはゆるやかでなければ,公平とはいえません.

自分と人,または他の人同士を比較すること,或いは同じものさしで自分と人を裁くこと-こうしたことは,本当の意味では,できません.


23 地上の名声

 私たちの世界では名前は何の意味もありません.地上時代の名声は何の価値もありません.魂の価値は地上時代の肩書きではなく,何を為したかによって自ら裁き,それが現在の個性を形成しているのです.霊界での唯一のパスポートは魂の発達程度です.それが衆目に赤裸々にさらされるのです. ごまかすことはできません.ウソをつくこともできません.見せかけも通じません.こちらへくると地上時代の仮面が剥ぎ取られ,あるがままの姿が知れてしまいます.魂の霊的発達程度が誰の目にも分かります.
 名声が何になりましょう.子供のオモチャのようなものにすぎません.何の価値もありません.そもそも名声はどうやって得られるかを考えてごらんなさい.お金があるとか世間的に出世したということで名が知れたにすぎません.イエスはそういう名声はいっさい求めませんでした.先師,聖者,先駆者,改革者と言われる人
は名声を求めたでしょうか.
 大切なのはどれだけ人のためになることをしたかであって,その人の名前ではありません.
 
 

『シルバーバーチの霊訓』 10: 94-5.



人間は,肩書きや収入の多寡,ひとからの評判や評価を気にし,自らも得ようとしたり,得ている人々を有難がる(か妬む)ものです.


ほんとうに大切で,価値のあることは,誰かの役に立つこと,困っている人びとを助けること,だと引用は述べています。




17 最も価値あるもの

 地上の価値判断の基準は私どもの世界とはことなります.地上では“物”を有難がり大切にしますが,こちらでは全く価値を認めません. 人間が必死に求めようとする地位や財産や権威や権力にも重要性を認めません.そんなものは死とともに消えてなくなるのです.が,他人のために施した善意は決して消えません.なぜなら善意を施す行為に携わることによって霊的成長が得られるからです.博愛と情愛と献身から生まれた行為はその人の性格を増強し魂に消えることのない印象を刻み込んでいきます 世間の賞賛はどうでもよろしい.人気というものは容易に手に入り容易に失われるものです.が,もしもあなたが他人のために自分なりにできるだけのことをしてあげたいという確信を心の奥に感じる事ができたら,あなたはまさに,あなたなりの能力の限りを開発したのであり,最善を尽くしたことになります.

『シルバーバーチの霊訓』 1: 117-8.



人はうわべに惑わされやすいものです.

人からの評価を気にするよりも,自分の良心に従って正しいと判断したことだけを行いましょう.それで,もし周りの人からよく思われなくても,誤解されることがあっても,動機が善で,愛他的であれば,最終的に正当な評価を受けることになります.その最終評価こそ,最も確かで,信頼すべきものです.

16 当然の権利

挫折した人を元気づけ,弱き者,寄るべなき者に手を差しのべ,日常の最小限の必需品にも事欠く人々に神の恩寵を分け与え,不正を無くし,不平等を改め,飢餓に苦しむ人々に食を与え,雨露をしのぐほどの家とてない人々に住居を提供するという,こうした物質界ならではの問題にあなた方が心を砕いている時,それは私たちの霊の世界からやってくる者の仕事の一部でもあることを知っていただきたいのです.その種の俗世的問題から超然とさせるために霊的真理を説いているのではありません.霊的な真理を知れば知るほど,自分より恵まれない人々への思いやりの気持ちを抱くようでなければなりません. … 大切なのはその真理が地上から不正を駆逐し,当然受けるべきものを受けていない人々に生得の権利を行使させてあげる上で役立たせることです.   

『シルバーバーチの霊訓』 5: 34-5.


緒方貞子氏が,難民救済活動に関して,(難民が)可愛そうだからではなく,人間として当然の権利を受けられないでいるから(活動している),という趣旨の発言をされていたのを思い出します.「かわいそう」という見方は,上から下への目線です.



足あと

足あと

ある夜 わたしは夢を見た
神さまと二人並んで
わたしは砂浜を歩いていた

砂の上に二組の足あとが見えていた

一つは神さまの
そして一つは わたしのだった

しかし 最後に
わたしが振り返って見たとき
ところどころで あしあとが 一組だけしか見えなかった

「わたしの愛する子どもよ 
わたしは けっして 
お前のそばを離れたことはない 
わたしは けっして  

お前が もっとも苦しんでいたとき 
砂の上に 一組の足あとしかなかったのは  
わたしが お前を 
抱いていたからなんだよ」


マーガレット・フィッシュバック・パワーズ



「人間の窮地は神の好機」ということばがあります.それと通じるものがあります.

 こちらは,ハナちゃんジャーナルの「聖なることばたち」のコーナーで見つけた訳詞です.原詩の完訳ではありませんが, 個人的にはこちらのほうが心に染み入ります.(「ハナちゃんジャーナル」は数年前に閉鎖されました。)



あしあと

あしあと

ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
 あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
 わたしと語り合ってくださると約束されました。
 それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
 ひとりのあしあとしかなかったのです。
 いちばんあなたを必要としたときに、
 あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
 わたしにはわかりません。」

主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
 わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
 ましてや、苦しみや試みの時に。
 あしあとがひとつだったとき、
 わたしはあなたを背負って歩いていた。」

マーガレット・F・パワーズ

translation copyright(C)1996 by Pacific Broadcasting Association

21世紀の教育 2

 競争主義が著しく,能力一辺倒主義であることと,能力の尺度が一律であったということ,そしてそれが数に置き換えられていきました.いわゆる偏差値制です.それで子ども達の能力ばかりでなく,人間自体の可能性や価値までが計られるようになった結果,偏差値では計れない部分が追いやられ,それは邪魔なものとさえ見なされるようになったため,芽が摘み取られるようなことになっていったのです. 価値観の尺度が非常に狭く限られ,偏ったものだったわけです.そうするとその流れに乗るべく,子ども達はそのような特徴を有し始めるようになってきたわけです.そして勝つためにはクラスメイトや他の同年代の子ども達を負かさないといけない.勝つため,生き残るためには他の子ども達が負けることが必要であるという考えや捉え方が一般的になってきました.十五人いるうち十人だけが受かる,ということは五人を落とせ,ということに結果的になるからです.優ろうということと,他が落ちるように,他が失敗するのを喜ぶ.他の不幸をどこかで望んで,そうなった時喜ぶ,という風潮が蔓延してきたのです.潜在的にも.そしてそれが有る程度積もり積もって顕在化してきた時に非常に惨い心無い事件が多発してきているということなのです.
 今後の学校教育のあり方としましては,このような一律性を止め,価値観の多様性を認識し,その方向で組み替えていくことです.皆が一番になれると良いのです.相対的な尺度に過ぎない偏差値制などは止め,もっと絶対的な尺度で見ることで,一人一人が皆一番になれるのです.


浅野信 『リーディングが開く21世紀の扉』 pp. 92-3.

肉体を超越するもの

 肉体に宿っている人格にしてみれば,自分の身体や年齢を自分と同一視してしまうのも無理はない.そして当然,肉体という点からの授かり物を尊重し,あなたがたの幸福のために健康に気をつけ,他の人にエネルギーを与えられるような状態でいることもまた,大切なことだ.だがもし人びとが,自分の魂は老化する不完全な肉体を超越したものだということに気づいていれば,そのように肉体の美しさにうつつを抜かすことはなくなるだろう。人びとはもっと自分の内面的な生活に心を向けるようになり,他人との関係により深い関心を寄せるようになるだろう.みなりのよさや健康さを競いあうゲームをすることで,状況が好転したり,互いに愛しあい分かちあえるようになるわけではないのだ.

ジュディ・ラドン 『輪廻を超えて』 p. 166.

21世紀の教育 1

 神が一人一人同じ価値がある存在として創られ,そして一人一人に聖なる目的と使命があって生まれてきているのです.多少今は問題があっても,もっと奥底では価値があり,将来性もあり,目的があって生まれてきたのです.多少問題や課題が今はあっても,必ず別の尺度を導入すると,どうしようもない子や役立たずに見える子でも,輝くものがあり,将来性があるのです.
 そのような捉え方や見方を先生は培っていって下さい.そうすると大分先生自身の意識が広範囲に及ぶようになり,柔軟にもなります.一つの自分の観点だけで一方的に見えるのではなくて,別の側からも見てみること.先生は子ども達一人一人の全体を平らに見ていってあげること.一人一人の子ども達には確かに問題点や課題,悪い癖,弱点,限界等があるのでしょう.しかしそればかりでなくて,その子の良さや優れたところ,可能性や独自性というのもあるものです.それらのそれぞれを認識し,評価し,尊重し,受け止め,全体を平らに正しく評定できることが教師に求められているのです.
 将来的な使命としては,その子にしかできないことというのが待ち受けているのです.皆が各々,それに取り組み,そして他の人達の,その人にしかできないことも見据えて,お互いに心から尊び受入れ合い,協力できるところは協力し合って全体が成り立っていくのが将来的なビジョンです.その方向で先生も子ども達一人一人が本当に心から尊い,見込みがある,使命があって出てきている…ということで,表面の今の問題や課題だけで全体を結論付けて,良さまで損なうような事をしないことです.そして子ども達の親,あるいは子ども達を見ている大人の人達との交流も必要です.


浅野信 『リーディングが開く21世紀の扉』 pp. 104-5.

道なき道

 誰にも心当たりのことがあるのではないでしょうか.私たちは,いろいろなハードルを乗り越えるようになっていますが,なかなか越えがたいハードルの前で,立ち往生してしまうことがあります.いわば,階段の踊り場にいるような足踏みの状態が続くことです.
 単なる困難というわけではない.何をどうしたらよいのか見当もつかない.前に進むことも後に退くこともできず,立ち止まることもできない.そんな時は,魂として,初めてのステップにさしかかっている時かもしれません
 容易に乗り越えることのできる壁と,乗り越えられない壁の違いは,それだけで意味があるのです.かつて過去生の経験で到達できたところまでは,人はそれといった苦労なく上がってゆくものです.魂の力とはそういうものだからです.
 けれども,それ以降,そこから先は,その魂にとって「道なき道」となるのです.過去生にも一度も取組んだことのない,未経験の道のりです.
 それは,簡単には乗り越えることはむずかしい,けれども同時に,どうしても取り組まなければならない,人生をかけた願いでもあるのです.
 自分ではどうにもならないような状況につき当たったとき,私たちはそのことを思い起こしてみる必要があるでしょう.今,自分の魂が初めての試練にさらされているのだと受けとめることです.そして,「道なき地点」に立って,そこから新たに道をつけてゆくことが,私たち一人ひとりの人生の醍醐味であるという気概をもって,いつも人生の難所に向かい合っていたいと思うのです.
 何も頼りとするもののない地点に立つことを,私たちはただ恐れてはならないのです.そのときこそ,新しい人生の扉を開き,次なる段階へと歩を進めるチャンスに他なりません
 今取り組んでいる問題は,現実的に具体的に解決してゆかなければならないことであると同時に,永遠の問題,私たちの魂が永遠の眺めの中で,はじめて解決できる問題を含んでいるのです.
 その問題を解決するということは,私たちに小さな満足を与えるに止まるものではなく,魂の願いを果たすことになるのです.それはいく転生もかけて,一段一段踏みしめてきた「人生の階段」を新たに切り拓くことなのです.
 この人生に生まれてきた意味は,まさにそこにあります.「道なき地点」に立ったときに初めて,本当の人生が始まる―.私たちは誰もが道なき地点に立つ為に生まれてきた魂の挑戦者であり,冒険者です.


高橋佳子 『人間の絆 自業編』 pp. 247-49.



絆の再結

思い出すこともつらい
振り返ることも苦しい
痛恨の出会い

忘れたくても忘れられない
無視したくても無視できない
捩れてしまった関わり
誰でもいくつかは抱いている
そんなかかわりをもう一度結びなおそうとするには勇気が必要です。

間の悪さのために失敗したのだという気持ち。
相手の誤解や横暴さのために巧くいかなかったという想い。
けれども、
失敗の中には、自分自身の未熟と不足も含まれていたはずです。

許容度のない対応、
性急な善悪観(道徳観)、
相手の出方を窺うばかりで
本当に大切にすべきものを軸にできない弱さ。
そして、相手との出会いを心から歓びとして
受けとめることができない心―。

それから少なくはない時が流れました。
今ならば自分の足りなかった点も、よく見えるのではないでしょうか。
そして、あなた自身の中に様々な変化が訪れた今、
再結の時。その関わりを結び直せる時が巡ってきているのです。
多くの過去の想いを引きずりながらも、
その想いを超えてゆく心の力があなたを支えていることを信じてください。
そして人生とは再結によって思いもかけないほど深まりゆくものなのです。      

     *

わたくしの心に勇気と安らぎを与えてください.
光を与えてください.
憎しみ、恨み、許せない想い
恐れ、不安、逃げ出したい想い
ずっと渦巻いてきた過去からのこだわり
それらを引き受けながら
全く新しいわたくしとなって出会いたいのです.

傷つき、痛みを孕んだかかわりならばこその
深い縁を信じたいのです.
何よりもわたくしが
出会う相手を愛することを見失うことがないように支えてください.

決して壊れることのないわたくしたちの強い絆の証をあらわにしてください.

高橋佳子 『祈りのみち』 pp. 254-257.



終わりの方にある,「傷つき、痛みを孕んだかかわりならばこその深い縁」というくだりは,納得できるものがあります.

一般的に言えば,さほど縁や関わりの深くない人々との間には,それほど強い好悪の感情は発生しないような気がします.逆に言えば,非常に強い感情を経験する相手とは,それだけの深いかかわりが過去生であったに違いありません,意識の上でそのように思えなくても.多くの場合はそうだと思います.



あなたはひとりではない

 みなさんの生命は貴重であり,みなさん一人ひとりの生命をわたしたちは気にかけている.みなさんの幸福を考え,みなさんを助けて,人生で最大の業績を挙げられるよう促してくれている多くの魂たちがこちら側にいると知ったら,あなたは心を動かされることだろう.みなさんをいかに支援するべきか決めるために,こちらでは活発な交流が行われているのである. みなさんは決して孤立無援ではない.どうかそのことを知って安心してほしい.みなさんの心の奥底にある考えも心からの望みも,わたしたちにはわかっている.またいかなる意味においても,みなさんはこちらの者たちに支配されてはいない.一人ひとりがみな主体性を持った存在なのだ.覚えておいてほしいのは,真理と叡智はいつでも手にすることができる,ということだ.その経路となるのは,あなた自身の心-すなわち直感だ.心の促しに従えば,必ずあなたにとっての最良の道が見つかるはずだ

ジュディー・ラドン 『輪廻を超えて』


呼びかけに耳を傾ける

 「呼びかけ」に耳を傾けて生き始めるということは,人生におけるコペルニクス的転回であると私は思います.一見ささやかな変化に見えて,生き方を根本から変えてしまうからです.
 「人生は私に何をしてくれるか」と待ってばかりいた人が,主体的に「人生は私に何をせよと言っているのか」「この人生だからこそ何ができるか」と,自分から問いかけながら生き始めるのです.人生の側から自分を見始めるのです.
 この二つの姿勢の違いは,決定的なものです.いわば子どもと親との違いがそこにあります.自分の側から要求するだけの「待ち」や「依存」の姿勢では,けっして見えない世界がある.人生の側から見ようとするからこそ見えてくる世界があるのです.今まで見えなかったつながりや絆,関係,法則などが見えてくれば,当然人生は変わるでしょう.運命も必ず違う展開を見せ始めます.
 宇宙飛行士たちが,地球の大気圏を離れて,遥か彼方の宇宙空間から地球を見たときに初めて,地球という存在の意味が感じられたように,私たちも魂を束縛する「自我の殻」から離れて,人生の側に立つことによって,「私」がなぜ存在するのか,その意味がわかってくるのです.
 
それは,つまり生まれてからつくってきた「自我の殻」を壊してゆけばゆくほど,人生からの「呼びかけ」が聴き取れるようになると言うことでもあります.逆に「呼びかけ」に耳を傾ければ傾けるほど「自我の殻」は壊れてゆくのです.
 その道のりに一人ひとりの自業―宇宙の中でその人だけが引き受けることのできる命の流れ―もはっきりと見えてきます.この人生だからなさねばならない「人生の仕事」がわかってきます.
 人生の解答は,外から与えられるものでも,押しつけられるものでもありません.自らの内側深くに秘められていて,引き出されるのを待っているのです.真我とのたゆまぬ交流が,それを可能にするのです.
 なぜなら,真我とは,「呼びかけ」の発信者である宇宙の意志,神に通ずる扉であり,道なのですから.
 人生に訪れる,出会いと出来事の一つひとつにこめられた「呼びかけ」に,真摯に耳を傾け,応えてゆくならば,どんな人生も必ず開けます.どれ一つとて同じもののない,ただ一つのこの人生は,じつに信じるに足る具現の場(フィールド)です.あなたの魂の願いを開花する鍵は,必ずあなたの人生の中に秘められているのです.


 高橋佳子 『人間の絆 自業編』 pp. 258-9.



生きる目的や使命といったことは,一人一人の「内側にすでに在る」と言われます.

何か「すべきこと」に気づくひとつのきっかけとして,例えば友人に負けたくないといった、競争心・闘争心が掻き立てられることもあるかもしれません.しかし,その衝動はあくまでも「きっかけ」にすぎないので,自分がすべきことが見つかったら,ネガティブな想いは潔く手放して正解です.

I have hope but not expectations

I have hope, but I do not have any expectations.
Hope is fine, but expectations can lead to disappointment.


B L Weiss (2003)

私は希望は持ちますが,期待は一切しません.
(希望は結構ですが,期待は失望につながる可能性があります.)


ソウルメイト?

 「魂の友(ソウル・メイト)ときくと,互いの成長のために何度も目的をもって転生をともにしてきた魂を連想するかもしれない.ところが,一緒にいてけっして楽しくはない相手と再会することによって成長する場合のほうが多いのである.
 「いやだ… あの女なんかもう二度とごめんだ!」ある被験者はうめいた.彼は前世で自分が殺した女性のもとに生まれ変わるのがいちばん成長に役立つ,と言われたのであった.
 自分のカルマにふさわしい状況に身を置くためには逆境を受け入れなくてはならないこともあるのだ.
  


ホイットン他 『輪廻転生』 p. 67.

Think before speak

I think before I speak.

Words make a powerful imipact, and they're not easily forgotten.  Wounds inflicted by words of anger or hate can last a very long time.

B L Weiss (2003)

私は話す前に考えます.

(言葉は強烈な影響を与え,そうなると簡単には忘れられません.怒りや憎しみの言葉による傷は,非常に長い間持続することがあります.)




人のことばには,エネルギー(「言霊」-ことたま)が宿っているためです.

I release negative thoughts and emotions

I release negative thoughts and emotions from my life.
When you let go of negative thoughts and emotions, you'll discover inner peace, joy, and happiness.


B L Weiss (2003)

私は,自分の人生から否定的な考えと感情を解放します.
(否定的な考えや感情を手放せば,心の平和,喜び,幸せを発見するでしょう.)



否定的な想いや感情は,幻だといわれています.それにいかに惑わされないように,振り回されないようにするか,です.


I can forgive others

I can forgive others, even if they hurt me.

Forgiving doesn't mean forgetting.  It means understanding.

B L Weiss (2003)

 私は,たとえ私を傷つけた人でも,許すことができます.
(許すことは,忘れることではありません.理解するということです.)


理解するためには,まず相手について「知る」ことが必要になります.



I release my attachment

I release my attachment to "things."
In this world, we learn through relationships, not things. 
You can't take your things with you when you leave.


B L Weiss (2003)

私は「モノ」に対する執着を手放します.
(この世で,我々はモノではなく,人間関係を通して学びます.この世を去るとき,モノを持っていくことはできません.)




我々は,もう少し簡素に暮らすようにする方がよいかもしれません.エコな暮らしは,自然環境だけでなく,人間の精神面にも良い影響を及ぼすでしょう.




I am an immortal being

I am an immortal, spiritual being. 
You will not die when your body dies.  A part of you goes on.  You will be reunited with your loved ones because they're also immortal.


B L Weiss (2003)

私は不滅の,霊的な存在です.
(あなたは,肉体が滅びても死にません.あなたの一部は生き続けます.亡くなった愛する家族や友人たちもまた不滅ですから,彼らと再会することでしょう.)



アファメーション (affirmation) は,声に出して言うことで潜在意識に入ります.

転生のタイプ

 「修道服ときらびやかな衣装のあいだの距離は,普通に考えられているほど遠いものではありません」という表現は美しい.これは,転生ごとに,慎ましい,あるいは 貧しい生活と,豪華な,あるいは豊かな生活を,交互に繰り返している魂の歴史を 示唆しているように思われる.というのも,「神から与えられた豪華な贈り物を濫用しては, それを,次の転生で慎ましい生活を通して償う」といったタイプの転生をする霊は, けっこう多いからである.

カルデック 『天国と地獄 II 』 pp. 241-2.


要するに,物質的に恵まれ,物質的なことに重きを置いて生きる人生と,非常に禁欲的で精神性の高い人生の二極を行き来しながら,物心のバランスを上手く取ることを学ぶ,ということではないかと思います.

個人的なことを言えば,私もこのような転生のパタンを繰り返してきているようです.今生でも人生の前半は物質的なことしか見えていませんでした.今後は,主に精神面や霊的な面に重きを置いて生きることになっているようです.

病を治すもの

お医者さんが薬や病気を治すわけではありません.本人自身の自己治癒能力が治します.もう少し宗教的な言い方をすれば,神様がその人を治すのです.お医者さんや薬はきっかけ,お手伝い役に過ぎません.お手伝い役というのは軽んじた言い方ではないのです.実は人間が人間にできる事というのは皆,お手伝いまでなのです.そして本人が治ろうとする意思がない限り,どんなに周りから手を尽くしても限界があります.もちろん周りにできる事というのは残されています.それは軽んぜられてはならないことです.そしてお医者さんや薬ばかりでなくて,身内や家族の人など,その人を本当に思っている人が例えばスプーン一杯のスープを飲ませてあげるとか,心を受けとめてあげる,身の回りの世話をしてあげるとかなど,そういうことが軽んぜられてはなりません.そして何よりも本人自身が病を機に成長し,治ろうとしない限り,被害者意識を脱しない限りは難しいのです.

浅野信 『リーディングが開く21世紀の扉』 p. 124.

キリストのように謙虚に

 ただ,地上では,その知性が償いのためにヴェールをかぶっているために,それほど知的だとは思われない人々が多くいることも事実なのです.しかし,死によってそのヴェールが剥ぎ取られると,実は,そうした人々は,彼らを軽蔑していた人間たちよりもはるかに知性が高かった,という事実が判明することがしばしばあるのです.
 よろしいですか.傲慢というものは,試金石みたいなもので,傲慢かどうかを見れば,その人がどんな人であるか分かるのです.お世辞に弱い人,自分の知識を鼻にかける人は,だいたい間違った道にいます.彼らはおしなべて誠実さを欠きます.そうした人々には注意なさい.
 キリストのように謙虚であってください.


カルデック 『天国と地獄 II 』 pp. 246-7.

科学,学問,宗教

 宗教と医学は統合する方向に向かうとよいのです.そのためには医学の方も宗教の方も,改めるべきです.両方です.双方に問題と課題が残されているからです.そうしないと統合は為されないし,どちらかに欠陥や問題,歪みがあったまま統合したら,不完全なものができあがるだけで,それでは必ず混乱と問題を発生させてしまいます.やはり宗教も医学も謙虚になって,他の関連分野に目を注ぐことです.一見無関連の分野に見えてもです.無関連と見ること自体が思い上がりであり,見方が浅く狭いのです.一面的なのです.主観的なのです. 学問や科学もそのような難点を免れてはいません.そして科学や学問といっても非常に感情的,一方的で愚かさを宿しているのです.何か学問とか科学といいますと,いかにも賢く理性的客観的で間違いがなく,無事安全に見えますが,そう見えるところが逆に非常に危ないといえます.ここで学問や科学を全面否定しているのではないのです.ただ社会の風潮では宗教と精神運動,あるいは民間の活動など,そのようなものを危険視したり軽んじたり排除する傾向が強く,それらを保障したり評価したりするシステムになっていません.それに対して公的な機関や社会的な資格を得た事柄に対して,あるいは学歴とか社会的な経歴,その方面での実績など,そのようなところでのみ評価したり優遇したりそれを保障するような体制やシステムなのです.

『リーディングが開く21世紀の扉』 pp. 134-5.

I do not judge others

I do not judge others, and I do not let others judge me.
It's important to understand rather than to judge--to forgive and to be more loving.
 


B. L. Weiss (2003) 

私は他の人たちを裁きませんし,他の人たちにも私を裁かせません.
(裁くよりも理解すること-許し,より情愛深くあることが大切です.)




自分に対して行うことと他者に対して行うことは同じだと言われます.他者を裁きやすいひとは,まず自分を裁く傾向が強いと思います. 自分に優しくしましょう.そうすれば,他の人にも優しく接せられるようになるかもしれません.また,人を裁く傾向を持った知人・友人からは,少し距離をおいてみるのも一案です.



今後の医学のありかた

 今の心理学や精神医学,あるいは心身医学にしてもまだ唯物的過ぎます.もう少し裾野を広げるべく科学の枠内にありながら科学の枠を慎重に科学の方向で拡張しつつ,それらを応用し役立てていくとか,あるいはせめてまずはそのようなことを行っている所にも目を留め,そして病院で治らないところはそのようなところに送り込むとか,あるいは逆に民間治療とか気功治療,あるいは霊的な治療,心霊治療とかで治らないところは病院に移すとか,そういう連携が今後は必要になってきそうです. やはり霊まで認めませんと,実際は治らない場合が多く,表面的な対症療法で終始しかねません.そして霊的な成長ということが求められていることです.あるいは浄化などです.そのようになってきますと自ずと宗教と科学も近づいてきます.何百年か前に全体の流れの中で宗教から科学が分離独立し,医学もその中で科学の方向で発達を遂げてきたということを一概に否定はできません.一度は切り離すことがよかったのでしょう.でも限界も見えてきていますので,しかしいいところもあり,実績もあげてきているわけですから,そろそろ科学の方向でもう少し宗教や呪術,儀礼などで扱ってきたところも目を留め,それらの良さと使命,優れたところなどを見,医学の中の欠陥や弱点,無視してきてしまったところに謙虚になりながら,慎重に他の関連分野にも目を留めて少しずつ拡張していったり連携体制を取っていくということが,本当に患者さんや人間のためになります

『リーディングが開く21世紀の扉』 pp. 122-3.

エリート宗教?!

そして何よりも今は宗教が地に落ちた代りに学問教,文明教,科学教といういわばエリート宗教が取って替わっているのに気付くべきです.これはある意味で宗教や呪術,オカルトよりも危険です.そのような自覚がない分.そして良しとしてどこか傲慢なのです.しかしそれらを全面否定しているのではなくて,やはり学問や科学のよさや優れた面,そして使命というのがあって,そうであるからこそこのように言うのです.良くなるために.今の時代は例えばお医者さんとか学校の先生,政治家,弁護士さん,あるいは警察官とか,国家公務員の人,あるいは宗教的なことに関わっている人など,そのように世間から「先生」と呼ばれ優れて立派な方々で,教えを与えるという立場にある方々,人々から教えと指示を請われるという立場の方々からして,真っ先に悪を平気で行っている.そして一般の人達や弱者に対して権力や職件を特権として乱用している.そのようなことが一部に見られる風潮です(もちろん,すばらしい立派な先生も多いのです).

『リーディングが開く21世紀の扉』 p. 135.



大学教員が学生に評価されるシステムが日本でも始まって,10年が経ちました.評価される立場は決して楽しいものではありませんが,今後も継続する価値は充分にあると感じます.

権威を持つものが,その権威にあぐらをかいていい時代はすでに終わっています.

I feel no guilt

I feel no guilt when I say no to someone.

It's better to say no when you need to, an to say yes when you want to.  Otherwise, anger will creep in, and you'll resent the person or the obligation.

B. L. Weiss (2003)

私は,誰かにノーということに罪悪感を感じません.

(ノーというのが必要な時はそう言い,イエスと言いたい時には言うほうがよいのです.そうでなければ,怒りが溜まり,相手か義務に腹を立てることになるでしょう.)


日本人には「ノー」と言いにくい人がまだ多いのではないでしょうか.

自分に正直であることは,基本的には,良いこと.恐れず,上手に自分の思いを表現できればベストです.

医学について


肉体に原因があるところは今後とも医学で治せるし,今の医学だから治せるという面はあるのです.例えば単純に或る菌が感染したとか,あるいは骨折したとか,どうしても手術して除去した方がいいとか,そのようなときなどは今の医学の担当です.しかしそれだけではなくて人が不調になったり病気になったときは霊障(れいしょう)というのがあったり,本人自身の前世のカルマが表われ出たり他者の想念を受けたり,あるいは本人の心がけがまずかったりいろいろ他の理由もあるということです.
中国には古来から漢方医学というのがあり,気というエネルギーを認め,それを操作して治療にも役立て,応用してきています.そうすると現代の医学では治らなくても,例えば気功治療師さんが行うと治るということはあり,今の医学ではほとんどお手上げ状態でも,例えば気功を使って治療しますと歯の痛みが取れるとか,身体が全体として和らぐということは実際認められてきている事実です.お医者さんもそのようなことに心を開き,謙虚になることが必要なようです.


 『リーディングが開く21世紀の扉』 pp. 121-2.



遺伝?

親子だから似ているというのではないのです.似ているから親子になったのです.遺伝の法則は辻褄を合わせているに過ぎません.もっと根底のところで,精神的な法則が働いていて,本当は親に似ているというより,前世のその人自身に似ているわけです.そして前世の自分を予定通りに表わすために,似たような共通因子のある親を親として選定し,そのもとに子どもとして宿るのです.そうであるからこそ当然遺伝の法則の辻褄も合っているわけです.合っているだけにややこしいといいますか・・・・・・。

『リーディングが開く21世紀の扉』 pp. 120-121.


私たちはDNAに「選ばれる」のではなく,DNAを「選んで」生まれてくる,という言い方もされますが,それはこういうことです。

肉体とたましい

医療とて同様です.人間を肉体としてしか捉えていません.物としてどこか見ているのです.それは科学全般の風潮です.確かに生命科学などという分野はあるし,心理学もあります.けれども,やはり唯物的なのです.心理学でいう「心」とか「意識」といってもそれは肉体の一部であり,あくまで肉体の延長部分にしか過ぎないというのはあるのですが,しかし人間にはそれだけでなくて,知覚能力にしても,肉体の五感による知覚能力だけではないし,まして認識能力や意識の働きというのは,肉体から独立して自由な,むしろその肉体を想像さえしている魂,そしてもっと本質の霊というのがあるのです.そのため肉体が滅んでも引き続き心や霊は維持存続し肉体の滅びる影響を受けることなく,霊界に赴き,霊界である程度過ごした後,また別の肉体を魂は造り出し,それを纏い,次の生を生きていくことになるのです.

浅野信 『リーディングが開く21世紀の扉』 p. 116.

競争をやめる

他と比べあうという比較を止めることです他より優ろうとすることを止めることです.他に優ろうというのはどこかで悪を孕んでいます.他に優るためには他が自分より劣る,そして他が敗れる,他が否定される,他が排除され,報われなくなるということを潜在的に含んでいるので,優るためには他が不合格になる,失敗する,そして不幸になるというのをどこかで孕んでいるのです. やはり資本主義体制の自由主義経済に於ける競争原理が著しく,それは物質的豊かさを求め,そのような科学・技術を作り出し,地球や自然を壊してきたのです.物や自然には命とか心がない,というふうに見なしてきて乱用し,贅沢に走り,少しでも他の人達より物質的な豊かさを持てるように頑張ってきたのです.

浅野信 『リーディングが開く21世紀の扉』 pp. 93-94.

いじめをなくすために

でも,「わが子いじめ」はしなくても,「弱いものいじめ」を全然していない人は果たして何人いるでしょう.実際この世は,いたるところいじめだらけではないでしょうか.家庭だけでなく,学校,職場,政治の世界や国家間にいたるまで,立場の弱い者へのいじめがあるのが現状ではないでしょうか.誰かを誹謗中傷するメディアやウェブサイトも,それを見て面白がる人も,みんないじめに参加しているのです.そのことに一人ひとりが気づかない限り,世の中からいじめも虐待も永遠になくなりません.
 いじめをするのは「不幸」ゆえ.ならば,いじめをなくすには,みんなが「幸せ」を感じながら生きられるようになるしか道はありません.物質による空疎な幸せではなく,真の「幸せ」に,たましいから満たされるしかないのです.


江原啓之 『あなたのためのスピリチュアルカウンセリング』 pp. 237-8.



戦争が無くならない理由,無くす方法もこれと同じでしょう.

ひとりひとりの使命

あらゆる段階の仕事があり,それは,難易度に応じて,さまざまな境涯の霊たちに委ねられる.したがって各人が,それなりの使命を与えられて,同胞たちのために,それを遂行することになる.
たとえば,一家の父親であれば,「子供たちを向上させる」という使命を与えられるであろうし,天才的な人間であれば,「社会に新たな要素を投じて進化を促す」という使命が与えられるであろう.
たとえ失敗しても,個人のレヴェルにしか影響を与えないような使命において,しばしば,失敗,違反,放棄などが生じることあるが,全体に影響を及ぼすような使命は,まず完遂されるのが普通である. 
カルデック 『天国と地獄 I 』 p. 308.


この世には,全体のためになる役目を持たない人間は一人もいない,ということです。 必要のない人間など,ただの一人も存在しない,ということのようです。

転生4つのテーマ

過去世に刻んだ後悔が,魂の願いを引き出し,現在の人生を引き寄せる―.こうした転生のしくみを深く見つめてゆく時,人生と人生を紡いでいるいくつかのテーマが浮き彫りになってきます.私はそれを次の四つに分けています.

 (1)過去世において「志半ば」に終わってしまった願いを果たすこと.
 (2)過去世において,逆縁となってしまった関係を「再結」すること(逆縁とは,ここでは本来的ではない結びつきをいいます).
 (3)魂の眠っているはたらきを新たに引き出し,魂のゆがみを修正して,成果を果たすこと.
 (4)過去世において,獲得した魂の力をもって,周囲の人々や場を「照らす」こと.

 
ただ何となく,無目的に生きてきたという人でも,生まれてきたからには,必ずこうしたテーマを持って生まれてきているのです.今はすっかり忘れてしまって,思い出すことなどできなくても,誰もが魂に切なる願いを刻んでいるのです.
 
つまり,一見偶然ふりかかったかに見える出来事も,偶然出会ったかに見える人々も,魂にとってはその願いが引き寄せた,必然の訪れであるということになります.
 出来事や出会いの「見えがかり」や「いきさつ」といった表面的な顔の向こうに,もう一つの顔が隠されている.テーマを呼びかける声が届いているのです


高橋佳子 『人生の絆 基盤編』 pp. 216-7.

幸福

 アゴの落ちそうなご馳走でも,そう毎日毎日食べさせられたら ウンザリしてくるにきまっている.やはり普段は質素なものを食べて, 時たまおいしいものを食べるからこそ,そのおいしさが身にしみるわけである. 英国の大思想家ジョン・スチュアート・ミルも著書の中で, 「私は幸福というものが,欲望を満足させることよりも 欲望を控えることによって得られるものであることを,ようやく悟るようになった」 と述べているが,この言葉の意味がおわかりであろうか.

『背後霊の不思議』 pp. 158-9.

ひとは活動する

人間は活動するように創られています.霊的に活発であること,これが人間の本質であり,体を動かすことは,それに伴う義務です.したがって,永遠の安らぎを運命づけられている霊として,あなた自身の存在にかかわる条件を満たしなさい.  

カルデック 『天国と地獄 I 』 p. 251.

罪の責任

確かに,他の者の教唆によって悪を犯した場合,自分自身の意思のみで悪を犯した場合よりも,その罪は軽いといえるでしょう.しかし,まったく罪がないわけではないのです.正しい道から逸れていったということ自体,彼の中に善が強く根付いていなかったということの証明だからです.  

カルデック 『天国と地獄 II』 p. 156.



厳しいことばですが,大なり小なり身に降りかかる全てのことは,必ず自分になんらかの責任があります.

幸福と進化

進化することによって,霊は新たな知識,新たな能力,新たな知覚を獲得するが,さらに,未熟な時には知らなかった新たな喜びをも獲得する.進化してくると,それまで見ることも,聞くことも,感じることも,理解することもできなかったことを,見,聞き,感じ,理解することができるようになる.幸福は,獲得した能力に対応するのである.  したがって,二人の霊人のうち,一人のほうがより幸せであるとすれば,それは,その霊人のほうが,知的にも,精神的にも,より進化しているからなのである.一方が光り輝く世界にいるのに対し,もう一方は暗闇の中にいる.一方が光を見るのに対し,もう一方は何も感じることができない.目が見えないのと同じである.
  霊の幸福とは,その霊が獲得した能力に,本質的に属するものなのである.どこにいようとも,すなわち,肉体に宿って地上に生きていようとも,肉体に宿らず霊界で生活していようとも,その幸福を味わうことが可能なのである.
 


カルデック 『天国と地獄 I 』 pp. 300-301.

小さきもの

高き者は低くされるであろう.小さき者は大いなる者とされるであろう.慎ましき者は幸いである.苦しむ者は幸いである.苦しむ者は慰めを得るであろう.小さき者を蔑んではならない.なぜなら,この世で小さき者は,あの世では,想像もできないほど偉大な者になるかもしれないからである.

アラン・カルデック 『天国と地獄 II』 p. 210.



「実るほど頭を垂れる稲穂かな」 ということわざがあります. 思い上がり,驕り高ぶりの心は,最終的に自分で自分の墓穴を掘ることにつながります.

日本人が昔から大切にしてきた「謙譲の美徳」を思い出しましょう.

正しい人

神から見て『正しい』とされる人間になるためには,辛辣な言葉を避けなければならない.辛辣な言葉には毒が含まれているために,相手を傷つけるし,また,しばしば正しい人間を物笑いの種にしてしまうことがあるからだ.神から見て正しい人間とは,心の中に,傲慢,嫉妬,野心の,どんな小さな種も持っていない人間のことなのだ.
 自分を攻撃してくる人間に対して,忍耐強く,優しくあらねばならない.自分を侮辱した者を,努力することなしに,心のそこから許さねばならない.しかも,それを決して見せびらかしてはならない.あらゆる人間を愛し,そのことを通じて神を愛さなければならない


   アラン・カルデック 『天国と地獄 I 』 p. 116.


「汝の敵を愛せよ」という聖書のことばを思い出します.


プライド

プライドという言葉は,鼻持ちならない傲慢さを想起させるかもしれません.けれども本当のプライドはそういうものではなく,文字どおりの「自尊心」,つまり自分を尊ぶ心のことです.
 自尊心と傲慢さが混同されがちなのも,物質主義的価値観の世の中ゆえなのでしょう.物質主義的価値観では,他人に比べて自分が優れていると思う心を,自尊心,プライドと解釈します.しかし,霊的価値観,精神的価値観でのプライドは,自分も他人もみんな等しく尊い命であると考え,そのすべてに誇りを感じるのです
 なぜみんなが尊いかというと,どの人にも愛が宿っているからです.一人の例外もなく,愛されている存在だからです. 
 


江原啓之 『子どもが危ない!』 pp. 114-5.


「神性」と言われる神の性質は,すべての人が例外なく宿しています. ひと嫌いな人でも,たとえば仔犬を見たり,きれいな花を目にすると,心が和んだり,一瞬でも可愛いと思うはず. それは,神性ゆえです. われわれが「神の子ども」と言われる所以です.


うわべだけではわからない

人間というものは,どうしても他人のうわべだけを見て羨んだり,妬んだりしがちです.他人を見る目が嫉妬で曇ってしまうと,その人の陰にある苦労や孤独など見えなくなってしまいます。
 けれども (中略) いくら美人で,性格もよく,みんなに慕われ,何もかもが輝いているように見える人でも,陰に人知れぬ苦労を背負っていることもあるのです。悩みがなさそうに見える人が,見かけどおり幸せな人だと簡単に言い切ることはできません。
 誰しも何らかの苦しみを持っている。それが現世というものならば,幸せになれるか否かの分かれ目は,悩みや苦しみという経験を自分の成長の糧とできるかどうかにかかっているといえるでしょう。


江原啓之 『江原啓之のスピリチュアル人生相談室』 p. 212.

疑うとき

 どのような人にあなたは心を開いてきたのでしょうか。
いい人。信じられる人。自分のことを大切にしてくれる人。
 あなたは、その時その場の自分の利害だけで、人物をふるい分けてこなかったでしょうか。
 自分の快苦、利害の判断と「信ずること」とは次元の違うことです。
 もしあなたの迷いに利害が色濃く絡んでいるならば,それは信じるかどうかより、利害の問題として考えるべきかもしれません。

 信じることは全部受けとめてゆくこと。
 眼を閉じてしまうことではありません。
 眼を開いてどこまでも見とどけること。
 耳をふさいでしまうことではないのです。
 耳を開いてどこまでも聞きとどけること。
 すべてを受けとめ、それに応えつつ
 最後に決して壊れることのない絆に心を託すこと、それが信じることなのです。

 信じるためには
 深く深く受けとめなければなりません。
 良いところも
 悪いところも
 ありのままに見なければなりません。

 あるときには、じっと見守り、
 あるときには、ひたすら関わり合うのです。
 そしてときには、忠告し叱咤激励し、腹蔵なくぶつかり合うこと。
 
たとえその言動に「ノー」と言うときでも、
 存在に対しては「イエス」という、神の心につながる絶対肯定の姿勢で臨むこと。
 それが信じるということでしょう。
 自分の快苦、利害の計算をひとまず脇において、もう一度、その人を見てください。
 先入観と思い入れと、期待と恐れをつき抜けてゆく、真実だけに忠実な出会いを念じるのです。


 雪ダルマのようにふくらんでゆく疑いは、ボタンのかけ違えのような判断の謝りを誘う妄想になりやすいものです。
 事実を見、事実を想って、疑いの肥大を絶つことです。

 疑問は根本の肯定のために投げかけられるべきもの。
 否定のための疑念になるとき、人は黒い想念に巻き込まれます。
 そこに、愛と慈しみの想いがあるかどうか、
 神の心につながってゆく清さがあるかが鍵になります。
 
                                        

高橋佳子 『祈りのみち』 pp. 134-135.



「疑いが生じるとき」と題された文章の一部抜粋になります.

Peace of Mind

Deep within me is a solid core of calm and peace. 

Don't let people or outside events determine your peace of mind.  

Brian L Weiss, MD (2003): Healing the Mind and Spirit Cards.



私の奥深いところに,静寂と平和の確たる核があります. (他の人々や外の出来事に,心の平和を決めさせてはなりません.) 


一人ひとりの中に小宇宙があり,それが大宇宙につながっている,といいます.

"a solid core of calm and peace" とは,その「小宇宙」を指しているようです.

焦るとき

あわてずに、無心に
今、この時に集中してください。
一切を忘れるように集中してください。
草に呼吸を合わせ
石に呼吸を合わせ
大地に呼吸を合わせてください。
一つひとつ、ゆっくりと合わせてください。
そうすれば
無尽不滅のいのちの力が流れ入って
あなたを支え
あなたを助けていることがはっきりします。

「先」を見ず「今」に賭けるのです。
人生に手遅れはありません。
人生に無意味はありません。

一瞬一瞬に全力を尽くす以上の最善はないのです。
一瞬一瞬にまことを尽くす以上の智慧はないのです。

力を尽くし
智慧を尽くし
心を尽くし続けるなら
必ず、道はひらかれる。 


高橋佳子 『祈りのみち』


「焦りに対して」と題された詩の一部抜粋です.


過去や未来に想いを馳せるのではなく,いまこの瞬間に集中して生きる,とよく言います.そうすれば,過ぎ去ったことを思い悩んだり,まだ来ぬ未来を思い煩って不安になったり,焦りに駆られることがなく,穏やかに楽しく過ごすことができます.そして,その楽しい気持ちがよりよい未来を引き寄せるでしょう.

近くの他人

なにしろ,さまよう子どもたちや若者たちのSOSはどんどん大きくなるばかりです.彼らに「肉の家族」を超えた「大我の愛」を注ぐことは今まさに急務です.
 子どもや若者だけでなく,孤独なあまり心を涸らした大人も多い今,すぐにそばにたくさんの「家族」がいることに,みなが目覚めなければならないときです. 
  「遠くの親戚より近くの他人」とは,スピリチュアルな視点で見ても名言なのです. 
 


江原啓之 『子どもが危ない!』 p. 181.


自分の家族だけが「家族」ではありません. 私たちは何度も再生(生まれ変わり)を繰り返している存在です.現在の家族のほかに,過去生で家族だった人たちの幾人かには,今回の人生でも出会っているはず. そういうふうに考えると,いわゆる「他人」は,意外に少ないのかもしれません.


家族

この世でお互い同士を他人だと思っている私たちも,霊的世界では一体の「家族」なのです.私たちがみな別々の肉体を持って生まれていること自体,他人同士になってこそお互いの向上のために「切磋琢磨」し合えるからです. (中略) 
  この霊的真理の視点に立つと,血縁にこだわる愛がいかに狭いものか,理解できるのではないでしょうか.
 もちろん,「血縁こそ大事」という物質界特有の思い込みがあるからこそ,人間は家族愛を持つ事ができます.しかしその家族愛は霊的真理から言うと,ほとんどは「小我の愛」です.「わが家が幸せならいい」という狭い愛になりがちですし,「親として自慢できる子に育てたい」といった打算の愛にも傾きがちです.
 「肉の家族」とは,そうした「小我の愛」の中でまず学び,やがてより広い「大我の愛」に目覚めるよう,学びの通過点として設けられた一つの仕組みなのです.
 つまり私たちは,ゆくゆくは必ず血縁への狭いこだわりを超え,すべての人を家族同然に思えるような「大我の愛」に目覚めていくことになるたましいなのです
 それならば,もう今から,血縁を超えた大きな「家族」を意識してもいいのではないでしょうか.物質主義的価値観が蔓延した結果,「肉の家族」のつながりが薄くなり,「小我の愛」を育む場としてさえ機能しにくくなった今,「肉の家族」から「たましいの家族」に目を向け始めてもいいのではないでしょうか.
 
  


江原啓之 『子どもが危ない!』 pp. 180-1.


「血は水よりも濃い」と言いますが,血のつながりよりももっと強固なもの,それは「魂のつながり」です. 人は血縁とか続柄にこだわります.血筋,家柄にこだわる人々もいます.それはそれで意味があることだと思いますが,各人の学びにとって,程度でしょう.普遍的な意味というわけでは必ずしもないようです.


 「地球はひとつ,人類はみな兄弟」というフレーズがむかしCMでよく流れていました.飛行機でどこへでも移動できるようになり,物も情報も短期間で国家間を行き来するようになったグローバルな時代.「人類はみな兄弟」を意識したいです.

Happiness

Happiness and joy flow from deep within me.

Contentment comes from within.  It's not dependent on other people or external things.  

 B. L. Weiss, MD 

幸せや喜びは,自分の内奥から湧いてくるものです.
(満足は内側からくるものです.他のひとや外の状況によって決まるのではありません.)



「良いこと」が起こらないから不幸とか,事が思い通りに進まないから幸せじゃない,ということでは必ずしもありません.


考え方ひとつで,苦労の最中にあっても,幸せを感じられることはあります.逆に,何不自由なく暮らしていても不満だらけの人も大勢います.



True Healing

The only thing I know that truly heals people is unconditional love.

 Elizabeth Kubler-Ross, MD

(私が知る,人を真に癒す唯一のものは,無償の愛である)



無償の愛 - 求めるよりも,与える側になれますように.

いのちの多様性

なぜみなさんがたは,一方をもう一方より優位におかねばならないのだろうか?男性が女性より上だとか,ある人種のほうがすぐれているとか,ある国が他の国より立派だとか・・・.これは宇宙の隅々まで浸透している真理にもとる不条理である.人びとが心を開いてすべての生命が完全無欠であることを認め,生命の多様性のよさを認めるよう,祈っている.また,すでに彼らの習慣となってしまったきびしい批判をやめるようにも祈っている.そのような批判をすれば,その人自身の発達に大きな支障をきたし,またそれが人生の苦しみを生み出す結果となるのだ.
  しかし,もしみなさんが他者をありのままに認め,彼らに本質的に備わった性質を批判しなければ,自然と他者を仲間として受け入れて尊敬する姿勢が生じ,ひいては人生とその大いなる目的とを受け入れる姿勢も生まれてくるのである.


ラドン 『輪廻を超えて』 pp. 96-7.

物質的な生き方

…この時代 [19世紀アメリカ] には人間に霊的な側面があるということが忘れ去られ、物質の世界から人生を定義することが一般的になっていることがある.このため誰もが,自分たちを肉体や年齢,職業,財産によって判断するようになってしまった。彼らには,自分たちの魂がこれらの一時的な人生の要素をすべて超越したものだということがわかっていない。物質界との結びつきがあまりにも大きすぎて,人生-魂同士の、あるいは地球そのものに内在する魂たちとの愛情のこもった交流-について正しく評価を下すことが出来ないのだ.人間は人生の意味をじっくり考えもしなければ反省もしない代わりに、ソロバン上で物質的な要素を加算し,人間の値打が合計いくらになるかをはじき出す.一番利口で偉い人間と目されているのは金持ちだ。貧者や教育のないものはおとしめられ,さげすまれる.社会の一員としてもっとも信用のおける,まともな人間とされるのは,その時代の価値観の信奉者なのである。だが、こちら側へやってきてこのように困ったはめに陥るのは、こういった人間だ.彼らはまるで目隠し皮をはめられて田畑を耕作する馬のようなものだ-ただし馬と違って自分の目隠し皮が気に入っており,地平全体を見て彼らは驚くのである.
  もし読者が,自分がどっぷりと信念に浸りきっていることを受け入れられるほどに正直ならば,この物語を通じていくらかでも自分の短所に気付いてくれる人が出てきて欲しいものだ.この世にいるうちにそのような態度を正すことによって,霊的な成長を遂げられるはずだ.地上で正せない場合,こちら側での成長は困難で遅々としたものとなるだろう
 


ラドン 『輪廻を超えて』 p. 148.



戦後から今日に至るまでの日本にも近いものがあります. ですが,日本には,20世紀の終わりごろから,スピリチュアリズムが普及し始めています. いまこそ,「本来あるべき生き方」に思いを馳せる時です.


引用では,地上の物質界に居る間に即物的な生き方を矯正しておくことが,必ず自分のためになる,と言っています


自分らしく

魂の豊かさという問題を考えるにあたって,仕立て屋のローラの質素で感謝に満ちた人生は,すべての人びとにとって手本となるべきものである.彼女の魂は,あの人生で学ぶべきことを探求し,みごとに教訓を学び取ったのだ.物質面から見れば彼女は他人に与えるようなものはほとんど持たなかったが,家族や友人や顧客や周囲の全ての人々に対して,彼女の魂から有り余るほどのものを与えたのである.彼女はつねに明るく愛想よく、他人思いだった.つらい長時間労働もものともせず、休みも取らずに精一杯働いたのである.さらに彼女は自分の人生により深い意味があるということを受け入れ,大きな意味で自分には必要なものが与えられると信じ、自分の人生を取り巻く愛情深い人間関係をうれしく思っていた.
 普通なら自分の身の回りは不公平ばかりだと考えがちな境遇に置かれたとしても,ローラのように,不公平な点ではなく恵まれている点や人生の驚くべき素晴らしさに焦点をあわせるべきなのだ.
 
 


ジュディー・ラドン 『輪廻を超えて』 p. 123.


自分にないものにどうしても目が行きやすいのが人間です. でも,自分が持たないもの,持てないものに焦点を合わせてしまうと,嫉妬心が生じて,ますます苦しくなってしまいます.

いま自分には必要なもの全てが与えられている,と信じることができれば,少しは楽になれるかもしれません.

豊かさと貧しさ

豊かさや貧しさとは,こころの状態のことである. (中略)お金の多寡とはかかわりなく,ほんとうに価値があるのはその人自身である.豊かさと貧しさは対極にあるが,それはこころのなかの対極である.自己の価値をおもいだし,自己の貴重さをおもいだせば,自負心を強化することができる.真の豊かさは,その自覚からしかはじまらない.人は貴重品をたいせつにあつかう.それは結構なことだ.ただし,そこには,どんな品物よりも貴重なのは自分自身だということを忘れなければ,という条件がつく.  

キューブラ・ロス他 『ライフレッスン』 p. 149.


こころが豊かであれば,物質的にさほど恵まれていなくても,そのことを負担に感じることはありません.


ひとへの対応

 あなたはどの程度,他人と仲良くやっているだろうか?つぎのような質問で自己診断してみてはどうだろう.
  ① エレベーターの中や路上で出会う見知らぬ人に,親切にしているだろうか?
  ② 他人への対応はていねいだろうか?
  ③ 通りすがりの人びとの気持ちに敏感だろうか?
  ④ 運転中や歩行中など,必要とあれば親切に他人に助けの手をさしのべるだろうか? 
  これらの質問に対する回答が,家族や仕事仲間や知人・友人などあらゆる人に対する関係についての,手がかりを与えてくれるはずだ.
 
しあなたが見知らぬ人に対してぶっきらぼうだったり,冷淡だったり,偉そうにふるまったりするなら.おそらくあなたは配偶者や,あなたのことを本当に心配してくれる親,暖かく誠実な友に対しても,愛情深い相手とは言えないだろう.  

ラドン 『輪廻を超えて』 p. 156.

14 宇宙の摂理

 霊的摂理は,原因と結果との関係,種まきと刈り取りの原理のうえに成り立っており,これだけは絶対にごまかされません.あなたのすること,考えること,口にすることの一つ一つが,それ相当の結果を自動的に生み出します.そこにはごまかしの余地はありません. 
  悪いと知りつつ間違ったことをした場合は,その結果に対して責任をとらされます.その苦しみは自分で背負わなければなりません.善い行いをした場合でも,それが見栄から出ていれば動機がお粗末でいけませんが,魂の自然な発露としての善行であれば,あなたを霊的に向上させます.それが摂理というものです.
 


『シルバーバーチのスピリチュアルな生き方 Q&A』 pp. 141-2.

13 地上の二面性

あなた方が嫌な体験と思っているものが,最高の薬になっていることがあるのです.本当の自分を見出すのは日向の生活のなかではなく,嵐のような生活のなかなのです.雷鳴が鳴り響き,稲光がひらめいているときです.
 人間は厳しく磨かれ,清められ,純化されなければなりません.絶頂もどん底も体験しなければいけません.そうした体験によって霊性が強化され,補強され,死の向こうに待ち受ける生活への準備が整うのです.
 地上生活の目的は,霊性を活気づけることです.そのために地上界の出来事は二面性と二極性を鮮烈に体験するようになっており,そこに地上生活の地上生活たるゆえんがあるのです.たとえば,善と善でないものとが同居しています.これは,私たちの世界にはないことです.高次元の世界には,対照的なものが存在しないのです
  


『シルバーバーチのスピリチュアルな生き方Q&A 崇高な存在との対話』 pp. 90-1.



肉体を脱ぎ捨てた後で還る世界は,光の世界.光しかないようです.光の暖かさや強さに違いはあるようですが.

この世は3次元の世界で,光が当たれば影が生じます.そして,本当に多種多様な人々が一堂に会する場所.トラブルや問題が生じないはずがありません.

12 疑うとき,迷うとき

もし何か大きな問題が生じた時は,もしも心に疑念が生じ,迷われるようなことがあれば,どうかそれらは実在ではなく影にすぎないことをご自分に言い聞かせることです.羽根をつけて一刻も早く追い出してしまうことです.

『シルバーバーチの霊訓』 5: 22.


自分で考えて処理しなければならない問題もあります.それとは別のことをここでは言っているのだと思います.


ブライアン・ワイス博士の著書に,Only Love Is Real (『魂の伴侶』 PHP研究所)というタイトルの本があります.「愛だけが現実」ということですが,怒り,悲しみ,恐れなどといったネガティブな感情は,この世だけのもので,本来の感情ではないようです.

私たちが生きているこの現象界は,実在界(霊界)から見ると,夢幻のようだといいます.真実に目が開かれた者は,現世の物質的な事柄に徒に影響を受けたり惑わされないよう努める必要があります.

11 病の意義

身体が病気だからと言って霊も貧弱ということはなく,身体が健康だからといって,霊も健全というわけではありません.それどころか,霊的進化にとってかけがえのない体験である痛みと苦しみを数多く味わっただけ,それだけ霊的に豊かになっているとも言えるのです.

『シルバーバーチのスピリチュアルな生き方 Q&A』 pp. 118-9.

10 自我を捨てる

自我を発達させる唯一の方法は自我を忘れることです.他人のことを思えば思うほど,それだけ自分が立派になります.

『シルバーバーチの霊訓』 9: 180.


一見逆説的ですが,真実です.自分の都合を省みず,純粋に他者の利益のみを思って為した行いは,いつの日か必ず何らかの形で自分に返ってくるもの.そうとわからなくても,必ず自分のプラスになっていて,損をしたり,ムダになることは,絶対にありません.


9 神性を宿すもの

最後はかならず個人単位の問題であり,その成長度に帰着します.開発すればするほど,進化すればするほど,それだけ内部の神性を発揮させることになり,それだけいっそう美を求めることになります.・・・ スラム街があってはならないのは,神性を宿す者がそんな不潔な環境に住まうべきではないからです.飢餓がいけないのは,神性を宿す肉体が飢えに苦しむようであってはならないからです.真の美は物質的,精神的,そして霊的のすべての面において真の調和が行きわたることを意味します.

『シルバーバーチの霊訓』 3: 166-7.



いかなる人にも神性が宿っている限り,どのような外見であろうと,社会的地位を持とうと,持つまいと,軽んじられたり,見下げられたりしていい人は1人もいないということでしょう.







8 いま最も必要なこと

しかし真の宗教心はそれよりももっともっと奥の深いものです.魂の奥から湧き出る“人のためを思う心”です.そして今こそ地上はそれを最も必要としているのです. 

『シルバーバーチの霊訓』 5: 226.



聖書に,「おのおの自分のことばかりでなく,他人のことも考えよ」といった一節があります."For others" ― どの宗教でも説かれている教えではないでしょうか.

「自分さえよければ」という雰囲気が強い現代日本に生きる私たちは,このことばをよく噛み締める必要がありそうです.

6 過去

過去はもう過ぎ去ったのです.これまでに犯した間違いはお忘れになることです.皆さんは間違いを犯しそれから学ぶため地上へやって来たようなものです.過ぎ去ったことは忘れることです.大切なのは今現在です.今,人のためになることをするのです.

『シルバーバーチの霊訓』 9: 193. 



過去から学んだら手放しなさい(Learn from the past and let it go) といいます.昔の過ちを何年も経ってから持ち出してきては人を責める材料にする人がいます.そういう人は,きっと自分でも,自分の過去を思い出しては,どこかで自分を責めているかもしれません.

4 目覚めるとき

燦々と太陽の輝く穏やかな日和には人生の教訓は身にしみません.魂が目を覚まし,それまで気づかなかった自分の可能性を知るのは時として暗雲垂れ込める暗い日や嵐の吹きまくる厳しい日でなければならないのです.

『シルバーバーチの霊訓』 1: 53.



人生は,物事が順調に進んでいるときよりも,困難に直面し,それと格闘している時の方が,たましいの成長にはプラスとなっています.

3 大切なこと

 かりに私が地上でファラオ(古代エジプトの王)だったと申し上げたところで,何にもならないでしょう.それは地上だけに通用して,霊の世界には通用しない地上的栄光を頂戴することにしかなりません.わたしたちの世界では地上でどんな肩書き,どんな財産をもっていたかは問題にされません.要はその人生で何を為したかです.
 私たちは魂そのものを戴くのです.財産や地位ではありません.魂こそ大切なのです.地上では間違ったことが優先されております.


近藤 千雄 訳 『シルバーバーチの霊訓』 8: 12.

1 真の愛

最高の徳は愛他的です.愛すべきだから愛する.愛こそ神の摂理を成就することであることを知るが故に愛する.これです.愛らしい顔をした子供を治療してあげる,これはやさしいことです.しかし,奇形の顔をした気の毒な人,ぞっとするような容貌の人を治療するのは並大抵の心がけではできません.が,それが奉仕です.真の愛は大小優劣の判断を求めません.愛するということ以外に表現の方法がないから愛するまでです.宇宙の大霊は無限なる愛であり,自己のために何も求めません.

『シルバーバーチの霊訓』 1: 143.



無償の愛」 (unconditional love) とは,このことでしょう.

24 真理のために

 有為転変きわまりない人生の最盛期において,あなたはその肩に悲しみの荷を背負い,暗い谷間を歩まねばならないことがありましたが,それもすべては,魂が真実なるものに触れてはじめて見出せる真理を直接に学ぶためのものでした.大半の人間がとかく感傷的心情から,あるいはさまざまな魂胆から大切にしたがる物的なものに,必要以上の価値を置いてはいけません.そうまでして求めるほどのものではないのです.いかなる魂をも裏切ることのない中心的大原理すなわち霊の原理にしがみつかれることです.

『シルバーバーチの霊訓』 第6巻 p. 143.

人生の目的

どの人生にも神聖な目的があり,誰もが,人生で出会うべき霊的試練を与えられている.われわれは,あながたがに犠牲になってもらいたいわけではない.また物質的な快楽を避けるように薦めているのでもない.単に,物質的快楽そのものが人生の目的ではない,と指摘しているに過ぎないもし他人を無視して自らの保身のために一生を費やすならば,その人は人生の的を射損ねたことになる.魂はたえまなく仕向けられている-もっとおおらかになるように,もっと人と打ち解けるように,利己的な関心事は脇にやって,他者にエネルギーと愛情を向けるように,と.これがこの世のあらゆる人間の大きな霊的目標であり,誰もがそれぞれの方法でこの目的に向かって行くよう仕向けられているのである. 

ジュディー・ラドン 『輪廻を超えて』 pp. 123-4.

たましいの存在

魂ーあるいはオーバーソールといってもいいだろうーは,つねにその人にとって何が最良かを知っており,その実在の総体的な成長にいちばんためになる「運命的な」出来事を計画しようと努めているのである. 

ジュディー・ラドン 『輪廻を超えて』

どんな人にも守護霊・指導霊のサポート集団がついていて,その人の魂の成長につながるようにと,様々なアレンジやサポートをしてくれています.運命的な出来事とは私たちが望むこととは限りません.望みどおりのこともあれば,全く意に沿わない場合もあります.想定外のことも当然起こるでしょう.しかし,長い目でみれば,すべては必然性があってのこと.どんなに嫌な出来事も,つらい苦労も,最終的には良い方向へと私たちを導いてくれるものです.

一つ一つの出来事に一喜一憂しないようにする方が,不要な悩みを抱えずに済み,ラクかもしれません.

2025年は大きな転換期

2025年7月5日(土)の早朝(夜明け前),フィリピン沖の海底火山が噴火して,周辺国と日本の太平洋沿岸に巨大津波(120mほど)が押し寄せ,国土の1/3から1/4 が津波に呑まれる,という予知情報があります。最初にこれが注目されたのは,下にも関連動画のリンクを貼っていますが,たつ...